明日の伝説

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「ギンガマン」の「アース」がSF的に優れている理由

本日の「ボウケンジャー」Task13の感想で「「ボウケンジャー」をSF作品として見たときに微妙なのはまさにここで、例えばレオン・ジョルダーナの画帳は350と別格に高いですが、これはあくまでも写本でしかありません。」と書きました。
この文章を書いた時、かつて黒羽翔氏と戦隊シリーズの「力の源」について話をした時、「「ギンガマン」のアースはファンタジーでありながらSF的にも優れている」という意見を頂いたことが頭を過ぎったのです。
特に「チェンジマン」について語った時、今から数年ほど前に「チェンジマン」の感想の話をしていた時にこのようなご意見をいただきましたので抜粋致します。

 


戦隊物は、よく戦隊のパワーの源が描かれることが多いです。
ジェットマンならバードニックウェーブ、カーレンジャーならクルマジックパワー。
具体的に説明されていませんが、ジュウレンジャーが守護獣の力を借りて変身しているのは明らかです。
共通しているのは、変身前の登場人物と変身後のヒーローの力は基本的に分離されている事。
そして、ギンガマンがアースを使える設定にしたのは、正しく「ヒーローのパワーの源」と主人公達の「自力」とを一致させるのが狙いだったのではないかと思ったのです。
星獣からギンガブレスを貰って変身しているギンガマンですが、アース技だって使える。
「自分のアースを信じるんだ!」って台詞は、主人公達とヒーローの力とを一致させる意図があったのではないかと思ったのです。


この意見を見た時最初は「SF的に優れている」の意味がピンと来なかったのですが、この意見を頂いてから考えを深めて熟成させた時に凄く慧眼であることが示されていました。
いわゆる長谷川裕一先生の「もっと凄い科学で守ります!」の考察やそれに類する記事と内容が被るかもしれませんが、ご容赦のほどをよろしくお願いします。

 


(1)「SF的に優れている」という言葉の意味


まず黒羽翔氏のこのご意見を噛み砕いて解釈してみますが、スーパー戦隊シリーズでは「力の源」を物語の核に絡めて展開する作品が少なくありません。
そもそも初代「秘密戦隊ゴレンジャーからして物語中盤で大幅な武装強化があり、これがいわゆる後のシリーズで継承されていく要素の1つになったのです。
具体的にはゴレンジャースーツ→ニューゴレンジャースーツ、ゴレンジャーストーム→ゴレンジャーハリケーン、バリブルーン→バリドリンなどなど。
しかし、初代「ゴレンジャー」を現在の視点で見直した時に必ずしもSF的に優れた作品なのかというと、決してそういうわけではないでしょう。


確かに40話でペギーを通じて変身システムが明らかになっていますし、戦隊シリーズの解説本などではゴレンジャーストーム、ハリケーンの理屈が具体化されています。
しかし、まだ1作目ということもあって荒削りであることは否めませんし、そもそも単なるエンターテイメントとして作られているので、作り手もそこまでは考えていなかったでしょう。
そもそも「ゴレンジャー」が作られた時代でSF的に優れていた作品は数少なく、海外では「2001年宇宙の旅」を金字塔としていくつか優れた作品があったかなかったかというレベルです。
日本でもそのレベルに達している作品は少なく、特撮で見ても初代「ゴジラ」やその延長線上にある「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などがあったくらいでしょうか。


その時代の東映特撮はとてもじゃありませんが「仮面ライダー」しかり「ゴレンジャー」しかりそんな高尚なSF作品を作れる程の予算・技術・人材はゼロではないにしても十分に揃っていませんでした。
上記の作品群の中で特に「2001年宇宙の旅」を1つのSF映画の金字塔だとして、そこから「SF的に優れている」という言葉の意味を考えてみると成る程と納得できるものです。
2001年宇宙の旅」が名作である理由はどこにあるかは散々批評されてきましたが、私が見るにHAL9000という象徴的なガジェットを用いて「人類の進化と未来」という遠大な哲学的テーマに挑んだことにあります。
このHAL9000はその後「ガンダム」のハロなど様々なものに手を替え品を替え継承されていますが、とにかく「世界観を象徴するガジェットを用いて物語を展開する」ことが慧眼だったのです。


つまり黒羽翔氏が上記の意見で言わんとしていた「SF的に優れている」というのは1つのガジェットで作品の世界観そのものまで完璧に表現しきるほど余すところなく用いられているということではないでしょうか。
その点において、確かに「星獣戦隊ギンガマン」のアースはファンタジックでありながらSF的にも優れた作品ということになるわけですが、これは言ってみれば演繹的手法だといえます。
「2001年」に限りませんが、キューブリックの作品群、特に「博士の異常な愛情」以降に確立された手法は既存の映画を独自の技術で批評的に見て再構築したものとなっているのです。
そしてその再構築された技法が後世に大きな影響を与えているという意味で演繹的な映画手法を確立した人でもあり、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグゴダールとはまた違った切り口を持った映画監督でした。


思えば「機動戦士ガンダム」という作品がSF的に見て優れているのもガンダムという「人類同士の戦争の兵器として使われるMS」という具体的なSFガジェットを創出したところにあるでしょう。
ゴジラ」しかり「ウルトラマン」しかり、SF的に優れていると評される作品はそのようにして象徴的な1つのガジェットで作品の世界観を構築しており、芯の強いものだなあとわかりますよね。


(2)戦隊で「力の源」が物語に絡んだのは「バイオマン」から


さて、話をスーパー戦隊シリーズに戻して、スーパー戦隊シリーズおいて「力の源」が大々的に物語に絡んだのは「超電子バイオマン」のバイオ粒子が最初でした。
それ以前の戦隊も一応「こういう力の源です」と設定されていましたし、また中盤でのパワーアップはありましたが、それでも力の源が物語に絡むことはなかったのです。
しかし、「バイオマン」のバイオ粒子はまさに作品の世界観を象徴するガジェットとして創出されており、以後のスーパー戦隊シリーズにおけるあり方の始祖を作っています。
このことが大きな物語の核に絡んだのは問題作にしてある意味伝説ともいえる10話、反バイオ粒子というヒーローの力の源とは真逆の力が示されたことです。


そもそも、「ゴーグルV」の時点で曽田先生は「未来科学VS暗黒科学」、すなわち「科学の力を正しく使う者VS科学の力を誤って使う者」というテーゼを打ち出していました。
上原先生がメインライターをやっていた「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」までの戦隊にはなかった要素であり、更に「ダイナマン」では終盤で1つ面白いドラマを生み出しています。
それはダークナイト(メギド王子の成れの果て)と夢野博士が科学の力を間違った使い方をしてししまったという過去を打ち出すことで戦隊シリーズの歴史に新たな変化をもたらしたのです。
単に敵組織が内輪揉めで崩壊するというだけではなく、味方側にもまた亀裂を生じさせて「ヒーローとは何か?」を再定義させるという手法を不完全ながらも確立しました。


バイオマン」は更にそこに「ドクターマンの科学力VSバイオ星の科学力」に肉親のドラマを加えた上でバイオ粒子に対する反バイオ粒子という「属性対決」の要素を打ち出したのです。
ドクターマンはいってみれば「闇落ちした夢野博士」であり、科学の力に飲み込まれて自分を見失った結果悪の道に落ちてしまった存在であるといえます。
この設定は「フラッシュマン」のリー・ケフレンや「ライブマン」のボルト軍の3幹部、「メガレンジャー」のDr.ヒネラーなどに継承されている要素です。
更に第3勢力として出てくるバイオハンター・シルバはそのドクターマンとは違う第三勢力としての立ち位置を「反バイオ粒子」と共に確立させました。


そしてまた、バイオマン自身も実は中盤に面白いドラマを盛り込んでいて、それはバイオ粒子を己の体内に取り込み自らの意思で引き出すという変換を行っていることです。
バイオ粒子は元々バイオロボバイオマンの先祖となる5人に浴びせた者であり、いってみれば「外的な力」として体内に宿っていたといえます。
だから序盤〜中盤のバイオマンがイマイチ弱く感じられたのも戦闘経験0の素人だからだけではなく、外的な力であるバイオ粒子を自由自在に引き出せないことにありました。
敵組織である新帝国ギアがどんどん戦力を激化させるに従い、バイオマンは中盤でスーツ性能の強化や特訓などを行いましたが、それだけでは勝てなかったのです。


そう、ゴレンジャースーツをニューゴレンジャースーツにするだけではなく、「外的な力」であるバイオ粒子を「内的な力」として取り込む必要がありました。
これこそが正にスーパー戦隊シリーズにおけるパワーアップのコペルニクス的転回であり、ここから「力の源」を巡る戦隊シリーズのスタンスのあり方が固まったのです。
そしてそのフェーズと共に真のバイオ戦士となった郷史朗たちは新必殺技の強化とも絡み合っていて、これが「チェンジマン」以降にも継承されていくお約束となります。
作品全体としては「デンジマン」を超えられなかったものの、SF作品としてのアプローチや新機軸の盛り込みといった要素で「バイオマン」は「デンジマン」を上回ったのです。


(3)「電撃戦隊チェンジマン」の先見性と躓き


電撃戦隊チェンジマン」は「超電子バイオマン」が打ち出した作劇の更に上を行くガジェットを創出しており、それこそが神秘の力「アースフォース」です。
科学の力の源とそのあり方自体はバイオ粒子で完成しましたが、「チェンジマン」では更に出自のまるで異なる規格外の力を導入しました。
チェンジマンの戦士のなり方は歴代でもかなり鮮烈なデビューであり、チェンジマンとして選ばれた5人が大星団ゴズマの危機に瀕した際にアースフォースを浴びます。
それは伊吹長官が危機に瀕した時発動すると言われているものであり、作中でも「アトランタフォース」などそれに類する力があることが示されているのです。


そう、「科学力」という「ゴレンジャー」から連綿と継承されてきた既知の力だけではなく、星から受け取った未知数の不思議なブラックボックスの多い力……この「二面性」が「チェンジマン」の大きな特徴でした。
既知の力と未知の力という2つを両輪として戦うチェンジマンは歴代でも最強クラスといっても過言ではない組織規模と戦闘力を誇り、それが終盤の数珠つなぎのように連鎖してエスカレートしていく物語となったのです。
そしてこの「チェンジマン」が打ち出した「科学の力」と「非科学の力」の両輪というスタイルは後のスーパー戦隊シリーズに手を替え品を替え受け継がれていきました。
まるで10年も20年も先を見据えたかのような先見性であり、だからこそ後続の戦隊、特に「ギンガマン」などに色濃く影響を与えるほどの傑作となりえたのでしょう。


しかし、これは「チェンジマン」の批評でも書きましたが、数少ない欠点の1つが「じゃあそのアースフォースは具体的にどんな力で、どんなメカニズムで成り立っているのか?」まで描ききれなかったことです。
これはまだシリーズ9作目でまだその辺りを描ききるだけの尺と脚本的な技術が不足していたのも挙げられますが、そこが今日の視点で見た時に惜しまれるところではあります。
チェンジマン」も前作「バイオマン」同様にアースフォースを中盤で内側に取り込んで強化するというエピソードがありましたが、これが疑問だらけだったのです。
何故ならばアースフォース自体が「地球がピンチに陥った時に発動する力」と定義されてはいるものの、具体的にどんな力を与えてくれるのかまでは描かれていませんでした。


1話を見る限りチェンジマン5人を変身させてはいますし、変身後にある程度アースフォースで戦う能力も与えてはいるものの、チェンジマンの5人はあくまでも軍人です。
基本武装がチェンジソードとパワーバズーカであるため、これらがどうパワーアップしたのかがいまいちわかりにくいというのがあります。
また、彼らのモチーフである伝説獣自体も実在しないものであるため、どうしても「戦士の力」としてのアースフォースが実感されにくいというのがありました。
科学の力とは別の神秘的な力を伝説獣というモチーフとアースフォースで説得力を与えたかったのはわかりますが、それが物語の核に絡んできた時に説得力を持ちにくかったのです。


本作はその意味で昭和戦隊最高傑作として位置付けられていながら、それでも歴代戦隊最高傑作かと言われたらそうとは言い切れない歯痒さがここにあります。
そう、「力の源」という観点で見た時に「チェンジマン」はどうしてもクリアできなかった壁があり、それがアースフォースを内側に取り込むあの中盤の展開でした。
そしてそれは「ギンガマン」のアースまで実に13年もの月日がかかることになったのです。


(4)「超新星フラッシュマン」以降のスーパー戦隊シリーズの壁


チェンジマン」が積み残した課題は「超新星フラッシュマン」以後もなんだかんだ格闘することになっていきますが、これがまた大変なのです。
まず「フラッシュマン」では終盤に「反フラッシュ現象」が起きましたが、これは反バイオ粒子を「フラッシュマン」なりに置き換えたものだったのでしょう。
しかし問題はそれ自体が帝国メスの要素とは全く絡まない上、そんな危険な力に頼っているフラッシュマンという戦隊の危険性を浮き彫りにしてしまいました。
流石に「自分たちの持っている力がかえって自分たちを苦しめる毒になる」というのは当時としては幾ら何でも先へ進み過ぎたのです。


「マスクマン」では今度はそのアースフォース、プリズムパワーに取って代わる「オーラパワー」、ジャンプ漫画の「気の力」が導入されることになりました。
何故「気の力」だったのかというと、実はロボアニメで富野監督が既に確立していた手法でもありましたし、ジャンプ漫画でも「北斗の拳」などは気の可視化を行っていたのです。
それが「変身」という要素と一体化する形で結実したのが本作であるといえ、後の「ダイレンジャー」でも継承されていますが、これもやはりきちんと扱い切れたとは言えません。
そもそもF1レースとオーラパワーとの結びつきが弱いという問題がありましたし、同じように「ターボレンジャー」の妖精パワーと太宰博士の科学力もまた結びつきが弱かったのです。


思えば「ライブマン」「ファイブマン」がそういう非科学的な要素を排して純粋な科学の力のみで戦ったのも、やはり当時のスーパー戦隊シリーズでは規格外の力の扱いに困ったからでしょう。
正確には「ファイブマン」は最終回でバルガイヤーを倒す時にシドンの花という星の力みたいな要素が絡みましたが、それでもやはりこの壁をクリアできたとはいえません。
その意味では実はスーパー戦隊屈指の革命作である「鳥人戦隊ジェットマン」のバードニックウェーブも実はSF的に優れていた作品かと言われるとそうではないのです。
確かにバードニックウェーブによって強さを与えられていた5人ですが、それがドラマとして絡んだことはほとんどなく、せいぜいネオジェットマンが出てくる前後編くらいでしょう。


しかし、「ジェットマン」の場合はメンバー5人の精神性や性格的欠点に焦点を当てて、そこをクリアすることによってバードニックウェーブを己の体内に取り込むことに繋げました。
つまり、5人の精神が本当の意味でヒーローになり完全に足並みが揃った最終回手前でようやく彼らはバードニックウェーブを己の体内に取り込むことができたといえます。
この手法はいわゆる「自分にもある弱さを知ることで本物のヒーローになれる」ということでもあり、高寺Pの「カーレンジャー」も実はこれをギャグ的な手法で行っているのです。
カーレンジャー」の5人もまた夢を追い越して光になった時、失われたはずのクルマジックパワーを己の内側に取り込むことで最終回で名実ともに真のカーレンジャーとなりました。


ただ、「ジェットマン」「カーレンジャー」はヒーローに選ばれた5人のメンバーのヒーロー性を極限まで下げることによって可能にしたのであって、必ずしも原理原則を掘り下げたわけではありません。
また、杉村升さんが手がけた「ジュウレンジャー」「ダイレンジャー」「カクレンジャー」「オーレンジャー」でもこの辺りの「力の源」に関するメカニズムなどは不徹底にしか描かれていませんでした。
メガレンジャー」では「最先端のデジタル科学VSDr.ヒネラーの歪んだ科学」という曽田戦隊のテーゼを擬似的に復権させたといえますが、それでも「チェンジマン」が残した課題は超えられないままです。
結局は「ジェットマン」「カーレンジャー」と同じように、メンバー5人のヒーロー性を下げることによってしかドラマを成立させる方法がなかったのではないでしょうか。


こう見ていくと、「チェンジマン」以後の作品群が共通に抱えていた問題点として、黒羽翔氏が述べたように「変身前の登場人物と変身後のヒーローの力は基本的に分離されている」にありました。
つまり変身前の能力と変身後の能力の乖離というか差を埋めること、そのために改めて特徴的な作品の世界観を象徴するガジェットを提示することが課題だったのです。
そしてそれを徹底的に掘り下げ合理化して物語の核にすることこそが「チェンジマン」を唯一越えられる方法だったのではないでしょうか。


(5)「星獣戦隊ギンガマン」は力の源と戦士の個性を合理化させたSF系ファンタジー戦隊


ここまでを踏まえて見ていくと、「星獣戦隊ギンガマン」は力の源と戦士の個性を誰の目にも納得できる形で合理化させることに成功させた作品だといえます。
以前私が書いた「ギンガマン」の批評で私は改めてこのようなことを書いていました。

 

 

アースフォースは地球が危機に陥った時に選ばれし者のみに貸し与える神秘の力と言われていますが、本作のアースはそれを星獣剣の戦士が訓練の末に磨き上げた大自然の力という風に洗練させています。
つまりアースフォースが「未知」の力であるのに対して本作のアースは「既知」の力であり、アースフォースという設定を90年代戦隊が導入したファンタジックな設定にうまく落とし込んだのです。
またそれが単なるギンガマンの力の源に終わるのではなく、終盤に大きなドラマの核としても絡んできますから、これらの諸設定がしっかりできているところが本作を非常に一貫性のある強固な作風に仕立てているのでしょう。


引用元:https://gingablack.hatenablog.com/entry/2021/11/19/140854

 


我ながら実によくできた文章を書いたとも思ったのですが、結局のところ「ギンガマン」がファンタジー戦隊でありながらSF的に優れているといえるのは言語化するとここに尽きます。
ゴーカイジャー」のEDでも「アースの戦士のギンガマン」と紹介されており、さらに「ボウケンジャー」のEDの紹介でもラストはダブル炎のたてがみで表現されているのです。
そう、「ギンガマン」をこのような「力の源」の観点で見たときに優れている(と思える)理由はなんといってもこの「アース」というガジェットをしっかり使い切ったことにありました。
「アースフォース」をしっかり大自然の力としれ洗練し、さらにそれが物語の終盤を司る最大のキーにもなるという、まさに「2001年宇宙の旅」が提示した手法がようやくここで確立されたのです。


終盤で出たブクラテスとヒュウガが第三勢力として挑むことになったこと、またナイトアックスという「星の命を砕く力」で挑む展開も「バイオマン」「チェンジマン」のオマージュでした。
ナイトアックスに関しては諸説ありますが、これまで述べてきたことやダイタニクス決戦編でのギンガレッド・リョウマの反応などを見るにアースとはまさに真逆の属性の力ではないでしょうか。
アースが「星を守る力」ならばナイトアックスはその逆の「星を破壊する力」であり、それはアースを捨てるという究極の代償を払わねば使うことはできないというものです。
しかし、そのナイトアックス自体がブクラテスの私怨がこもっているわけであり、部分的な活躍は見込めてもそれをラスボスのゼイハブ攻略の決定打にするわけにはいきません。


ギンガマン」の批評や感想で再三書いていますが、星の命をナイトアックスで砕くことは物語としてブクラテスの復讐を肯定することになりますし物語の定義を根本から崩すことになってしまいます。
何があろうと星を守る力=アースを大事にして戦う」ことが既に第一章や第四章で示されており、そこでガチッと「アースとは何か?」「ギンガマンとはどういうヒーローか?」を示しているのです。
だからこそ、それをラストまで貫いているわけであり、何と言っても戦士の変身前の個性と戦士の精神・肉体面、さらに変身後の戦い方まで全てを一致させています。
以前どなただったかが「「ギンガマン」を単なる王道戦隊の「超面白い版」と思っていたら全然違っててビックリした」ということを仰っていましたが、そこまでの迫力を「ギンガマン」が持ち得たのはこの「力の源」を極限まで詰めたからです。


とはいえ本作単独でこれが実現したわけではなく、「ゴレンジャー」〜「メガレンジャー」までの21作を全て俯瞰して本質を見極めたからこそここまでの作品となったのではないでしょうか。
あの時黒羽翔氏が訴えたかったことを私なりに噛み砕いて改めて言語化してみましたが、やっと心の中でずっと引っかかっていたモヤモヤを言語化できたという感じです。
わざわざ言語化する必要があったのかと突っ込まれるでしょうが、仕方ないじゃんギンガマンが世界一どころか銀河一大好きなんだから。
今後どんなファンが出てこようが、どんな批評が紡がれようが、俺以上に「ギンガマン」を好きなファンなんて

いねえ!


そんなずっと変わらない思いを今回は「SF的に見てどうか?」という観点から掘り下げて語ってみました。
うん、「ギンガマン」についてだったらいっくらでも語れるなあと今回の記事を書いて感じた次第です。

 

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