明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズにおける「画面の情報量」について考察してみた

昨日書いた「ドンブラザーズ」に関して、肯定するにしろ否定するにしろ、視聴者が根底に感じていたのは「何が何だかわけがわからない」という感想です。
これは誰しもが感じていたであろうことで、私自身も正直何度見直しても全くわけがわからないまま困惑のみがある状態なのですが、その原因がどこにあるかを考えてみました。
結論からいえば、スタッフ・キャスト共に今のニチアサが持つ「画面の情報量」に対応できていないからではないか?ということです。
以前に書いた「スーパー戦隊シリーズと限界効用逓減の法則」の記事とも深く関連しているので、未見の方はこちらの記事を先に読んでから本記事をご覧ください。

 

gingablack.hatenablog.com


では、これからスーパー戦隊シリーズにおける「画面の情報量」について考察していきましょう。

 


(1)子供向け特撮作品における3つの情報量とスーパー戦隊シリーズの流れ


これはスーパー戦隊シリーズに限らずウルトラシリーズやライダーシリーズにもいえることですが、子供向けの特撮作品には大まかにわけて3種類の情報量があります。
「設定」「物語」「玩具販促」であり、この3本柱のバランスによって成立しており、スーパー戦隊シリーズはその構造が他のシリーズよりもわかりやすく見える構造になっているのです。
「ジャッカー」で一旦打ち切りになったことを除けば、1作たりとも切らさずに続いているために進歩自体は緩やかですが、確実にある時期ごとにこの「情報量」は増えています。
それを1つ1つ検証していると長くなるのである程度端折りながらになりますが、個人的に大きいなあと感じた転換点をいくつか述べていきます。

 

  1. 超電子バイオマン』……「物語」の情報量が増えるが、「設定」「玩具販促」はそのまま
  2. 鳥人戦隊ジェットマン』……「物語」の情報量が圧倒的に増える反面「設定」「玩具販促」はある程度犠牲に
  3. 恐竜戦隊ジュウレンジャー』……「設定」「玩具販促」の情報量が増える反面「物語」の情報量が減る(前作『ジェットマン』の逆)
  4. 未来戦隊タイムレンジャー』……「設定」「物語」の情報量が増える反面「玩具販促」はかなり犠牲に
  5. 百獣戦隊ガオレンジャー』……「玩具販促」の情報量が増える反面「設定」「物語」の情報量が減る(前作『タイムレンジャー』の逆)
  6. 轟轟戦隊ボウケンジャー』……「設定」の情報量が膨大に増える反面「物語」「玩具販促」の情報量はそのまま
  7. 侍戦隊シンケンジャー』……「設定」「物語」の情報量が増える反面「玩具販促」とのバランスが悪い
  8. 海賊戦隊ゴーカイジャー』……「玩具販促」の情報量が圧倒的に増える反面「設定」「物語」の情報量が減る(『ガオレンジャー』と同様)
  9. 特命戦隊ゴーバスターズ』……「設定」「物語」「玩具販促」の全てを増やそうとするもバランスが悪い


かなり多くなってしまいましたが、私が記憶する限りではこんなところで、特に顕著なのは「ジェットマン」→「ジュウレンジャー」、「タイムレンジャー」→「ガオレンジャー」辺りですかね。
設定や物語の情報量を増やしている反面子供向けとしての玩具販促を犠牲にした「ジェットマン」「タイムレンジャー」と、その逆を行く徹底した玩具販促重視の「ジュウレンジャー」「ガオレンジャー」。
この辺りは差別化も勿論のこと、作り手が常に3本柱のバランスをどう取るかに腐心しているためでしょうが、スーパー戦隊シリーズは常に画面の情報量を底上げしながらここまで来ているのです。
おそらく今のスーパー戦隊シリーズの情報量の多さに慣れている人は「ゴレンジャー」をはじめとする70・80年代戦隊シリーズは物足りないように感じられるかもしれませんし、逆もまた然りです。


(2)スーパー戦隊シリーズの場合は「タイムレンジャー」までがドラマの情報量としての限界


で、ここからはもう完全な個人的見解ですが、やはりスーパー戦隊シリーズに関しては「タイムレンジャー」までが子供向け特撮作品に詰め込めるドラマの情報量としての限界だと思います。
同じことは「スーパー戦隊シリーズと限界効用逓減の法則」で述べましたが、その理由は「ヒーローとは何か?」「戦隊とは何か?」を突き詰めると「タイムレンジャー」までで究極まで行き着いているからです。
これもどこかで書こうと思っていたのでここで書きますが、私は「ギンガマン」「ゴーゴーファイブ」「タイムレンジャー」の3作が今日まで続く戦隊シリーズの源流にして完成形だと思っています。
逆にいえば、「ガオレンジャー」以降のスーパー戦隊シリーズはこの3作までで完成したものをベースに水嵩を増して、あれこれマイナーチェンジを繰り返しているに過ぎません。


まず「ギンガマン」は何度も述べているように「ジェットマン」が打ち出した「自己犠牲ではない未来へ向けた戦い」というテーゼを引き継ぎながら、同時に「星を守る」をドラマとして突き詰めています。
公10の完璧超人型であるヒュウガ、私10の復讐鬼型である黒騎士ブルブラック、そして公5私5のバランス型であるリョウマ、それぞれが単独で主役を張れるヒーロー像を3人も同一作品に存在させているのです。
そして物語を進める中でそのヒーロー像のコントラストを際立たせながら「ヒーローとは何か?」「戦隊とは何か?」「星を守るとは何か?」を設定・物語・玩具販促の全てにおいて抜かりなく一貫させています。
だからこそ今現在でも数多くの後継作品、悪くいえばエピゴーネン(亜種)が作られ続ける程の普遍性ある名作となったのであり、まさに平成戦隊のニュースタンダード像となりました。


続く「ゴーゴーファイブ」では「自己犠牲」「復讐」ではなく「人の命は地球の未来」をモットーに、「家族再生」を私的動機の中に抱える救急戦士の物語を描いています。
もちろん「ファイブマン」でうまく生かし切れなかった5人兄弟という要素のリターンマッチではあるのですが、それと同時にレスキューポリス3部作の戦隊シリーズにおける再現というのもありました。
そのドラマは34話までで1つの完成を迎え、あとは母親の帰還と打倒サイマ一族を果たすのみであり、物語としての完成度では前作「ギンガマン」に劣る分娯楽性や勢いでカバーしています。
この2作をもって理想の戦隊ヒーローはもう描けるところまで描いたわけであり、そこから先に踏み込んだ領域の戦いが描かれたのが「タイムレンジャー」です。


タイムレンジャー」は「ギンガマン」「ゴーゴーファイブ」で踏みとどまった「子供向け」という蓋を取っ払って、「設定」「物語」の情報量を極限まで増やしました。
「犯人を逮捕する」という、「命の奪い合いではない世界」だからこそ描ける大人社会のヒーロー像を描き、「21世紀へ向けて若者はどのように生きるべきなのか?」を描いています。
だから竜也たちは社会貢献という形で世界への関わりを持っているものの、彼ら自身が動く動機はあくまで「明日を変える」という極めて卑近な動機によるものです。
そしてその動機が第三勢力として立ちふさがる直人や黒幕のリュウヤ隊長と同じだったからこそ、あの終盤の大消滅を食い止める展開が異色の展開として際立つことになります。


つまり、「ゴレンジャー」で示された「緑の地球を守る」「力と技と団結の合図」というテーマは「ジェットマン」の変革を経て「タイムレンジャー」までで行き着くところまで行き着いたのです。
ここまでやるべきことをやってしまった以上、そこから先の作品では大きなパラダイムシフトを「物語」の観点から起こすことは不可能とは言わないまでも難しくなってしまいます。
そして次作「ガオレンジャー」以降のスーパー戦隊シリーズは「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」を演じ続けていくことになるのです。


(3)「ガオレンジャー」以降は「量」ばかりが増え続けている


百獣戦隊ガオレンジャー』以降のスーパー戦隊シリーズでは実は「量」ばかりが増え続けていて、「質」そのものはそんなに大きく変化していません
確かに「設定」「物語」「玩具販促」のいずれも「量」そのものは昔に比べれば圧倒的に増えていますが、そのことと「質」の向上はまた別物です。
小手先のお約束外しなどは見受けられますが、それが何か大きな変革に繋がっているのかというと、そういうわけではありません。
これは「ボウケンジャー」「シンケンジャー」辺りを見るとわかるかと思いますが、この2作で圧倒的に1話に詰め込む設定や物語の「量」は増えました。


しかし、この2作が「タイムレンジャー」までの作品が持ち得たような迫力やシリーズ全体に再考を迫るほどの変化をもたらしたのかというと、残念ながらそうではないのです。
ボウケンジャー」も確かに「正義の味方」ではないピカレスクロマンを確立こそしていますが、途中から「正しい魂」だの何だのといつもの戦隊ヒーローの理屈から抜けられませんでした。
シンケンジャー」に関しても「殿と家臣の主従関係」という設定をしっかり守りきりましたが、戦隊ヒーローとして大きなブレイクスルーを起こした革命作というわけではありません。
それにも関わらず玩具販促の物量自体は増え続けるのみで、こうなると作り手としては商業主義に阿ってしまわざるを得なくなってしまいます。


小林靖子女史が2014年の「トッキュウジャー」を最後に戦隊・ライダーのTVシリーズに戻ってこないのも、理由の1つは間違いなくこれでしょう。
決して変身ヒーローそのものが嫌いなわけではなく、むしろ「刀剣乱舞」「仮面ライダーアマゾンズ」「岸辺露伴は動かない」などを伸び伸びと書いていらっしゃいます。
そんな彼女がニチアサに戻ってこないのは「トッキュウジャー」までで水かさを増していくばかりの子供向け特撮作品の制作体制に嫌気が指していたからかもしれません。
これは高寺Pの怪獣ラジオでも語っていましたが、「ギンガマン」でギガライノス・ギガフェニックス・ギガバイタスを出してくれと言われた時に「もう書かない」と荒れたとの逸話があります。


それでも「シンケンジャー」「ゴーバスターズ」「トッキュウジャー」まで書き続けたのですから凄いプロ根性だと思う反面、こんな体制を続けている今のスーパー戦隊シリーズの問題もあると思うのです。
もちろんこれはスポンサーや玩具販促ありきの今の体制そのものが悪いと言いたいのではなく、そんな窮屈な中でも続けなければならない作り手の限界を露呈させているのではないかというのを危惧しています。
それがひいては作品そのものの質にまで影響を及ぼしてしまうほどに、受け手を心配させてしまうほどに今のスーパー戦隊シリーズに詰め込む物量そのものがもはや青天井になっているのかもしれません。


(4)「ドンブラザーズ」のスタッフ・キャストの制作体制が今日の戦隊シリーズに対応しきれていない


以上を踏まえて、改めて「ドンブラザーズ」の1話がイマイチだった理由を考えると、これは白倉・井上コンビが今日あるスーパー戦隊シリーズのあり方に対応しきれていないからでしょう。
スタッフを見ると白倉P・井上先生・田崎監督という平成ライダー初期のメンバーですが、彼らの作劇のあり方が「アギト」「555」の頃から少しも進歩していません。
というより、平成ライダー初期の作劇をそのまま今日の戦隊で首を挿げ替えてやっているという感じで、それがかえって今のスーパー戦隊その不協和音を起こしている(ように感じられる)のです。
正に「金八先生第7シリーズ」における金八先生と似たようなことになってしまっていて、「白倉・井上コンビもすっかり衰えたなあ」と思ってしまいます。


3年B組金八先生」についてもいずれ批評を書きますが、私の中では腐ったミカンの加藤優が出た「第2シリーズ」と兼末健次郎と金八先生の真っ向勝負である「第5シリーズ」が二大傑作という感じです。
特に1999年放送の「第5シリーズ」は私自身もリアルにこの当時中学生だったこともあり、金八先生の集大成にしてシリーズ最高傑作というべき完成度を誇る作品となりました。
しかし、その後2001年の「第6シリーズ」では「設定」「物語」の物量を詰め込みすぎてパンクを起こしてしまい、そして第7シリーズではすっかりかつてのカリスマ熱血教師の威光が通用しなくなります。
これと似たような現象が起こっているのが白倉・井上コンビなのかなと……このコンビの辿ってきた歴史を考えると、正に金八先生と似たような流れを辿っているのです。


まず「ジェットマン」で作家として大成功を収めた井上先生はその後「ダイレンジャー」「ハカイダー」を通して白倉Pと共に頭角を現し、「シャンゼリオン」で完全に作家性を確立しました。
更にその作家性・才能は「仮面ライダーアギト」で1つの完成を迎え、「アギト」は「クウガ」が切り開いた平成ライダーのスタンダードを完成させた名作となったのです。
しかし、その後「龍騎」「555」辺りで徐々にその作家性・才能にも陰りが見え始め、「カブト」辺りになるともはやかつての切れ味がなくなっていきます。
そして、久々にニチアサに戻ってきたはいいものの、すっかり時代に取り残されたこのコンビは今のスーパー戦隊シリーズに対応しきれていないという事態に。


これがあの1話を見た時に私が感じ取ったことであり、もしかすると多くの視聴者が覚えた違和感の正体はこれだったのかもしれません。
玩具販促を1話から詰め込まなければならない今のスーパー戦隊シリーズの商業主義と、大量の設定や物語を詰め込もうとする白倉・井上コンビのやり方が喧嘩してしまっているのです。
「視聴者置いてけぼり」と方々で言われていますが、私の印象としてはむしろ逆であれこれ説明しようとしすぎてかえって消化不良を起こしてしまっているのではないかというね。
そしてそれを役者さんも承知ではあるものの、求められるハードルに答えられるだけの演技力も演出力もないのが実情ではないでしょうか。
もっとも、これから巻き返していく可能性だってありますが、それにしたって1話からこんなに物量を詰め込まないといけないスーパー戦隊シリーズは大変だなあと思ってしまいます。

 

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