明日の伝説

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ドラゴンボール(Z)レビュー番外編②〜なぜ「ドラゴンボール」はフリーザ編までで終わらせておくべきだったのか?〜

どうやら昨日、例のBIX氏が漫画版「ドラゴンボール超」について、遂に意見開陳をしており、それがファンの間で論争を生んでいるようです。
見たい方はどうぞ、喋り方はかなり感情的ですが、言っている内容自体は至極真っ当で納得できる部分もたくさん有ります。

 

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ただ、私の中には「何を今更」というような内容ばかりで、何だったら「そんなの人造人間編からそうだったじゃん」という思いがあるのです。
そう、今回取り上げるのは敢えて今まで取り上げなかった「ドラゴンボールはどこまでで終わるべきだったか?」という話になります。
これに関してはもう作品の良し悪しではなく個人の好き嫌いの領域であり、人によって「ここで終わらせておくべきだった」は違うでしょう。
ちなみにドラゴンボールファンの間で一致しているのは「マジュニア編(天下一武道会)までで終わらせておくべきだった」という意見です。


この意見は私も深く共感するところで、それまで天下一武道会で二度も優勝を逃した悟空が最後の最後で優勝を手にし、武道家として完成を迎えて終わる。
そしてチチと結婚という最高の報償を受けて新婚旅行へ……これで終わっていれば、確かに完成度の高いジャンプ史上類を見ない傑作となったでしょう。
しかしその場合、日本での人気に留まり世界的人気にまでは至らなかったでしょうし、それこそマシリト(鳥嶋編集長)の言いなりで終わっていた可能性もあります。
また、悟空が化け物じみた強さを持っている理由として「戦闘民族サイヤ人カカロット」というルーツを持ってきたのは世界観の拡張としてもよくできていたのです。


サイヤ人編以降があったからこそ「ドラゴンボール」は世界的ヒットに至り、その後様々なジャンプ漫画・バトルアニメの原点たる「中興の祖」というべき作品になりました。
しかし、人造人間編〜セルゲーム、そして魔人ブウ編とどんどんパワーバランスがガバガバになっていき、話としてもグダグダになって「いつ終わるの?」と思ったのは否めません。
その点でいえば、終わり方として完璧ではなかったとはいえ、屈指のテンションと感動をもって終えられた「スラムダンク」は本当にいい作品だったなあと思うのです。
また、歴代ガンダムシリーズの中でも群を抜く物語の完成度を誇る『機動武闘伝Gガンダム』はそれこそ「ドラゴンボール」的な要素を継承しつつグダグダなところのない名作として見られました。


まあ週刊ジャンプ漫画と1年ものの子供向けロボットアニメでは制作体制から何から全然違うので比較はできないのですが、それでも「ドラゴンボール」はやはりフリーザ編までで終わるべきだと今でも思うのです。
因みにこの点に関して、富野アニメ愛好家で有名なあでのい氏が魔人ブウ編の魅力を語りながら「フリーザ編までで終わるべきだった」という意見・論調に反論を試みています。
BIX氏も魔人ブウ編まで(というかアニメの「Z」まで)が最高という人ですので、これはやっぱり世代によっても意見が別れるところなのかなあと思うところなのです。
そんな彼らの意見にある程度理解できるところはありつつ、それでも私の中で「フリーザ編までで終わるべきだった」という意見が変わらない理由をこれから述べていきます。

 


(1)「ドラゴンボール争奪戦」という話の根幹の極致を描いている


まず「ドラゴンボール」という作品は決して単なるバトル漫画・スポ根漫画ではなく「ドラゴンボール争奪戦」というのがナメック星編(フリーザ編)までに通底していた要素でした。
最初の頃はピラフ一味との小競り合いだけで済んでいたドラゴンボール争奪戦がレッドリボン軍という軍事戦争に、そしてピッコロ大魔王編では世界征服という地球規模に広がったのです。
そう、あくまでも「ドラゴンボール」は「珠」を巡っての孫悟空の物語であり、名前からもわかるようにモチーフとして最初に使われたのは「西遊記」になります。
格闘漫画要素はあくまでも「売れる作品」として挟んだ横軸の要素であり、根本的には「Dr.スランプ」というギャグ漫画のテイストがあるのです。


この「ドラゴンボール争奪戦」という要素はサイヤ人編〜ナメック星編で1つのクライマックスに到達するのですが、大きく違うのは「地球のドラゴンボール」ではなく「ナメック星のドラゴンボール」ということでしょう。
そして、それを狙ってやって来るのは宇宙の帝王フリーザが率いるフリーザ軍、ベジータサイヤ人によって殺された地球の仲間達を蘇らせたい悟飯・クリリン・ブルマ、そして第三勢力にしてサイヤ人代表のベジータ
この三者三様の緊迫感溢れる戦いを非常に高い密度とテンションで描いており、思えば鳥山先生も編集者も東映アニメスタッフも、そして私たち読者も脂が乗っていて一体感が最もあった時期ではないでしょうか。
悟空が到着するまでの間、ベジータフリーザ軍というはるかに恐ろしい戦闘力を持った者たちとの戦いをどう切り抜けていくのか、先が読めずにハラハラしながら漫画とアニメを毎週追う日々でした。


しかもナメック星のドラゴンボールは地球のドラゴンボールと違ってナメック語を話せるナメック星人にしか願いを叶えることができないという特殊なルールが存在するのも面白かったところです。
地球のドラゴンボールとの差別化にも繋がっていますし、強大な力を持ったフリーザ軍とベジータドラゴンボールを手に入れても簡単に願いを叶えられないように設定が考えられています。
この徹底したシビアなルールは二重にも三重にも張り巡らされた制約の中で登場人物が右往左往するため、最後まで誰がどんな望みを叶えることができるかが予想できないのです。
ドラゴンボールという御都合主義の象徴とも言えるガジェットが極めて物語の中で重要度を誇ったのはこのナメック星編までと言ってもいいのではないでしょうか。


それが人造人間編以降はどうでしょうか?単なる「死人復活」の安易な道具として形骸化し、もはや単なる添え物扱い…そう、「左手は添えるだけ」(by天才桜木)状態になるのです。
これの何が問題なのかというと、後述するクリリンの二度目の死という究極の代償と引き換えの超サイヤ人登場というあのクライマックスを無用の長物にしてしまったことにあります。
原作及びアニメの「Z」までを至高と評している熱心なドラゴンボールファンは近年の「ドラゴンボール超」などを「作品ではない」と批判する傾向にあるようです。
しかし、私に言わせればそれはそもそも人造人間編以降、正確には青年トランクスとフリーザ軍のあの戦いの時点ですでに「ドラゴンボール」は「作品」ではなく「金のなる木」でしかなくなってしまいました


そうなった大元の原因はドラゴンボールというガジェットが形骸化して添え物扱いとなったことにあり、「珠」を巡る孫悟空の物語という根幹のテーマがブレてしまったのです。
しまいには魔人ブウ編にいたって悟空は「死んだ奴らはドラゴンボールで生き返れる」と言ってしまい、「ああもう作者にすらどうしようもなくなっているのだな」というのが伺えました。
その時点でドラゴンボールという七つの珠は物語上の役割を喪失したも同然であり、ナメック星編までがギリギリドラゴンボールがきちんと重みのある重要な道具として機能していたのです。


(2)三つ巴による知略や呉越同舟


(1)でも触れましたが、ナメック星編はフリーザ軍・地球人組・ベジータという三つ巴のドラゴンボール争奪戦が醍醐味であり、戦闘力では弱くともドラゴンボールを持つだけで大きなアドバンテージになります。
特にサイヤ人編での悟空との死闘を経て狂言回しになったベジータの暗躍は見ものであり、全盛期の彼のフリーザ軍殺戮ショーをご覧ください。

 

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凄いですねえ、徹底して「人を殺さない」という武道の試合の延長線上で戦っている悟空とは大違いであり、この頃のベジータはとても楽しいビンゴやたこ焼き作り、アラレちゃんとのギャグをやる人とは思えません
以前紹介した上田啓太氏も語っていましたが、このころのとにかく尖っていて毒々しかった頃の残忍だったベジータには今にはない「悪の美学」が感じられ、私はこの頃のベジータが大好きです。
地球人組とフリーザ軍、そして時には悟空・フリーザすらもうまく出し抜きながら着々と力をつけて強くなっていくベジータは単なる残忍な悪党ではなく、文字通りサイヤ人のエリート戦士でした。
卑劣な手段を厭わない彼の姿は悟空にもピッコロにもできない戦い方を次々とやってのけるある種の爽快感がありましたし、「きたねえ花火だ」「役にも立たねえカスを生き返らせやがって!」と罵詈雑言も豊富です。


もちろんベジータだけではなく、クリリンクリリンでうまくナメック星人と打ち解けていましたし、悟飯も悟飯で「お前なんか死んじゃえ!」でのフリーザ圧倒など見所がたくさんあります。
そしてピッコロさんもネイルを取り込んでパワーアップしフリーザ第二形態まで圧倒する強さを見せ、そして重力トレーニングによる修行とギニュー特戦隊との戦いで最強になった悟空の登場。
ラストの悟空VSフリーザまでの話の流れというか盛り上げ方にまるで無駄がなく、すべてのキャラクターを物語の力で絶妙にコントロールし、(1)のドラゴンボール争奪戦と合わせて凄まじい緊張感を与えました。
この頃の鳥山先生も編集者たちも、そして東映アニメスタッフもすごくノリノリで作っていて、今とは比べ物にならない圧倒的な余裕とキレが感じられます。


圧倒的に優勢なフリーザに対して、サイヤ人ナメック星人が持てる技量とパワーアップなどを最大限駆使しながら「将を射んと欲すればまず馬を射よ」で次々と敵を撃破していきます。
そういうRPGの如き爽快感がありながら、しかしそれでもフリーザは素の状態で戦闘力53万という優勢を保ち、しかも変身が3回あるという凄まじいカリスマ性溢れる強敵でした。
ベジータの完全な上位互換にして、悟空にとっては自分のバックボーンに大きく関わる大ボスとの対決という、これ以上なく盛り上がる要素だったのではないでしょうか。
「復活の「F」」以降もなんだかんだフリーザが重用されているということは、それだけフリーザが完成度の高い「ドラゴンボール」が生み出した最高の悪党だったということでしょう。


それが人造人間編以降になると完全なかませ犬に成り下がってしまい、ベジータをはじめキャラクターはどんどん迷走と破綻を繰り返すようになってしまいます。
よく、魔人ブウ編でのあの魔人ベジータのくだりから「カカロット、お前がナンバーワンだ」を「ベジータ」の成長物語だと褒め称えるファンは多いですが、あれは成長でも何でもありません。
単に引き延ばしによってキャラが迷走したのを丸く収めようとした結果論であって、これに関しては私もあでのい氏の指摘の方が正しいと思います。

 

 

ブウ編の途中でベジータは衝撃的な「寝返り」を見せる。敵の親玉たるバビディの洗脳に自らかかり、その上で悟空達と敵対する。しかしながら実際にその展開が物語を盛り上げているかと言うと、実はかなり怪しい。そもそもベジータは元々悟空や悟飯よりも「弱い」事が既に確定しているキャラクターのはずなのだ。そんなベジータが今更このタイミングで敵に寝返った所で、「絶対絶命」や「最悪の展開」にはなり得ない。バトル漫画として見るのであれば、ベジータの寝返りは物語の本筋に対しての無駄な茶々入れにしかなっていないのだ。


引用元:https://adenoi-today.hatenablog.com/entry/20150608/1433757131

 


前期ベジータが大好きな私としてはあの魔人ブウ編のベジータをこんな風に語られるのは複雑なのですが、それでもこの意見に関しては正論だと認めざるを得ません。
だからこそ、フリーザ編までで終わらせておけば、ベジータも悪党のままキャラが迷走も破綻もせずに綺麗に完結できたであろうになあと思ってしまうのです。
正直な話、こんな風に延命してベジータのキャラそのものを毀損してしまうのであれば全盛期の輝きを保ったまま絶好調の時に退場させてあげるのが華ではないでしょうか。
フリーザに関しても同様のことがいえ、あのまま地球に復讐に来てトランクスに父親ごと殺されなければ株の暴落を防ぎ、カリスマ帝王のまま終えられただろうにと思うのです。


昨日、Twitterのスペースで黒羽翔氏から「丸くなったベジータをどう思いますか?」と聞かれたのですが、その答えが今はっきりと出ました。
私の中では「あのベジータも確かに味はあるし面白いが、でも全盛期のような美学・輝きは感じない」というのが答えです。
まあそういう時期をくぐり抜けて今では名実共に悟空のライバルとなってはいるものの、それでもやはりフリーザ編までで終わらせておけばなあという思いは変わりません。


(3)超サイヤ人は究極の奇跡にして例外中の例外


そしてナメック星編の最大の見所は何といってもクリリンの二度目の死と引き換えによる孫悟空超サイヤ人覚醒ではないでしょうか。
ピッコロ大魔王→マジュニアベジータとどんどんスケールが大きくなった強さのインフレは遂にこのフリーザ戦での超サイヤ人覚醒をもって1つの頂点に達しました。
この超サイヤ人孫悟空の登場が数多くあるアニメ・漫画のパワーアップイベントの中でも歴史に名を刻む名シーンとして語り草になっているのはなぜでしょうか?
それはこの超サイヤ人自体が「究極の奇跡」にして、魔人ブウ編まで含めて見ても例外中の例外として扱われているからです。


このことに関してはフリーザ編までで終わらせることに否定的な人も肯定的な人も同じ思いではないでしょうか。
まずは否定派の意見がこちらです。

 

 

ドラゴンボールの1つの特色として個人的に言及しておきたいのだが、元々ドラゴンボールは感情や戦う理由やらで戦闘力が変化することはほとんど無い。基本的にはイレギュラーが無い限り強い奴が弱い奴に勝つ、という厳然とした戦いのルールが、いくつかの例外を除いて貫かれている。(その数少ない例外が超サイヤ人なのだが、超サイヤ人の印象が強すぎるせいでこの「感情値にバトルの結果がほとんど左右されない」というドラゴンボールの特色は、ほとんど語られることが無い)


引用元:https://adenoi-today.hatenablog.com/entry/20150608/1433757131


それに対して、肯定派の意見はこちら。

 

 

二回死んだ者は生き返らせることができない。つまりクリリンは、(自分から生き返りを拒否した悟空の育ての父である孫悟飯を除けば)初めてドラゴンボールで救うことのできない存在となった。このような、今まで物語を駆動してきたDBシステムからこぼれ落ちた存在が出てきた(ルールからの逸脱が生じた)ことで、ベジータでさえ生かした悟空が初めて「キレる」、というこれまたルールからの逸脱が生じた(これは余談だが、悟飯がキレるととんでもない戦闘力を発揮する様が度々描写されてきたが、悟空がそういう力を発揮するシーンは不思議なほどなかった。その意味で悟空の怒りは、その特異性を読者に意識はさせながらも、ご都合主義的とは思わせない説得力も同時にあったと言える)。


引用元:https://blog.goo.ne.jp/sumeshi_gigoku/e/aff59075773c924024ee73c3af1ab168


そう、孫悟空クリリンの二度目の死という、「完全にこの世から失われてしまった命」という究極の代償と引き換えに超サイヤ人孫悟空が誕生するという、「生と死」をこの1シーンに凝縮しています。
そしてそれは地球に来て頭を打ったことで消滅してしまったはずの「戦闘民族サイヤ人カカロット」という、悟空が忌むべきもう1つの人格が擬似的に再生された瞬間ではないでしょうか。
悟飯に対して「オレの理性がちょっとでも残っているうちに、とっとと消えるんだ!」と、そしてフリーザに対して「今度はこのオレが貴様を滅ぼす!」とまで言っています。
これはもう孫悟空としてではなく戦闘民族サイヤ人カカロットに豹変していると言っても過言ではなく、その極限の怒りを辛うじて孫悟空としての理性・顕在意識で押さえ込んでいる状態です。


ドラゴンボール」という作品において、キレたらキャラクターがパワーアップするという展開はそれを混血児の特徴として持っていた孫悟飯を除いてほとんどありません。
引用した肯定派の方が述べているように、悟空が怒りを露わにしてもそれがきっかけで戦闘力が大幅に上昇するということはなく、またその力で相手を圧倒したのもこの1回だけです。
じゃあセルゲームの孫悟飯はどうなのか?という意見があるでしょうが、あれに関してはもともと悟飯がそういう体質の上でフリーザ戦の悟空と同じことをやっただけでした。
つまり、超サイヤ人の覚醒とは単なるパワーアップイベントではない、物語を根幹から破壊しかねない「奇跡」であり、それが発露した時点でもう既に悟空の勝ちなのです。


鳥山明先生はギリギリまで強さのインフレを高めつつ、強さの演出としても孫悟空カカロットの物語の完結としてもふさわしいクライマックスをこの決戦に凝縮しました。
だから超サイヤ人とは言葉を選ばずにいってしまえば「チート技」「バグ技」の類であり、そうでもしないと倒せないほどフリーザがとんでもなく強かったことを示しています。
物語としてもバトルとしても、そしてキャラとしても「ドラゴンボール」は間違いなくここで頂点に上り詰めたわけであり、これ以上の極まったシーンは人造人間編以降では見られません。


(4)人造人間編以降は商売人気から生じた副産物


(1)〜(3)までを総合すると、いかにナメック星編までの物語がよくできていたことか、ご理解いただけたのではないでしょうか。
ご都合主義と揶揄されがちで倫理観も軽いといわれる「ドラゴンボール」ですが、その根っこには厳しいルール制定と死生観の厳しさがありました。
少なくともナメック星編まではそれが一貫していたわけであり、だからこそ悟空とフリーザのあのクライマックスで全てを終わらせるのがベストだったと思うのです。
超サイヤ人という反則的なチート技ともいうべき掟破りを行った以上、どう続けたところでそれは所詮焼き直しでしかないのですから。


人造人間編以降になると、「一体何と戦っているんだ?」状態になりますし、味方側は最初から超サイヤ人状態という、一種の「強くてニューゲーム」状態になるわけです。
しかも出てくる敵はエネルギー吸収・無限エネルギー・吸収による進化という素の状態で圧倒的なチートスペックを誇っており、対する味方側も最初から超サイヤ人になれます。
つまり人造人間編以降は「サイヤ人(かそれに匹敵する戦闘力の持ち主)」以外はそもそも戦いにすら参加させてもらえないという、言ってしまえばパワーバランスが完全に崩れたチート合戦です。
「超ブロリー」で「ブロリー超サイヤ人ゴッドやブルーと対等に戦えるのはおかしい」という意見がありますが、そもそも人造人間編の時点でパワーバランスも緊張感もへったくれもありません。


だからこそ私は様々なドラゴンボールファンの意見に理解を示しつつも、自分の中ではやはりフリーザ編までで終わらせるのがベストだったという思いが今でもあるのです。
こんなことをいうと、セルゲームでの悟飯の超サイヤ人2や魔人ベジータからのナンバーワンのくだりが見られないという反論があるでしょう。
確かにそれはそれで一定の面白さはあるし、それを好きな人の感性まで否定する気はありませんが、個人的な思いとしては「まあなくてもいいかな」というのが率直な意見です。
商売人気から生じた副産物として一人歩きしてしまったものなのですから、別物として割り切ってみれば面白いのでしょうが、正当な続きとしては見れません。


少なくとも私の中の「ドラゴンボール(Z)」はナメック星編(フリーザ編)の超サイヤ人登場をもって完結しています。
だから人造人間編以降は「ドラゴンボール(Z)のIF」という+αのものとしてしか見られません。