明日の伝説

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ドラゴンボールレビュー番外編⑥〜「身勝手の極意」と「我儘の極意」の違いに見る悟空とベジータの対比〜

現在「神と神」「復活の「F」」と来てアニメ版「超」を再視聴、んで現在とよたろう先生の漫画版「超」を読んでいます。
何かと「あんなのは作品ではない」「公式が同人」などと揶揄されがちな「超」ですが、以前も書いたように「GT」よりはマシなんじゃねえかなあ(苦笑)
私は正直「GT」の方がよっぽどオリジナリティがなくて続編としての個性が薄いと思っているので、まだ「超」の方が挑戦的で好きではあります。
全否定の人もいるようですが私は「超」に関しては良いところもあり悪いところもあると見ているので、決して全否定派ではありません。


さて、そんな「超」ですが、昨年の夏くらいからファンの間で議論・考察の的になっているのが悟空とベジータの現在の力関係についてです。
超サイヤ人ゴッド→超サイヤ人ブルーを経て悟空とべジータはそれぞれ悟空がブルー界王拳→身勝手の極意、ベジータが進化ブルー(キラベジ)→我儘の極意となっています。
それまでずっと悟空の後追いだったベジータが漸く悟空とは違う進化を果たして差別化を図り、もう悟空の二番手とは言わせない対等な存在となりました。
原作漫画では最後まで悟空を一方的にライバル視するものの実力はかけ離れていたため、この「超」での進化の分岐は熱いものがあるのではないでしょうか。


そこで今回は2人の歩んで来た道のりや関係性を振り返りながら、改めて「身勝手の極意」と「我儘の極意」の本質を考察してみます。
既に各ブログやチャンネルが力関係や能力などを考察していますが、もっと本質的な内奥に迫る考察はなかなか見受けられません。
どうしても「どちらが強いのか?」ばかりに興味が行きがちなので、今回はそれとはまた違ったアプローチで迫ってみます。
かなりアカデミックな固い内容になりますが、内容はあくまでも漫画版なのでアニメ版との差異などについては考慮いたしません。

 


(1)「身勝手の極意」の本質は東洋思想

 

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身勝手の極意


まず「身勝手の極意」の本質は東洋思想、具体的には「禅」の思想が根底にあり、それが力の大会の中で極まったものが「身勝手の極意」ではないかと思われます。
最初に悟空が覚醒したのは力の大会の対ジレン戦ですが、アニメ版では限界ギリギリまで戦い抜いて尚超えられないジレンの壁を超える乾坤一擲の奇跡みたいな演出がなされていました。
それは正に悟空がナメック星編で最初に超サイヤ人に覚醒した時と類似していますが、大きな違いは「怒り」によるものではなく潜在意識の覚醒によるものであるということです。
今風に言うならば「ゾーンに入る」というものであり、全てがスローモーションに見えるほどのスピードと何者をも寄せ付けぬ圧倒的な防御力と驚異の集中力を有しています。


その姿は師匠のウイスによると「意識と肉体を切り離し無意識に任せる力」とされており、正にそれまでずっと自我意識の強かった超サイヤ人路線だった悟空が一周回って原点回帰した姿です。
最初のレビューでも書いたように孫悟空は戦闘民族サイヤ人カカロットが頭を打って穏やかになり地球人として育った姿であり、現実でいえば「日本育ちの外国人」であり、芸能人ならウエンツ瑛士などがそうでしょうか。
悟空の戦い方のスタイルの原点は亀仙人の教えにありますが、その亀仙人の教えとは「武道を学ぶことによって人生を楽しく暮らす」ことにあり、強さとはあくまで結果としてついてくるものだという考え方です。
いうまでもなく亀仙人の教えの根底にあるのは東洋思想、特に「禅」の思想だと思われ、坐禅によって自分の内面を見つめながら無駄なものを省いてシンプルに生きるという考え方になっています。


本ブログでも度々書いていますが孫悟空には帰属意識がなく、非常に直感的かつ大局を見据えた戦い方や物の見方・考え方をしていますが、これらは全て東洋思想=陰陽思想がベースにあるからです。
陰陽思想が悟空の心の中に強くあり、「陽極まって陰となる」「陰極まって陽となる」の両極を右往左往しながら常に己の戦い方を進化させていくのが悟空のあり方でした。
悟空の中では地球で亀仙人に教わった考え方であろうが神様や界王神に教わった考え方であろうが何でも素直に吸収することができる上、その中から自分に使える物と使えない物を取捨選択しています。
ファンからは「後期の悟空は合理主義的な戦い方をする」と言っていますが、実際は合理主義なのではなく亀仙人の教えをベースに自分に最適な戦術・戦略をその都度選択しているに過ぎません。


だから悟空は論理的な考え方ができず、それ故に時々「バカ」だと思われがちですが、実際は常にイメージトレーニングなどで内省を繰り返しながら強さを磨き続けているのです。
そこがベジータとの大きな違いにもなっており、悟空にとって体を鍛えることは「修行の一環」ではあっても「全て」ではなく、ある程度のところまで行ったらそれ以上の鍛錬をしません。
ナメック星編での重力トレーニングしかり精神と時の部屋での修行しかり、やれるところまでやったら後はよく寝てよく食べてよく遊ぶ、というメリハリをつけながら生活しています。
それが悟空の強さの源泉であり、サイヤ人の肉体と闘争本能を持ちながらも孫悟飯じいちゃんと亀仙人に教わった思想をずっと貫いて生きているのが孫悟空でした。


そんな悟空が力の大会で改めて亀仙人から教わったことが「よく動く」ことであり、「身勝手の極意」の「身勝手」とは「身体が勝手に動き出す」ことを意味します。
亀仙人はそこに身体能力が追いついていないために「極意」にまでは昇華されなかったものの、身勝手の極意の原型となるような素早い身のこなしを対ジレン戦で見せました。
漫画版ではそれをヒントに悟空が「兆」と「極」を一時的に開眼しているのですが、これこそが孫悟空が辿り着くべき境地だったと考えると納得です。
悟空にとって戦いとは「武道を通した相手との対話」であり「自分との対話」なので、魔人ブウ編でベジータが述べたように「勝つため」「守るため」ではなく「負けないため」に戦います。


それこそ「Gガンダム」が既に94年にして辿り着いていた「真のスーパーモード=明鏡止水」のDB版がこの「身勝手の極意」と呼べるものだったのかもしれません。
ハートは燃えるように熱く、しかしやましさが一切なく、また動じることなくただ淡々と粛々と敵に相対して戦うのが身勝手の極意となっています。
だから身勝手の極意になった悟空はとても静かに、しかし圧倒的な強さを奥底に湛えながら敵と戦うという、正に原作から紡いできた悟空の戦い方の集大成とも言えるでしょう。
これは陰陽思想を中心にしながら、武道を通して己の人生を楽しむことを貫き通してきた孫悟空でなければ到達することのできなかった境地だといえます。


英語に訳すと「Ultra Instinct(超越的な本能)」ですが、Instinct(本能)の語源はIn(内側)をSting(刺す)するものであり、内面を刺激するものなのです。
正に「強いやつと戦うとワクワクする」という孫悟空にふさわしいものであり、それが肉体と切り離されより潜在意識の部分にまで迫ったものだといえるでしょう。
原作の時点で元々持っていたものが形として昇華されたものですから、非常に説得力のあるパワーアップです。


(2)「我儘の極意」の本質は西洋思想


東洋的な陰陽思想が根底にある「身勝手の極意」と対照的に、ベジータ破壊神ビルスから教わった「我儘の極意」は対グラノラ戦で初めて披露されたものです。
こちらは対戦相手との戦いの中で覚醒したというより、既にビルスとの修行の中で開眼しており、実戦で使えるように仕上げた状態でグラノラ戦で出したものでしょう。
グラノラに「力を定着させる訓練はしたのか?」と問うていることからベジータは常に「実戦」を想定して力を身につけることをモットーとしていることが伺えます。
身勝手が「意識と肉体を切り離し無意識に任せる」という「無我の境地」のような極意であるのに対して、こちらは「意識と肉体を合致させることで戦闘力を無限に高める」という覇道のような戦い方です。


これは正にサイヤ人編から一貫して帰属意識の強いエリート戦士にして王子であったベジータならではの、悟空とはまた違った1つの到達点といえるものだったのかもしれません。
ベジータの戦い方の根底にあるのは父親のベジータ王と上司だった帝王フリーザから教わった帝王学が根底にあり、悟空とは違った善悪二元論の考え方だといえます。
それ故に誰よりもサイヤ人であることへの自意識が強く、また「自」と「他」の区別をしっかり意識的に行っているところが凄く西洋思想に近いのです。
元々戦闘民族サイヤ人という設定自体が戦うことで歴史を作り上げてきた西洋の、特にイギリス辺りの考え方がベースにあるものと思われます。


それ故に直感的かつ大局的に物を見据えながら最適解へ辿り着く孫悟空に対して、ベジータの戦い方は西洋の大陸合理論に近いものだといえます。
ベジータらしさ」ともファンから言われる全盛期のサイヤ人編〜ナメック星編を見ればわかりますが、この時のベジータは非常に理論的な戦い方を展開していました。
まずは悟空以外の地球人たちの戦闘力を測る物差しとして最初にラディッツを送り、そのラディッツが戦った時の戦闘データから様々な仮説を立てています。
先日紹介した地球人とサイヤ人の混血たる孫悟飯の遺伝子について仮説を立てて推測しているのもその1つだといえ、非常に理論的というか学術的な観点から物を考えているのです。


地球人と戦う時も最初から自分が出陣するのではなく、まずは物差しとしてサイバイマンを戦わせながらピッコロ・クリリン天津飯・餃子・ヤムチャの戦闘データを収集します。
ある程度データが取れたところで今度は部下のナッパに出撃させ、餃子・天津飯・ピッコロと倒させていき、さらに戻ってきた孫悟空とナッパの時のデータ収集も欠かしません。
そしてナッパがもう使えないとなったら自分が出撃し孫悟空と戦いますが、ここでもやはり孫悟空と戦いながら強さを引き出そうとしているのです。
最初は優勢に戦いながらも悟空が3倍界王拳で圧倒し始めたところで我慢がならなくなり、ギャリック砲を使って地球ごと滅ぼそうとするという手段に出ました。


そのギャリック砲かめはめ波の撃ち合いに負けても尚ベジータはパワーボールを使っての大猿化という奥の手を残すなど、悟空とは違う形で奥の手を隠しています。
このように、ベジータは常に相手と自分の力量の差を計算しながら「今の自分なら戦っても勝てる」「今はまだダメだ」という算段を立てて戦うのです。
武道を通したコミュニケーションとして戦いを楽しむ悟空とは違い、ベジータにとっての戦いとは侵略戦争であり「殺すか殺されるか」のどちらかしかありません。
正に「勝てば官軍」という考え方で動いており、わかりやすいほどの善悪二元論=西洋思想をベースにした戦闘民族サイヤ人の代表としてキャラ立ちしていました。


続くナメック星編でもキュイ→ドドリアザーボン→グルドと次々撃破していきながらフリーザへ迫っていくベジータは悟空やピッコロが来るまで実質の主人公というか狂言回しの役割を果たしています。
しかし、フリーザ最終形態までたどり着いた時に打つ手がなくなった時にフリーザに絶望して涙を流すのですが、これは決してベジータがヘタレだということではなく、万策尽きてどうしようもなくなったからです。
全てにきっちりとロジックをつけながら戦うベジータがこれまで倒してきた敵は全て格下か、あるいは自分が強くなって格下になった相手のみであり、完全に格上の相手との戦いはまだ十分な経験値がありませんでした。
だからこそ、人造人間編以降は悟空のかませ犬という形になってはいくものの、その地球での戦いの中で確実に経験値を増やしていきながら今度は地球での自分のアイデンティティを確立させていきます。


そのようにして戦ってきて、ずっと悟空の後を追いかけていたベジータが力の大会で「進化ブルー(キラベジ)」という独自ルートを開眼し、更にモロ編ではスピリットの強制分離と潜在能力解放までしました。
悟空でさえ習得できない独自の技を増やし、今や基礎戦闘力でまた悟空を追い抜いたベジータですが、悟空の「身勝手の極意」に取って代わるのが攻撃力に特化した「我儘の極意」です。
「我儘」とは「我が意の儘に」という意味なのですが、もっと突き詰めるとデカルトが提唱した"I think, therefore I am."(我思う、故に我あり)がベースにあると思われます。
意識と肉体を切り離して本能に任せて動く「身勝手」に対し、意識と肉体を一致させ戦意高揚させて戦闘力を無限に高めていくというのは正にサイヤ人の王子であるベジータに相応しい形態でしょう。


常に内省を繰り返しながら真理へ迫り悟りを開く悟空に対して、ベジータ常に独自の理論をしっかりつけて分析しながら自分の強さを形成していくのが強みだといえます。
だからこそ、悟空のように本番にあるかもしれない乾坤一擲の賭けなんぞに頼らず、自身が戦った戦闘経験も含めてより現実的な「確実に勝つための戦略・戦術」を編み出すのがベジータです。
超サイヤ人に覚醒した時もセル第二形態の時の超ベジータにしても、そして魔人ブウ編の魔人ベジータにしても全部ベジータなりに考えた「確実に勝てる(と思える)方法」を模索していました。
ベジータが悟空に比べて「努力の天才」「秀才型」に見えるのもこの辺りに理由があり、直感で本質を見抜き大局を見据える悟空とは対照的に常に物事を細分化して対策や傾向を立てています。


英語に訳すと「Ultra Ego(超越的な自我)」であり、Egoの語源はI(私)なので、正に己が己であることに強い誇りを持っているベジータに相応しい形態だといえましょう。
自分と他者の境界線がない自然と一体化した東洋思想の悟空に対し、常に自分と他者の境界線を意識して区別しながら強くなる西洋思想のベジータという違いになっています。
このように考えれば身勝手の極意も我儘の極意もそれぞれ原作から紡がれてきた戦い方の延長線上にあるものだといえるのではないでしょうか。


(3)人造人間編〜魔人ブウ編でベジータが悟空を追い越せなかった理由


このように東洋思想と西洋思想の違いから悟空とベジータ、身勝手と我儘の違いを論じてきましたが、こう見ていくと人造人間編〜魔人ブウ編でベジータが悟空を長らく追い越せなかった理由がわかります。
何故ならば地球に来てからのベジータがやっていたことは「初期悟空の追体験であり、悟空とはややアプローチを変えながらベジータが擬似的な形で悟空がして来たことを追体験するのです。
たとえば地球への愛着だったり家族愛だったり、全く予想しないいろんな強敵との戦いだったり、「殺す」ためじゃなく「守る」ための戦いだったり、そういうものをベジータは経験して来ました。
そしてそう考えていくとベジータが長い間地球で勝てず報われなかったのも自ずと見えて来るのですが、それは初期の悟空が正に長い間強敵に勝てなかったからです。


今でこそ「ドラゴンボール」は孫悟空が最強だというイメージになっていますが、そのイメージはナメック星編で超サイヤ人に覚醒してからの後期の悟空のイメージではないでしょうか。
少なくとも初期の悟空は天下一武道会ではマジュニアとの戦いまで決勝で負けていましたし、また強敵に何度も負けては這い上がって強くなるという経験を繰り返して来ました。
その経験を今度はベジータが奇しくも地球に来て行うことになるのですが、ベジータは悟空と違い戦いのプロでありエリート戦士ですから、悟空と全く同じようにというわけにはいきません。
しかも、ベジータはそう簡単に悟空に対して「参った」という人ではありませんから、鳥山先生としてもどう扱っていいのか困ったところもあったのでしょう。


その結果が18号戦での敗北やセルを完全体にしてしまった挙句の敗北、さらにはセルゲームの時にトランクスを殺された時の激昂、そして魔人ブウ編での魔人化に出ているのです。
正直このあたりのベジータは「鳥山先生、幾ら何でもここまでしなくてもいいんじゃないか?」と思ったものですが、思えば悟空だってなかなか報われない日々を送っていました。
天下一武道会では2度も優勝できず、更に強敵に何度も敗北してはリターンマッチ、最終的に勝ったとはいえ、実は悟空が単独でスイスイ勝てた試しは殆どありません。
ただ、元々力が足りなかった悟空がそうなるのと、十分な力や技を持ったベジータがそうなるのとでは意味合いが異なって来るものです。


なるほど、そのように考えると魔人ブウ編を「ベジータの成長物語」「魔人ベジータのくだりに感動した」とのたまうファンがいるのもわかる気はします。
なまじ元が極悪人だった分、ベジータが人の心や家族愛といったものに目覚めていくのは悟空がそれをやるよりも感動や共感を得やすかったのでしょうね。
悟空と同じ地球での生活や戦いを繰り返し、更にはポタラ合体での戦いといったところまでやって初めてベジータは悟空がやって来た戦いの意味がわかったのでしょう。
つまり、最初に地球で戦った時のベジータには見えなかった悟空の強さの源、それがようやくあそこで見えるようになったからベジータは悟空を「ナンバーワン」と認めました。


しかし、これは本来鳥山先生が描きたいことだったかというと、決してそうではなく不本意だったとさえいえるのではないでしょうか。
何故ならば、鳥山先生にとってそもそもベジータを活かすということ自体が想定になかったことでしたし、一旦悟空以上のエリート戦士と設定した以上それを崩すのは難しいものです。
だからこそ今現在に至るまで悟空とベジータは最初の一回を除いて真正面での対決という形で戦わせていませんし、また今後もその予定はないでしょう。


(4)どちらが強いのか?


以上を踏まえて、現段階では「どちらが強いのか?」ですが、結局のところ答えは「永久に決着をつけることはできない」に落ち着くと思います。
これはとよたろう先生にとっても原作者の鳥山先生にとってもそうで、多分悟空とベジータはもはや「どっちが上」を論じることが無意味な関係性でしょう。
何故ならば悟空とベジータのどっちが強いかを比べることは「東洋思想と西洋思想のどっちが優れているか?」を問うぐらいにナンセンスです。
現時点では対グラノラ戦を見る限りベジータの方が先を行っているようには見えますが、これもあくまで暫定的なものなのですぐに変動すると思われます。


実は(3)では敢えて述べませんでしたが、悟空とベジータサイヤ人編での最初の対決と魔人ブウ編での再対決をのぞいて1度も決着をつけさせていない理由もここにあるのです。
ドラゴンボール」の面白いところは一度戦って負けた相手は何らかの形で再戦を行うか、初対決でも勝ってしまうかのどちらかになっています。
実際クリリンは初対決ながら余裕で圧勝していましたし、天津飯とは2度目の対決でしっかり勝利しており、マジュニアことピッコロとは初対決で辛くも勝利しました。
それが対ベジータ戦においてはちょっと特殊で、1回目の戦いは完全な引き分けで終わっており、悟空もベジータもどちらも満身創痍となるまで戦ったのです。


しかし、それ以後お互いに抜きつ抜かれつを繰り返しながらも、結局真正面から戦ったのは魔人ブウ編の1回だけですが、あの時も完全な決着はつけませんでした。
それは「勝負をしなくてもわかる」「超サイヤ人3があるから手を抜いていた」ということではありません、少なくとも魔人ベジータと悟空の戦いの時点では超サイヤ人3は影も形もなかったのですから。
そうではなく、きっと鳥山先生の中で2人が戦って決着をつけることはおそらく悟空とベジータのどちらかが死ぬことを意味するでしょうし、そんな勝負をベジータはともかく悟空が望んで行うとは思いません。
また、ベジータが悟空と真正面からぶつかり合って完膚なきまでに叩きのめされる様を描いたところで映えるわけもなく、少なくとも悟空相手に完敗するベジータを先生は想像できなかったのでしょう。


悟空とベジータに関しては結局読者が何と無く感じるイメージとして「悟空の方が強く、ベジータは永遠の2番手」が出来上がり、それが今になっても尾を引いています。
真正面から決着をつけようとしてもそれは「盾と矛」のような関係ですし、もっと言えば東洋思想が正しく西洋思想が間違っているという安易な優劣の決めつけになり兼ねません。
それよりも私が興味あるのは現在変身という形でそれぞれの極意を使っている2人がどのように変化していくのかという「進化の先」に興味があります。
今は変身という形で引き出している力を「変身」ではなく普段の実力として素で引き出せるようになることが今後の2人の課題ではないでしょうか。