明日の伝説

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ドラゴンボール(Z)レビュー②〜孫悟空はなぜベジータが「大嫌い」なのか?〜

 

gingablack.hatenablog.com

 

前回の亀仙人の教えの記事で、孫悟空が今現在ある「超」まで含めてあのような性格になった理由を述べました。
それを受けて孫悟空の第2のターニングポイントになるのが「サイヤ人編〜ナメック星編(フリーザ編)」であり、悟空の強さの秘訣と出生のルーツが明かされます。
同時に「ドラゴンボール」という作品が日本を超えて世界的な人気を支持するようになるのですが、その要因は間違いなくこのサイヤ人編〜ナメック星編(フリーザ編)でした。
アニメ「ドラゴンボールZ」と題されるこの時代は私自身リアルタイムでその凄さを体感しており、特にベジータ戦とフリーザ戦は毎週お茶の間で噛り付いてビデオが擦り切れるまで見たほどです。


そんな今回の記事のテーマは悟空とベジータの関係性、もっと言えばタイトルに書いたように「孫悟空はなぜベジータが「大嫌い」なのか?」ということに触れていきます。
悟空とベジータの関係性についてはDBの熱狂的ファンであるBIX氏をはじめ様々な考察がなされていますが、ほとんどが「ベジータ→悟空」ばかりで逆はなかなかありません。
それもそのはず、悟空とベジータについては、特に人造人間編〜魔人ブウ編においてはベジータが一方的に悟空に執着しているだけで、悟空自身はベジータにそこまで執着を持っていないのです。
しかも、悟空がベジータに本音を漏らす時は大抵ベジータはそれを聞いていないので伝わらず、お互いに一方通行なので、余計に2人の関係性がわかりやすいようでわかりにくく見えてしまいます。


あの時期は特に鳥山先生自身も尖っていて天邪鬼だったから(それは今もだけど)、ファンから「ベジータを殺さないで」と言われてあっさりベジータを死なせてしまうような人ですから本音は出さないのです。
ただ、ファンから散々突っ込まれることですが、原作の孫悟空はやっぱり鳥山先生の分身ともいうべきところがあって、特に感情面に関しては要所要所でぽろっと漏らしています。
そのポロっと漏らした本音の1つがナメック星編(フリーザ編)で死んだベジータに対して放った次のセリフです。


「おめえのことは大キライだったけど、サイヤ人の誇りはもっていた……オラもすこしわけてもらうぞ、その誇りを…オラは地球育ちのサイヤ人だ…!」


滅多に他者への思いを口にしない、基本的に誰に対してもフラットで淡白な対応をする悟空が「大嫌い」という言葉をベジータに対してだけは漏らしていて、これって結構珍しいのではないでしょうか。
悟空は基本的に淡々としていて、一見仲間思いのようでいて実はとんでもない単独主義、身内に入れた者は大事にするけど基本的には排他的で、世間の関係ない人々が死のうが冷淡です。
しかし、その分クリリンや仲間たちが殺されるとたちまち激昂し、容赦無く相手をぶちのめす怖さもあって、そういう相手はもはや「好き嫌い」を通り殺して「ぶっ殺してやる!」「滅ぼす」という言葉を使います。
現にピッコロ大魔王の配下にクリリンが殺された時、そして同じようにクリリンがナメック星でフリーザに殺された時、悟空は激昂し恐ろしい戦闘狂の凶暴さを剥き出しにして戦っていました。


だから悟空の場合本気で憎いと思った相手に対しては口で「嫌い」などと言わず問答無用で殺しにかかりますし、その相手に殺す価値がないとわかれば勝負を損切りして放置したりもします。
そんな悟空がベジータに対してだけは「大嫌い」と言っていて、明確に「嫌い」とはっきり口にしていて、これはメタ的に見れば鳥山先生のベジータに対する好き嫌いを悟空を通して代弁しているのでしょう。
しかし、物語上のこととして考えると、悟空が「殺したい」とまで思わなくても「大嫌い」とはっきり口にした相手はベジータが最初で最後であり、そこには間違いなくベジータへの思いが感じられました。
今回はこの点に関して突っ込んでいきたいのですが、まず大前提として「孫悟空は戦闘民族サイヤ人カカロットのIFである」ということを理解しておかなければなりません。


再三口を酸っぱくして言っていますが、悟空は決して大義や信義・道義といった英雄的思想を持っているわけではなく、単に亀仙人の教えを素直に実行している、強くなりたいだけの男です。
この点をマンバ通信の上田啓太氏は「悟空には帰属意識がない」と指摘しており、今回記事にしているセリフについても触れています。


「おお!」と思わされる。しかしその後、悟空が「地球育ちのサイヤ人」としての自覚を持ち続けるかといえば、そうでもないのだ。あくまでもこれは瞬間的な自覚にすぎないのである。ベジータに分けてもらったサイヤ人としてのプライドは、気づけば淡雪のようにどこかに消えている。これが真の意味で「軽い男」である。

 

引用元:https://manba.co.jp/manba_magazines/4632


確かにここに書かれているように、悟空は「軽い男」であり、サイヤ人の誇りといったものも特別に持ち続けているわけではありません。
ただ、この記述もやはり正確さを欠いており、その後悟空は超サイヤ人に覚醒した時、「超サイヤ人孫悟空だ!」と口にし、更にフリーザから問い詰められても「だから滅びた…」と返しています。
本当に悟空がただの軽い男だったら、それこそ「超サイヤ人孫悟空だ!」といった口上すら名乗らないでしょうし、そこにはやはり何かしら葛藤があったのではと思うのです。
そこの部分について鳥山先生に聞いたところで「その場のノリ」としか返って来なさそうですが、ここから悟空は映画「ブロリー」のラストまで一貫してずっと「孫悟空」としか名乗りません
罷り間違っても記憶喪失になる前の「カカロット」という名前を口にすることはないのですが、本当に軽い男ならそれこそ「カカロット」を勢いで名乗ってもいいでしょう。


しかし、孫悟空が意地でも「カカロット」を名乗らなかった理由、そしてベジータに対して「大嫌い」と口にした理由はサイヤ人編でベジータが大猿になった時にあると思われます。
この時、悟空は自分が誤って育ての親・孫悟飯を大猿になって殺してしまったことを思い出し、そのツケを払わされるかの如く大猿ベジータに全身の骨を折られてしまうのです。
更にそのベジータクリリンが言ったようにナメック星に来ても改心などまるで行わず、相変わらず自分の目的のためならば平然と裏切りも行うし、ギニュー特戦隊の連中も容赦なく殺します。
悟空が「殺す必要はなかったはずだ!」と咎めましたが、そう言ったのはもし自分が「カカロット」として生きていたら、ベジータのような侵略者の道を歩んだかもしれないからでしょう。


自分が何者かというルーツを知ることが必ずしもいいことだとは限りませんし、寧ろ悟空の場合自身が残虐な戦闘民族であったという過去は寧ろ知らない方が幸せだったといえます。
しかし、紛うことなき戦闘民族として生まれている以上、己の体に流れている残虐さや圧倒的な力を否定することなどできず、悟空は内心いい思いはしていなかったでしょう。
つまり悟空にとってのベジータは自分の嫌な面を映し出した鏡面であり、ベジータのような残酷さが自分にもあることを受け入れることができなかったのだと言えます。
でもだからといって、そこでベジータを全否定してしまったら、それは自分を否定することにもなりかねず、だからこその「大嫌い」という言葉だったのではないでしょうか。


実はもうこの時点で悟空とベジータはお互いのことをある程度認め合っているわけであり、直接思いを口にせずともそこにはある種の仲間意識のようなものが芽生えていたのかもしれません。
本格的にこの2人の距離が縮まっていくのは魔人ブウ編終盤以降ですが、悟空とベジータは単なる「ライバル」「親友」というような安易な定義に収まる関係性ではないのは事実です。
サイヤ人編での悟空とベジータは「殺し合う宿敵」であり、ナメック星編(フリーザ編)での悟空とベジータは「呉越同舟」でしかなく、少なくともこの時のベジータは悟空の影響を強く受けていません。
寧ろ、初期の段階では悟空の方がベジータから受けた影響が大きく、一生懸命界王様の元で修行して全力で挑んでも敵わなかった相手ですし、数少ない心底から「負け」を認めた瞬間でしょう。


そんなベジータがやることなすこと自分の意に反するものだから「大嫌い」になるのも納得ですが、本人に直接言わずに影でそういうことを言うのがまた面白いですよね。
ドラゴンボールはキャラもストーリーも凄くシンプルでありながら、登場人物同士の人間関係が意外にも奥行きがあって、それが数多くの考察が生まれる理由なのでしょう。
とにかく、当時の孫悟空カカロットにとって同じ戦闘民族サイヤ人という共通のバックボーンをルーツとして持つベジータの存在は悟空に大きな影響を与えた人物だと思われます。
今でこそ対等なライバル関係という一般的なジャンプ漫画のあり方に落ち着いていますが、悟空とベジータの始まりはなんとも言えない微妙な距離感だったのです。