明日の伝説

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公的動機と私的動機の観点から見る『侍戦隊シンケンジャー』(2009)の引っかかり

ここ最近Twitterスーパー戦隊シリーズの「戦う動機」について呟いていたら、ある方が凄くハッとするような指摘をなさっていました。
それは「たとえ「星を守る」「人を守る」でも、それを自主的に選んだのなら公的動機ではなく私的動機なのではないか?」という文言です。
私の中で「なるほど!」と納得するとともに、長いこと『侍戦隊シンケンジャー』(2009)に引っかかっていたモヤモヤが氷解した気がします。
これから私が書くことは単に私1人だけがそう思っているのかもしれませんが、整理しながら書いていきましょう。

 


(1)「シンケンジャー」は「ジャッカー」「サンバルカン」「オーレンジャー」のような公的動機の極致


歴代戦隊の中で戦う動機には二種類あり、公的動機(組織の規律が優先されるもの)私的動機(個人の意思が優先されるもの)の2種類があります。
これはどっちが正しいか間違いかとか、どちらかでなければならないということではなく、割合としてどちらが大きいのかという程度問題です。
で、その公的動機と私的動機の観点で見た時にシンケンジャー」は00年代戦隊にしては珍しい極度の公的動機で戦う戦隊なんですよね。
歴代戦隊でここまで組織に雁字搦めになっている戦隊はそれこそ「ジャッカー」「サンバルカン」「オーレンジャー」辺りではないでしょうか。


立ち上がりの第一幕、第二幕を見ればわかりますが、丈瑠たちがシンケンジャーとして戦うことになったのは完全な公的動機です。
親から「シンケンジャー」として戦えと言われてそれに素直に従った流ノ介とことは、そして親から侍として大事なことを教えられなかった茉子と千明。
それぞれに思うところはあれど、一度ショドウフォンを受け取り家臣となった以上そこに個人の意思が介在する余地はなく、行動も制限されてします。
しかもきちんと結果を出さなければならないため、第二幕では立てなかったことはを丈瑠が「放っておけ」と切り捨てて、茉子たちはそれに反発するのです。


しかし、そうした自主的な判断や反発がうまく行ったのかというとそういうことはなく、一度家臣として殿の手足となった以上自分勝手な行動は許されません。
第十二幕で「殿と家臣」という主従関係(これ自体が公的動機の極致である)を結びますが、家臣たちの役割は「組織の歯車になる」ことでした。
側から見るとそれは宗教とも取れるようなもので、千明はそれを「洗脳」と言いましたが、実に言い得て妙です。
そう、丈瑠に跪いて家臣になることは自分という人間の個性を押し殺すことにも繋がりますから、それが普通に育った千明からすれば宗教に見えたのでしょう。


それは終盤まで一貫していて、本作では何をするでも志葉家当主の許可が必要であり、唯一自分の意思で動けているのは寿司屋の源太だけです。
しかし、その源太ですら侍として一緒に戦うのには丈瑠なり終盤の薫姫なり、志葉家当主の許可を得ねばならず、これは要するに軍人戦隊とほぼ一緒になります。
本作では丈瑠と薫がレッドと司令官を兼任しているため、余計にそれが作風として強調されているのです。


(2)自分の意思で選んでいる、と言えるのか?問題


そこが見えた上で私の中で引っかかったのは流ノ介が第七幕で言った「自分の意思で家臣となることを選んだ」という趣旨の発言です。
この回では元黒子だった漁師の人が「お前の家臣としての忠義は親に洗脳され、教科書通りに従っているだけではないか?」と鋭く突っ込みます。
それに対する流ノ介の回答が上記なのですが、こう見ていくと流ノ介が丈瑠の手足となって戦うことが本当に自分の意思だったのか疑問です。
残りの千明、茉子、ことはにしたって第十二幕で自分の意思で改めて丈瑠に命を預けると言ってますが、それって本当に自分の意思なのでしょうか?


4人が家臣になろうと決めた理由はあくまでも丈瑠の戦闘力の強さが根底にあり、その上で丈瑠が背負う志葉家当初の重さを少しだけ理解したからにすぎません。
しかも丈瑠に命を預けると言えるほど家臣たちは戦場でしっかり実績を残しているわけではなく、ほとんど丈瑠が敵を倒しているのです。
ここまで力の差が示されていればどう足掻いても丈瑠に従う他に道はなく、本当に自分の意思で選んだかと言えるのか?という疑問が残ります。
なぜこのような疑問が残るのかというと、立ち上がりの段階でそもそもシンケンジャーの使命自体が個人の意思ではどうにもならない固定された宿命だからです。


ただし、昔と違って現代は人間関係が希薄ですから、1つのチームを作って仲間としての絆を形成しようと思うと、どうしても時間がかかります。
だからこそ1クールかけて真のチームになるまでを描いたともいえ、本来なら第一幕の段階で出来ているべきチームワークや連携ができるようになるまでに遠回りしたのです。
そして肝心の丈瑠自身が家臣たちと近づき過ぎることを、特に初期は遠ざけていたので、本当の意味で自分たちの意思で主従関係を結んだと言えるか疑問は残ります。
唯一自分の意思で選んだと言えるのが源太であり、源太だけは公的動機ではなく私的動機で動いていたため、それが流ノ介たちとの違いにもなっているのでしょう。


(3)結局丈瑠の意思はどこにあるのか?


そして(2)で論じたことが作品全体のテーマとして浮上したのがシンケンジャー終盤の核心である丈瑠=影武者問題であり、ここで丈瑠は薫姫の登場とともに志葉家を追い出されます。
感想でも書きましたが、歴代戦隊で敵組織ではなくヒーロー側が内輪揉めを起こすというのは珍しく、ここで丈瑠はまるで精神の糸がプツンと切れたようにバーンアウト症候群に陥るのです。
なぜそのようになったかというと、終盤で明らかにされましたが、そもそも丈瑠が志葉家当主として流ノ介たちとともに戦うこと自体が丈瑠の意思ではなかったからでしょう。
つまり完全な外的動機によって、丈瑠自身が望んだことなのかどうかの確認をする暇もないまま、ひたすら彦馬爺たちから「今日からお前がシンケンレッドだ」と押し付けられました。


だからその後はレールから脱線した完全な暴走機関車のように十臓との私闘に走るのですが、これも一見丈瑠が自分で選んだようでいて、その実十臓が望んだからそれに応えただけです。
逆に言えば、もしあそこで十臓が現れなかったとしたら、丈瑠は本当に路頭に迷ったまま何もしなかったのではないでしょうか?
その後家臣たちが駆けつけて丈瑠が外道落ちする前に1年かけて育んだ絆で救ってみせましたが、この絆ですら丈瑠がいうように大嘘の上に成り立つ砂上の楼閣です。
いくら家臣たちが自分の意思で丈瑠を真の当主だと思ったとしても、丈瑠自身はそうは思えなかったと思います。
むしろ4人が駆けつけたことによって、またもや丈瑠は志葉家当主としての戦いの業へと引き戻されるのですから。


それでは第四十八幕で丈瑠が戻ってから最終幕でのドウコクとの決戦はどうなんだ?という話ですが、あれはあくまでも薫姫の権限があってのものです。
あそこで薫姫が機転を利かせて丈瑠を養子縁組にしようと考案しなければ、丈瑠は志葉家十九代目当主になることも、流ノ介たちと戦うこともできませんでした。
つまり、あそこは自分たちの意思でチームになることを選んだようでいてその逆、志葉家の公的なシステムによって殿と家臣の関係が戻ったに過ぎないのです。
しかし、ここで肝心なのは「結局丈瑠自身の意思はどこにあるのか?」という問題であり、実は丈瑠は主人公でありながら一切の私的動機を持っていません


だから最終決戦でさえ自分の意思で戦ったのかどうかも怪しく、悪い言い方をすれば母上の指示通りに戦ったとみなせないこともないのです。
シンケンジャー」を好きな人も嫌いな人も引っかかっているのはここだったのではないでしょうか?
結局は組織の駒として動いているだけであり、それって本当に個人の自由で戦っているのかどうかという問題点。
それが70・80年代の軍人戦隊やその発展系である「オーレンジャー」が孕んでいた問題であり、本作はそこを「殿と家臣」という関係性で描くことによって浮き彫りにしました。


(4)「ギンガマン」「タイムレンジャー」とは正に逆の構造の作品


こう見ていくと、「シンケンジャー」は小林女史が描いた中では唯一とも言えるほど私的動機が完全に封殺された公的動機で戦っていた戦隊と言えます。
それは初期に描いていた『星獣戦隊ギンガマン』(1998)や『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)と比べればわかることです。
公的動機と私的動機が半々だった「ギンガマン」と完全な私的動機でチームを結成した「タイムレンジャー」、この2作に比べると「シンケンジャー」は全く真逆の戦隊となっています。
丈瑠がどうしてリョウマや竜也に比べてあんなに陰気で自信がなさそうなのかというも、私的動機となるものがなく感情を押し殺すように育てられたからでしょう。


ギンガマン」のリョウマは確かに兄ヒュウガへのコンプレックスがありましたし最初はギンガレッドの使命も義務的な側面がありましたが、決して戦うのが嫌というわけではありません。
むしろ炎の戦士になるために努力してきたわけですし、戦士としての自負心もプロ意識も歴代でトップクラスに高い…しかし、正式に資格を勝ち取ったわけじゃないからなかなか自信を持ちにくかったのです。
だからこそ半年間でしっかり実績を積み、黒騎士ブルブラックとの対立の中で戦士として大きく成長したわけであり、二十六章では自分の意思で真のギンガレッドになることを選びました。
つまり「ギンガマン」では公的動機と同時に私的動機もバランスよく描くという王道としてそれを使い、リョウマは歴代でも屈指の理想的なヒーローとなったのです。


そして「タイムレンジャー」の浅見竜也は完全な私的動機で家を飛び出し、父親に浅見の名前を押し付けられるのが嫌だから家を飛び出してTomorrow Researchを発足しました。
タイムレンジャーはロンダーズファミリーを全員逮捕するという公的動機を持ちながら、真のチームになるためには私的動機が必要だったのです。
だからこそ竜也の「未来は変えられなくたって、自分たちの明日ぐらい変えようぜ」が作品を代表する名言となったのであり、あの戦隊は完全に自立した個人として描かれました。
その代わり、個人的内情を引っ張っても違和感がないように、ロンダーズファミリーの目的を世界征服などではなく金儲けという小規模な犯罪にしています。


この初期2作と比べると、「シンケンジャー」はそれまでの小林女史の作品とは真逆に徹底的な公的動機で戦う戦隊をチャンバラ時代劇を通して描いたと言えるでしょう。
昔の滅私奉公で戦う軍人戦隊が抱えている闇を本作は明らかにしてみせたとも言え、ある意味では小林女史らしくない作風といえるかもしれません。
つまり位置付けとしては「タイムレンジャー」が完全なミーイズムの戦い、「シンケンジャー」が完全なナショナリズムの戦い、そしてその中間にあるのが「ギンガマン」という感じでしょうか。
こうした公的動機と私的動機を元に歴代戦隊を比較してみると、その作品がシリーズ全体の中でどのような位置付けにあるかが見え、引っかかりやモヤモヤが氷解するかもしれません。

 

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