明日の伝説

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ドラゴンボール(無印)レビュー①健全と不健全の両極を行く亀仙流

現在「ドラゴンボール」を改めて無印時代から読んでいますが、やっぱり悟空にとって最初のターニングポイントはやはり亀仙人との出会いです。
この亀仙人との出会いは現在の「超」に至るまで孫悟空の思想の大元になるのですが、今見直すとこの教えってとても変に思えます。
以下のコマです。

 

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亀仙人の教え


当時は本当に無知で頭空っぽ(褒め言葉です)だった悟空が初めて人生で「思想」といえるものを育ての親・孫悟飯以外から教わった瞬間です。
しかし、この亀仙人のセリフはよくよく考えると変なものであり、実はそう簡単に真似してはいけない健全かつ不健全な教えだといえます。
なぜそう感じるのかというと、特に次の部分が私の中でどうしても引っかかるのです。


「武道を学ぶことによって心身ともに健康となりそれによって生まれた余裕で人生をおもしろおかしくはりきって過ごしてしまおうというものじゃ!」
「ただし!不当な力で自分、もしくは正しい人々を脅かそうという敵には、ズゴーンと一発かましたれ!!」


この中で「武道を学ぶことで心身共に健康となる」はわかりますが、「武道によって生まれた余裕で人生を面白おかしく生きよう」という教えは必要でしょうか?
また、「不当な力で自分、もしくは正しい人々を脅かそうという敵には、ズゴーンと一発かましたれ!!」もよくよく考えてみると変です。
一見「正義の為なら武力行使による正当防衛も許される」ということでしょうが、その「正しい人々」の基準が曖昧ですし、「脅かそうという敵」の基準もわかりません
ここで鳥山先生が具体的に「正しさ」「敵と味方」に関する明確な区別を定義していないことが実は孫悟空の歪さに繋がっているのではないでしょうか。

 

 

gingablack.hatenablog.com


孫悟空は前回の記事でも書いたように、決して「世のため人のため」なんて大義名分を背負ったヒーローではなく、戦闘民族サイヤ人の下級戦士・カカロットが頭を打って残虐さが消えただけの元侵略者です。
そのため、劇中では一貫して「人でなし」の描写が目立ち、少なくとも世間一般の常識や価値観とは無縁のところに生きている存在であり、だからこそそれが戦闘狂にしてサイコパスに見えてしまう所以でしょう。
とはいえ、いわゆるファンがよくいう「サイコパス」とも違っていて、悟空は単純に物事を亀仙人が教えたことをベースに強くなることだけを目標として生き続けているだけなのです。
それがベジータやピッコロ、悟飯辺りとも違っているところですが、その大元は間違いなく亀仙人の教えにあったわけであり、意外にもこの点を無視して語っている人が多くいます。


武道で得た力を「世のため人のために役立てなさい」は多くの格闘漫画やヒーロー作品にありがちなレトリックですが、「ドラゴンボール」ではそれを「自分の人生を楽しむため」に使えというのです。
つまるところ己の快楽ために武道を使うのが亀仙人の教えであり、悟空はとんでもない人に師事してしまったものだといえますが、ただこれが後々の「身勝手の極意」に繋がっているのかと納得。
その上で、サイヤ人編以降で悟空が知ったもう1つの自分のルーツである「戦闘民族サイヤ人カカロット」としてのアイデンティティが合わさったことで後期の悟空が作られているのです。
さて、話を元に戻して、個人的にピックアップしたいのが「不当な力で自分、もしくは正しい人々を脅かそうという敵には、ズゴーンと一発かましたれ!!」という台詞です。


興味深いのは亀仙人のこのセリフが決してヒーロー作品にありがちな英雄的思想(=何かを守るため)ではなく、「道家としての許容範囲で鉄拳制裁をしなさい」としか言っていないことにあります。
そこから先の相手を殺すか殺さないかという判断基準は全て孫悟空に委ねられているわけであり、明確な正義の基準が語られていないためにヒーロー作品の枠に当てはめることができないのです。
小さい頃の悟空はその辺りの力加減や判断材料が少なく、だからレッドリボン軍その他を容赦なく殺してしまうことに一切の躊躇がなく、実は一番「人でなし」「サイコパス」と言われる時期でもあります。
そんな悟空が明確に「命を奪うこと」の重みを実感したのがピッコロ大魔王戦であり、この時悟空は初めて(というか唯一)道家としてではなく「戦士」として戦ったともいえるのです。


クリリンが殺された時、悟空はかつてない程激昂しましたが、後の「超」まで含めても悟空がここまで激怒したのはピッコロ大魔王・ナッパ・フリーザとの戦いくらいでしょう。
この時初めて悟空は「命の重さ」を知り、むやみやたらと相手の命を奪うことはなくなりますが、その最初のターニングポイントは間違いなくこのピッコロ大魔王編にあったといえます。
ただし、悟空が相手の命を奪わないのはクリリンの命を奪われた」という個人的体験というよりは「武道の試合」としてやっているからであり、勝負が着いたと思ったらその時点で試合を損切りするのです。
だから悟空は「優しい人」でも何でもなく「強くなって相手と戦うこと」以外には興味がないということであり、仲間だの友情だの絆だのといった情緒はゼロではないにしてもほぼ持ち合わせていません。


しかし、原作はともかく東映アニメのスタッフは原作者の鳥山先生が打ち出したこの亀仙流の教えや悟空のキャラクターを掴めていないのか、昔の劇場版では悟空が単なる正統派ヒーローになってしまっています。
躊躇なく相手の命を奪ってしまっていますし、また「地球を守る」だの「お前が守らなきゃ誰が守るんだ!」みたいな戦隊レッドや昭和ライダーみたいな利他的な説教をするキャラになってしまっているのです。
私が昔の「ドラゴンボールZ」のアニオリ回や劇場版を好きじゃない理由は鳥山先生が提示した原作の世界観やストーリー、キャラの骨子を理解せずに安易なヒーローものの理屈に当てはめてしまっている点にありました。
無印は孫悟空の大元の人格形成がなされるという点で大事な基礎を築いている時期ですが、中でも大きいのはこの健全かつ不健全な亀仙人の「身勝手の極意」に繋がっていく教えにあったのです。