明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ30作目『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)15・16話感想

 

Task15「水の都」


脚本:小林靖子/演出:渡辺勝也


<あらすじ>
世界のどこにもない文字で書かれた文書が見つかった。もしかしたら未知の文明の発見か?直ちに文書の確認に向かうボウケンジャー。しかし、そこにジャリュウ一族のナーガとラギが現れて…一方、3日も徹夜して倒れてしまった牧野先生。どうやら新たなゴーゴービークルを作っている様子だったが…


<感想>
今回と次回は小林靖子脚本による前後編ですが、なぜこのタイミングで「水」をモチーフにした作品と出会ってしまうのでしょうか?


いやね、最近私「水」に多大なる興味を抱いていまして、飲み水や買う水は結構こだわって飲んでいますし、将来的にはMy Waterすら保有したいと割と真剣に考えています。
今回はそんな失われた古代文明のお話ですが、まずこれ自体が後半のある出来事に関する伏線となっておりその仕込みというか前段階を作っておこうという布石です。
そして2つ目に、この前後編は構造的に「星獣戦隊ギンガマン」のギンガの森をそのまま本作用に仕立て直した設定であるというのがいえるのでしょう。


ラギを演じたのがガオブルーを演じた柴木丈瑠氏、そして長老を演じたのが巽モンド博士を演じたマイク眞木氏というのも当然狙ったキャスティングです。
割と90年代後期〜00年代初期を思わせる作りになっているのは、小林女史にとっても日笠Pにとってもその時代の戦隊への思い入れが強いからかもしれません。
そんなセルフオマージュとして作られた今回の話ですが、演技というかドラマとしての見所はやはりラギと長老の掛け合いのシーンではないでしょうか。


「長老……」
「ラギ、なんという姿に。愚かな」
「もうすぐなんだ。絶対に水の都は復活する!」
「いいや、また誰かが死ぬだけだ。このまま終わるのが水の都の運命ならば、静かに受け入れなければならぬ」


このやり取りだけだとわかりにくいのですが、2人が語るところによると海と都を守る力だった秘宝アクアクリスタルが砕け散ったがために都が滅んでしまい、その結晶のカケラを集めることがラギの目的でしたという話。
ギンガの森との違いはギンガの森が一度「封印」という形を自ら取ったのに対して、水の都は「滅んだ」というところであり、現在の文化として生きているわけではありません。
それを狙っているのがリュウオーンであるということですが、先に評価を言ってしまうとやはり作りとしては今ひとつ甘いというか、物語としての奥行きが感じられないのです。
原典の「ギンガマン」があまりにも作りとして完璧すぎたのもあるんですが、それを差し置いてもこの内容ならばもう少し盛り込めたのではないかと思います。


サブをやっている時の小林さんって時々こういう雑さが出てしまうところはありますが、どのあたりがどう雑なのかは次回でまとめて語りましょう。
細かいポイントを言うと、牧野博士が実はとんでもないワーカーホリックで本質的にチーフと似た者同士というところかなと。
この辺りの細かいキャラ付けはさすがというところですが、総合評価としてはC(佳作)となります。


Task16「水のクリスタル」


脚本:小林靖子/演出:渡辺勝也


<あらすじ>
ジャリュウ一族は、伝説の都市「水の都」を甦らせることができるプレシャス=アクアクリスタルの所在を示す文書を狙っていた。そしてジャリュウ一族と行動をともにしていたラギは全てを捨てて竜の力を得た水の民だったのだ。リュウオーンは文書が失われた事を知ると、掌を返しラギを粛清しようとするが・・・


<感想>
いやいやいや、このエンディングで感動とかできないんですが小林靖子先生!


今回改めて見直しましたが、以前見たときに比べるとかなり作りの粗さが目立ってしまい、もう少しきちんと掘り下げて欲しかったところです。
話のテーマとしては要するに水の都を失ってしまったラギが最後に故郷を取り戻し、その上で水の民の証も取り戻して大団円という流れになっています。
チーフはそのサポートをしただけということで、表向き綺麗にまとまってはいるものの、諸々の点で突っ込みどころ満載であまり擁護できません。


まず何が問題かといってそもそも水の都がどんなところで、そこで人々は何を願いながら暮らしていたのか、どんな文明を築き上げていたのか?が不明なこと。
そういったところの掘り下げがなく水の都が単なる映像で示された以上の奥行きを持たないので、ラギの帰還に全く感情移入できません。
また、水の都を勝手に戻したということはある種の環境破壊にも繋がっているわけですし、今後この水の都に侵入者が来ないとも限らないでしょう。
おそらく建物の形などから察するにこの水の都はアトランティス大陸がモデルでしょうが、もっとその辺りの実態を深掘りして欲しかったところです。


そういう「故郷への思い」が強固だからこそ、そこに帰りたいというラギの思いにも説得力が出るし、それに力を貸すボウケンジャー5人の姿にも説得力が出ます。
この辺りは原典の「ギンガマン」に出てくるギンガの森の描写がきちんとしており、1年かけて丁寧にギンガの森の民がどんな民族で何を思いながら生きていたかが語られています。
その上でアースがギンガの森の民の象徴として描き、それを喪失してしまった4クール目のヒュウガの離脱とそれを取り戻して最終回にギンガの森へ戻る大団円が光るのです。
つまりラギとはボウケンジャー版のヒュウガといえるのですが、ヒュウガに比べるとあまりにもキャラクターとしてのバックボーンに厚みが足りなさすぎます。


まあ「冗談じゃない。お前達ボウケンジャーは、昔の宝を独り占めしてるそうじゃないか。残りのクリスタル文書を取り上げようってつもりだろう?!」は間違いじゃないのですが(苦笑)
また「違う!正直に言う、俺は幻の水の都が見たいんだ。甦る海なんて考えただけでワクワクする。こんな冒険、滅多に無い」はチーフの思いがこもっていて好きなんですけどね。
小林靖子先生が描くチーフは會川先生が描くチーフとはまた違ったキャラクターに見えて、同じキャラクターを描いておきながら結構温度差があるんですよね。


12話のさくら姉さんの回がそうですが、小林女史はキャラクターを大事にするものの、どこか客観的というか常に後ろで引いて俯瞰してキャラクターを描いている感じがします。
それに対して會川昇先生はすごく主観的というか、「俺は冒険が楽しくて仕方がないんだ!」を100%疑わないで進んでいくという意味ですごく主観的なのです。
つまり、會川昇先生がチーフに自分を投影しながらすごく主観的に描いているのに対して、その會川先生の主観で出来上がったチーフを第三者目線で「要するにチーフってこうだよね」と批評しているのが小林女史。
小林女史はメインの時もサブの時も決して主観的にならず常に知性でキャラクターをコントロールして描いている、だから80〜90点台の脚本家と言われがちなのかもしれません。


ただ、今回のこれに関しては小林女史がというより、そういう2話完結で描ききれない壮大な設定のネタを振ってしまった會川先生のシリーズ構成としてのミスだと思います。
おそらく「ギンガマン」をしっかり描き切った実績からお願いしたのかもしれませんが、あれは決して小林女史だけの力でできたわけじゃありませんからね。
様々な事情が折り重なってあれだけの傑作になり得たわけであり、それと同じことを本作でやろうとするのは無理があったのではないでしょうか。


総合評価はE(不作、この内容だったらもっとしっかり丁寧に掘り下げられたと思います。

 

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