明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ30作目『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)17・18話感想

 

Task17「アシュの鏡」


脚本:會川昇/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
無数の妖怪が封じ込められているといわれるプレシャス=百鬼鏡をめぐる、ボウケンジャーダークシャドウの激闘!その戦いに突如乱入してきたのはガイ、ヒョウガという2体のアシュだった。さらに、錫杖の音とともに現われるひとりの青年…「アシュに関われば、お前たち死ぬぜ」と不穏な言葉を呟く青年の正体は?


<感想>
「持っていけ!それはもう餌にもならない」
「あなたにとってはプレシャスもただの餌なのね」
「当然だ。俺様はアシュ以外興味はない。そんなガラクタ、なんの価値がある?」
「人類の宝だ!お前にだってあるだろう、大切な宝が」
「無い。俺様は高丘映士、アシュの監視者。そのこと以外大切なものなど……ない」


育ってきた環境が違うから〜♪好き嫌いは否めない〜♪


ごめんなさい、セロリ大好き+価値観の衝突でついつい某国民的スターの名曲「セロリ」を思い出しましたが、ここに来てまたとんでもないカンフル剤を投入して来ましたね會川先生。
今回はこれまでの「冒険者」とはまるで異なる「宿命の戦士」というファンタジー系戦隊の文脈を導入してきましたが、めちゃくちゃ面白かったです。
まず錫杖を武器とする黒ずくめの男という出で立ちもさることながら、何よりも演じる出合正幸氏がもう最高にカッコよくてたまりません。
やっぱり戦隊の追加戦士・番外戦士枠はこれぐらいのインパクトがなくちゃつまらないじゃないかと興奮していた次第でございます。


今回初めて出て来た「アシュ」という設定、そしてガイ・レイ・ヒョウガですがデザインや設定を見ると同時代の流行りだった「牙狼」のテイストを少し入れた模様。
ただ、「牙狼」はいわゆる西洋モチーフの騎士であるのに対して(割とキリスト教的要素が強い)、本作のアシュは名前や出で立ちからもわかるように和風の陰陽師がモチーフです。
アシュという名前自体が「阿修羅」「亜種」を由来としていると思われますが、歴代戦隊で見るとガオレンジャー」のガオハンターなどが近いでしょうか。
今回出て来た高丘の設定自体もガオシルバーを彷彿させますし、ボウケンジャーの5人との差別化にも繋がっており、まず第一段階での色分けには成功。


ネタ的にもそろそろ5人のキャラだけで続けていくのはきついと思われたところで、すかさず横からまるで異なる価値観と使命を持った戦士が来たのは見事です。
俺様ぶってはいるものの、決して悪い意味での高慢なキャラクターではなく頭も切れますし、生身ながらにできる範囲の活躍がきっちり描かれています。
小林女史がTask12で「俺たちは冒険のプロであって戦いのプロじゃない」ということをはっきり打ち出していましたが、正にその「戦いのプロ」が本作ではアシュの監視者・高丘映士なのでしょう。
ボウケンジャーの5人が5人とも強烈な個性を持っている役者陣であるだけにハードルがめちゃくちゃ高いのですが、それを軽々とクリアして来たのは好印象。


それから、鏡をゲートとしてアシュが人間界に出てくるという設定は「幽☆遊☆白書」を思わせるものがありますが、これも後の「シンケンジャー」の外道衆と三途の川の設定に繋がっていたりするのでしょうか。
アシュのいる世界とはいってみれば仏教でいうところの三悪道畜生道、餓鬼道、地獄道)のメタファーともいえそうなもので、高丘はおそらく修羅道から来た存在であることが予測されます。
少なくとも天道や人間道という真っ当な人の道は歩んでいないでしょうし、そうでなければセロリを齧って風来坊のようにアシュの監視者やるなんて業を背負っていないでしょう。
中澤監督の重厚な演出も冴えており、やはり中澤監督はギャグよりもシリアスの方が映える監督だなあと思うのです。


ボウケンジャーがここから苦戦気味になっていきますが、単なる「パワーの違い」ではなく「属性の違い」という方向の打ち出し方は好み。
闇のヤイバを蹴散らす更なる闇の深さとそれに立ち向かう宿命の戦士という壮大な設定が本作の「冒険」という要素とどう馴染んでいくのか?
その辺りのすり合わせも期待の上で総合評価はS(傑作)


Task18「生きていた男」


脚本:會川昇/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
なんとかアシュの1体を倒したボウケンジャーだが、ガイとレイはボウケンジャーに復讐しようとプレシャス=兵の弓を利用しようと考えた。一方、ミスター・ボイスが暁に衝撃的な提案をした。「実はレッドくんにはボウケンレッドをやめてもらおうと考えている」と。その真意はいかに?


<感想>
「お前らがやってる宝探しなんて遊びだよ。俺様みたいに逃れられない宿命でもなんでもない。どうせ好きでやってるだけだろ?嫌ならとっととやめちまったらどうだ?」


高丘映士、チーフの痛い点をバッサリ指摘して切り捨てる(笑)
すごいなあ、チーフに対してここまで真横からガンガン切り込んでくれる人、今までにはいなかったので真墨とはまた違う貴重なツッコミ役が来ました。
しかしチーフはそれを聞いてめげるどころか、かえって開き直りを見せて冒険ホリックの詭弁によって正当化してしまいます。


「なあ柾木、俺は冒険が好きだやっと気付いたよ。お前達の為とか、世界の平和や安全だとか、そんなのは理屈だ。俺は冒険が好きなんだ。お前だってそうだろ柾木?キョウコだって、愛したのは宝を探す冒険のワクワクだった。誰に与えられた使命でもない。だから……だからこそ絶対に逃げるわけにはいかない!!」


うん、チーフはこれでいいのです、どこまで行こうとチーフは「有能なリーダー」ではなく「有能なリーダーぶったただの冒険ホリック」であり続けて欲しい。
どこまでも好きをただ貫き通していて、それが結果としてヒーローっぽく見えるという少年漫画的な理屈のあり方をここで改めて補強という形に。
何が面白いといって、決してチーフは高丘の価値観を否定しているわけでもないし、また高丘もチーフの価値観を否定しているわけではないのです。
しかし、チーフが抱えている冒険魂と高丘の使命感とは明らかに種類が異なるものであり、これは今までの戦隊シリーズの文脈だけでは読み解けない要素となっています。


本作の大きな特徴は1クール目の総決算であるTask.11でも述べられていましたが、冒険者」という個人と「ボウケンジャー」というヒーローを意図的に切り分けていること。
その上で「どちらが上か」とするのではなく並列の関係にしている、これはすなわち本作における「公私」の基準となっているのです。
高丘が「逃れられない宿命=公(Must)」としてアシュと戦っているのに対して、チーフたちは「果てなき冒険魂=私(Want)」で戦っています。
サージェスはあくまでも装備一式を貸与しているに過ぎず、全てはチーフたちが各人で決断して戦っているという構造なのです。


歴代戦隊の中でも本作はこの「公私」の基準が強調されていますが、高丘が出て来たことによってよりそのことがはっきりしました。
また、これは同時にジャンプ漫画で次世代の国民的漫画として徐々に台頭していた「ONE PIECE」「NARUTO」への意識も若干あったのかもしれません。
ジャンプ漫画に例えるならボウケンジャーが麦わらの一味、それに対して高丘やアシュの設定はどこかNARUTOのような陰影の強い感じをイメージしているのでしょうか。
お互いに過去の傷を持ちながらも、その過去の柵を引きずらずに自己肯定感を高めて現在を生きるのがチーフたちで、過去生というか前世のカルマが強く影響するのが高丘とアシュという感じ。


「人は自分の限界など超えて未知の世界に挑むことができる。それが冒険の力だ!」


どこまで行こうと所詮本物の冒険ホリックの前に頭でっかちの理屈など通用しない、むしろ理屈など所詮後付けでしかないのだ!
チーフのこの潔さは一周回って素敵ではあるのですが、でもだからこそ思うのはチーフって明らかに上司には向かないよね(苦笑)
だって自分でなんとかしようという単独主義者で、今はそのカリスマ性に仲間達がくっついて来ているに過ぎませんし、本人も自らチームをまとめようという意識はない。
ボウケンジャー個人事業主の集まりでありながらチームの体裁を保てている理由は真墨とさくら姉さんが心砕いているお陰ですしね。


そして今回、ガジャがTask.11の伏線を回収してゴードムエンジンを開発するも、技術力や人体への影響を配慮していなかったせいか、実験が失敗に終わってしまいました。
この辺りもサージェスの科学力との違いが示されていて良かったところであり、ここまででボウケンジャーもまた世界観の拡張に成功したのです。
アシュのガイとレイは次回以降因縁の相手として立ち塞がることとなりますが、高丘もまたボウケンジャーに仲間入りを果たすのは目に見えているでしょう。
総合評価はS(傑作)、本作は決して大河ドラマのような大筋のアベレージが高いわけではないのですが、山場という山場の短距離走の盛り上がりは外さないところが安心できます。

 

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