明日の伝説

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金スマの中居正広と松本潤の対談に見るスーパー戦隊シリーズの問題点

先月、そして今月の金スマに出ていた中居正広松本潤の対談を見て、色々な思いがこみ上げて来た。
私は決してジャニヲタでもなければ両グループのファンというわけでもない、ごく普通の視聴者である。
しかし、そんな私ですらSMAPと嵐はやはり別格の存在として自分の中にいたのだなあとこの対談を見て感じた。
なんというか、いつもの金スマとは違い、ずっと第一線を走り続けて来た国民的アイドルの2人には凄まじいオーラがある。


解散した今でもずっとSMAPを背負い続けているであろう中居、そして活動休止した今でもグループのメンバーと交流を持っている松本。
グループの「顔」と言える2人が一対一で対談するとき、そこにはもう目には見えない凄まじいトップのオーラがバチバチ走っている感じがした。
もうね、何というか違うんだよ背負っているものが…2人の背後に歩んで来た道が、そしてともに歩んできた仲間たちの姿が見える。
そんなトップ同士の臨戦態勢バチバチの対談は近年のバラエティ番組の中でもトップクラスのクオリティだったと思う。


そして、2人の対談を見ていく中でスーパー戦隊シリーズが孕んでいる問題点が何かが見えてしまったのだ。
今回はこの点に関してしっかり論じていきたい次第で、ちょっと普通のSMAPファン、嵐ファンとは違う趣旨の記事になると思う。
そのことをご了承頂き、今回の記事をご覧ください。

 


(1)平成の30年間を「切り開いた」SMAPと「完成させた」嵐


改めて平成の30年を振り返ってみると、私にとってメインカルチャーの象徴は間違いなくSMAPと嵐であった。
既成のアイドル像を破壊し新たなアイドルの形を作り上げたSMAPと、そんなSMAPの革命を受けて平成アイドルのニュースタンダードを完成させた嵐
戦隊シリーズに例えるならさすずめSMAP鳥人戦隊ジェットマン、嵐が星獣戦隊ギンガマンと言ったところか。
どちらも日本を代表する国民的スターではあったが、そのグループのカラーや表現してきた世界観は全く異なるものである。


私が原体験で見てきたSMAPはヤンキー中居とチーマー木村の2TOPを中心にした不良文化バリバリのたたき上げのチームで、瞬間最大風速で150点〜200点を叩き出す。
96年までは森且行というメンバーもいたのだが、昭和アイドルの残滓が多分にありながらも、いわゆる「オレ流」のスタイルがそこに入っていた。
等身大の若者っぽさを全面に押し出した楽曲の数々、バラエティやお芝居、報道系など様々なジャンルへの挑戦と開拓を行ってきたグループだと思う。
そして何より大きかったのが96年の東京ドームでのライブ…それまでこんな大きな会場でコンサートをやったアーティストはいなかったのではないだろうか。


そんなSMAPが開拓した新境地、そしてTOKIO、V6、Kinki Kidsら平成ジャニーズの個性をハイブリッドに吸収しつつ新時代のニュースタンダードとして台頭したのが嵐だ。
嵐は瞬間最大風速では先輩方に負けるが、それでも1人1人が歌・ダンス・バラエティ・お芝居等々全てにおいて平均80〜90点台をコンスタントに叩き出す安定感がある。
SMAPと同じようにドームツアーまで7年かかり、5人の個性が確立されるとグループも一気に国民的スターへ上り詰め、10周年の2009年で初の紅白出場を果たした。
SMAP以降のアイドルが切り開いてきた平成ジャニーズの新機軸を受け継ぎつつ、とても爽やかで嫌味のない正統派アイドルとして完成させたのが嵐である。


平成の30年には様々なアイドル、アーティスト、役者が台頭してきたが、一時代を担うメインカルチャーの象徴にまでなり得たのはこの2グループだけだ。
女性アイドルならモー娘。やAKBなどもいたし、アーティストならB’z福山雅治などもいた、そして役者ならば小栗旬佐藤健松坂桃李などもこれに該当するだろう。
しかし、トップ of トップとしてその存在自体が国民に影響を与え、時代を牽引してきたと言える存在かと言われたらそれはやはり違うだろうなと。
新たな土台を築き上げ完成させたという意味でSMAPと嵐の2TOPを超えるグループは平成において現れてないし、おそらく令和以降でも現れないだろう。


(2)リーダー・大野智の葛藤に見る「才能がある者」の苦悩


さて、SMAPと嵐を立てるのはこの辺りにしておいて、いつものこのブログらしくここからスーパー戦隊シリーズへとつなげてみることにする。
私の中で衝撃だったのが中居が松本に「解散の可能性は?」としたと時の受け答えであり、このようなことが言われていた。


「最初大野が『抜ける、抜けたい』、『自分は脱退して仕事自体を辞めたい』という話を言って。それだったらグループを4人で続けるというのは僕らは感覚的にないというグループなので、だったら終わりかなと思っていて」


松本はさりげなく語っているけれど、大野智ファンのみならず嵐ファンの人たちは多かれ少なかれこの言葉に動揺したのではないだろうか。
嵐のリーダー・大野智は「やる気のないリーダー」「リーダーらしくない」と言われていたが、それは決して冗談ではなかったことがわかった。
嵐のみならず芸能界にいること自体を辞めたかったというのは私でさえ衝撃を受けたのだから、ファンの人たちはもっとそう思ったであろう。
こんなことを言っては何だが、大野智はおそらく「自分のやりたいこと」=Wantと「自分がなすべきこと」=Mustが一致しない人間なのかなと。


私はよくスーパー戦隊シリーズで公的動機と私的動機の話をするのだが、大野智はおそらく公的動機も私的動機も0だったのではないだろうか。
10周年間際でも嵐を抜けたいと考えていて、そしてやっぱりそれ以上活動を続けても気持ちを前向きに持ち続けることが難しかった。
彼を突き動かしていたのはメンバーの支えとファンが求めるからであって、強いて言えば公的動機10で動いていた人間と言える。
本人は絵や釣りなど趣味に没頭したいのに、才能があるからという理由でダンス・歌・バラエティなどで多才に活動せざるを得ない。


しかもそのいずれをとっても他の追随を許さないクオリティのものを作り上げる大野智「才能」に振り回され、「才能」故に苦悩してきた男だった。
他の人たちからすればそれは贅沢な悩みに映るかもしれないが、でも大きな才能を持つ者にしかわからない孤独・苦悩・葛藤といったものはある。
私も文章を書きながら常にずっと孤独の中で向き合っていたし、文章を書く時は常に「産みの苦しみ」というものを感じながら書いてきた。
だから、大野智がいったん何もかもを辞めにしたかったのはわかるし、私も実際に8年近くも連載していたサイトを辞めたことはあるから、その苦悩は全部ではないが少し理解できる。


そしてその大野智が抱える苦悩・葛藤・孤独からグループ解散に発想が行くところが実に嵐らしいなと思うし、またそれでよく活動休止まで行ったなと思うのだ。
SMAP解散しかり嵐の活動休止しかり、下手なスーパー戦隊シリーズよりもSMAPと嵐を見ている方が「戦隊とは何か?」「チームとは何か?」が学べるのではないか。
少なくとも既成のレールに乗っかって楽してばかりのここ数年の戦隊シリーズを見るよりもこちらの方が非常に興味深いし色々な考察ができる。
そしてこの2グループを見続けているうちに、私の中でスーパー戦隊シリーズが長年抱えてきた問題点が明らかになった気がしたのだ。


(3)スーパー戦隊シリーズが抱えている問題点


さて、ここからスーパー戦隊シリーズの話題に本格的に移行するが、大野智が辞めると言い出したところから活動休止に至るまでの話はまさにスーパー戦隊の本質を突いたお話である。
どういうことかというと、シリーズには何作か「俺はもう辞める」と言い出す戦士が出るが、中でも「ジェットマン」の香や凱は途中でのドロップアウトを実際にやった人間だ。
もっとも、本当に抜けてしまっては話が成立しないので何だかんだ使命を思い出して立ち直り、また竜たちと一緒に戦うようになるが、ここで凱たちが戻らなかったらどうするつもりなのだろうか?
強制的に連れ戻して戦わせるか、それかもう辞めさせるか…辞めさせた例なら「バトルフィーバー」の初代アメリカや「サンバルカン」のバルイーグルの例があるが、あれはただの人事異動だ。


そうではなく、戦いは自発的に行うものとされているチームで、主戦力であるレッドや二番手の戦士がもう戦いたくないとして戻って来ず、負けてしまったらどうするのか?
戦隊シリーズではSMAPの解散、嵐の活動休止のような選択はできない、「トッキュウジャー」でもライトたちを戦いの使命から下ろしてトッキュウジャー2を作ろうと思えばできた。
それでもライトたちはその話を蹴って自分たちで戦うことを選んだから良かったものの、もしトッキュウジャー2にした方が良かったとする場合どうなんだろうか?
ギンガマン」でも炎の兄弟ではリョウマがギンガレッドを続けるのかという葛藤があったし、「タイムレンジャー」の竜也もそういう葛藤を経験したことがある。


ちなみにそうした個人の自由意志での脱退を許さずに無理やり連れ戻したり、口封じのために処刑したりした学生運動では最終的に連合赤軍の総括という内ゲバに進んで滅びた。
スーパー戦隊シリーズの場合、内ゲバで滅ぶのは敵組織だが、正義の味方側であるヒーローが内ゲバによって滅ぶ可能性が無きにしも非ずである。
そういえば、嵐が活動休止を発表した時に、櫻井翔が次のようなコメントをしていた。


「一番最初はものすごく驚きましたけど、誰か一人の思いで嵐の将来のことを決めるのは難しいだろうな、という想いがあるのと同時に、他の何人かの思いで一人の人生を縛ることもできないと思いました」


さらっと言葉にしていたが、この櫻井翔のコメントこそスーパー戦隊シリーズが抱える「組織の規律」と「個人の自由意志」の問題点を浮き彫りにしている気がした。
「誰か一人の思いで嵐の将来のことを決める」とはまさに個人の自由意志が組織の規律を上回ることを意味し、「他の何人かの思いで一人の人生を縛る」ことはその逆で、組織の規律で個人の自由意志を縛ることを意味する。
このコメントを見ればわかるように、組織の規律を維持することと個人の自由意志を尊重することは決して両立し得ない要素であり、二律背反のものを抱えながら戦隊シリーズは45作も作ってきたことになる。
そしてまた、中居正広は嵐が出した活動休止という答えや昨年11月に4人で出たことに対してこのようなコメントを寄せていた。


「誰も歩いたことないし、教科書を自分たちで作っていくしかないから。賛否あったとしてもそのマウンドに上がった人間じゃないとわからない」


これは正に平成アイドルの新境地を次々と開拓したSMAPのリーダーだから言えるセリフだし、本当に一流のものにしかわからない苦悩があると思う。
そしてそれはスーパー戦隊シリーズにも言えることであり、少なくとも「タイムレンジャー」位までは教科書を自分たちで作っていくしかない時代だった。
色々賛否あったとしても孤独なマウンドで、シリーズがこれから先続いていくという保証もない状態で必死に臨戦態勢でテーマと格闘していたのである。
今は教科書となるものはたくさんある癖に、それをキチンと有効活用できていない下手な受験生の受験勉強を見ているようで、残念な思いが沢山だ。


スーパー戦隊シリーズをこよなく愛する人こそ、是非この金スマ中居正広松本潤の対談を見て欲しいし、そこから戦隊シリーズの問題点について考えて見て欲しい。
少なくとも、近年の駄作を連発しているシリーズ作品を見るより、SMAPと嵐を見ている方がよほどチームヒーローとは何かの勉強になるから。

スーパー戦隊シリーズ第44作目『魔進戦隊キラメイジャー』(2020)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B09BF4W5FF

スーパー戦隊シリーズ第44作目『魔進戦隊キラメイジャー』は前作「リュウソウジャー」の惨憺たる大ゴケを見て、手堅い路線にしようとしたのでしょう。
ゲキレンジャー」以来13年ぶり(ライダーも含めると8年半ぶり)となる塚田プロデューサーに「ゴーカイジャー」以来9年ぶりとなる荒川脚本です。
この組み合わせで想像するのは2004年の『特捜戦隊デカレンジャー』で、私はまたもや嫌な予感がしてしまったのですが、それが見事に的中しました
蓋を開けてみれば前作とどっこいどっこいというか、前作の逆張りを意識しすぎた結果かえって目も当てられない事態になってしまった作品です。


本作に関してはもう分かりやすく「評価の良し悪し」と「個人的な好き嫌い」が直結する作品だと言っていいのではないでしょうか。
すなわち真ん中の評価=「凡作」という評価はなく(あったとしたらそれはその人に評価のセンスがない)、好きな人は「名作」と評価し嫌いな人は「駄作」と評価する二極化が起こっています。
そもそも塚田プロデューサーの作品自体「マジレンジャー」以外心底から好きになれた試しがないし、荒川作品にしても「ゴーカイジャー」以外を好きになれた試しはあまりないんですが。
ただでさえ私との相性が微妙な本作のメインをこの2人が手がけているとあってはそりゃあもう楽しく感じられないのは当たり前であり、完全な作り手の自己満足に終始してしまっています。


強いて心配になった点を挙げるならば、レッド役の中の人が新型コロナウイルスにかかってしまい撮影に支障が出たくらいですが、それは作品のクオリティと何ら関係のないことです。
そういう対外的事情は受け手の知ったことではないし、仮にそれで作品の評価が揺らいでしまうようであれば、その程度の強度しかない作品だということではないでしょうか。
ドラマの内容、アクション、世界観、ストーリー、キャラクター等々もう全てにおいて2010年代の戦隊シリーズの悪いところばかりが噴出してしまったという感じです。
そのくせ価値観が洗練されているのかと思えばそうでもなく、むしろ物凄く古臭い価値観が時代に合わなくなっていくというアナクロニズムが目立ってしまっています。


使っているモチーフに目新しさがあるわけでもないし、かといって既存のテーマを深掘りして新しい価値観やヒーロー像を提示するということもできていません。
根本的な作り手の力量のなさが露骨に出てしまったシリーズであり、その意味ではまだ前作の方が試みとしては新しいことをやろうとしていたという印象すらあります。
本作はその点「お前ら戦隊ファンはこういうのさえやれば喜ぶんだろ?」というのが見え見えなのですが、本稿ではそこを詳しく突っ込むことで総合評価としますのでご了承ください。

 


(1)力さえ持っていれば何をやってもいいと思っている勘違い学生サークル


まず本作の立ち上がりから最後まで悪い意味で一貫していたのは「力さえ持っていれば何をやってもいい」という勘違いの学生サークルとしてキャラクターが設定されていることです。
私の知人はそんなキラメイジャーのことを「意識高い系」と評していましたがまさにその通りで、立ち上がりの1話・2話の段階でやっていることが歴代トップクラスに最低でした。
1話目ではあろうことか主人公の熱田充瑠が戦闘中に周りの迷惑も顧みずお絵描きを始めてしまい、挙げ句の果てに発狂してキラメイジャーに覚醒するというとんでもない流れを見せています。
さらに2話目では陸上選手の速見瀬奈が陸上の大会に出たいからという理由でヒーローの使命を断り、さらにそんな瀬奈を4人が放置してしまうというあり得ないことをしているのです。


確かに歴代でも最初に使命を断るヒーローないしヒロインはいましたが、それはそのキャラクターなりの考えや信念、生き様から自然に発生したものがほとんどで違和感がありませんでした。
しかし、本作では納得のいく心理描写やバックボーンの構築が不十分なために、単に優先順位をつけられない今時の若者にしか見えず、ヒーローとしてのスタートラインに立ててすらいません。
特に主人公の充瑠はその象徴みたいなもので、彼はいうならば荒川版ライトみたいな想像力の豊かさを持ったキャラクターですが、大人の覚悟を持っていたライトとは違い充瑠はただのクソガキです。
無自覚に周りを引っ掻き回して迷惑をかけ、それに対して謝罪すらしないのはライトもそうでしたが、ライトは己の使命に対しては物凄くストイックな男でした。


そのライトからストイックさを抜いて単なる放埓なガキに描いてしまったのが充瑠であり、塚田Pによると彼は「花より男子」の牧野つくしを想像したそうですが、これですら比較になりません。
牧野つくしは確かにパワフルな子ではありましたが、決して周りの迷惑を顧みない人ではなかったし、義理と筋はしっかり通して嫌なことは嫌だと言い貧しい家計を立派に支えた苦労人です。
単なる甘やかされて育っただけの充瑠にはそのようなライトや牧野つくしがしっかり守っていた一線や義理と筋といった部分がなく、ただ無軌道に動いているだけの地球外生命体にしか見えません。
そしてもっと気持ち悪いのはそんな主人公をなぜだか周囲が根拠もなく「あいつは流石だ」と太鼓持ちのようにして持ち上げることであり、またもやキング、タカ兄、ラッキーに続くマンセー系レッドの悪夢が来ました。


私は前作「リュウソウジャー」は世紀の大駄作だとは思いますが、大嫌いという程ではなかった理由の1つは主人公のコウが決して必要以上に周囲から持ち上げられることがなかったからです。
むしろ終盤ではコウ以外も見せ場がありましたし、負の御都合主義だったといえど、レッド以外の4人がトドメを指す倒し方は悪くなかったといえます。
本作に関してはその辺りすらなく、またもや無反省に2010年代戦隊のトレードになっていたレッドマンセーをはじめとする身勝手なキャラクターたちの立ち居振る舞いが許せませんでした。
「ルパパト」「リュウソウ」で歯止めのかかったレッド持ち上げ、そしてそんなレッド持ち上げに伴う無自覚なヒーローと言えない身勝手な若者たちの価値観は許容しがたいものです。
彼らの中にあるのは「力さえあれば何をやってもいい」と思い込んでいる、まさに「デカレンジャー」のジャッジメントシステムとなんら変わらない「力こそ全て」のヒーロー像でした。


(2)余りにもバリエーションが少なさすぎる特撮


2つ目に挙げられるのが余りにもバリエーションが少なさすぎる特撮であり、武器といい玩具といい、それから勝ち筋の見せ方といい山も谷も無さすぎる見せ方でした。
これに関してもやはり前作の逆張りをやって失敗したところであり、前作は騎士竜があまりに多いこと、そして強化フォームがあまりにも多すぎることが問題となっています。
しかしそれでも新機軸のものを見せようという気概はそれなりにあったので、高く評価こそしないものの何かできることを開拓しようというのは感じられました。
本作ではそれすらもなく、ロボット玩具にしてもなりきり玩具にしてもあまりにも少なさすぎて、流石に44作目なのだしもう少し増やしてもいいだろうと思ったのです。


確かに「ガオレンジャー」以降のスーパー戦隊シリーズが抱えていたのは「玩具販促と物語の兼ね合い」であり、玩具販促のために物語やキャラが犠牲にされている作品もありました。
しかし、それはあくまでも「玩具販促の物語上の意味づけをきちん行って欲しい」という意味であって、決して玩具販促そのものをやるなということではないのです。
ところが本作はなりきり玩具もロボット玩具もプレイバリューに乏しく、もはや没個性の領域を通り越して無個性とすら評した方がいいと思ってしまいます。
デザインが美しいわけでもないし、初期に打ち出した背景設定や物語としっかりつながっているというわけでもありません。


そのため巨大特撮にしても等身大アクションにしても、年間通して山も谷もへったくれもない単調な塩試合を延々と見せ続けられている気分です。
ラストの皇帝との戦いにしたって、それ自体は良くできているものの、結局は「デカレンジャー」の最終回を本作用に焼き直して見せているだけにすぎません。
デカレンジャー」の最終回はそれまでのクオリティの低さを多少加味してもそれを覆すくらいの迫力はありましたが、本作の最終回にはその迫力すらないのです。
だからどうしても最後までやっていることが「閉じた学生サークルの中で起こった戦隊ごっこ」の領域を抜け出ることがなく、普遍性のあるヒーローの面白さとはなりませんでした。


私が00年代以降の戦隊シリーズに対して思っていたことなのですが、主人公の守っているものが昔に比べてはるかに小さく狭いというのがある時期以降目立っています。
それは70・80年代戦隊とは違い、「戦いとは何か?」を初期設定の段階できちんと打ち出す必要があるからであって、個の視点から発するものである以上守れるものに限界があるのです。
しかし、そんな90年代以降の作品でも昔はそこから地球全体の話へ繋げていく工夫は凝らされていたのですが、その努力すらも本作は見事に放棄してしまったようです。
結果として、どうしてもキラメイジャーたちの戦いがご当地ヒーローと同様か、それ以上に狭い範囲のものにしか守ってないように感じられてしまいます。


(3)生理的嫌悪感が青天井のラブコメ描写


そしてこれが個人的に最も嫌だったのですが、荒川脚本をはじめ本作のラブコメ描写はあまりも青天井のどぎつさであり、生理的嫌悪感がMAXを通り越してオーバーフローしています。
元々「ジェットマン」の頃から私は荒川さんの描くアイドル回やヒロイン像が大の苦手でしたが、本作でいよいよそれが誰の目にも誤魔化しようのない形で白日の元に晒されました。
基本的に暇さえあれば頭の中は恋愛脳なキラメイジャーですが、かといってそれを井上脚本のように味わいのある大人の文芸のように見るには脚本家としての力量もスタッフの演出力も役者の演技力も追いついていません。
何だろうなあ、井上先生の描く恋愛は臭いけれどもきちんとした大人の愛になっており非常に奥深さが感じられるのですが、荒川氏が描くラブコメは本当に単なる童貞の妄想の域を抜け出ないものなのです。


特に小夜のキスシーンなんてあまりにも気色悪すぎて冗談抜きでリアルに吐いてしまうほどであり、アコちゃんラーメンに始まった荒川氏渾身のヒロイン描写がとうとうここまで来たかとウンザリしました。
これがアコちゃんラーメンの時にはまだ若気の至りで多少なり許せたのですが、それから30年近くが経っても同じようなことを繰り返しているのはもはや不気味というかホラーです。
そして最も気合を入れたであろう充留と柿原のラブコメにしても、とにかくくっつけさせようという意図はわかるのですが、あまりにも露骨すぎてかえって冷めてしまいます
為朝や宝路が女の子に愛されないネタであったり、本作のヒーローか否かの基準が「女にモテるかどうか」というものすごく古臭いものになっているのはどうかと思うのです。


これは作り手への嫉妬とか羨望とかいうことではなく、今の時代は恋愛なんてしなくても個人が個人として自由に楽しく生きることはできるはずです。
しかし、本作においてはどうにも荒川氏個人のラブコメやアイドル系路線ばかりが前に出すぎているためか、恋愛しない奴は人間じゃないと言わんばかりの価値観の押し付けが受け付けません。
もちろん本人たちにそのつもりがなかったとしても無自覚にそうなってしまっていて、それこそ昨今の言葉を借りるなら「所詮この世は陽キャが勝ち組、陰キャはおとなしくしてろ」というのがメッセージでしょうか。
何だかYouTubeの動画にありがちな陰キャを馬鹿にする陽キャの縮図そのものであり、恋愛至上主義の90年代ならともかく10年代においてそれは完全に化石化してしまったしょうもない価値観です。


アバレンジャー」「デカレンジャー」でもそうでしたが、私は荒川氏がヒロインを通じて提唱しているこの童貞丸出しの恋愛観やジェンダー観が大の苦手であり、最近ますますその癖が強くなっています。
その上で(1)で述べたように散々無自覚に身勝手な行動を働いているのに無根拠に「お前はすごい」と持ち上げられる主人公と、そんな主人公の太鼓持ちである仲間たちと敵組織。
力だけは安易に受け取っておき、「限界は超えないためにある」など言いながら、ではその限界を超えない戦いがどういうものかに対して真剣に向き合うわけでもない。
とにかく全てにおいて不徹底かつ中途半端であり、だからこの全編に蔓延しているラブコメ描写も本気で向き合ったものじゃないので全く乗れません。
結果としていつもの塚田P作品と荒川脚本の悪いところだけが残った作品だなあという印象にしかならないのです、まさかこんな結論になるとは。


(4)10年代戦隊の悪いところばかりが詰まった集大成


総じてまとめるなら本作は2010年代戦隊の悪い意味での集大成というか、「キュウレンジャー」とは別の意味で2010年代戦隊の行き着いた負の遺産ではないでしょうか。
根拠もなくやたらに礼賛され持ち上げられる主人公、まるで脅威感のない敵組織、狭い箱庭世界に終始しまるで広がりを持たないヒーロー像、そしてどこかで見たような無味乾燥でのっぺりとしたアクション。
それに加えて荒川脚本特有の気持ち悪いジェンダー観・恋愛観の押し付け、そして主人公たちの独善が物語として肯定されてしまう作風…これで好きになれという方が無理です。
ただ、逆に言えばスーパー戦隊シリーズが長いことを目を背けて来た問題点や欠点が図らずも本作でことごとく露呈したことの証でもあるのではないでしょうか。


聖地アタマルドだの何だのと前作同様いくらでも広げることのできる風呂敷を持ちながらそれを生かした作劇もできず、かといって既存のテーマと格闘するのも嫌という。
根本的に本作に見て取れる2010年代戦隊シリーズの本質は「甘え」であり、今まで積み重ねて来た先人たちの遺産に甘え、いたずらにそれを食い潰していたのです。
かといって、今の荒川氏や塚田Pに既存のテーマを集約しつつこれからに向けた新時代のストーリーやキャラクターを打ち出す力など残っているわけもありません。
だから、ある意味で本作は作り手がもう「自分たちにはこれしかできない」という開き直りを思い切って画面にぶつけて勝負してみたのではないでしょうか。


しかし、その潔さが必ずしも作品としての面白さや商品としての売上に繋がるわけでもなく、どれだけ作り手が一生懸命でもあくまで受け手に評価されなければ意味がありません。
本作はその点最後まで受け手に媚びるような描写ばかりを入れ、設定やストーリー、キャラクターの練り込み不足を表向きの明るさで糊塗しようとしました。
そんな過去作品で散々擦り倒したやり方を今更行われたところで面白みがあるわけでもなく、中弛みどころか年間通して緩慢なストーリー未満のプロット紹介が続くだけです。
だから本作には「ストーリー」も「シナリオ」も存在せず、精々が「ぼくのかんがえたかっこいいせんたいひーろーのしょうかい」でしかありません。


見る人が見ればどうしようもない作品未満だとわかる本作ですが、「掴み」だけは抜群にうまいので、その掴みに騙されれば受け入れてしまうのでしょう。
少なくとも私は本作が提示したものに思い切って騙され、その世界観やストーリー、キャラクターに感情移入して見ようという気は最後まで起きませんでした。
へー、次はこうなんだ、ふーん」という白けた気持ちで見てしまい、面白がる領域にすらならないという2010年代戦隊らしい特徴が出ていたと思います。
まあ逆にいえば、今のスーパー戦隊シリーズはここまで落ちぶれてしまったことを受け手に知らしめた作品であるとも言えるのですが…。


(5)まとめ


前作の反省を受け、本作は00年代戦隊でそれなりに実績のある古参のスタッフを揃えて、改めて「かっこいいヒーロー」を作りたかったのでしょう。
苦悩せずに前向きかつ軽やかに強いヒーローというのもそう意図したものだったと思われるのですが、出来上がったものはそのイメージからはとてもかけ離れたものです。
確かに1人1人が強いスーパースター的存在と設定されていますが、実際はそれを免罪符に好き勝手何してもいいという勘違いを起こした意識高い系の若者の話でした。
もちろんそこから描けるヒーロー像もあるのですが、結果的には「正統派」を描きたいのか「変化球」を描きたいのか、その軸足からして固まっていなかったことが露呈したのです。
その上でもう時代遅れとなった荒川氏の脚本に演出手法、アクションなどなどスーパー戦隊シリーズが抱えていた膿を噴出させたF(駄作)ではないでしょうか。

 

魔進戦隊キラメイジャー

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

F

カニック

F

演出

F

音楽

F

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパー戦隊シリーズ第43作目『騎士竜戦隊リュウソウジャー』(2019)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/4091051723

スーパー戦隊シリーズ第43作目『騎士竜戦隊リュウソウジャー』はまたもや王道系のファンタジー戦隊という路線で作られた一作ですが、私は本作を初期から危惧していました。
まず、シリーズできちんとした実績を出せていない丸山真哉プロデューサーに加えて、脚本家も何処の馬の骨ともつかぬ山岡潤平氏…もうこの時点で地雷しかありません。
そしてそれは案の定外れることはなく、最初から最後まで悪い意味でトチ狂った地獄の闇鍋フルコースを食べさせられた気分であり、またもや歴代ワーストが更新されてしまったのです。
2010年代は「キョウリュウジャー」「ニンニンジャー」「キュウレンジャー」と世紀の大駄作レベルが次々と繰り出されましたが、本作もその仲間入りを果たしてしまいました。


ビジュアルからしてもはや何度目になるのかと言わんばかりの「ギンガマン」のn番煎じな上、その新しく打ち出されたはずの要素がどれもことごとく明後日の方向に行っています。
とはいえ、第一話だけを見たらそんなに悪かったわけではなく、「おお!なかなかの滑り出しじゃん」と思ってしまうほどに、そこそこキャッチーな始まりでした。
それがどうしてこのようになったのかは後述しますが、まあとにかく設定、キャラ、ストーリー、そして玩具販促の全てにおいてチグハグな作品だったことはいうまでもありません。
前作のルパパトが終盤の詰めの甘さを除けばかなり優等生のようなクオリティの作品だったというか、諸手あげて褒めたいレベルの名作だっただけに余計にそう思ってしまうのです。


「騎士」と名がついていたり、わざわざ師弟関係が個々の戦士に設定されていたりするために、最初は「継承」という要素を大事にしながら、丁寧に大河ドラマを紡いでいくのだと思いました。
しかし、その要素は序盤数話で完全に潰えた上、話の主軸もリュウソウ族とドルイドンの根源とかいう、スーパー戦隊シリーズではどだい掘り下げるのに無理な要素が終盤の角に絡んできます。
スーパー戦隊シリーズの中にはもちろんこのようなルーツに関する話を展開した作品がいくつかあるのを知っていましたが、そのいずれもが試みだけで失敗に終わったのです。
その上で本作は山岡氏をはじめとして、スタッフはほとんど力のない人たちばかりなので、そんなご大層なテーマを1年かけて紡ぎ出しニュースタンダード像を作れるほどの力はありません。


まあこんなネガティブコメントの雨霰なので評価としてはぶっちぎりの辛口で、大反省会となりますので評価の高い方や好きな方は閲覧注意です。
果たして本作の何がいけなかったのか、そして逆に王道とは何なのかを改めて反面教師として教えられた一作だったのではないでしょうか。
少なくともここ数年のスーパー戦隊シリーズの中で初期設定からの落差が酷かったシリーズは本作が断トツです。
敗因の分析は主に以下の4つとなりますので、1つずつ仔細に論じていきながら、「リュウソウジャー」が何であったのかを検討していきましょう。

 


(1)倫理観のおかしな戦士たち


まず1点目に挙げられるのはリュウソウジャーたちの倫理観のおかしさですが、これはもう歴代どの戦隊にも当てはまらない、悪い意味でのオリジナリティがあります。
本作をリアルタイムで見ていたとき、Twitterで「リュウソウジャーは自分たちをギンガマンだと思い込んでいるニンニンジャー」という評価が話題になりましたが、言い得て妙です。
コウたちリュウソウジャーはまるで自分たちを地球を守る使命を抱えた伝説の戦士だと思わされているアホばかりというような描写が序盤の1クール目で描かれています。
その証拠にコウは笑顔でういの頭をハンマーで叩いて記憶を無くさせようとしたり、ブラックのバンバに至っては人の大切な箱を切って破壊するというとんでもないことをしています。


こうした倫理観のおかしさは意図的に演出されており、それが悪い訳ではないのですが、問題はその倫理観のおかしいキャラクターに全く魅力が感じられないことです。
スーパー戦隊シリーズには大きく分けて2種類のキャラの表現があって、1つがヒーロー性重視、そしてもう1つが人間性重視であり、本作は前者を選んだのでしょう。
しかし、本作におけるヒーローがカッコいいのかというとそんなことはなく、もはやただただ思考回路が読めない頭のおかしい人というかサイコパスにしか見えません。
いわゆる70・80年代戦隊のような「狂気の闘争」でもなければ、90年代以降に見受けられる「意図された狂気」でもない、どっちつかずのものになってしまったのです。


最もこれは2010年代のスーパー戦隊シリーズの傾向を考えれば仕方のないことであり、2010年以降はいわゆる「正義そっちのけ」という感じの戦い方やヒーロー像が目立っていました。
公的動機なのか私的動機なのか、前向きに戦っているのか後ろ向きに戦っているのか、それすらもわからないような緩くてフワッとした餅や綿飴みたいな掴み所のないヒーロー像が続いたのです。
特にコウのキャラクターのあの天然なのか似非天然なのかよくわからないキャラクターは作り手も持て余していたようで、最終回まで見ても彼は何のために戦っていたのかわかりません。
そしてそれは他のメンバーも一緒であり、「仲間が大切」みたいなことだけ言っておきながら、その他にはまるで目を向けていないような杜撰さが最後まで目立ってしまいました。


つまり本作のヒーロー像の問題点は何かというと、リュウソウジャーのあやふやな倫理観やそれをベースにしたヒーロー像が「外の世界」との繋がりや広がりを持たず、内側で完結してしまったことです。
そのせいで、リュウソウジャーの世界観やヒーロー像がただの怪しい新興宗教で完結してしまった感じは否めず、物凄く狭い箱庭世界の話に終始するという陥穽にはまってしまいました。
過去作を挙げるまでもなく、駄作のセオリーを本作は辿るべくして辿った訳であり、それが見えてしまえば本作の評価はどう足掻いたって失敗作としか言いようがありません。
ではなぜそのような駄作のセオリーを本作が辿ることになってしまったのかを詳しく分析していきましょう。


(2)天秤に掛けること自体がおかしい公的動機と私的動機


(1)で指摘した倫理観のおかしさ、あやふやさは後半において顕著に出てくることになるのですが、中でもそのターニングポイントとなったのが38話での試練でした。
セトーはコウとカナロに「使命と仲間のどちらかを選べ」と言われてコウが「仲間」、カナロが「使命」と答え、その上で最終的に以下のような答えを出しています。


「力は欲しい。だけど、仲間と戦って手に入れるのは間違ってる」


そして最終的に「仲間とともに使命を果たす」という答えを出すのですが、この展開は「ニンニンジャー」の終盤並みに何が起きているのかがわからず、目の前で何が起きているのか全く理解できませんでした。
まず仲間=私的動機と使命=公的動機を天秤に掛ける時点でリュウソウジャーたちの頭の中が完全にバグってるとしか思えないのですが、その答えが「仲間とともに使命を果たす」というありきたりなものなのもよくわかりません。
そもそも仲間を私的動機、使命を公的動機とする分け方自体に何の意味があるのかがわかりませんし、スーパー戦隊シリーズでその展開はやっておくならせめて2クール目の終わりまでではないでしょうか。
もっと言えば、私的動機であろうが公的動機であろうが、リュウソウジャーのこの価値観の中には「守るべき人々・世界」といった広範囲のものが一切含まれていません


これが何を意味するかというと、リュウソウジャーとはすなわち「仲間の為なら使命を果たせるが、それ以外の為には動けない排他的差別主義の集団」ということです。
要するに仲間内で傷の舐め合いを繰り返しているだけの戦闘狂であり、自分や自分の仲間だけを守り、それ以外の気に入らない奴らは容赦無くぶち殺すことを意味します。
ある意味序盤からこの点に関しては一貫していたのでそういうものだと思えば一周回って楽しめるのですが、問題は「外との繋がり」による価値観の変化がないことです。
YouTuberのういと父親などゲストとの絡みはそれなりに描かれていたはずなのに、リュウソウジャーには印象的なサブキャラクターが誰一人としていません。


普通伝説の戦士という設定ならそこは異世界からやって来た者たちが外の世界の人たちとの交流を経て絆を強め、より使命感を強固にしていくということが大事なはずです。
しかし、歴代でこのハードルをきちんとクリアできているのは「ギンガマン」位しかなく、あとは「ゴセイジャー」「ジュウオウジャー」と似たような設定で軒並み失敗しています。
だからこそ本作ではその世界観をどう拡張するかが見どころだったはずなのですが、拡張するどころかその短所を正当化し最後まで貫くという「ガオレンジャー」方式を選んだのです。
ガオレンジャー」も価値観が非常に狭い閉じたものである上に後半は奇跡まで起こしていましたが、本作も同じように負のご都合主義を貫き、その結果が後述する要素で悪い方向に結実してしまいます。


(3)善悪の相対化ならぬ善悪の逆転


本作が最終章で出した答えは「ゴセイジャー」で見られた「善悪の相対化」をもっと推し進めた「善悪の逆転」であり、ここでリュウソウジャーとドルイドンのルーツが語られることになります。
ドルイドンのラスボスとして出て来たエラスを生み出したのはリュウソウ族であり、そのリュウソウ族の生き残りを駆逐する為にドルイドンやエラスは生み出されたとのことです。
問題はドルイドンはともかくエラスが全くの「悪」に見えないことであり、更にいうなら主人公たちが所詮は「自分のため」という私的動機の領域を超えなかったことです。


おそらく作り手は「ウルトラセブン」で賛否両論の「ノンマルトの使者」を下敷きにしたものであり、意図したかどうかはともかくそうした過去作が敢えて超えなかった一線を超えたつもりなのでしょう。
それを戦隊シリーズで問うことの是非もそうですが、何よりもこのような問題と向き合うにはあまりにもリュウソウジャーとドルイドンのキャラの積み重ねが全くできていません。
こういう展開をやるならやるで構いませんが、それならばリュウソウジャーが戦いの中でもっと「ドルイドンは本当に悪なのか?」を深刻に問い、答えを出させるべきではないでしょうか。


ところが、リュウソウジャーは最終回でそれに全く向き合うことなく目を逸らし続け、エラスと戦う理由があくまでも「仲間」「未来」といったことしか口にしません。
つまり先祖がやった血塗れの歴史に絶望するのでもなんでもなく、ただ臭い物に蓋をして綺麗事で自分たちのやらかして来た悪行を糊塗しようとするどこぞの上級国民(笑)と同じです。
ある意味日本人らしいと言えば日本人らしい発想ですが、そんな悪い意味での現代日本の若者の姿を無批判に肯定してしまうのは絶対に子供向け番組としてやってはなりません。
いくら倫理観がおかしな連中を描きたいにしてもやっていいこと悪いことはあり、本作は最後まで主人公たちが「ミーイズム」にばかり快楽を見出しているのはどうかと思うのです。


歴代戦隊で私度の高い戦隊というと「未来戦隊タイムレンジャー」がありましたが、あの作品はあくまでも「世界を守る戦い」ではないからこそラストの各自の決断に基づく最終決戦に説得力があります。
かなりのパラダイムシフトを起こした「タイムレンジャー」ですが、あの作品では最初から大人向けとして筋の通った世界観、ストーリー、キャラの構築がしっかりしていたので違和感がありません。
しかし、本作ではエラスの「地球を作り直したい」という、とても悪とは言い難い明確な動機に対してリュウソウジャーはそれらを薄っぺらい「仲間との絆」で否定しようとするのです。
なんだか大学教授から問題行動を散々起こして注意された飲みサーの学生が「楽しければそれでいいじゃん」と言ってる様を見ているようで、要するに「赤信号みんなで渡れば怖くない」でしかありません。
結果として、単なる狭い陽キャの「ウェーイ」な学生サークルの内輪話に終始してしまい、そこから壮大なスケールの大河ドラマに広がることが全くありませんでした。


(4)まるで連動性がなく広がり切らない設定、キャラ、ストーリー


このように、本作も結局は過去の駄作群が辿って来た失敗作のセオリーをほぼそのままなぞったような作品となってしまい、設定もキャラもストーリーも一切広がらずに終わってしまったのです。
騎士竜とは何か、リュウソウ族とドルイドン族の違いは何か、わざわざ師匠から継承することを設定した意味、リュウソウジャーと騎士竜の絆などいくらでも美味しく描ける設定はありました。
しかし本作はそれらをきちんと丁寧に扱い、1つ1つを細かく掘り下げて壮大な展開へ繋げるのではなく、短所に短所を重ねた挙句に目を背けて表向き運命を変えた風を装っていることです。
まさに上にも書いたようにリュウソウジャーとは「自分たちをギンガマンだと思い込んでいるニンニンジャー」であり、この評価こそが本作の全てを表しています。


要するにギンガマン風のビジュアルのエッセンスを装いっていながら、その実倫理観をはじめキャラクターもストーリーも全てにおいて連動性がなくあやふやな点は「ニンニンジャー」を継承しています。
ニンニンジャー」の場合酷かったのは結局ダメ祖父の傀儡であることを脱却しきれず、運命を変えた風を装ったことでしたが、これもまさにそのようなラストだったのではないでしょうか。
まあ本作の場合は主人公たちが都合よく自分たちの先祖がやって来た所業から目を背け続けて来たことですが、そんな奴らが勝ってしまうラストもある意味ではそれに相応しいものだったのかもしれません。
ただし、そのことと新たなヒーロー像として魅力的かどうかということは全くの別問題であり、そのようなヒーロー像をきちんと理解して受け止められる、共感できる人はほとんどいないでしょう。


別にぶっ飛んだストーリーやキャラクターを作るならそれで構いませんが、ぶっ飛んだ世界観にもそれ相応の一貫性やルールは必要であり、それは初期設定と描写の積み重ねがどれだけ強固にできたかによるのです。
本作はその初期設定と描写の積み重ねにことごとく失敗してしまったのであり、アクションにしても文芸にしても「王道を装った変化球の作品」というひねくれたことをしようとして失敗するという典型でした。
連動性がなくても楽しめるという人もいるのでしょうし、アクションはそれなりに派手なためにビジュアルだけでも楽しめる人は楽しめるのでしょうが、そのビジュアルすら過去作の劣化でしかありません。
戦隊シリーズには「作品」としての評価と「商品」としての評価がありますが、本作に関してはどちらにおいても完全に失敗した最下層ランクを更新した作品ではないでしょうか。


(5)まとめ


前作「ルパパト」の変化球から王道系に回帰した本作は表向き王道を装いつつ、その中に大胆な変革(笑)を試みようとした作品ではありました。
しかし、そのほとんどが実は過去作で失敗したものであり、まさに本作は先人が試みようとしたけど敢えてしなかったことをやってしまった例だと言えます。
別にそれ自体を悪いとは言いませんが、そんな難題に挑戦し成功させられるだけの力量を持つ人は少なくとも本作においては1人としていません。
ドルイドン殺しの罪から逃れ続け、仲間内で気持ち悪く馴れ合っているだけのリュウソウジャーのサイコパスぶりは一生記憶に残るでしょう。
そういう意味では成功といえば成功なのかもしれませんが、私にとっては何の魅力も感じられないカスであり、総合評価はF(駄作)of F(駄作)です。

 

騎士竜戦隊リュウソウジャー

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

F

カニック

F

演出

F

音楽

F

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパー戦隊シリーズ15作目『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)35・36話感想

 

第35話「鳩がくれた戦う勇気」


脚本:荒木憲一/演出:東條昭平


<あらすじ>
アコは手術が必要な重病を患っていた少女・恵理と出会う。怖さから手術をなかなか受けようとしない恵理は、何かと戦う勇気を必要としていた。毒ガスネズミとの戦いで目が見えなくなったアコを助けるために、病を押して恵理が立ち上がる。


<感想>
久々のアコメイン回なのですが…うーん、個人的には非常に受け入れ難い展開。


そもそも私はこういう「辛い難病を抱えている子供がヒーローに勇気をもらって手術を受ける決意をする」という感動ポルノじみた話が凄く嫌いなんですよね、あまりにもわざとらしくて。
それにそんな少女のためにわざわざアコに盲目というハンデを背負わせて戦わせる意味もよくわかりませんし…あと何で今回使われている鳥が鳩なのかもよくわかりません。
鳩はよく「平和の象徴」と言われますが、はっきり言って鳩なんてマジで迷惑なだけです、糞は散らかすし仕事場の倉庫の中に勝手に入ってきますしね。
私も数年前に働いていた職場の倉庫の中によく鳩がいたのですが、パチンコ使って撃退というのを繰り返しており、もう本当に鳩にはうんざりしているのです。


また荒木脚本と東條演出ということで「歩くゴミ」を意識したように環境問題を意識したのかと思われるのですが、これも結局導入でそれっぽく言及しただけ。
盲目に陥ったアコをなぜか竜たちが放置して助けに来ない理由もわかりませんし、悪い意味で一人の戦いをアコに強いているのも非常によろしくない
まあ鳩に襲われるラディゲ様の描写は面白かったんですけどね、池ぽちゃなんかするような敵幹部なんて本当になかなか見られるもんじゃないですよ。
まあ逆に言えばそこ以外は話としても演出としても面白いものはなく、個人的にはぶっちゃけ微妙な一作ですね。


似たような話だとウルトラセブン38話の手術を受ける少年の話がありますが、こういうのを見るたび思うのは「お前らクソガキはヒーローからの助言がないと何もできないのか?」という話です。
ヒーローと子供キャラを関わらせるのを悪いとは言いませんが、手術を受ける決意をするための口実にヒーローを利用するのはどうかと思います。
そういうのは医療カウンセラーがやるべきことであって、ヒーローたるジェットマンがやるべきことはあくまでも違うところにあるのですから。
やりたい内容に対して、その中身や表現の方法が全く伴っていないという典型的な失敗作のセオリーになっていて、評価F(駄作)です。


第36話「歩く食欲!アリ人間」


脚本:井上敏樹/演出:雨宮慶太


<あらすじ>
田切長官以下5人の鳥人戦隊は日頃の戦いから離れ、長野県の牧場へ休息に出かけた。戦士たちは、パラグライダー、サイクリング、露天風呂と大自然を満喫する。一方バイラムでは、子供であることを馬鹿にされたトランが、幹部たちを見返してやるため休息中の戦士たちの元へ向かっていた。


<感想>
今回は3クール目の終わりにして、実質の4クール目への導入を兼ねた回なのですが、地方ロケ回ということもあってか、完全な息抜き回。
場所は長野県のレッドウッドイン、今でも大人気の観光スポットで、天然温泉もある宿泊施設として有名なところだそうです。
長野県は本当に天然温泉がよく、私もここではないのですが一回だけ大学時代の学友に連れて行ってもらったことがあります。


コメントにもありましたが、冒頭の息抜きシーンは本当にジェットマンというメンバーの仲の良さが伝わってきますね。
もちろん最初からこうだったわけではないんですが、32話までを経て非常にいい感じにメンバーがまとまってきています
で、特に良かったのがバレーボールのところで凱が香と一緒にみんなを見守っているシーンで、あれだけ馴れ合いが嫌いだった凱が本当に丸くなってきました。
もちろん元来の身勝手さも残っているのですが、ここからの凱はクールでかっこいいシーンが目立つので、そういう意味でも変化が自然に出ていていいですね。
また、この「全員が楽しんでいるのを俯瞰で微笑ましく見守る」というのは最終回のさりげない伏線になっており、そう思うと楽しくもあり切なくもあります。


逆にここからがターニングポイントですが、バイラムではとうとう今までが嘘のように一気に仲間割れするようになります。
グレイとマリアが渋くクラシック音楽に耽っている最中にとらんが邪魔してしまいますが、ここからのやりとりが見ものです。


「邪魔だ失せろ!」
「グレイ、まあそう怒るな。トランは子供なのだ、まだ芸術を理解できる歳ではない」
「くっ!」
「笛や太鼓が欲しい年頃というわけか、ふふ」


ここでラディゲも登場し3人揃ってトランを「子供」とばかにするのですが、いよいよ終盤に向けてバイラム崩壊の兆しが見え始めてきました。
このバイラムの仲の悪さといったら歴代でも相当なもので、思えば翌年の「ジュウレンジャー」のバンドーラ一味が和気藹々としていたのはバイラムとの意図的な差別化だったのだなと。
で、子供だ子供だとバカにされ憤慨したトランはいよいよ反抗期に突入です。


「見ていろ、今に見ていろ!僕だって、僕だって子供のままじゃないんだ!」


で、トランはなぜだか竜たちが宿泊しているレッドウッドインへ向かい…何でこういう時に限ってジェットマンのいるところへ向かうんだろう?
まあトランが単純にガキなだけということもあるでしょうが、単なるアリ人間の話を描くためにわざわざ長野県に出向く理由が薄いのは惜しまれるところです。
まあその後の牛の白骨死体とかアリ人間と化して色々食欲を貪る香は結構ギャップがあって面白いのですが、でも香って序盤で結構はっちゃけたとこ見せてるだけにリアルにやりそうで怖い^^;
そしてそんな香をアリ人間にした恨みは当然ブラックコンドルが許すわけがありませんが、ここからが見もの。


「てめえ、ガキだと思っていたがもう手加減はしねえ!罪を償え!香を玩具にした罪をな!」
「よせ、凱!バイラムといえども相手は子供だ」
「子供?僕を、僕を馬鹿にするのか!?」


その後は普通にアリバズーカが出現し、ジェットマンがこれを迎え撃って香が正気に戻ります。
「よくも乙女に恥をかかせてくれたわね!」って言いますが、あんたは言うほど乙女じゃないですよ(笑)
むしろ物凄く図太い神経の持ち主なので、どっちかというとアコの方が本質的にはずっと乙女なんだよなあ。
「私、本当は少食です!」と言っていましたが、こんなことをアピールする辺り、絶対痩せの大食いと見ました。


で、問題はここからで、ジェットマンからも散々子供と罵られたトランは一気に大人3人組に追い詰められていきます。


「敵に情けをかけて貰った上、このザマとはな」
「まさにアリのように踏みつぶされたというわけか」
「ふ、しょせん子供」
「ははははははは」
「ハハハハハハハハ」
「ふふふふふ」


もう何かあれなんだろうなあ、色々負け続きだっただけに、幹部全員ストレス溜まってたんだろうなあと想像できます。
マリアは竜に抱きしめられ、グレイは竜に出し抜かれ、ラディゲは鳩に襲われて池に落っこちて…うん、こうなったのも納得です。
これまでノーダメージだったトランが一気に「子供だから」というだけで散々笑い者にされるという、くだらないながらものすごく笑える展開。
で、その結果どうなったかと言うと…。


「見ていろ、今に見ていろ!僕の、僕の怒りが成長を早める!!うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


怒りのスーパーモードに入ったトランは何故だか広瀬匠氏演じる美形悪役へと完全体進化を遂げました。
まず怒った理由が「子供だからばかにされた」というのも、そして成熟期を飛ばして一気に完全体に進化したのも凄いですが、改めて見ると凄い進化です。
どうしてぽっちゃりだったガキがこんな美青年になるのかという話ですが、まあ正直トランはイマイチ影が薄かったですからね。
子供幹部だと迫力がありませんし、どうしてもそこは大人にした方が良かったのかもしれませんが、でもここからトランは一気に存在感を発揮します。


単なる箸休めの回ではありますが、中身は意外にも充実していて、プライベートシーンもアクションシーンもドラマシーンも盛り沢山でした。
幕の内弁当のようにぎっしりと詰まっており、総合評価はA(名作)

 

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スーパー戦隊シリーズのチームカラー〜00年代戦隊編〜

スーパー戦隊シリーズのチームカラー分類、基礎的なルールを説明しますが、考えのベースにあるのはこちらです。

 

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以前紹介したえの氏という方がお作りになった「戦隊史学基礎」の「公的動機」と「私的動機」を大元の軸として用いています。
その上で更にプラスαで「力と技」を用いますが、これは要するにビジネスの自己分析で使われる「Want」「Must」「Can」のベン図です。

 

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Want・Can・Mustのベン図


「Want」は「自分がしたいこと」、「Must」は「社会から求められること」、そして「Can」は「自分ができること」を意味します。
この3つの円が綺麗に重なれば重なるほどいいビジネスパーソンであることの証明になりますが、これをスーパー戦隊シリーズのチームカラーに応用するのです。

 

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スーパー戦隊のWant・Must・Can


スーパー戦隊シリーズにおける「Want」は「私的動機」、「Must」は「公的動機」、そして「Can」は「力と技」になります。
評価基準はWantとMustを合計10とし、その割合の大小によって「組織の規律」が重んじられるのか「個人の意思」が重んじられるのかが決まるという形です。
そしてもう1つの要素であるCanを5点満点のうち0.5〜5で評価し、数字が低いほどアマチュア、そして数字が高いほどプロフェッショナルの戦隊となります。
この形式によって分類していき、歴代戦隊シリーズがどのような位置付けにあるのかをはっきりと数値で可視化、いわゆる「見える化」しようという試みです。


勿論完璧なものではなく、あくまでも「試み」かつ、数字は完全に私見なので、「ここはこうではないか?」「こうするともっと正確さが増す」という意見もあるでしょう。
そこはみなさんでお考えの上、更に論を深めるなりなんなりして頂ければなと…あくまでも「戦隊史学基礎」の更なる発展版として出してみようというものです。
今回は第三弾ということで00年代戦隊、すなわち「ガオレンジャー」〜「ゴセイジャー」までです。第一弾と第二弾はこちら。

 

gingablack.hatenablog.com

gingablack.hatenablog.com


それでは参ります。

 


<分布図の傾向>

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00年代戦隊の分布図


タイムレンジャー」までを経て、スーパー戦隊シリーズもいよいよ「偉大なるマンネリ」という領域に入り始めるが、その原点は間違いなく「ガオレンジャー」にある。
玩具売上を回復させるために徹底的に商業主義に阿るようになったスーパー戦隊シリーズは「タイムレンジャー」までで持っていたシリアスなドラマやストーリー性をお隣の平成仮面ライダーに譲った。
ヒーロー像の変化もそんなに大きいものではなく、少なくとも「ジェットマン」「タイムレンジャー」のようなシリーズ全体に再考を迫るほど迫力のあるドラマはゼロではないが少なくなる。
それはこの時代から始まる大量の玩具販促とそれに伴うパワーアップ合戦が始まったことと無関係ではなく、ここからスーパー戦隊シリーズは玩具販促に物語が圧迫されるようになった。


そういう事情のためか、プロフェッショナルよりもアマチュアの戦隊が多くなっていったし、戦いの動機としっかり向き合って描く戦隊も減少傾向にある。
いわゆる直情径行型の熱血レッド、俗称「バカレッド」と呼ばれるレッドが主流だったこともまたこの流れに拍車をかけるものだったと言ってもいい。
だが、そんな中で「ボウケンジャー」「シンケンジャー」のような尖った異色作が出たことはシリーズにとってある種の救いだったのではないだろうか。
新しいテーマに挑むことも許されず、かと言って既存のテーマと真正面から向き合うでもない、なんともとりとめのないチームカラーのヒーローが続いた10年である。


(25)百獣戦隊ガオレンジャー

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ガオレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
この戦いはあくまでもパワーアニマルとオルグの戦いであり、走たち人間はあくまでそれに参加を許してもらっているだけで、彼らがその戦いを自主的に挑もうが百獣たちにとってはどうでもいいことだ。
走が獣医、岳が自衛隊パイロットといったガオレンジャーになる前の過去は一切関係なく、あくまでも百獣召喚のための駒に過ぎないのだから、実質「ジャッカー」「サンバルカン」「オーレンジャー」と大差はない。
大きな違いはそれがアマチュア型のファンタジー戦隊になっただけであり、走たちはこの戦いがどういうものなのかを認識することはなかったし、実際そんなものがなくても勝ててしまう。
その証拠としてQuest31が挙げられ、あレッドとシルバー以外の4人は無策でウラ究極体に突っ込んで殺されたが、それでもガオゴッドは4人を見殺しにした…理由はガオファルコンを4人に復活させるためだ。
走たちガオレンジャーは自分たちの意思で世界の運命を変えられるだけのCanがなく、最終的に百獣たちさえいれば戦うことができることまでQuest40で証明されてしまった。
そんなWant0の自主性なき戦いの結末は最終回の百獣たちによる「THE 数の暴力」であり、大自然の前に人間の力などちっぽけであると証明してしまったのが本作の身も蓋もないチームカラーである。


(26)忍風戦隊ハリケンジャー

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ハリケンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
鷹介たちハリケンジャーは忍者学校の落ちこぼれとして生き残ったという設定だったが、ぶっちゃけそんなハードな設定が物語全体に影響したかというとそういうわけでもない。
普段はそれぞれに福祉介護のバイトやアイドル活動じみたことをしており、何ならハリケンジャーとしての活動よりも副業としてやっていることの方を優先している節があった。
物語序盤で彼らより圧倒的に強いはずのゴウライジャーに大敗を喫してもさほど悔しがる様子もなかったし、シュリケンジャーと一緒に戦うようになっても大きなチームカラーの変化があったわけじゃない。
終盤に入ると、鷹介たちは御前様の登場やジャカンジャの激化によって多少緊張感が走るが、それでも御前様を必死に守ったシュリケンジャーの死を見るまで自分たちが伝説の後継者という認識はなかった。
最終回でようやく彼らは自分たちが伝説の後継者だと口にするが、それでも最後まで精神的にも肉体的にもゴウライジャーとシュリケンジャーを超えられなかったのは事実である。
無事に忍者学校を卒業したはいいものの、それは伝説の戦士としての集大成ではなくあくまでも学校行事を順当にこなし卒業試験をただこなしただけに過ぎないのだ。


(27)爆竜戦隊アバレンジャー

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アバレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
アナザーアースからやってきた爆竜たちが選んだダイノガッツの持ち主という設定は「ガオレンジャー」のガオソウルと似ているが、大きく違うのはあくまで凌駕たちのWantで戦う決意をしたことである。
第2話で幸人は億単位の巨額という報酬を前提に断ろうとしたし、凌駕もらんるも個人的決意で戦おうと思ったに過ぎず、戦隊名に至っては一般人のえみポンが命名したものだった。
唯一の正規戦士にして司令官も兼任しているアバレブラックことアスカも圧倒的な力を持ちながら、組織の規律を振りかざしてまとめることもできず、結果として個人の力に依存として戦うことになる。
そしてその流れは終盤まで敵側であるエヴォリアンに回ったアバレキラーとそれに対抗するために登場したアバレマックスで決定的なものとなった。
終盤で仲代先生が味方として戦って自決したのは責任を取ったわけでも何でもなく単なる自己満足に過ぎないし、また凌駕たちもそんな彼の決意を止めることはできない。
表向き綺麗なチームとしてまとまっているように見える彼らだが、その実態は個人事業主の集まりでしかなく、爆竜が相棒というのも物語上でまともに機能していなかった。


(28)特捜戦隊デカレンジャー

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デカレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
宇宙警察という設定にしてはジャッジメントというとんでもないシステムを用いて犯罪者を始末しており、とても警察が持ちえないレベルのCanを持っていることがうかがえる。
それもそのはず、彼らはあくまで死刑執行を宇宙最高裁の権威を借りて行っているに過ぎず、やっていることはあくまでも「犯罪捜査」ではなく「宇宙戦争」ではないだろうか。
当然ながらそれだけ規律も厳しく、例えばウメコみたいに風呂に入っていたら怒られるし、非番の日でもアリエナイザーが事件を起こしたら休みを返上して駆けつけなければならない。
そしてそんな彼らがどうにもならない時にはデカマスターことドギー・クルーガーデカブレイクことテツが頼りだったが、そんな彼らもバンの品のないバカっぷりに染まってしまう。
結果として出来上がったのは「朱に交われば赤くなる」という諺が似合う、真のプロフェッショナルとは程遠いチームであり、それが作品全体にもブレを生んでしまった。
彼らが真の宇宙警察チームとしてまとまるのは最終回だけであり、このイメージと実態のギャップが良くも悪くも本作のチームカラーとなっている。


(29)魔法戦隊マジレンジャー

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マジレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
本作はあくまでも天空聖者マジトピアとインフェルシアとの戦いに小津一家が参加させてもらっているに過ぎないのだが、全くの無関係というわけでもない。
母親の深雪は来たるべき時が来たら息子たちをマジレンジャーにするつもりだったし、父親に至っては既に敵側にいたのだから、戦いは避けられない運命だった。
かといって、そんな事情を知らない魁たちがいきなり戦えるわけもなく、前半だけを見ればMustよりもWantの方が強かったが、それには2つの理由がある。
1つはインフェルシアがそこまで強い敵ではなかったこと、そしてもう1つには未熟な彼らをしっかり成長させてくれる指導者がいなかったことだ。
中盤以降どんどん敵側の脅威が増し、ヒカル先生などの天空聖者が小津兄妹のメンターとしてやって来てから、戦いはMustの方が強くなってくる。
そしてヒカル先生もまた麗との恋や魁、翼との中で人情味を知っていきWantが強くなり、最終的には横並びの関係性になり、だからこそ最終回の家族全員での名乗りが集大成として映えるのだ。


(30)轟轟戦隊ボウケンジャー

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ボウケンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
お仕事戦隊としての日常を1年間描いているという構造は「デカレンジャー」のそれと一緒だが、大きな違いはボウケンジャーの5人が民間企業所属だということである。
サージェスという企業の胡散臭さやブラック体質は歴代屈指なのだが、そんな会社の方針に文句を述べつつも冒険を続けるのは彼ら自身の中にある「プレシャス」があったからに過ぎない。
だから任務のためなら文化遺跡の破壊も辞さないし、正義の味方を標榜しているわけでもないから、1人1人の行動の責任は自分で負うしかなく、誰かが尻拭いをすることもないのだ。
その象徴が冒険バカのチーフこと明石暁であり、真墨たち4人は何度も彼の独断専行に置いてけぼりを食らっているが、そんな彼を殴って止めることが無駄だと後半に入ると悟っている。
終盤で真墨が闇堕ちして離脱するのも、そして戻って来たのも彼の自己責任だし、「冒険したい奴はここに来い!」と言った時に残りの4人が集まったのも各自の決断だった。
だから最終回でチーフとさくらが宇宙へ行ったとしても、さくらが宇宙に行ったことに驚きこそすれ寂しがるものなどおらず、サージェスで好きな冒険を続けるのみである。


(31)獣拳戦隊ゲキレンジャー

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ゲキレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
マスクマン、ダイレンジャーと続く3度目の拳法戦隊であるが、「一対一」に重きを置いているようだが、全体を通してみるとMustの方が強いのが特徴的だ。
序盤だけを見ればWant7Must3位だが、ジャンが徐々に人間社会の常識を覚えていくにしたがって、組織全体のチームワーク重視で戦うようになる。
そしてそれが1つのターニングポイントを中盤で迎え、過激気習得の際にジャンは理央を前にして「俺はみんなを守る」ということを宣言した。
この「みんな」が誰を指すのか、すなわち誰が含まれていて誰が含まれていないのかはわからないが、とにかくこれ以降のジャンは徐々に協調性を身につけて行く。
逆に敵側の理央はジャンとの因縁に固執するようになり、またメレもそんな理央に報われない献身的な愛を差し向け、それが終盤の拳断という展開に繋がった。
最終的に理央たちの力を借りたお陰でジャンたちはロンを封印することができたのだが、決して自分たちの力で成し遂げたわけではなくCanの部分はダイレンジャーと同じくらい低めであろう。


(32)炎神戦隊ゴーオンジャー

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ゴーオンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
車モチーフ+ギャグベースの戦隊ということでカーレンジャーと一見似た雰囲気が醸成されているが、その実態はあくまで炎神と蛮機族ガイアークの争いに参加させてもらっているヒューマンたちに過ぎない。
要はアメリカと中国の戦争が日本で行われているようなものであり、一度炎神戦隊のメンバーになったからには敬意はどうあれ自主的な判断で動くことは許されず、組織の規律が優先されることになる。
実際に範人が抜けようとした時に走輔が厳しくとがめ、蓮が説得して踏みとどまらせたのだが、もしあそこで女の子との楽しい日々に現を抜かしたまま範人が戻ってこなかったらどうするつもりだったのだろうか?
そして、そんな彼らの組織としての弱点はリーダーにしてメンバーの精神的支柱となっている走輔を失うことにあり、中盤で一度走輔がヨゴシタインの罠でブロンズ化した時、他のメンバーは狼狽えてしまった。
べアールに至ってはこの時「人間と炎神が手を組むなんて無理だった」などととんでもないことを言い出し、炎神は炎神であくまで走輔たちを戦いの駒としてしか奥底では思っていないことがよくわかる。
そんな温度差がありながらなぜ最後までお気楽なおバカチームの雰囲気を引きずったまま戦えたのかというと、ガイアークが歴代でもそこまで強くないおバカな敵組織だったからだ。
最終回、彼らはまたもや私生活を捨てて炎神たちとの戦いに出かけていったが、私生活を捨ててでもそんな選択をあっさりしてしまうところが良くも悪くも正義バカの彼ららしい特徴であろうか。


(33)侍戦隊シンケンジャー

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シンケンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
シンケンジャーとしての戦いはあくまで家系の宿命として決められており、そこに個人の意思が介在する余地はなく、流ノ介たちもそれぞれの私生活を捨ててシンケンジャーとして戦うことになる。
第二幕で流ノ介たちは志葉家当主である丈瑠の非情な態度に反発して自分たちだけで戦おうとするが、それは家臣=殿の手足となって戦うことの本質から外れることを意味し、無駄な足掻きに終わった。
後半になると、丈瑠との約束という私的動機で動いていた幼馴染の源太が現れたことで一見自主性を尊ぶようになったとも見えるが、その源太ですら丈瑠が許可しなければ戦列に加わることはできない。
要するに本作のチームカラーは「ジャッカー」「サンバルカン」「オーレンジャー」と大して変わらず、レッドである丈瑠が司令官の役割を兼任しているだけの話だから、個人の意思など戦いには何の影響もないのだ。
よく話題にされる終盤の丈瑠が影武者だったという展開だが、この「司令官が実は…」という設定は「ダイナマン」を含め、過去いくつかの戦隊で見られたものの焼き直しであり大した驚きはない。
それよりも、志葉家当主だと本気で家臣たちが思い込んでいた丈瑠が実はただの傀儡でしかなかったことであり、敵側ではなく味方側が内輪揉めというのも前代未聞である。
最後のドウコクとの決戦、丈瑠たちはまるで自分たちの意思でこの戦いを選んで勝利したように見えるが、穿った見方をするなら薫姫がそうしろと言ったからそれに従っただけと言えなくもない。
主題歌にある「立ちはだかる黒い闇」とは果たして外道衆のことなのか、それとも丈瑠たちを組織の駒として雁字搦めにしてしまう志葉家のシステムなのか、その結論が最後まで出ることはなかった。


(34)天装戦隊ゴセイジャー

 

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ゴセイジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
種族だと思われていた護星天使が実は職業であったことが判明し、また彼らが研修で地球にやって来た見習いであるということが終盤で明らかになっている。
ということは、彼らは自分たちの意思で地球に降りてきて地球を守っているのではなく、上にいるお偉方から「お前らが地球を守れ」と言われたからそうしているということだろう。
「星を護るは天使の使命!」「悪しき魂に天罰を下す!」も実に見下したような物言いだが、天使など元々そんなものだし会社から社訓として仕込まれ教育されていると考えれば筋は通る。
だが彼らは所詮見習いでしかないために自分たちの戦いが正しいのかどうか、そしてどうすれば最適解を導き出せるのかといった判断力、バックボーンを持っているわけではない。
だからシステム化された奇跡に依存することになってしまうのだし、10サイのロボゴーグという本地球人が相手でも話し合いが通用しないと見るや否や何の葛藤もなく殺そうとした。
彼らがブラジラに勝てた理由もそれと同じで、望少年をはじめとする地球人との交流でも、そして心の強さでも何でもなく、ただ機械的に奇跡を起こしただけであり、アラタの叫びも所詮綺麗事の領域を抜け出ない。
ある意味で悍ましいほど歪な存在だが、前作のシンケンジャーといい、敢えて規律に縛られたヒーローの歪みを描くことで軍人戦隊が抱えていた闇を2作連続で明らかにしたのではないだろうか。

スーパー戦隊シリーズのチームカラー〜90年代戦隊編〜

スーパー戦隊シリーズのチームカラー分類、基礎的なルールを説明しますが、考えのベースにあるのはこちらです。

 

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以前紹介したえの氏という方がお作りになった「戦隊史学基礎」の「公的動機」と「私的動機」を大元の軸として用いています。
その上で更にプラスαで「力と技」を用いますが、これは要するにビジネスの自己分析で使われる「Want」「Must」「Can」のベン図です。

 

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Want・Can・Mustのベン図


「Want」は「自分がしたいこと」、「Must」は「社会から求められること」、そして「Can」は「自分ができること」を意味します。
この3つの円が綺麗に重なれば重なるほどいいビジネスパーソンであることの証明になりますが、これをスーパー戦隊シリーズのチームカラーに応用するのです。

 

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スーパー戦隊のWant・Must・Can


スーパー戦隊シリーズにおける「Want」は「私的動機」、「Must」は「公的動機」、そして「Can」は「力と技」になります。
評価基準はWantとMustを合計10とし、その割合の大小によって「組織の規律」が重んじられるのか「個人の意思」が重んじられるのかが決まるという形です。
そしてもう1つの要素であるCanを5点満点のうち0.5〜5で評価し、数字が低いほどアマチュア、そして数字が高いほどプロフェッショナルの戦隊となります。
この形式によって分類していき、歴代戦隊シリーズがどのような位置付けにあるのかをはっきりと数値で可視化、いわゆる「見える化」しようという試みです。


勿論完璧なものではなく、あくまでも「試み」かつ、数字は完全に私見なので、「ここはこうではないか?」「こうするともっと正確さが増す」という意見もあるでしょう。
そこはみなさんでお考えの上、更に論を深めるなりなんなりして頂ければなと…あくまでも「戦隊史学基礎」の更なる発展版として出してみようというものです。
今回は第二弾ということで90年代戦隊、すなわち「ジェットマン」〜「タイムレンジャー」までです。第一弾はこちら。

 

gingablack.hatenablog.com


それでは参ります。

 


<分布図の傾向>

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90年代戦隊の分布図


鳥人戦隊ジェットマン」を分岐点として、ここからはプロフェッショナルよりもアマチュア型の戦隊が増えてくるが、これは冷戦終結した平成初期の世相が反映されている。
冷戦が終結して世界的危機は去ったかのように思われるが、事実はそうではなく海外では紛争や内戦、テロリズムといった規模の小さな戦いが繰り広げられるようになった。
また、日本でも1995年にはオウム真理教が台頭したり阪神・淡路大震災が起こったり、バブルが弾けた反動で解雇されるものが増えたりとより複雑化したものになる。
悪の形も遠くからやってくる巨大な悪ではなく、身近なところから突然に立ち現れ、その悪の本質もまた目に見えない精神的なものへと抽象化され始めた。


このような時代においてはかつての国家戦争方式の戦い方も、そして学生運動のような「全共闘」といった戦い方も全く通用しないものとなってくる。
その証拠に70・80年代的なヒーロー像を持っている杉村升氏のジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」までの戦い方は最終的に挫折して終わることが多くなった。
そして、井上敏樹氏の「ジェットマン浦沢義雄氏の「カーレンジャー」、武上純希氏の「メガレンジャー」「ゴーゴーファイブ」、そして小林靖子氏の「ギンガマン」「タイムレンジャー」に分類される。
これら7作品はいずれもが「ヒーローはなぜ戦うのか?」を一から再定義し、現代に即した平成戦隊のニュースタンダード像を作ろうという試みがなされていった。
当然「自己犠牲」「復讐」という旧来のヒーローの戦い方も通用しなくなるが、戦隊シリーズの激動期ということもあり、実に多種多様なチームが誕生している。


(15)鳥人戦隊ジェットマン

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ジェットマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
歴代戦隊の中でエポックメイキングと評される本作だが、正規メンバーが天堂竜と小田切綾のみ、その他4人はズブの素人という設定は「機動戦士ガンダム」のホワイトベース隊を彷彿させる。
本作におけるMustが竜と小田切長官、そしてWantが他の4人なのだが、実は肝心要の竜こそが「リエの喪失」から生じた復讐鬼という設定で始まっているのが実に興味深い。
序盤ではその弱点を覆い隠そうとMustを押し付ける竜だが、戦い続けていくうちに化けの皮が剝がれてしまい、31話ではとうとう脆さを露呈させ、精神的に壊れてしまう。
一方で元々素人だった凱、またメンバーで一番弱く足を引っ張っていた香は後半〜終盤に連れてどんどん強くなっていき、ヒーロー性を獲得するようになった。
そんな彼らの結末は最終回手前の「それぞれの死闘」ではっきりと出るのだが、竜は結局リエを失い復讐鬼に陥り一線を超えてしまうが、仲間たちによって止められる。
MustのためにWantを犠牲にするでも、そしてWantのためにMustを犠牲にするでもなく、その両方のバランスを取ることが大事だというのが本作が出した答えだ。
本作において初めてヒーローが自己犠牲と復讐への懐疑を出したが、完璧に否定するには至らず、WantもMustも完璧に満たせる戦隊は7年後に実現することになった。


(16)恐竜戦隊ジュウレンジャー

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ジュウレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
ファンタジー戦隊第一弾ということもあり、表向きは非常にコミカルで楽しそうな雰囲気を醸成しているが、チームの特徴は「大獣神とその手駒たち」である。
ゲキたちは確かに選ばれた伝説の戦士だが、眠っている間に伝説の内容を忘れていたり、平和ボケしていたりするし、また伝説の戦士なのに自らアルバイトすらしていた。
5人中戦士としてプロに徹しているのが精々ゲキとブライくらいしか居ないのはチームとして相当に不味く、しかもそのゲキとブライがこれまた大問題だったのだ。
ブライは実は既に死んでおり、30時間という時間限定で現代に復活するが、なぜそんなことをしたのかというと、究極大獣神復活のために必要だからである。
つまり、究極大獣神復活のためにはブライがドラゴンシーザーとキングブラキオンを復活させる必要があり、それさえ済めばブライは大獣神にとってお払い箱となった。
だから終盤でブライが死のうがゲキたちはともかく大獣神がその死を悼むことはなかったし、魔女バンドーラたちの封印にしても最終的に大獣神の力によるものである。
世界に平和をもたらしたものの、結局またもや自己犠牲と上意下達方式の戦い方に戻ってしまい、これが「オーレンジャー」まで続いていく。


(17)五星戦隊ダイレンジャー

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ダイレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
気力と拳法の素質がある今時の若者を集めるのは「マスクマン」と同じ方式だが、大きく違うのは亮たちが結局導師の傀儡であることを抜けきれなかったことだ。
亮が陣というライバルに出会った時の「お前は天性の素質と気力によって戦ってきた。本格的な拳の修行を積んだわけではない」という導師の言葉が本作のチームカラーを如実に表している。
一対一の戦いが目立つダイレンジャーだが、終盤で導師がダイレンジャー解散した時にすっかり導師に依存して何をすればいいか方策が見つからない5人の右往左往する滑稽な姿が彼らの実態だ。
そこで亮たちは「なぜ自分たちは戦うのか?」という問いを突きつけられたわけだが、元々戦士としての強固なバックボーンもない素人の5人がそんな答えを自分たちで出せるわけもない。
しかもオーラチェンジャーが手元に戻ってきたことすら完全なる奇跡であり、しかも最終的に導師の亡霊が「戦いを止めろ」と言って中断し、戦いは孫たちに受け継がれることになる。
ゴーマ十五世が「このワシが操り人形!?」と言っていたが、亮たち5人も結局導師の操り人形であり、結局ダイレンジャーの5人は自分たちで世界の運命を変えることはできず惨敗したのだ。


(18)忍者戦隊カクレンジャー

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カクレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
ややMustは下がるものの、基本的に本作のチームカラーも「ダイレンジャー」のそれに近いものであるが、大きな違いは前半の彼らがあまりにものんべんだらりとしていたことだろうか。
しかしそれもあくまで妖怪軍団が大したことない敵だったからに過ぎず、酒呑童子兄弟の前後編を皮切りに妖怪軍団が脅威を増すに連れて、サスケたちも単なるお気楽な連中でいられなくなる。
そして海坊主に無敵将軍が無様に負けた時、カクレンジャーは改めて忍びの巻の試練という形で成長ドラマが描かれるが、かといって前半のお気楽な雰囲気が完全になくなったわけでもない。
あくまで普段はクレープ屋を営んでいる呑気な若者であり、いくら忍者の使命を授かっているといえど、幼少の頃から鍛え上げてきたわけでもない彼らが自分たちで決断を下せるわけがないのだ。
最終的に妖怪大魔王が人間の負の感情の塊であり倒すことができないから封印しろというのだが、サスケたちは自分たちで考えてその答えにたどり着いたように見えて、実はそれこそが三神将の思惑通りである。
結局のところ、サスケたちも神様の言いなりの領域を抜け出ることはなかったのだが、猫丸で旅を続けたのが数少ない彼らの自由意志といえば自由意志であったのかもしれない。


(19)超力戦隊オーレンジャー

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オーレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
サンバルカン」以来となるMust10、Want0で戦う軍人戦隊であるが、これが70・80年代ならともかく90年代というポスト冷戦後の世相で通用するチームカラーではない。
彼らには超力という古代の超パワーと軍事の力というチェンジマンと似たような構造を持ちながら、初戦は三浦参謀長の傀儡の領域を抜け出ることなどなかったのだ。
この時代遅れの上意下達方式の問題は終盤で地球を半年間も支配された時に露呈し、彼らは逆転の方策が見つからないまま右顧左眄(うこさべん)して遠回りすることになる。
結果として、彼らはドリンの忠告通りに超力を信じて復活したのだが、問題は最終回でマルチーワとカイザーブルドントが遺した赤ん坊の命を助けてくれと言われた時に露呈した。
彼らはここで初めてバラノイアにも愛があったことに気づくが、これに対して最適解を出す判断力などまるでなく、所詮マニュアルにない想定外の事態への対応力が弱いのだ。
チェンジマン」「ジェットマン」であれだけ自主的な判断を下せるヒーローを描いた後にこれだから、結果としてテーマ的に大きく後退してしまったのである。
それは同時にもう70・80年代の旧来ヒーローの価値観がこの90年代においては何の意味も成さないことをも意味していたのであった。


(20)激走戦隊カーレンジャー

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カーレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
前作までとは大きく違い、非常に現代的なポスト冷戦の世界観となったのが本作のカーレンジャーであり、前作の逆を行くように強さが大きくデフレされている。
本作においては「ヒーロー」がMust、「一般人」がWantであることが第一話で示されており、恭介たちが会社の給料を盾にヒーローの使命を断ろうとするシーンはその表れだ。
RVマシンに乗れるようになった時彼らは嘘のようにボーゾックとの戦いにワクワクしていたたが、これは彼らの夢がRVロボという形で擬似的に実現したからにすぎない。
その後、規律の象徴であるシグナルマンが現れ、22話で市太郎君が拐われた段階でWantのみのボーゾック、Mustのみのシグナルマン、そしてその中間のカーレンジャーと色分けされる。
そんな彼らの真面目に不真面目な戦いも終盤で黒幕・エグゾスが現れたことで激化しそうになり、終盤では一度彼らの基地が職場ごと破壊され変身不能になり、無力な存在だと突きつけられた。
しかし「心はカーレンジャー」という言葉で一般人とヒーローが一体化を果たし、主体性をかけてクルマジックパワーを取り戻したカーレンジャーは最終回限定でクルマジックパワーをフルに引き出すことに成功する。
まさに「夢を追い越した時 僕らは光になるのさ」という言葉通り、夢というWantを追い越して「宇宙の平和を守る」というMustに目覚めた時、彼らは真のヒーローとなったのだ。


(21)電磁戦隊メガレンジャー

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メガレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
本作は歴代最後の「自己犠牲」を行った戦隊であり、序盤は100万倍の好奇心で始まったはずの戦いが後半のネジレンジャー登場から一気にその様相を大きく変えることになる。
耕一郎と千里がネジレジアとの戦いのために大学受験というWantを諦めざるを得なかったし、正体がバレて世間に忌み嫌われ迫害された彼らは私生活を根こそぎ失ってしまう。
かといって、自主的な判断を下して戦えるほどの強固なバックボーンや判断力、ヒーロー論などを持っていない彼らは復讐と自己犠牲にひた走るドクターヒネラーの言い分に反論できない。
「お前たちは幸せか?」と聞かれて健太たちが何も言い返せず詰まってしまったのだが、これもつまるところ彼らのCanが前作と並んで歴代最低クラスだったからである。
改めてヒーローにとって大切なものは何か?一般人はどうすればヒーローになれるのか?そんなことを1年かけて問うたのが本作の特徴だったのではないだろうか?
ここまで徹底して「弱さ」と向き合った本作があればこそ、次作の戦隊が平成戦隊のニュースタンダード像となったのである。


(22)星獣戦隊ギンガマン

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ギンガマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
ジェットマンが示した変革から7年の試行錯誤を経た本作は「チェンジマン」以来となるWant、Must、そしてCanのバランスが非常に整った理想のプロフェッショナル戦隊である。
物語開始時点でリョウマたちはすでに4〜4.5のCanを持っており、何だったらギンガレッド・リョウマに至っては兄ヒュウガを地の底に沈めたゼイハブすら圧倒する力を示した。
力も技も卓越しており、幼少の頃から徹底した訓練を積み重ねてきた銀河戦士たちの3,000年もの間バルバンの襲来に備えて臨戦態勢で準備していたという設定は伊達ではない。
だが、そんな彼らが最も大事にしているのは個人の意志=Wantであり、本作では第四章のヒカルがそうであるように「力と心」の向き合い方を歴代でも徹底している。
どんなに力の強いものでもその力の使い方を間違え闇に呑まれてしまったら破滅の道を辿るしかなく、同じ星の力を使って戦っていたバルバンはまさにそういう存在だった。
そしてまた、Wan0Must10のヒュウガも、そしてWant10Must0のブルブラックもアプローチは違えど、何もかもを犠牲にして戦っているという点では変わらない。
そんな彼らがWantもMustも犠牲にせずに戦うことができるのかを問い、その答えをリョウマが最終章で示してみせたのであり、本作を持ってようやくWantとMustの双方満たす理想のヒーローが完成した。


(23)救急戦隊ゴーゴーファイブ

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ゴーゴーファイブのWant・Must・Can


(チームの特徴)
ギンガマンとは対照的にMust優先で動く本作はファイブマン以来の兄妹戦隊となるが、大きな違いは戦いのために全てを投げ打つ自己犠牲や復讐といった精神がないことである。
彼らの中にあるのは「人の命は地球の未来」であり、またそれが巽家の血筋でもあったから、純粋に人を救いたいという使命感のもとに戦うことができた。
それでは彼らの命は大事にしないのかというとそうではなく、34話がそうであるように、彼らは自分たちの命を救うこともまた大切にするようになる。
そんな彼らも災魔一族との過酷な戦いの中で何度も折れそうになる瞬間があるが、それでも戦い続けることができたのはモンド博士の科学力とマトイの強固なリーダーシップがあってこそだ。
最終回、ベイエリア55が沈み、ビクトリーマーズもグランドライナーも破壊されて打つ手なしだった彼らを救ったのはマックスビクトリーロボのブラックバージョンである。
星の力を科学的に取り込んだ彼らはグランドクロスからの世界の破滅という運命を大きく変えるに至り、また失われた家族の絆も復活して個人の幸福も満たされた。
二作連続で理想的なヒーローを描いたスーパー戦隊シリーズはいよいよ次作で、80年代戦隊が唯一残した課題と格闘することになる。


(24)未来戦隊タイムレンジャー

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タイムレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
前作「ゴーゴーファイブ」とは対照的に、本作はWant10Must0の完全な「個人事業主の集まり」として描かれており、歴代でも全員で協力して何かを成そうという雰囲気が薄い。
第2話で竜也が「未来は変えられなくたって、自分たちの明日くらい変えようぜ」と言ってみせたように、彼らがタイムレンジャーとして戦うのはあくまで「明日を変えるため」である。
だから守っているものも遥かに小さいし、組織の規律や約束事があるわけでもないから、お互いのことには基本的に不干渉でプライベートはしっかりと守られていた。
そして面白いのはそんな5人の絆が強まると同時に終盤ではかえって「仲間」という空気が失われることになり、またリュウヤ隊長の登場と同時に何が正しい歴史で何が間違いの歴史かすらわからなくなる。
最終的に竜也たちの各自の判断と行動が歴史を変えるというパラダイムシフトが起きるのだが、かといってその5人が変えた明日の延長にある未来が本当にいい時代なのかは誰にもわからない。
本来なら食い止める必要がない大消滅を4人の未来人がわざわざ止めに来たのは単に各自がやり残したことがあったからであり、決して組織の規律で強制されたものではないのだ。
本作は80年代の曽田戦隊、そして90年代の杉村戦隊が失敗に終わった「自発的な闘争」を小林靖子の視点から俯瞰して再構築したものであり、だからこそ歴代でもWantが極度に高いのである。

スーパー戦隊シリーズのチームカラー〜70・80年代戦隊編〜

さて、前回の記事でも書いた通り、今回から数回にわけてスーパー戦隊シリーズのチームカラーを1つずつ分類していきます。
本格的に入る前に基礎的なルールを説明しますが、考えのベースにあるのはこちらです。

 

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以前紹介したえの氏という方がお作りになった「戦隊史学基礎」の「公的動機」と「私的動機」を大元の軸として用いています。
その上で更にプラスαで「力と技」を用いますが、これは要するにビジネスの自己分析で使われる「Want」「Must」「Can」のベン図です。

 

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Want・Can・Mustのベン図


「Want」は「自分がしたいこと」、「Must」は「社会から求められること」、そして「Can」は「自分ができること」を意味します。
この3つの円が綺麗に重なれば重なるほどいいビジネスパーソンであることの証明になりますが、これをスーパー戦隊シリーズのチームカラーに応用するのです。

 

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スーパー戦隊シリーズのWant・Must・Can


スーパー戦隊シリーズにおける「Want」は「私的動機」、「Must」は「公的動機」、そして「Can」は「力と技」になります。
評価基準はWantとMustを合計10とし、その割合の大小によって「組織の規律」が重んじられるのか「個人の意思」が重んじられるのかが決まるという形です。
そしてもう1つの要素であるCanを5点満点のうち0.5〜5で評価し、数字が低いほどアマチュア、そして数字が高いほどプロフェッショナルの戦隊となります。
この形式によって分類していき、歴代戦隊シリーズがどのような位置付けにあるのかをはっきりと数値で可視化、いわゆる「見える化」しようという試みです。


勿論完璧なものではなく、あくまでも「試み」かつ、数字は完全に私見なので、「ここはこうではないか?」「こうするともっと正確さが増す」という意見もあるでしょう。
そこはみなさんでお考えの上、更に論を深めるなりなんなりして頂ければなと…あくまでも「戦隊史学基礎」の更なる発展版として出してみようというものです。
今回は第一弾ということで70・80年代戦隊、すなわち「ゴレンジャー」〜「ファイブマン」までです。
ファイブマン」は正確には90年代なのですが、分類としてはやはり「80年代戦隊」として扱うのが妥当でしょう。
それでは参ります。

 


<分布図の傾向>

 

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70・80年代戦隊の分布図


全体的にこの時代の戦隊は組織の規律を重視する戦隊が多いのだが、その中で2つの時代区分に分かれている。
まず1つが「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」までと「ゴーグルV」〜「ファイブマン」までであり、メインライターの色がかなりチームカラーにも出ている。
前者のモデルは「冷戦」、すなわち「国家戦争」であり、上原正三氏が仮想敵として掲げているのは戦時中のアメリカ合衆国であり、チームカラーも軍隊や国際組織所属が多い。
一方で後者のモデルは学生運動、すなわち「全共闘」であり、これは曽田博久氏が学生運動の活動家であったことが多分に影響しているものと思われ、自発的に戦うケースが多うのだ。


その上で更に見ていくと、半分がプロフェッショナル、半分がアマチュアという分類になっており、これは意外に思われるが全ての昭和戦隊が「強い戦隊」というわけではない。
最初に「アマチュア」と設定した時点でできることには限度があるし、逆に「プロフェッショナル」と分類すればできることも増え、選択肢も多くなってくる。
立ち上がりの段階で素人が巻き込まれたとするか、それとも鍛え上げられた者たちが戦うのかでヒーロー性重視と人間性重視の作品に大きく分かれているのだ。
一言で「70・80年代戦隊」と言っても「強い戦隊」と「弱い戦隊」、そして「組織の規律」を重視する戦隊と「個人の意思」を重視する戦隊ではっきり別れるのが興味深い。


(1)秘密戦隊ゴレンジャー

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ゴレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
シリーズの原点ということもあり、やはり非常に洗練されたプロフェッショナルチームであることが伺えるが、これはゴレンジャーハリケーンと大岩の存在が大きいだろう。
ゴレンジャーストーム、そしてゴレンジャーハリケーンはどんどん進化していき、色々なものに形を変えるようになるが、最終回で彼らは「カシオペア」を使った。
この意味は非常に大きく、解釈は諸説あるが、より強大な黒十字総統を倒すためには個人の力も組織の力も遥かに超えた「星の力」が必要だったということではないだろうか。
最初は単なる上意下達の職務として始まった5人の関係性が後半でどんどん打ち解けていき、より濃いものになるに連れて、彼らの関係性はいわゆる「戦友」と呼べるものになる。
そうなった要因としてゴレンジャー予備軍上がりの熊野大五郎が入っていたことも大きく、彼には結局大岩大太の代わりは務まらず、大岩が帰ってきたことでより結束が強まった。
この大岩が一時的に離脱して戻ってきて絆を結び直したことにこそ、彼らがゴレンジャーハリケーンカシオペアを使って黒十字総統を倒せた要因があるのだろう。


(2)ジャッカー電撃隊

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ジャッカーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
国際組織という所属だが、彼らはあくまで「犯罪捜査」を生業としており、守っているものは前作「ゴレンジャー」と比べて遥かに小さい。
そんな彼らが大きな力を手にするに至った理由は2つあり、1つが「サイボーグヒーロー」という設定、そしてもう1つが後半に現れたビッグワンこと番場壮吉の存在だ。
後半で番場壮吉が現れたことで4人は一気に存在感をなくし集団ヒーローですらなくなったが、しかし元を辿れば彼らは最初の時点で人間であることを捨てたのである。
その時点でどうあがいても「組織の駒」にしかなりようがなく、だからどれだけ大きな力を使おうが大きな指導者が存在しなければ守れるものは大きくないのだ。
前半だけ見れば精々2程度しかなかったチーム全体の力を4にまで引き上げられたのは皮肉なことに個人レベルで世界を変える力を持ちうる番場の存在があってのものだということを忘れてはならない。
逆に言えば、番場に全てを委ねていたからこそ終盤で桜井とカレンがラブロマンスに現を抜かすことが可能だったのだとも言える。


(3)バトルフィーバーJ

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バトルフィーバーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
国際組織所属の設定だが、前半の段階を見ればWantとMustは逆であり、前半は本当にやる気のないいい加減なサラリーマンの描写が目立った。
だがそれは逆に言えばエゴスがそこまで大したことがない敵だったからに過ぎず、後半〜終盤に至って敵が強化されていくにしたがい事情は異なる。
彼らは中盤で一度自分たちの油断が原因で大敗を喫して鉄山将軍に雷を落とされ、更に後半ではミスアメリカの交代と初代バトルコサックの死亡を経験した。
この絶望的な経験、そしてサロメという女性幹部が強敵として立ちはだかったことにこそ、バトルフィーバーが最終的に前作に近いレベルのCanを手にしたと言える。
序盤のやる気がなく頼りない彼らと終盤でのチームとしてまとまった彼らを見ればその違いは一目瞭然であり、よくぞここまで成長できたものだ。


(4)電子戦隊デンジマン

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デンジマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
歴代戦隊初の私設組織という設定になっているようだが、その実態は所詮アイシーの統制がなければ動けない組織の駒であるが、1人だけ反乱分子がいた。
それがピンクこと桃井あきらであり、彼女だけは最終話まで見てもイマイチこの戦いにやる気というか存在意義を見出していなかったように思われる。
普通の戦隊ならそこからあきらの成長につなげても良さそうだが、彼女は劇中で何度もメンバーの足を引っ張り、時にはすけべじじいに狙われそうにもなった。
そしてそのことがメンバー全体の甘さにも繋がっており、物語の終盤でバンリキ魔王を倒す際に彼らはアイシーの意思を無視して出撃したが、結果的に失敗に終わる。
元が素人だったのだから十分な戦士としてのバックボーンがあるわけでもなく、彼らが最終的に勝てた理由は皮肉にもラスボスたるべきへドリアン女王が弱点を教えてくれたからだ。
つまりそれがなかったら彼らは自分たちの判断で世界の運命を変えられるほどの大きな力を持たなかったということではないだろうか。


(5)太陽戦隊サンバルカン

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サンバルカンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
シリーズ5作目にして究極のプロフェッショナルチームを作るに至り、ある意味で「戦隊」というもののイメージを最もよく体現した存在ではないだろうか。
Canが5という最大値に達している理由は他ならぬ嵐山長官の存在であり、本作の真の主人公にして真のヒーローは嵐山長官と言っても過言ではない。
3人は所詮その嵐山長官の手足となって戦う組織の都合のいい駒でしかなく、「ジャッカー」のビッグワンとその駒たちを軍人戦隊に置き換えただけだ。
実際ラスボスにトドメを刺したのも嵐山長官だし、物語中盤で起こったバルイーグルの交代も劇的なものではなく、単なる人事異動に過ぎない。
いわゆる「ナショナリズム」の極北と言える戦隊だが、そんなチームを年間見ていて面白いかと言われたら全くの別問題であろう。


(6)大戦隊ゴーグルファイブ

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ゴーグルVのWant・Must・Can


(チームの特徴)
前作「サンバルカン」と対を成すかのように、本作は完全に個人の力かつアマチュア戦隊であることが序盤ではっきりと明言されている。
その中でも象徴はゴーグルピンク・桃園ミキであり、本作は大袈裟に言えば彼女の成長譚として作られたと言っても過言ではない。
ここから戦隊の戦いが「自発的な闘争」、すなわち学生運動全共闘をモデルにしたものになり、しかも個人の力を重視したものになった。
歴代初の司令官不在の戦隊でメンバーは全員素人、正に前作「サンバルカン」とは逆のチームだが、だからこそ彼らが持てる力は決して大きくはない。
最終回、彼らは暗黒科学デスダークに打ち勝ったが、それは「科学の力を未来のために正しく使う」という世界の実現を意味するものではないのだ。
ミキたちは理想の世界をこれから作り上げていかなければならず、真の理想への第一歩を歩み始めたばかりなのである。


(7)科学戦隊ダイナマン

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ダイナマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
前作「ゴーグルV」が実現した「科学の力を未来のために正しく使う」というテーゼの先を行くのが本作のダイナマンである。
将来は世界を発展に導く科学者になりたいという未熟な若者たちの集まりが北斗たちであり、夢野博士もそんな彼らの将来性に期待していた。
しかし、物語終盤に入ると、実はその夢野博士こそが科学の力を間違った使い方をしてしまったとんでもない人であることが明らかになる。
ダイナマン5人の信頼関係にヒビが入り、しかしその上で彼らは夢野博士を信頼して戦う道を選んだのだが、一方でそれは彼ら自身の成長となったわけではない。
夢野博士について行くしか方法がないからその選択をしただけであり、だから彼らもまたジャシンカ帝国を倒すことが最終的なゴールにはならないのだ。
「敵組織を倒す」ことと「理想の世界を実現する」ことが必ずしもイコールで結ばれるものではないことを示したのがダイナマンというチームである。


(8)超電子バイオマン

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バイオマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
「超電子」という名前の通り、本作の世界観やストーリーの骨子は「デンジマン」のベースを受け継ぐものだが、そのデンジマンよりも素人なのがバイオマン5人である。
初代イエローフォー・小泉ミカが第一話のラストで戦士の使命を拒否するのも桃井あきらの流れを汲んでおり、より自発的な闘争という側面が強くなった。
だがそのイエローフォー・小泉ミカは序盤で死亡してしまい、2代目イエローフォー・矢吹ジュンが入るが、彼女も所詮はアマチュアの領域を抜け出ない。
物語が進むにつれ、史朗たちは実はドクターマンこそが間違った科学の使い方をしてしまった地球人であり、このとき初めて敵を「個人」と認識することになる。
だから彼らは最終的にドクターマンをその手にかけることができず、彼の機能停止という形でしかその結末を迎えることができない限界を露呈させてしまった。
結果としてデンジマンを超えるどころか、むしろ十分な力と技がなければ何も変えられないことを白日の元に晒したのが本作であろう。


(9)電撃戦隊チェンジマン

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チェンジマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
「ゴーグルV」からずっと続いてきた「自発的な闘争」に基づく理想のチームヒーローがいよいよ本作をもって実現した。
未曾有の敵の襲来を前にして「よーし!俺はやるぞ、伊吹長官!」「俺もだ!」「俺もだ!」「私も!」「私も!」と言い出すところがその表れだ。
彼らは軍人でありながら、同時に「個人」として戦うことを意味し、それが彼らの力の源である「科学力」と「アースフォース」という力の特徴とも繋がっている。
MustとWant、個人と組織、常に二者択一を迫られどちらかを犠牲にする彼らの戦い方は痛ましくもあるが、そんな彼らかだらこそ終盤で星間連合を結成するに至ったのだ。
和解ではなく呉越同舟という形で敵だったゴズマの元幹部が味方になる展開は歴代でも類を見ないが、一方でアハメスやギルーク、ブーバのように悪党として散っていったものもいる。
その元凶であるバズーを倒したことでいよいよ「戦いなき平和な世界」が実現したが、「ゴレンジャー」が積み残した「自己犠牲」の壁を彼らは超えることができなかった。
ヒーローは全てを投げ打たないと平和な世界を実現できないのか?ヒーロー自身が幸福になることは許されないのか?それが本作が後続の戦隊ヒーローに残した課題である。


(10)超新星フラッシュマン

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フラッシュマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
本作から「地球の平和を守る」「理想の世界を実現する」以外の「肉親と再会する」という私的動機が設けられるようになるが、結論からいえば本作でそれは実現しなかった。
ジンたちフラッシュマンは小さい頃に親元を強制的に離れさせられるという痛みを経験し、そのためにメスに復讐を誓い全てを投げ打つ覚悟で戦うことになっている。
「ゴーグルV」以来となる司令官不在の戦隊だが、より「自発的な闘争」という学生運動の気質が色濃く表れることになったのがフラッシュマンと言えるだろう。
だが、そんな彼らの個人的な願いが叶うことはなかった、何故ならば彼らには「反フラッシュ現象」という最大の敵が終盤で襲いかかり、地球にいられなくなったからだ。
最終回、確かに彼らはメスを倒して地球に平和をもたらしたが、一方で彼らの個人的な願いが果たされることはなく、最後まで挫折したまま全てが終わってしまう。
プロフェッショナルチームでCanが高いのに4.5で止まってしまうのはまさにその壁を超えられなかったからであり、以後長きに渡って戦隊シリーズは「個人の幸福」を模索することになる。


(11)光戦隊マスクマン

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マスクマンのWant・Must・Can

 


(チームの特徴)
前作が積み残した「個人の幸福」という課題を本作ではタケルとイアルとの恋愛という形に投影させているが、結論から言うとこれも失敗に終わってしまった。
それも仕方あるまい、何せ当のタケル自身がイガムが女とわかった瞬間に「女だから殺せない」などととんでもない公私混同を犯してしまうのだから。
マスクマンの5人はあくまでも「格闘術の素質が高い若者」というだけであり、それ以外の戦士としての心構えなどは未熟であると言っていいだろう。
だからこそCanが1.5しかなく、彼らは地底帝国チューブこそ倒すことができたものの、理想の世界の実現もできなければ、個人の幸福も得られなかったのである。
そう考えれば、何故タケルとイアル姫が結ばれなかったのかも納得が行き、タケルたちは戦士としてあまりにも力と技といった実現するための手段が未熟すぎた。
ここで作り手は「自発的な闘争」の壁にぶち当たるのだが、その行く末がどうなるのかは次作で明らかとなる。


(12)超獣戦隊ライブマン

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ライブマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
本作は「ゴーグルV」から続いてきた「自発的な闘争」にいよいよ答えを出す時が来たのだが、結論から言えば本作が辿った末路は学生運動の終焉そのものである。
ボルトの幹部3人は勇介たちの元学友であるが、決して仲が良かったわけでもないし、またいざとなれば3人を殺す決断をすることも彼らは厭わなかった。
その中で唯一救われたのは中盤で物語の核になったオブラーこと尾村であるが、彼も終盤ではまたもや戦いに巻き込まれることになってしまう。
終盤の展開は形を変えた連合赤軍の総括、浅間山荘事件の展開そのものであり、カリスマの指導者が威厳を失った結果ボルトは内ゲバによる自滅を辿ってしまった。
結果として本作の最後には爽快感よりも苦さが勝ってしまったのだが、結局本作でも個人の幸福を得ることには失敗してしまったのである。
この学生運動の挫折からどのようにすれば立ち直ることができるのかを模索していくのが次作以降で模索されることになるだろう。


(13)高速戦隊ターボレンジャー

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ターボレンジャーのWant・Must・Can


(チームの特徴)
本作は歴代初の学生戦隊だが、決して彼ら個人はそんなに強くはなく、強そうに見えるが所詮は見せかけでしかない。
その証拠に彼らは何度も変身不能に陥るし(しかも多くが自分たちのせい)、ヤミマルとキリカを説得して味方にできるほどの人間力もないのだ。
レッドターボが歴代最強候補に挙げられるが、それはレッドが強いのではなく敵が弱いのであり、本作はそもそもターボビルダーで暴魔の力を抑え込んでいる。
つまり太宰博士の力によってイージーモードのゲームをやっており、彼ら高校生はあくまでもその恩恵に預かった上で戦っているだけだ。
普通なら何の社会的背景もない彼らが即座に戦う決意ができたのは妖精によるアハ体験以上に戦いがイージーモードだったことが影響している。
だから、暴魔を倒すことはできたしキリカとヤミマルは結ばれたものの、それが本当の意味で理想の世界の実現となったわけではない。


(14)地球戦隊ファイブマン

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ファイブマンのWant・Must・Can


(チームの特徴)
本作は歴代初の兄弟戦隊だが、学の統率力が非常に高いこともありWantではなくMustの方がとても強い戦隊であると言えるだろう。
全員で教師という国家公務員の職業を選んでいることもその表れと言えるが、それが一方で兄弟というよりも同僚、同居人に見せている。
そんな彼らにとっての数少ない私的動機が「両親との再会」であるが、これは「フラッシュマン」のリターンマッチと言える格好だ。
結果として、彼らは見事に銀帝軍ゾーンを倒したが、それは敵側であるゾーンのボス・バルガイヤーが私的動機である「メドーと添い遂げる」を実現できなくなったからである。
歴代戦隊で失恋が敗因となったラスボスも前代未聞だが、そのおかげで星川兄妹は個人の幸福を実現するに至ったと言えるだろう。
シリーズから数えて14作目、とうとう「個人の幸福」を実現したヒーローが登場し、次作「ジェットマン」以後へ継承されていく。