明日の伝説

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十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人

今日はちょっとプライベートな話題。
久々にインスタグラムで大学時代の友人から電話がかかって来ることが多いのですが、例外なく「俺の貴重な時間を電話で遮るんじゃねえ」とシャットアウトして着拒してやりました。
ここ最近学生時代の友人・知人から連絡が来ることが多いのですが、別にその人たちに今会いたいわけではなく邪魔でしかありませんから無視しています。
なぜ今更になって、と思いますが共通していたのはその人たちが「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」を地で行く人たちになっていることです。
学生時代に輝いていたあの懐かしい人たちも社会人になると意外に平々凡々の人生を送っているものなのだなあと思います。


もちろんそれが悪いわけではありませんが、中でも衝撃だったのは私より3つ上の、部活で1年だけ関わった先輩がハゲ茶瓶になっていたということです。
見た目もげっそりとやつれている感じで、聞くところによるとその人は大手アパレルで16年も勤めていて、あまりにもブラック労働の日々に気づけばこうなっていたとのこと。
何が怖かったといって、そんな社畜人生を有り難がっていることが言葉の端々から感じられたことであり、自分はこうならなくてよかったなんて心底思いました。
あまり他者の悪口や誹謗中傷なんてしたくはないのですが、でも「人の振り見て我が振り直せ」でその先輩は私にとって反面教師です。


その先輩はお世辞にもカッコいい生き方をしているとは言えず、自身でも仰っていましたがサボり癖が強く学生時代の成績はほとんどがC(可)でした。
卒論もゼミ論も途中で放棄するわ授業のプレゼンの準備はしないわと遊んでばかりだったらしく、しかしその分大好きなドラマ・演劇にだけは熱中する人だったのです。
英語劇だけではなく学生時代につかこうへいの演目を3回も演じる程根っからのエンターテイナーで、役者としてならばそこそこいい味を出しています。
しかし、その人は演技が好きなことと演技で生計を立てられる=役者として成功することは別物であるという分別だけはあったようです。


でも、私の同期はやたらにその先輩を尊敬していましたが、私はその先輩を心底尊敬したことなんて一度もありません。
それはズボラな生き方に問題があったのではなく、就活に際して私たち後輩に向けたあるアドバイスに萎えてしまったからです。


「就活のアピールで「マイペース」なんて言ってはダメだよ、社会に出たらその会社のペースに合わせなければいけないから」


確かに一面的には正しいのですが、私は「社会に出たら奴隷として生きるんだ」と言われているようで寒気がしてしまい、心の中で拒否反応を起こしてしまいました。
それ以来、その先輩は私の中で「ついて行ってはならない人」という認識になってしまい、それからずっと関わることがなかったのです。
それから17年、お互いもう40に手が届く領域に入った今、すっかり私とその先輩では精神的にも肉体的にも色んな面で逆転してしまったように感じられてしまいます。
もっとも、その先輩に限らず学生時代に輝いていた、あるいは偉業を達成した人たちは社会人になると意外とパッとしない日々を過ごしているのですが……。


学生時代に成したことなんて所詮社会に出れば単なる「過去の栄光」でしかなくなり、しかし私に最近連絡を取って来る学生時代の友人・知人はみんなそこにしがみついているように思えます。
私は容赦なくその社畜精神を「甘ったれんな!」とぶった切ってやるわけですが、あんなに輝かしい学生時代を送っていた人たちも今や単なる企業の操り人形でしかないのです。
こういうのを見るたび「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」とはこのことだと思ってしまうのですが、なぜこのようになってしまうのでしょうか?
色々考えられますが、結局のところは意識の差にあるんだろうなあなんて思ってしまうのです、一言で言って自分を変えようとしない人たち。


資本主義の労働の義務なんて考え方はもう古い、同一労働同一賃金が台頭してきた今もはや正社員とパート・アルバイトとで大きな差はなくなりました。
もう資格の時代ではなくスキルとシェアリングの時代になったわけであり、副業や投資なんてものは当たり前の時代になっています。
幸い私もそのことに気づき自分を変えようと必死だからこそ今があるわけであって、私が見ているのは過去でも目先でもなく10年・20年先。
そこに意識を向けて今自分ができること・やるべきことをしっかりやりきることが大事ではないかと思うのです。


人間、最後に自分を救うのは自分しかおらず、他者はそのためのきっかけを与えることしかできません。
仏教には衆生済度」という概念がありますが、同時に「縁なき衆生は度し難し」という言葉もまた存在します。
仏縁のないもの、自分で自分を救おうという気がないものは仏様・神様であっても救うことなどできないのです。
救おうとする側と救われる側の意思が大筋で合致して初めて救済は成立するのですから、甘ったれんなって話ですよ。


神童の多くがなぜ社会人になると普通の人でしかなくなってしまうのかを改めて学友たちの平々凡々の今を見て実感します。
そして私は決して彼らのようにだけはなるまいと固く心に誓うのでありました。