明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ33作目『侍戦隊シンケンジャー』(2009)45・46話感想

 

 

第四十五幕「影武者」


脚本:小林靖子/演出:加藤弘之


<あらすじ>
突然「志葉家十八代目当主」を名乗る志葉薫の姿を見て流ノ介ら家臣たちは驚きを隠せなかった。屋敷に帰った家臣たちは彦馬爺にどういうことかと問い詰めるが、複雑な事情だけに明かすことができない。茉子は思い詰めた結果「丈瑠はあの人の影武者なのか?」と問おうとしたその瞬間、真の当主である薫とお目付役の丹波が現れる。丈瑠と彦馬はもうお役御免となってしまうのであろうか?


<感想>
さあ、ついにやって来ました、終盤のお家騒動もとい「影武者」編。
歴代戦隊で終盤で内輪揉めを起こすのが敵側ではなく味方側というのもかなり意図的な仕掛けなのでしょうね。
今回改めて明らかになった丈瑠の「影武者」という設定ですが、何度も述べているようにこれ自体はそんなに驚きの設定ではありません
というのも「ギンガマン」しかり「タイムレンジャー」しかり、小林女史は「代理人(2人)のレッド」を用いていたからです。


ギンガマン」の場合はリョウマとヒュウガの「炎の兄弟」、そして「タイムレンジャー」が変化球として竜也とリュウヤ隊長と直人という形で用いています。
そして本作「シンケンジャー」では志葉丈瑠と志葉薫という2人のシンケンレッドによって成り立っていたわけで、まずこの構造を見抜くことが大事です。
また、「影武者」ということでいえば、そもそも小林女史はデビュー作の「ジャンパーソン」で全く似た2人の真壁ジョージを描いています。
これも見方を変えれば「影武者」ネタであり、そういうことを知っていれば本作に出て来た「影武者」という設定自体に大した衝撃はありません。
それよりも小林女史が得意とする「代理人のレッド」をこういう形で使って来たかということの方が大事で、確かに終盤のオチに持ってくるというのはまだやっていなかったパターン。


改めて今回志葉家がなぜ「影武者」という残酷な設定を打ち出したのかというと、これは外道衆との戦いで疲弊した先代シンケンレッドの考えた策でした。
その先代シンケンレッドを演じているのはメガブルーこと松風雅也氏ですが、十七代目投手は不完全ながらも封印の文字を使い、一時的にドウコクを封印することに成功する。
しかし、いつドウコクが復活するかわからない上志葉薫はまだお腹の中にいた為、姫が完璧に封印の文字を習得するまでは矢面に立って戦う代理人を立てなければなりません。
そこで白羽の矢が立ったのが彦馬爺と志葉丈瑠であり、志葉丈瑠自体がそもそも「姫の代理人」であり、偽者でしかなかったというオチでした。
ここでまずはことはの「姉の代わり」でシンケンジャーになったという設定が丈瑠とリンクしている点が絶妙。


更に序盤から数々の伏線が散りばめられており、丈瑠がずっと家臣たちと共に戦うのを反対したのも、根っこにあったのは自分が影武者だったから
第六幕の「嘘つき」「大嘘つき」も影武者であることを隠して当主として振る舞っていたからであり、また第八幕で登場した5人の影武者もその伏線。
十一幕、十二幕で打ち出された「封印の文字」も伏線となっていますし、更に丈瑠が「俺の命、お前たちに預ける」といったのも全てはここで崩す為。
そして終盤で丈瑠が茉子に吐き出した「俺は…違う!」というのも、真意は「俺は本当の志葉家当主じゃない!代理人だ」という意味だったのです。


2クール目に源太が入って来て侍になる時に迷いが出たのも、柔らかくなって家臣と仲良くなる自分に戸惑ったというよりは「本当の当主じゃない」から悩んでいたと。
つまり根本の土台にあるものが「嘘」で成り立っている以上、本テーマとして描かれて来た「殿と家臣」という主従関係も結局は偽りでしかなかったのではないかということです。
また、ここでフォローしておきますが、この丈瑠が影武者で終盤にどんでん返しが行われるという展開自体は別段珍しいものではなく、過去にはいくつかそういう作品がありました。
例えば「科学戦隊ダイナマン」の夢野博士の正体や「チェンジマン」の伊吹長官の正体、「ダイレンジャー」の導師の正体など…戦士たちの精神的支柱となる人が正体を隠していたことから生じるどんでん返し。


ただし、本作ではそれが司令官ではなく戦隊レッドであるというのは初の試みであり、そういう意味でも本作は逆「ギンガマン」と言える構造になっているのです。
ギンガマン」はかなりストレートに理想を描いたというか、「旧世代の完璧超人型レッド」であるヒュウガ(元ニンジャレッド)と「新世代のリーダー型レッド」であるリョウマとの世代交代として描いています。
しかし、本作ではそれを理想ではなく残酷な現実に裏返して描き、そもそも「シンケンレッドとして戦う」という宿命自体が丈瑠も薫姫も望んだことではなかったのです。
あくまでも十七代目の意向によって志葉家が勝手に仕組んだことであり、すなわち本作で一番の外道は薫姫でも丹波でも、そして彦馬爺でもなく「志葉家の世襲制」それ自体にありました。
外道衆よりもはるかに志葉家の血筋や運命の方が恐ろしく、いってみればこれって超絶ブラック企業ですよね…で、丈瑠は社長代理人やってたら、後ろから本物の社長がやって来てハシゴを外された格好


しかも、その後丈瑠は家臣たちにこう言い残します。


「俺はお前たちを騙してた!ずっと騙し続けるつもりだった……預けなくてもいい命を預けさせて、お前たちが危険な目に遭っても、それでも黙ってた。そんな人間がこれ以上一緒に戦えるわけはない。侍ならこの世を守る為に……姫と」


一礼して去っていく丈瑠ですが、そもそも「志葉丈瑠」すら偽物の名前だった本名もわからない元志葉丈瑠はいってみればこの瞬間に「名無し」になったわけであり、もしかして戦闘員のナナシともかけてたり?
ただ、そんな中で丈瑠にとって救いだったのが幼馴染の源太…ここで改めて源太が「丈瑠の幼馴染」であることで、完全に孤独に追い込まず希望の光を残してるのはよかったです。
源太のウザいと思える明るさがようやく最良の形で効果を発揮し始め、やっとここで幼馴染コンビの設定が生きてきました。
あくまでも「丈瑠だから」仕えていた源太がこういう時に身軽に丈瑠の元に飛んでいけるのは便利設定が上手に生きた瞬間ですが、実に有効な使い方。


「丈ちゃん。俺は寿司屋だから。丈ちゃんが殿様じゃなくたって関係ねえよ、全然!前とおんなじ!うん」
「そうか……俺は殿様じゃない自分は初めて見た………ビックリするほど何もないな」


しかし、そんな源太の明るさですらも丈瑠を地獄から救ってくれる栄養源にはなってくれません。
この「びっくりするほど何もない」というセリフは今の丈瑠自身を表していると同時に、メタ的には前作「ゴーオンジャー」までの00年代戦隊の中身のなさを揶揄しているとも取れます。
そしてまた、これは「ボウケンジャー」で他ならぬ小林女史が書いたTask32の「チーフ(明石暁)から冒険を取ったら何も残らない」を本作なりに応用したものでもあるのです。
そう、志葉丈瑠から「志葉家当主」という立場と剣術を取ったら何も残らなくなる、それこそ出ていった後外道衆を倒すという使命すら見失ってしまうほどに。


……これねえ、私も経験したことあるからわかりますが、まじで必死に頑張って働いていた会社を突然向こうの都合でクビにされた時って本当にこうなるんですよ。
しかも当時(2009年)はリーマンショックで多くの派遣社員が解雇されて就職先に困っていた時代でしたから、ある意味丈瑠はそのリーマンショックで解雇されたサラリーマンの象徴とも言えます。
なおかつ、これだけ酷いことをしておいて志葉家が丈瑠のアフターフォローを源太以外誰もする気がないというのも酷い話です…うん、これ確かに子供には理解できないわ。
これ大きなお友達はともかく子供たちにはどう映ってたんだろう?結構難しかったんじゃないかなあ、そもそも「影武者」という設定すら理解できなさそうだし。


しかし、そんな燃え尽き症候群の丈瑠の元にやってきた十臓…きました、元々外道衆と距離を置いたフリーランスの彼は組織に縛られないので身軽に動けるのです。


「シンケンレッド……いや、違うらしいな。が、そんなことどうでもいい。俺と戦う、お前はそれだけで充分だ」
「それだけ…何もないよりはマシか」


第二十六幕の大決戦再びとなりましたが、大きく違うのはあの時に丈瑠にはまだ「志葉家当主」という立場と理性が残っていたのに対して、今回はもはや侍としての闘争本能と執着しかありません
このまま殿は何もないまま戻ってこないのか?運命の別れ道ですが、ここで丈瑠に道なき道を行かせて悪側に落とそうとするというのもすごい脚本だなあ。
今じゃ絶対できませんよこんなの…そして、また、姫も姫で男前に家臣たちを率いて、というかほぼ独断専行で外道衆をバッサバッサと倒しています。
体が小さいので烈火大斬刀をどう使うのかが気になりましたが、そこはさすが蜂須賀さん、足で蹴りながら遠心力で振り回すことで乗り切りました。


ただなあ、等身大戦はそれでいいとしても、巨大ロボ戦で源太の開発した海老折神と烏賊折神を本人の許可なく使ってしまうのはどうなのでしょうか?
源太が使用を認めたのはあくまで「丈瑠だから」であって、姫となるとまた話は違うような…そんなこんなで大混戦になってきたシンケンジャー終盤。
果たして丈瑠をこの闇から救うことができるのでしょうか?評価はもちろんS(傑作)です、姫の男前ぶりと丈瑠の燃え尽きっぷりが見事な好対照を成しています。


第四十六幕「激突大勝負」


脚本:小林靖子/演出:柴崎貴行


<あらすじ>
突如現れた真の当主である薫と共に外道衆と戦う流ノ介たちだったが、どうにも心がバラバラでモチベーションが上がりきらなかった。一方、彦馬爺と共に志葉家を追い出されてしまった丈瑠は完全な腑抜けに成り果ててしまう。そこに狙い澄ましたかのように十臓が現れ、リターンマッチを申し込む。丈瑠もそれに応えるように刀を抜き、一騎打ちに興じてしまた。彦馬は流ノ介たちと鉢合わせになるが…。


<感想>
影武者編第二幕もとい四十六幕ですが、今回と次回に関してはもうこの言葉が全てじゃないかと。


怪物と戦う者はその過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。


第二十五幕で茉子が太夫の深淵を思わず覗き込んでしまった時に引用した言葉ですが、それが今度は他ならぬ志葉丈瑠にまでかかってくるのです。


(存在するのはただ剣のみ、するべきことはただ戦いのみ)
(確かにこれだけは本物だ…いっさい嘘がない)


まさに「ミイラ取りがミイラになる」というレトリックで作られているのですが、今この瞬間に丈瑠は完全に外道に堕ちようとしています。
それこそ「仮面ライダー555」の先を行かんばかりに…「555」もこの辺り正義や善悪の教会が曖昧な作品でしたが、本作もそういった現代的な正義と善悪の複雑さがここで入ってきました。
逆に言えば前作「ゴーオンジャー」までの00年代戦隊が深入りを避けていた闇へ足を突っ込んだ瞬間であり、今ここに「ヒーローであることを軽く考えるな!」という作り手の強烈なメッセージを感じます。
志葉家当主という役割も失い、剣術しか残っていない丈瑠…そんな丈瑠の様子を見て彦馬爺も源太も思わず気が滅入ってしまうのです。


「殿は当主としては完璧に成長された。しかしそれがこのような局面で仇となるとは……!」
「なあお前ら、頼む!丈ちゃんが……何もないって……何もないって言うんだよ。そんなことねえよな?」


それまで丈瑠にとって何よりの精神安定剤だった源太と彦馬ですら、今の闇堕ち寸前の丈瑠を救う希望の光とはなり得ませんでした
彼らの声は届かず、これまで紡いできた絆や関係性といったものが全部なくなって志葉丈瑠という「偽物のヒーロー」がついに空虚になってしまうのです。
何が酷いといって、家臣たちがそれぞれ心の隙間を埋めていって順当にシンケンジャーとして成長してきたのに対して、そうなればなるほど丈瑠の空虚が増していく構造であること。
そう、実は真っ先に心の壁を乗り越えた千明を筆頭に茉子、ことは、源太の順で成長しているのですが、ここで戦闘力最強のはずの丈瑠と流ノ介が大きく揺れているのです。
因みに姫は最初から「境界線の向こう側」の人間なので一切ブレがなく、初めから完璧な勝者なのであれだけの男前度を保てているといえます。


繰り返し述べてきたように、本作は「ヒーロー性」と「人間性」が反比例の関係にあり、「人間性」の象徴に源太、千明、ことはが置かれていて、「ヒーロー性」の象徴に丈瑠、流ノ介、茉子、薫姫が配置されている。
その上で丈瑠だけが現在その「ヒーロー性」という虚飾すらも取っ払われて武力だけが残ったのが今の状態であり、こうなると丈瑠は「ヒーロー」でも「人間」でもなく「生物兵器でしかありません、それも相当危険な。
そしてその生物兵器という言葉は外道衆そのものであり、中でもただ相手を斬り殺すという快楽にのみ執着する十臓と完全に重なっているわけで、正に十臓は「アンチ志葉丈瑠」なのです。
「どこか歪だから」というこの「歪」の中身とは「侍=ヒーロー」として育てる一方で「青年=人間」としての喜びや悲しみといったものは全て犠牲にしてきたことを指しています。


そしてその「人間であることを捨てたヒーロー」とは正に昭和時代の自己犠牲で戦うヒーローそのものに繋がり、仮面ライダーやゴレンジャーらがなり得たかも知れない暗黒面を意味するのです。
しかもここ流ノ介が1人だけ正座して丈瑠を助けに行かず葛藤するところもまた見事で、彼もまた「ヒーロー=シンケンブルー」と「人間=池波流ノ介」の間で揺れています。
つまり「姫を守る=公」と「丈瑠を救済する=私」とで対比されており、ここで改めて丈瑠たちが1年かけて築き上げてきた「殿と家臣」が実は「公」ではなく「私」であったことが見えるのです。
それに関してはすでに十二幕の段階で描き終えていることなのですが、ずっと一緒に戦っているうちに丈瑠も家臣たちもそれが当たり前になって本質を見失いかけていたのかもしれません。


そうならないように、改めて小林女史は「ヒーローと人間」「殿と家臣」「公と私」を意図的に対比させながら、これまで散りばめてきた要素を丹念に収束させていきます。
それは同時にどこか横並びの友達ちっくな関係だった00年代に対して「お前ら本当にそれでいいのか?そんな友達付き合いのような甘い関係でいいのか?」ということでしょう。
そしてもう1つ、これはビジネスの話にも繋がってくるのですが、丈瑠たちの結んできた「殿と家臣」という関係性がビジネスライクなものではないかという問いです。
きっと丈瑠がこのようなことにならなかったら源太も彦馬も、そして家臣たち4人も有耶無耶にしたまま向き合うことがなかったのではないでしょうか。


姫と家臣たちの関係性は完全な「役割」としてやっている「公」の関係ですが、そのような一方的な上意下達方式が本当に正しい関係性なのか?
しかし、だからといって00年代戦隊のバカレッドに代表されるような横並びの「みんなで仲良く戦おうぜ」なヒロイズムが理想のヒーロー像というわけでもない。
それではこれからの時代に求められるヒーロー像とはなんなのか…この終盤に来て、伏線回収を行った結果そういう諸々が見えて来ました。
逆にいえば、闇落ち寸前の丈瑠の姿は丈瑠だけではなく家臣たちも、そして真の当主である志葉薫もなり得たかもしれない姿なのです。


しかしなあ、こうやって考えていけばいくほど、丈瑠がこうなったのは「志葉家の教育システム」もしくは「先代志葉家当主」のせいとしか思えません。
先代シンケンジャーがきちんと影武者を立てることで生じるネガティブシミュレーションを行わなかったからこうなったんじゃないでしょうか?
なんかこの「先代からの業のツケを孫たちの代で清算しなければならない」というのは漫画「NARUTO」も最終的にそうだったのですが、幾許か意識したのかも。
また本作が逆「ギンガマン」であることを考慮するなら、「ギンガマン」は先祖代々しっかりネガティブシミュレーションは立てていましたからね。
家柄ごとにバラバラではなくギンガの森の民が一体となってやっていたから、ギンガの森やヒュウガの喪失があっても取り乱すことなく対処できたのでしょう。


ただ、これは同時に時代錯誤な武家社会を現代日本で描こうとなると、そういう危険な側面があるということでもあるので、安易に肯定しないのはいいバランスでした。
もはや姫そっちのけになっていますが、まあ姫は姫で最初から完璧に強く男前なので、この段階ではまだ特筆すべきことはありません。
評価はS(傑作)、果たしてここからどのような着地を見せるのかがとても楽しみです。

 

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