明日の伝説

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「ジェットマン」以前と以後の大きな違い〜戦いが「日常」か「対岸の火事」か〜

これは一度ブログやTwitterの方でいつかまとめようと思ったのですが、実はこれまだ誰もしっかり言語化していないことだったので、改めてまとめてみます。
昨晩、長々と私の考えを聞いてくださったTwitterのフォロワー様方、本当に私の稚拙な語りを最後まで御清聴くださり、ありがとうございました。
おかげで私の方も随分刺激をもらえて、やはりトークという形だと、また違った観点から違ったものが見えてくるから面白いところです。


さて、今回のテーマなんですが、改めてスーパー戦隊シリーズの歴史の転換点となっている「ジェットマン」について、改めて発見がありました。
まあ発見というよりは以前から私がこうじゃないかと思っていたことを改めて言語化しただけなのですが、それについて考えをまとめてみます。
間違っている部分があったり、あるいは「こうではないか?」という別の考えがございましたら、是非指摘してください。

 


(1)「ジェットマン」以前と以後の大きな違いは戦いが「日常」か「対岸の火事」か


まず、これは私が歴代のスーパー戦隊シリーズを見ていて感じることですが、「ジェットマン」以前と以後で大きく違うのは戦いが「日常」か「対岸の火事」かという違いです。
この点に関しては私が現在書いているジェットマンの感想をご覧いただきたいのですが、「ジェットマン」第一話感想で私はこのようなことを書きました。

 

 

当時としてはかなり大胆なアプローチで崩しており、特に香の「浮世離れしているが故に地球の危機にピンときていない」リアクションは秀逸です。
普通は「戦士になれ」と言われれば多少ためらいがあったとしても事態の深刻さを察知しますが、香は全く危機感がありません。
同じことは雷太にもいえて、農業の方が大事というのはかなり大きいでしょう…そして戦いでは2人とも役立たず。
これは80年代の曽田戦隊に見受けられた「素人がいきなり宿命を告げられて、あっさり覚悟を完了して戦う」というお約束を崩したものになっています。

 


まず凱が口にする「人間なんざ滅んだ方がいい」というセリフは本気でそう思ったわけではありません。
しかし、こんなふざけたことを言うアウトローみたいな男がよりにもよってジェットマンのNo.2に来たというのがややこしいのです。
そして竜はそれに対して「命の尊さ」を説き、さらには「個人的感情なんて問題じゃないだろ!」と追い詰めますが、この1シーンは様々な屈折があります。
まず「竜=プロフェッショナル」「凱(とその他)=アマチュアという配置にしていますが、これは同時に「外的(=公的)動機」と「内的(=私的)動機」の違いでもあります。
竜は「地球の平和を守る」という「外的(=公的)動機」、凱は「一人で自由に生きる」という「内的(=私的)動機」のために動いています。

 

1つ面白いのは「ジェットマン」という作品は狂気の闘争の世界(=非日常)にいる天堂竜と小田切綾、そしてその世界とは無縁に生きていた凱たち4人という大きな隔たりがあることです。
まさにここが戦隊シリーズにおける分岐点というか、バイラムの強襲によって恋人のリエを失っている竜と素人4人ではそもそも「戦いとは何か?」という部分の肌感や認識が全く違います
天堂竜は80年代ヒーローのアンチテーゼとして描かれていますが、しかし同時に戦いの世界を日常として生きているプロフェッショナルでもあるのです。
それに対して、戦いが完全に「対岸の火事」となっていて、バイラムが襲ってこようが目の前の自分の生活こそが大事と主張するのが凱たち一般人の立場でもあります。


この視点や感覚の違いがそのまま人間関係の複雑さとなって現れているのが「ジェットマン」であり、これは上原正三先生や曽田博久先生がメインライターを務められていた時代の戦隊にはなかったものです。
もちろん上原先生や曽田先生が描かれた戦隊でも「戦いを拒否する戦士」はいましたが、それを物語のメインテーマとしてがっちり組み込んだのは「ジェットマン」が実は初めてのことであります。
「戦うトレンディドラマ」と評されるの理由も正にここにあって、平和ボケした現代日本人がいきなり狂気の闘争に巻き込まれたらどうする?というポスト冷戦のお話になっているのです。
単に恋愛ドラマを盛り込んだから名作というわけではなく、冷戦の危機が去った平成初期の時代にどういう立脚点からヒーローを再構築するか?を作り手は十分に分析した上で作られたのでしょう。


そこで盛り込まれたのが戦いの世界を知っている天堂竜とそうではない凱たち4人という図式であり、プロとアマの混成チームにすることで、その辺りをうまく炙り出したのだと思います。
で、「ジェットマン」はそういう意味でいうと、すごく卑近な「個」の視点から戦隊シリーズが1年を通して「真の戦隊」になる話として描かれており、正に平成の世に向けた革命作だったのです。
冷戦が集結して平和になったと思われた1991年という平成の始まりに本作が出現したことは正に時代の必然だったと言えるのでしょう。
ジェットマン」で実はもうスーパー戦隊シリーズにおける「戦い」というものが「日常」から「対岸の火事」になってしまったのです。


(2)スーパー戦隊シリーズのメインライターが抱えるバックボーンの違い


この「ジェットマン」以前と以後の違いについて、脚本家の作家性の観点からそれを指摘していらっしゃる方がいらっしゃいますが、ここでは特に私が深く共感した部分について引用してみましょう。

 

katoku99.hatenablog.com


いや、そもそも彼が元々刑事もののライターであり、その当時の作品は、犯人逮捕という目的は果たせても、社会全体の歪みは変えられない、というアンハッピーエンドで問題提起的な幕切れが多かったこと、そして彼が世間的には“挫折の世代”といわれる学生運動の世代(=終戦直後の昭和20年代生まれのいわゆる“団塊の世代”)に属することなどを考え合わせると、この認識はそもそも杉村自身の中に社会“公”と個人“私”の関係としてあったもの、なのかもしれない。

 

kurigoto.hatenadiary.com


「サイボーグにならんか?」に始まり、『ジャッカー』世界はごく普通に何かが狂っているのですが、その、ごく普通に何かが狂っているという部分において、上原正三の色がかなり強い作品なのかもしれません。そう考えると、そんな空気と親和性が高かったのが後に80年代戦隊の要となる曽田博久であった、というのは何か納得するものがあります。戦隊で更にその後を引き継ぐ杉村升も、まさにこの、ごく普通に何かが狂っているラインですし(笑)
で、曽田戦隊と杉村戦隊の狭間であり、戦隊史におけるターニングポイントである『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)が、主人公を狂気に落とす所から物語を始めていたのは、戦隊史を見つめて戦隊を組み立て直す、という作品の意識において、必然であったのだと、改めて思う所(上述の3人と比べると、井上敏樹は正気と狂気の境界線がある人ですし)。


このような指摘がなされていますが、これらの違いはどこから生じているのかというと、「狂気の闘争」を脚本家(作家)が肌感で知っているかどうかにあるのではないでしょうか。
例えば上原正三先生は幼少期に故郷の沖縄を米軍の攻撃で一度失ってしまい、戦争難民として体験しているという幼少期の壮絶な経験が作風となって色濃く反映されています。
彼が「帰ってきたウルトラマン」「ゲッターロボ」「ゴレンジャー」「ジャッカー」「バトルフィーバー」「デンジマン」「サンバルカン」などで仮想敵としているのはアメリカなのです。
特に「怪獣使いと少年」はその意味で上原先生の作風が色濃く出ており、やや生で表現されてはいるものの、正にあれこそが上原先生にとっての「戦い」というものだったのではないでしょうか。


そして80年代のメインライターをお務めになった曽田先生や「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」までを務められた杉村升先生はいわゆる「全共闘」の世代です。
つまり、学生同士の狂気の闘争が日常にあったわけであり、上原先生とはまた違った形での自発的な闘争が描かれているのですが、それでもやはり最後は自己犠牲となります。
いくら個人が頑張っても社会全体の仕組みまでは変えられないというどこか諦観にも似た挫折を味わってきた世代であり、作風が狂っているように見えるのは戦いが日常だからでしょう。
必死に考えなければ生きられなかったのが70・80年代戦隊の作家や90年代前半の杉村先生が描かれたファンタジー戦隊三部作で描かれる「戦い」の本質だと思われます。


で、その点大きく変わったのが井上敏樹先生が描かれた「ジェットマン」や浦沢先生が描かれた「カーレンジャー」、武上先生の「メガレンジャー」「ゴーゴーファイブ」に小林先生の「ギンガマン」「タイムレンジャー」です。
90年代に入ると「ジェットマン」を臨界点として「ヒーローはなんのために戦うのか?」「なぜヒーローはヒーローたり得るのか?」を先人が描いてきたものを分析しつつ1から組み立て直すことになります。
ジェットマン」に関しては(1)でも述べたように井上敏樹先生の文学趣味が炸裂していて、卑近な個人の視点から「戦隊はどのようにして団結するのか?」を1年かけて描いているのです。
プロフェッショナルである竜と素人でしかない凱たちがその温度差や認識の違いを1年かけて埋めていき、最終回直前で真のヒーローになるという構造になっています。


そこから今度は高寺Pが担当し、浦沢先生が96年で描かれた「カーレンジャー」では完全に戦いが「対岸の火事」となった世界の話であり、恭介たちは一般人とヒーローを兼ねながら戦うことになるのです。
しかしその中で「自分にもある弱さを知れば本当のヒーロー」という本質が浮き彫りになり、敢えてヒーローをヒーローらしくなく描くことでたどり着ける一般人とヒーローの関係を再定義しました。
それこそが「等身大の正義」の中身であり、誰でもが勇気1つあればヒーローになれるというのを1年かけてしっかり描き切ったのが「カーレンジャー」ではないでしょうか。
そして、それを踏まえての「メガレンジャー」では完全にスタッフが一新し、武上先生と小林先生を参入させ改めて「新趣向の戦隊」として描いた向きがありました。
メガレンジャー」の終盤は80年代戦隊が抱えていた「狂気の闘争」を久保田博士とドクターヒネラーの因縁を通して擬似的に再現したものであるとも言えます。


そしてそれを踏まえた上で、小林女史が時代劇趣味の立脚点から戦隊を組み立て直したのが「ギンガマン」であり、あの作品でようやく「狂気の闘争」という呪縛からシリーズを解放することに成功するのです。
旧世代のレッドの象徴であるヒュウガと新世代のレッドの象徴として描かれるリョウマの「炎の兄弟」を通して自己犠牲や復讐という要素と真正面から向き合い、それをしっかり否定して次世代にバトンを渡しました。
だからこそ翌年の「ゴーゴーファイブ」ではマトイたち巽ブラザーズが復讐や自己犠牲によらない戦い方を実現することができたといえ、本当の意味での平成戦隊は「ギンガマン」「ゴーゴーファイブ」で実現したのでしょう。
そしてその戦いがさらに大人向けとして極まったのが「タイムレンジャー」であり、あの作品では善悪すら取っ払って完全に大人の世界の話として描かれています。


タイムレンジャー」までの戦隊シリーズ狂気の闘争を知る世代とそうでない世代の分水領が脚本家のバックボーンの違いとなって色濃く現れているのです。
まだこの部分に関して十分な批評の文脈が形成されていない気がしますが、この観点から戦隊シリーズを捉え直してみるのも一興かもしれません。
ここで気になるのが、それこそ昨日発表された「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」であり、メインライターが「ジェットマン」の井上敏樹先生なのです。
ジェットマン」以来30年ぶりとなる井上先生のメインライター戦隊ですが、果たしてどのような戦隊となるのでしょうか?
ジェットマン」と同じように狂気の闘争を知るレッドとそうでない4人との違いになるのか、それとも別の手でくるのか、楽しみです。

 

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