明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ46作目『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)第10話感想

 

ドン10話「おにがみたにじ」


脚本:井上敏樹/演出:田﨑竜太


<あらすじ>
漫画家の鬼頭はるか(志田こはく)は、新作も大人気で栄誉ある漫画賞を受賞。学校でも人気者で、彼氏とも順調、漫画家としての華やかな日々を送っていた。これまでに獲得したポイントにより、戦士を辞めて元の人生を取り戻したのだ。その頃、人気漫画家たちが行方不明になっていた。はるかは、サイン会にやってきた真利菜から電話番号を書いたメモを渡される。さらに、海賊鬼に襲われたはるかの前に、真利菜が現れ…。


<感想>
「才能は奪うもんじゃない!自分の努力で磨き、育てるものよ!」


井上先生、流石に今の時代そのメッセージでは古いですよ(^^;


うーん、今回の話は多分平成初期、「ジェットマン」「アギト」の頃であれば通用した価値観の話なのでしょうが、流石に令和の時代ではまるで目新しさのないメッセージでしかありません。
要するに「他者の才能を奪ってもそれは偽物だ」「才能はそれだけで輝くのではなく努力が大事だ」ということなのでしょうが、両者に関してはどちらも反例があるだけに肯定はしづらいところです。
例えば他者の才能を奪うことに関してですが、よくこの手の「偽物が本物に敵う筈がない」に関してはとっくに初代「仮面ライダー」の時点で答えが出ています。
あの作品ではゲルショッカー編終盤でショッカーライダーが出てきましたが、スペックだけでいえば本郷・一文字と同等のスペックであり、真っ向勝負では決着がつきません。


じゃあその場合どこで差がつくのかというと、結局は経験値やテクニック、そしてなんといっても「マインド」の部分であって「努力」という安易なものではないのです。
後発であってもそのコピーした才能を独自のやり方として昇華して自分のものとして使いこなしてしまえば先発を超えることも普通にあります。
ショッカーライダーはその意味で1号と2号を超えうる洗練されたスペックを持ちながらも、更に学習経験を積んで相手を超える・上回る経験をしていません。
つまり積んできた戦いの場数、そして何より「新技を開発して相手を倒す」というところに至る発想力がないという欠点が存在します。


今回の例もそれと同じで、おそらく写真家の真利菜は戦士としての素体スペックや性格面・協調性などの総合力では彼女の上を行く人材だといえるでしょう。
しかし、彼女には経験値や発想力・精神力といったところではるかに勝てない部分があり、実は戦士向きではないのです。
いわゆる2代目イエローネタという、歴代では「ゴレンジャー」の二代目キレンジャー、「バイオマン」の二代目イエローフォーのネタを彷彿させます。
話数的に考えて今回の場合は後者のオマージュでしょうが、でもネタの内容的には井上先生が「ターボレンジャー」のブルーターボネタで書いたネタの発展形という印象。


それに「才能は努力で育てるもの」という言葉の使い方も嫌いで、未だに日本って悪い意味で努力信仰が根っこにあるのだなあなんて思ってしまいます。
これは林修先生が言っていたことですが、「努力は実る」という言葉は決して正確な言い方ではなく、そこには「適切な環境で正当な方法によってなされた」という但し書きがつくのです。
努力は「量」も大事ですが同時に「質」も大事であって、例えばテニスでどんなに努力家であっても伸び悩む選手がいるのはそもそも基礎の部分で間違えていたり、努力の仕方に問題があったりします。
その部分を是正することなくただ闇雲に努力したってその才能を効率よく伸ばすことはできないというところへの目配りがなされていません。


というか、今回の場合話のテーマにすべきは「才能を奪う」とかではなく「個性の違い」を出すことにあるのではないでしょうか。
他者の物をただコピーするだけでは単なる「盗作」でしかないのですが、だからこそ大事なのは「その人にしか出せない個性」がその漫画や写真に感じられるかどうかなのです。
今回出てきたのはゴーカイジャーをモチーフとしたヒトツ鬼でしたが、本家「ゴーカイジャー」はまさにその辺りをテーマにした作品でした。
単に歴代戦隊の力を彼らは「持っている」だけであって、「使い熟す」というところにまでは至っていません。


ゴーカイジャーが歴代戦隊の力を100%フルに使えるのはその歴代戦隊と交流を重ね、その戦隊の魂とのシンクロ率が高まった時です。
つまりレンジャーキーや大いなる力自体は単なる「手段」「道具」でしかなく、それをどう自分たちのものとして内側に取り込んでいくかがマーベラスたちの課題でした。
そしてそこにおいて大事なのはやはり地球人代表の鎧が見習いとして入ったことであり、鎧が真の宇宙海賊に成長すると同時にマーベラスたちもまた真のスーパー戦隊に成長していく二重構造です。
その二重構造が「ゴーカイジャー」という作品が単なる宇宙海賊マンセーに終わっていないバランスの良さであり、ある種のアニミズムが存在していました。


じゃあ白倉・井上コンビがその「ゴーカイジャー」の本質を理解していたかというと、ジェットマン回を手がけた井上先生はともかく白倉の方はどうにもその辺をわかっていない感じはしますね。
前作「ゼンカイジャー」でも時々度が過ぎた不謹慎なネタがありましたし、白倉Pってわざとなのか今でも無神経な炎上商法をやっていますが、もうそんな方法が通用する時代ではありません。
いい加減やめてほしいものですが、でももうそのやり方で成功してきて過去の栄光に縋っているしかないしがない老害社長だから仕方ないのかなあという気もしますが。
真利菜とはるかがお互いに自分たちの人生を疑似体験することで本当に大切なものに気づかせる、という構造はいいのですが、どうにも伝えたいテーマと実際の描写がズレているという印象になってしまいました。


総合評価はどう高く評価してもD(凡作)というところで、本作が抱えている悪い意味での平成の価値観が出てしまったなあという一本でした。

 

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