明日の伝説

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ドラゴンボール(Z)レビュー番外編④〜孫親子とベジータ親子に見られる3つの世代間の差〜

昨日スペースで「世代別の特徴」といった話をしていたのですが、こんな話題を出すようになった時点で自分はもう確実に若くはない、と悟った証拠です。
フォロワーさんから「僕は世代別で差別されるのは大嫌い」と言われたのですが、これは私も若い頃持っていた感覚でした。
しかし、実はこれ自体もまた深層心理として「僕たちの世代のことも認めて受け入れて欲しい」という承認欲求の裏返しのようにも見えるのです。
人間、若い時分には飢え渇いていて「個」も確立されていないから、他社に認めて欲しくて反発したり背伸びしたりします。


それがなくなって落ち着く・安定することを「大人になる」というのでしょうが、最近この手の「世代間の差」というのは絶対ではないにしてもやはり傾向・特徴としてあるものです。
私がここ最近また熱心に読み返してレビューしている「ドラゴンボール」は本テーマではないにしてもこの「世代間の差」というものを如実に描いています。
それがドラゴンボール場合は「親子間のディスコミュニケーション」として取り上げられているのですが、中でも代表的なものはこの2つでしょう。
まずはセルゲームの時の孫親子のディスコミュニケーション

 

孫親子のディスコミュニケーション


そして魔人ブウ編から10年後、原作最終回付近の孫親子とベジータ親子のディスコミュニケーション

 

孫親子とベジータ親子のディスコミュニケーション


因みにセルゲームの辺りから悟空がファンから「サイコパス」呼ばわりされるようになるのですが、私はこれは悟空がサイコパスというより「世代別の環境による価値観の差」だと思いました。
まずセルゲームに関して説明すると、悟空が狙っていたのは悟飯がセルゲームの時に起こって本気の潜在能力を覚醒させ「超サイヤ人を超えた超サイヤ人」になってセルを倒すことです。
この目論見自体は上手く行ったので結論としては「ピッコロが読み違えていた」ということになるのですが、かといってピッコロの言うことが間違いだったというわけでもありません。
悟空よりも悟飯の実質の父親であったピッコロは神様と融合してから地球人としての愛着も持つようになり、悟飯への愛情が深くなっており、それは悟飯も同様です。


それは衣装にも表れていて、悟空が山吹色の亀仙流の道着だったのに対して悟飯はピッコロと同じ紫色の道着であり、悟空の息子でありながら精神的にはピッコロの継承者でした。
そして悟空もまたピッコロに指摘されて思わずハッとしているのですが、これは「自分の考えが間違っていた」というよりも「まさか悟飯が戦いを好きではなかったとは……」という反応です。
だからこそ、このセルゲームを最後に悟空は悟飯に強制的に戦わせることをしなくなり学者の道を優先させるのですが、これは同時に世代間の価値観の差を示していたようにも見えます。
また、もう1つの孫親子とベジータ親子の下りも象徴的で、悟天はデートを優先したかったのに悟空がそれを許してくれず、ベジータもまた現代トランクスの軟弱さに手を焼いているようです。


悟空とベジータの「お互い我が子の軟弱ぶりには苦労するな」「はは、ホントだ。まあ平和だってことだな」というセリフには苦楽を共にしてきたある種の戦友感が滲み出ています。
このセリフを見た時、読者は「ああ、悟空とベジータも人の親なんだなあ」か「あんたらの価値観を我が子に押し付けんな」のどちらかでしょう。
特にベジータに関してはセルゲームの時に精神と時の部屋で修行して苦楽を共にした未来世界のトランクスの硬派さを知っているからこそ、現代トランクスのちゃらんぽらんぶりに思うところがあったのかなと。
で、こう見ていくと実は「ドラゴンボール」という作品の中で、孫親子とベジータ親子を通して3つの世代間の特徴と差異が描かれているようにも見えます。


まずは孫悟空ベジータが典型的な昭和世代、もう少し言えば「氷河期世代(ロストジェネレーション)」の象徴ではないでしょうか。
とにかく圧倒的な強さを持ち、暇さえあれば修行の毎日……これは正に「24時間戦えますか?」という昭和世代の働き方であるといえます。
しかし、それだけ圧倒的な強さを持ちながら、実は悟空もベジータも決していい思いばかりをしてきた人たちではありません。
ベジータは打倒フリーザを果たすことはできず孫悟空を超えられませんでしたし、悟空もまたサイヤ人編以降は自分の好きな「とにかく強さを競い合って楽しく戦う」ができていなかったのですから。


サイヤ人編〜ナメック星編で圧倒的な強さを見せて輝いていた2人はその後人造人間編〜魔人ブウ編にかけてどんどん時代に取り残されていきますが、これは正にバブル崩壊以後の昭和世代の方々が味わったことです。
不景気の波が押し寄せて大量の人員整理解雇(リストラ)が行われ、アイドルも氷河期で就職も氷河期、バブル時代のイケイケドンドンが嘘のように大人たちは凋落を味わっています。
孫悟空ベジータもまたそのようにして、作品自体が世界中で人気になるのとは対照的に、超サイヤ人としての強さを得るのとは対照的に時代に取り残されてしまうのです。
そしてその時代に取り残されていった結果が魔人ブウ編終盤で元気玉を作るときに地球の人々に呼びかけても全く賛同してもらえないという展開に繋がっています。
もう1つ言うなら、かつての悟空のライバル役にして、後に地球の後見人となったピッコロもある意味では氷河期世代(ロストジェネレーション)のメタファーでもあるでしょうか。


そんな悟空・ベジータ・ピッコロに揉まれながら育った息子の孫悟飯はというと「プレッシャー世代(1982年〜87年生まれ)」の象徴だったと言えるかもしれません。
いわゆる「最後の昭和世代」であり、この世代は年上に可愛がられ、厳しい縦社会の上下関係を叩き込まれた最後の世代だったのではないでしょうか。
特徴としては上の世代の良し悪しを批評的に見て、その良し悪しを峻別した上で堅実な道を歩もうとする人が多く、優秀な人材が多いと言われています。
しかし、一方で昭和世代ほどエネルギーを発散することを許されなかった世代でもあるので、その分「キレると怖い」という特徴もまたありました。


悟飯の場合であれば「お父さんをいじめるなあ!」に代表されるブチギレがそれであり、セルゲームの時なんぞはブチギレた挙句に超サイヤ人2に覚醒してセルを圧倒しています。
しかし、彼は悟空・ベジータ・ピッコロに比べると精神面での成熟が甘く、セルゲームの時には「もっと苦しめてやらなきゃ」とまで言い出すようになるのです。
これはゲーム感覚で人の命を弄んでいるといっても過言ではなく、「間違ったことをした奴は痛めつけてもいいよね」という歪んだ正義感の発露の仕方でした。
だから、上の世代を立てることを知っている優秀かつ現実的である反面、そういうゲーム感覚で人を痛めつけてしまう狂気もまた孕んでいた世代といえます。


そして孫悟天と現代トランクスはいわゆる「ゆとり世代」の象徴であり、戦いというものが完全に「お遊び」「レクリエーション」となっているのです。
この世代に入ると親御さんに甘やかされて育っている人が多いため、そんなに苦労をしなくても生きていくことが可能となっています。
また、仕事よりもプライベートの方が大事という世代でもあり、上の世代に対しても生意気なタメ口を聞くようになっているのです。
上に挙げた修行シーンでもわかるのですが、孫のパンが真面目に道着を着て稽古を受けているのに、悟天は私服で稽古しています。


これは明らかに武道家として見た場合失礼な態度であり、悟空はあまりそういうのを気にしないから注意こそしていませんが、ベジータだったら容赦なく叱り飛ばしていたでしょう。
そして上にも書いたように武道大会よりも女の子とのデートの方が大事というのがもういかにもゆとり世代らしい考え方ではないでしょうか。
この後トランクスもベジータから小遣いを出汁に「武道大会に出ろ」と参加を強制されるのですが、こういう所を見てもかなり悟天と現代トランクスは甘やかされて育ったのが伺えます。
とはいえ、これはあくまでも「鳥山先生から見た今時の若者」の表象なので、かなりバイアスがかかっているというのはあると思いますが。


こうして見ると、私は一貫して否定的ですが「ドラゴンボール」を魔人ブウ編まで続けたことは思わぬ副産物をもたらしていたのかもしれません。
以前も書きましたが、「ドラゴンボール」が連載されていたのは1984年〜1995年、昭和世代の終焉と平成の胎動という時代の転換期を両方経験した作品です。
悟空少年編〜ナメック星編までが昭和、そして人造人間編〜魔人ブウ編までが平成と見ていくと、割と時代を映し出した鏡ともなっているのではないでしょうか。
1つの作品の中に3つの世代の特徴や差異がキャラクターを通して表現されているのは今見直しても興味深いところです。