明日の伝説

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原作「ドラえもん」レビューその①〜日本特有の社畜万歳精神〜

大長編「ドラえもん」のレビューを書いた影響で原作の「ドラえもん」を現在読み直しているのですが、やっぱりポリコレやコンプライアンスなどの問題で時代錯誤な描写や価値観は多々あるなあと。
もちろんそれは「ドラえもん」に限らず昔の作品ならば多かれ少なかれあるものなのですが、ことのび太の両親や先生が説教するような内容は今の時代に流石に通用しないだろうというものが多々あります。
それは原作漫画を小さい頃に読んだ私ですら子供心に感じたのですから、完全に価値観も時代性も異なっている今の子どもたちでは尚更理解できないのではないでしょうか。
その中の1つがこちらです。

 

のび太社畜精神を植え付けるのび助


原作4巻の「してない貯金を使う法」の中にあるのび助がのび太に「働いて稼ぐことの大切さ」を説いているのですが、一方でこんなことを有難がっているから日本はいつまでも借金大国なのだとも考えられます。
この話でのび太は今すぐにプラモデルを買いたいが為にお金をズルかまして手に入れようとするのですが、そのようなことをするとろくな大人になれないということをいいたいのでしょう。
確かにそれはその通りで「悪銭身につかず」と言いますが、かといってのび助のこの説教が本当に正しいのかというと決してそういうことではありません。
むしろ昭和時代の価値観の主流にして、今でも日本人の働く根底にある社畜万歳精神、わかりやすくいうと「24時間戦えますか?」がこの説教の根底にあるものです。


今のように個人が自立して働き方の多様化が認められた以上、もはやただ働いて稼ぐことに何の意味もないことは周知の事実であり、ましてや日本では働けば働くほど税金を搾取される構造にあります。
さらにいえば、もう賢い人はすでに気づいて実践し始めていることですが、本当の意味で豊かになりたい、経済的にも精神的にも豊かな人になりたければ労働収入だけでは無理なのです。
これに関してはYouTuberのヒカル・ラファエルをはじめホリエモンや青汁王子、孫正義など一流のビジネスパーソンは口を酸っぱくして権利収入(不労所得)の大切さを説いています。
今、ネットのあらゆるところでやたらに投資やMLMなどの広告が多くなっているのも、もはや労働収入だけで生きていける時代ではなくなってきていることを意味するのではないでしょうか。

 

4つのお金の稼ぎ方


このように、ビジネスの形態には4つの段階、Employee(従業員)、Self employee(自営業者)、Business owner(ビジネスオーナー)、Investor(投資家)があります。
この内Employee(従業員)とSelf employee(自営業者)が「働いてお金を稼ぐ=労働収入」、そしてBusiness owner(ビジネスオーナー)とInvestor(投資家)が「働かずして稼ぐ=権利収入」です。
日本ではなぜかこの4つの段階のうちEとSに関しては執拗に重要性を強調しますが、後者に関してはなぜかきちんと教えない、否、教えてもらえません。
本来お金持ちになりたいのであれば労働収入:権利収入=2:8が望ましいのですが、なぜかこのようなことに関しては日本だと教えられていないのです。


このことを知った上でもう一度のび助の説教を見ると、いかにのび助の説教が偏っているか、事実を隠蔽してのび太社畜精神を植え付けようとしているかがわかるのではないでしょうか。
汗水を流して働くことは確かに「労働の初期段階」では大切ですが、それを過ぎてある程度稼ぎができてきたらそれを投資に回して権利収入を膨らましていかなければいつまでも会社に都合よく使われて終わりです。
そこに気づかずにせっせとありのように働いてバカみたいに税金を納めていると、いつまで経っても国からお金を一方的に搾取される構造から逃れることはできません。
のび太は父の説教の意味がわからずズレた解釈をしてしまうのですが、一方でのび太のしかめた面は「パパの言うことは本当に正しいのだろうか?」という疑問・批判を提示しているという意味では間違っていないのです。


この場合問題にするべきは「どのようにしてお金を稼ぐか?」よりも「稼いだお金を何のために使うのか?」であって、その観点で見た時のび太にお金を与えることは決して長期的に見て得策ではありません。
のび太スネ夫の金持ち自慢に対抗するために買うわけですが、そのような目先の物欲を満たすためだけにお金を稼いだとして、それはいわゆる「海老で鯛を釣る」ことではないでしょうか。
そのプラモを手に入れたところでのび太自身の成長に繋がるのかということを問うべきであり、お金は「どのように稼ぐか?」よりも「どう使うか?」ということの方が大事なのです。
どれだけお金を稼いだとしても、そのお金を私用で消費し私腹を肥やしていたらすぐになくなるわけであり、いつまで経ってもお金は貯まりません。


お金をテーマにして話を展開する場合、最低でもここまでやってようやくのび助の説教やのび太の行為などにも深みが出るのであって、しかし当時の子供向けでは「働くことが大切」以上にはいえないのでしょう。
このお金の問題に限らず、今日の視点で「ドラえもん」を読み直すと「それは本当に今の時代に通用するのか?」と思うことが多々あるわけでして、時代性の違いだけでは片付けられない問題が多々あります。
そしてまた、こんな働き方や考え方を有難がっている限り、のび太は一生本当の意味で豊かな人生を歩むことはできないのではないでしょうか。

大長編ドラえもん1作目『のび太の恐竜』(1980)

出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00005HVG5

昨日『ドラゴンボール超』の未来トランクス編のレビューを書いたときに大長編ドラえもんに言及した影響で、久々に大長編ドラえもんを見て唐突にレビューを書きたくなりました。
丁度今YouTubeで『恐竜戦隊ジュウレンジャー』を配信していますし、恐竜モチーフは戦隊シリーズだとヒットするモチーフの1つというのもありますし、扱うなら丁度今かなと。
思えば大長編ドラえもんでも恐竜モチーフは何度か用いらているものですし、古代の生き物として使えるので創作の題材として用いやすい普遍性のあるものなのかもしれません。
さて、そんな本作ですが、最初に書いておきますと、基本的に私は本作をはじめとする大長編ドラえもんシリーズに関しては基本的に否定的かつ嫌いというスタンスであることを明記しておきます。


その理由はこれから具体的に述べますが、まずそもそも論理的かつ俯瞰的に見た場合のび太たちの行動原理が明らかに矛盾や破綻を含んでおり、それが見逃せないからです。
子供向け作品の中には大人になってもしっかり見直せる普遍性のある良質な子供向け作品と、子供の時には楽しめても大人になって見直すと矛盾や破綻が気になって楽しめなくなる子供だましの2種類があります。
本作はその点で見ていくと間違いなく後者であり、特に特撮作品などの勧善懲悪を見慣れたその視点で見た場合のび太たちのやっていることが実は無自覚な悪であることが目についてしまうからです。
それに気づいてしまった時、私はどうしても「ドラえもん」という作品を子供の頃のような感性で素直に楽しめなくなってしまいました。


私はそもそも原作の「ドラえもんからして好きか嫌いかで言えば「嫌い」な方なのですが、それでも国民的漫画・アニメとしてヒットするだけのものは持っており、コンテンツとしては高く評価しています。
原作の「ドラえもん」が国民的漫画になり得た要因はいわゆる「等身大の小学生同士の原風景」をSF(少し不思議)をスパイスとして絡めることで面白さに昇華した作品だからです。
藤子・F・不二雄先生はのび太を「自分の分身」と仰っていましたが、確かに人間としてダメな部分が愛されに繋がり、また意外な天才的資質を持ったアンチヒーローというのは藤子先生と重なるところがあります。
それをさらに対比としてわかりやすく見せているのがのび太自身の憧れにして嫉妬の対象でもある出木杉英才であり、出木杉とは一言で言って「藤子先生から見た手塚治虫先生のカリカチュアでしょう。


生前、藤子先生はF氏もA氏も「手塚先生には到底及ばない」というコンプレックスがあり、A先生は確か手塚先生の漫画「来るべき世界」の大量の原稿を見てその異次元さを感じ取られたのだとか。
確かに「来るべき世界」をはじめとする「メトロポリス」「鉄腕アトム」など手塚先生が手がけた本格派のSF漫画と比べたら、「ドラえもん」は決して良質・高尚なSF作品だとはいえません。
それでも名作になり得たのは「藤子先生に及ばない」というコンプレックス・負け犬根性から生まれた等身大の小学生の織りなす日常のドタバタが多くの子供の心を掴み共感を呼んだからです。
しかし、本作がひとたび国民的漫画・アニメとしてヒットすると当然編集者やアニメ会社・スポンサーは当然「金の生る木」として「ドラえもん」を消耗品として擦り倒す方向性に打って出ます。


本作はそのような「さらなる飛躍」のために小学館シンエイ動画の楠部三吉郎氏に説得される形で描いたものですが、皮肉にも本作によって「ドラえもん」は完全に別路線へ進むことになりました。
それまで等身大の日常のみを矛盾や破綻の目立たない範囲で描いていた藤子先生が大長編などと銘打ってヒーローものや本格派SFといった領域に手をつけてしまうことになったのです。
このことはきっと藤子先生にとって不本意であったことに違いなく、いわゆる「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」と似たタイプの日常系を得意としていた人がいきなりヒーロー作品を描いたらどうなるか?
本作はまさにその悪しき事例と見ることができ、私がこれから書く評価は世間一般のそれとは明らかにずれていることを承知でスタートしますので、ファンの方は閲覧注意です。

 


(1)原点はのび太のしょうもないわがままから


本作の元ネタが短編として収録されたのび太と恐竜・ピー助の交流であったことは誰もがご存知でしょうし、私もしっかり原作の話はチェックしています。
まずこの話からして相当に荒唐無稽な話で、スネ夫がいつものごとく金持ちマウントを取ってティラノサウルスの爪の化石を見せて自慢したのにのび太が無駄な対抗心を燃やしたのがきっかけでした。
のび太はその後偶然にも恐竜の化石を発掘してしまい、タイムふろしきを使って孵化させて生まれた恐竜に「ピー助」と名付けて育てるのですが、これが現在の視点で見ると色々問題があります。
後述する恐竜ハンターのこととも繋がってくるのですが、私はこの一連のエピソードに関しては今でも正直懐疑的な視点でしか見ることはできません。

 

化石の発掘を無許可で行うのび太


まずはのび太スネ夫の金持ちマウントに苛ついて対抗心を燃やすのはわかるのですが、そもそも化石の発掘を小学5年生が独断で行っていいものなのでしょうか?
私は小さい頃ボーイスカウトカブスカウトなどに参加した経験があるからわかりますが、こういう化石の発掘は結構危ない作業なので子供の遊びでやっていいものではありません。
川辺でザリガニを捕まえるのとはワケが違いますし、本来こういうのは怪我などの安全面を考慮して命綱などをつけて行うのが自然な対応かと思われます。
これは何も大人になって思うことではなく小学生当時から原作を読んで疑問に思っていたことで、両親ともそんな話を来て「やっぱりこれっておかしいよね」と突っ込んでいました。


2つ目にその恐竜の化石を勝手にタイムふろしきで孵化させてしまったことですが、これもやはり「国に無許可で」やってしまったことが問題だったといえます。
のび太がやったことはただでさえ考古学者が驚くようなことなのに、それを更に小学生が無断で現代に復活させてしまったというのは引っかかってしまうのです。
更に言いますと恐竜は変温動物であり、そもそも気候変動が激しい現代日本の環境で生きていけるとは到底思えず、「ジュウレンジャー」「アバレンジャー」のように機械の体にするか神様にでもならない限り不可能でしょう。
ゲッターロボ」の恐竜帝国が基本的には地下のマグマのようなところに住んでいるのも1つは気温などの環境問題があるからです。


そして3つ目、私はこれが最も許せなかったのですが、のび太たちがピー助をこれまた自分勝手な判断で白亜紀に捨ててしまったことであり、のび太お前何やってんだ!?」と私は激怒した記憶があります。
のび太たちのやっていることは「ペットを飼えなくなったから捨てる」という行為そのものであり、そんな無責任なことをするくらいなら最初から孵化させない方がマシだったのではないでしょうか。
つまりのび太の恐竜復活はそもそものび太の個人的なわがままから事態が肥大化してしまったわけであり、更にその遠因をスネ夫が作っているのですから一蓮托生といえば一連托生です。
そのような子供の織りなすコミュニティが時折とんでもなく悪い方向に行くこと自体はよくあることなので、決してそれが全て悪いというわけではありません。


しかし、本作に関してはスネ夫のび太の無駄なライバル意識が原因でこうなったわけであり、それこそ「ウルトラマン」のガヴァドン回と本質的には似たようなことをやっているのです。
要するにガキのわがままの肯定であり、子供同士の日常を描くこと自体はいいとしても、それをそのまま野放しにした挙句大人が誰も説教せず美化されたままなのはどうなのでしょうか?
そういうこともあって、私はまず原典となった短編からして嫌いで、そのことに藤子先生が自覚的であったかはわかりませんが、かなり後味の悪い最終回だったといえます。


(2)後味の悪い短編の結末のその先へ


このように、短編からしてそもそも後味悪い話として終わったので、どうにも尻切れトンボで終わった感じは否めず、続編はあるから描いてくれた方が良かったのでしょう。
しかし、その結末が「現代では飼えないから白亜紀に置き去りにする」という、正に航時法違反のことをやってしまっており、そもそも基礎土台からして問題が大有りだったのです。
そんな状態からスタートする本作を長編映画にするために考えられた措置はのび太たちを「正義の味方」にして責任を取らせることにするしかありませんでした。
しかもタイムマシンですぐにでも帰れる状態にしてはならないからとタイムマシンの故障やタケコプターのバッテリー消耗などひみつ道具に制限を持たせることになります。


そしてまた、長編映画にするのはもう一波乱欲しいからと出て来たのが原作漫画2巻でも出て来た「恐竜ハンター」とタイムパトロールの隊員たちという設定です。
要するにピー助をはじめとする恐竜に危害を加えようとする犯罪組織とそれを捕まえに来た時空警察という勧善懲悪の要素を取り入れるしかありませんでした。
このようにして、藤子先生はそれまで何があろうと「ヒーロー作品」ではなかった「ドラえもん」をとうとう「ヒーロー作品」にしてしまったのです。
これこそが本作をはじめとする大長編ドラえもんがやってしまった最大の禁忌にして失敗であり、大長編ドラえもんは原作漫画の本質から乖離することになりました。


ドラえもん」の世界ではヒーローというものはあくまでも「画面の向こう側」の存在として、「憧れ」があると同時に「揶揄」「皮肉」の対象でもあったのです。
先日紹介した「ドラえもん」の大長編を批判した記事ではヒーロー番組に夢中になるのび太ドラえもんが冷ややかな目でバカにする1シーンがありました。
そう、「ドラえもん」のユニークかつ面白いポイントの1つに「ヒーローに対する憧れと皮肉」が混在しているところにあり、このバランス感覚が絶妙です。
のび太がいわゆる「アンチヒーロー」ながらに主人公であることができたのも「かっこいいヒーローなんてとても描けない」と藤子先生が思っていたからこそではないでしょうか。


それを大長編では根本から変えてしまってのび太たちを「かっこいいヒーロー」にしてしまったわけであり、こうなると藤子先生ら作り手も、そして我々受け手も元には戻れません。
事実ヒーロー作品として活躍させるにはのび太たちがヒーローであるにふさわしい根拠、また恐竜ハンターたちが犯罪者たるに相応しい理屈を描く必要があります。
しかし、この「恐竜ハンター」という設定自体もまた大きな問題を孕んでいるのですが、果たして何が問題だったのかを後述してみましょう。


(3)恐竜ハンターとのび太たちのやっていることは本質的に同じ

恐竜ハンターとのび太たちは何がどう違うのか?


これは当時から読者にも突っ込まれ、また宮崎駿氏を始め作り手側にも突っ込まれていますが、本作の恐竜ハンターとのび太たちがやっていることは本質的に変わりません。
なぜなら自分たちの都合で恐竜を私物化し、ペットにした挙句育成が難しくなったから捨てて来たのび太たちは恐竜を金儲けに使おうとする恐竜ハンターと大差ないでしょう。
また、両者とも結果的に、うち恐竜ハンターは意図的に白亜紀に干渉しているわけであって、その点においてのび太たちも恐竜ハンターもやっていることは同じです。
本作ではまるで恐竜ハンターが間違いでのび太たちが正しいかのように扱われていますが、何がどう違うのか納得できる合理的な回答は示されていません。


要するに恐竜ハンターにしてものび太たちにしても、やっていることは「タイムレンジャー」のリュウヤ隊長と大差ないわけであって、個人の欲望で明日を変えようとしたのです。
というか、そもそもその航時法自体がどういう法律なのかさえきちんと定義されておらず、恐らく藤子先生の中ではそれらしい法律を持ち出せばのび太たちの行動原理を正当化できると思ったのでしょう。
しかし法律さえ持ち出せば合理化されるわけではないことは『特捜戦隊デカレンジャー』のジャッジメントが示しており、あれも犯人をバンたちが殺せるように法律を使って無理矢理死刑を合法化していました。
それくらい本来はデリケートな問題のはずなのに、本作はその勧善懲悪の理を中途半端に使って無理矢理正当化しており、なぜか原因となったのび太たちのことに関しては触れられないままなのです。


もっとも、のび太たちが白亜紀に来なくても恐竜ハンターたちの犯罪は発生していたと思われ、それがたまたまのび太たちの冒険と重なってしまっただけと見ることはできます。
しかし、のび太たちも恐竜狩りはしていないにしても自分たちの都合でむやみやたらに恐竜時代に干渉しているのであって、タイムパトロールの人たちから責めを負わないのはおかしいでしょう。
強いて挙げるなら「子供のやることだから」かもしれませんが、子供だから何をやっても許されるわけではないので、タイムパトロールのび太たちを厳しく叱りつけるシーンを挟むのが筋です。
が、本格的な勧善懲悪としっかり向き合って描いたことのない藤子先生にそんな芸当ができるわけもなく、中途半端に盛り込んだ割に雑に解決してしまうことになってしまいました。


こうしてのび太たちは理不尽な形でなし崩しに「正義の味方」にされてしまい、以後国民的漫画・アニメのマスコットキャラとして擦り倒されていくようになってしまいます。
同じような道を「クレヨンしんちゃん」も辿ってしまうのですが、そう考えると『未来戦隊タイムレンジャー』は「ドラえもん」が根本の部分で抱えていた問題と向き合った作品かもしれません。
決して竜也たちタイムレンジャーはあの世界で「正義の味方」と定義されていたわけではなく、あくまで未成熟で絶対的な正しさを持たない未成熟な若者としてしか描かれていないのです。
その大人の世界における善悪を描いたのは「ドラえもん」が中途半端に突っ込んだのに有耶無耶にした問題と徹底的に向き合い、1つの解答を示すためだったのではないでしょうか。


(4)藤子先生が手塚先生の足下にも及ばないことが証明された作品


このように考えていくと、本作は「ドラえもん」を確かに国民的漫画・アニメという高みへ押し上げたきっかけとして重要な作品であったことは事実でしょう。
しかしその内容はお世辞にもクオリティが高いとは言えず、勧善懲悪やヒーロー作品として見ると多々問題を孕んでいた作品でもありました。
そしてそれを藤子先生の作家としての力量として見る場合、どこまで行こうと藤子先生が手塚治虫先生の足元にも及ばないことが証明された作品ではないでしょうか。
まあ藤子先生に限らず、日本のあらゆる漫画家の中で手塚先生ほど多作かつ様々なジャンルの漫画のパイオニアになったという点で匹敵する存在はいませんが。


メトロポリス」「鉄腕アトム」「来るべき世界」で本格的なSF漫画を描いて高く評価され、その後も様々なヒット作を生み出し「火の鳥」という壮大なライフワークを手がけた手塚先生。
未完で終わってしまったとは言え、あれだけクオリティの高いストーリーやキャラクターを次々と生み出した漫画の神様に藤子先生が唯一勝てたのは「キャラクターへの共感」でした。
どこかドライに突き放してキャラクターを描く手塚先生に対して、藤子先生は逆で自身がキャラクターに寄り添いながら一緒になって生み出していくという優しさがあったのです。
その優しさが温かさとなって多くの読者の共感につながり、短編でブラックジョークなどもありながら実に世代や国を超えて親しむことのできる漫画となったのでしょう。


しかし、その持ち味すらも商業主義のためにかなぐり捨てて、本来の良さとはかけ離れることになってしまったのがこの「のび太の恐竜」だったのではないでしょうか。
手塚治虫先生には及ばないながらも自分だけの勝負できるフィールドを見つけて1つの子供向け漫画・アニメのフォーマットを作り上げた藤子先生も間違いなく天才作家でした。
その天才作家が商売主義に作家としての魂を売り渡してしまい、以後原作漫画と並行して「血を吐きながら続ける悲しいマラソンを走り続けることになったのです。
結局、藤子先生はどこまで行こうと手塚治虫先生を作家としても作品としても超えることができなかったことを本作は悲しいことに白日のもとに晒してしまったといえますが、何だか切ない話ですね。


(5)まとめ


いかがでしたか?本作を今日の視点で見直すとかなり矛盾や破綻が目立つ作品であり、のび太たちのやっていることが実は違法であることに気づかされます。
また、決して藤子先生が得意ではなかった「勧善懲悪のヒーローもの」に足を突っ込んでしまい、それを綺麗事として糊塗するためにいろんなエクスキューズを用意しないといけなくなりました。
その破綻に気づくか気づかないかで本作の評価は大きく異なりますが、私は不運にもそれに気づいてしまった側の人間であり、決して高くは評価できません。
やはり本作だけではなく、そもそも「ドラえもん」自体が子供だましの作品であるという、気づかなくていいことにまで気づかされてしまいました。


しかし、本作のヒットがなければ以後の大長編シリーズや「ドラえもん」そのものの国民的漫画としての浸透はなかったといえるでしょう。
その火付け役になったという意味で本作は外せない作品ですが、同時に商業主義に魂を売り渡してしまった作品であることも否定はできません。
まあ逆にいえば、本作以後の大長編ドラえもんが様々な問題を孕んでいたからこそ、後のヒーロー作品や漫画・アニメの反面教師ともなったのではないでしょうか。
総合評価はそういう意味で見るとF(駄作)、評価すべき点がないわけではないものの、原典の「ドラえもん」と切り離して考えるべき作品です。

 

ドラえもん のび太の恐竜

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

D

作画

C

演出

E

音楽

B

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

ドラゴンボール超レビュー〜未来トランクス編のバッドエンドに思うタイムトラベルSFの問題点〜

アニメ版と漫画版の「ドラゴンボール超」を未来トランクス編まで再視聴完了しましたが、物議を醸したのはやはり全王様が出てきて未来世界を丸ごと消滅というバッドエンドです。
当時から散々批判された展開でしたが、私も正直あのラストは納得行かなかったものの、それはあくまでトランクスたち登場人物の心情に寄り添って主観的に見た場合の話であることに気づきました。
そもそもこの未来トランクス編の話が出てきたのは原作の人造人間編〜セルゲーム編という、編集側の都合がなければ生じなかった設定が生じてしまったからです。
人造人間編〜セルゲームはその後のドラゴンボールを完全に蛇足にしてしまい、突っ込まなくていいところに首を突っ込んでしまったために私は今でも大嫌いな話となっています。


その理由として明らかに無理のある悟空の心臓病設定、フリーザ様よりも地球の人造人間の方が強いというパワーインフレ、更にはトランクス、ベジータ、悟飯と際限なく生まれる超サイヤ人
そしてイマイチ悪役としての理念や魅力がわからないセルなど、引き伸ばしという引き伸ばしが完全に悪い方向に出てしまっていますが、「超」の未来トランクス編と合わせてみるともっと深刻な問題に気づきました。
それは未来トランクスのやっている行為自体が自身でも言及していますが「むやみに歴史を変えてしまう違法行為」であり、誰がどう言い訳しても犯罪行為をしてしまっているわけです。
これは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり「ドラえもん」しかり、特撮なら「未来戦隊タイムレンジャー」「仮面ライダー電王」しかり、「時間」をテーマに置いた作品群が抱える問題であります。


題材はいくらでもあるのですが、今回は大長編ドラえもんを例として出してみましょうか。
というのも、「ドラゴンボール」原作の人造人間編〜セルゲーム編、そして「ドラゴンボール超」の未来トランクス編はその構造が大長編ドラえもんと酷似しているからです。
私は大長編ドラえもんに関しては小学生の頃にリアタイで楽しんだ世代ですが、大学生になってからまとめて見直したときに、内容があまりにも稚拙すぎて「ダメだこりゃ」と離れました。
大長編ドラえもんは私に言わせればやはり「子供騙し」であり、子供から見ると楽しいものにはなっていても、大人になって見直すと矛盾や破綻などが目について問題となってしまう典型です。


例えば1作目の「のび太の恐竜」ですが、このピー助の話からして今見るとかなりの問題点があり、それは私が敬愛するブログの方も言及されているので引用してみます。

 

 

この長編の中盤には恐竜ハンターというのが出てくる。悪役として。しかしドラえもんのび太のやっていることが正しく、恐竜ハンターのやっていることが間違いであるということに何の根拠があるのか。やっていることは同じではないか。人間さまの都合で動物を飼ったり、またそれを自然に戻したりしているという点において。ドラえもんのび太自身が恐竜狩りの経験者である。しまいには恐竜ハンターをなじるにあたって「航時法」という法律まで持ち出す。おい、セワシくんがドラえもんのび太の家に送り込んだという行為が航時法違反でなくて何だというのだ?
自己正当化しようとすればするほどボロが次から次へと出てくるドラえもん
ふだん勧善懲悪を書いたことのない作家が勧善懲悪物を書くとどうなるかの典型である。
もちろん優れた作家である藤子・F先生が、この問題について苦悩しなかったとは思えない。そしてそれを瑣末な問題として無視することに決めたその瞬間、藤子・F先生は作家としての誇りを捨て、堕落への第一歩を踏み出したのである。

 

引用元:http://eno.blog.bai.ne.jp/?eid=215862

 

そう、ドラえもんが実は原作の時点で既に違法行為をサラッと犯してしまっているのですが、それでも原作の範囲だとその破綻が目につかなかったのはドラえもん」のテーマが勧善懲悪ではなかったからです。
ドラえもん」はSF(少し不思議)と作者が自称するくらいSF作品として見ると稚拙なのですが、それでも国民的漫画・アニメとして親しまれているのはキャラクターが魅力的でわかりやすいからでした。
いわゆる「アンチヒーロー」の雛形を完成させた主人公・のび太にガキ大将のジャイアン、未来からやってきた狂言回しのドラえもん、清楚系と見せながら実は腹黒いしずか、虎の威を借る狐のスネ夫等々。
これらのシンプルかつ共感しやすい等身大のキャラクターたちが織りなす他愛ない日常こそが「ドラえもん」の魅力であり、構造的には「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」のように狭い箱庭での話になっています。


そこに「のび太の未来を変えるため」にやって来たドラえもんセワシというタイムトラベルSFの要素を足してできたものであり、主人公ののび太くん自体が藤子先生の分身として描かれているのです。
そんな「ドラえもん」はタイムトラベルSFの問題点を孕んではいましたが、日常はあくまでも卑近な舞台であったがために読者はその破綻や矛盾を気にせず楽しむことができました。
しかし、人気稼ぎのためなのか何なのか、原作で1話完結で描いた「のび太の恐竜」を長編映画作品として拡大することになり、とうとう藤子先生は勧善懲悪のヒーロー作品に手を染めてしまったのです。
それまで卑近な小学生の日常しか描けなかった作者がその感覚の延長線上でヒーローものに手を出した結果が大長編ドラえもんなのであり、上記で引用した問題点に繋がっています。


そしてこの大長編ドラえもんが抱えていた問題点は「ドラゴンボール」「ドラゴンボール超」の原案である鳥山明先生もまた同時に抱えていた問題点だったのではないでしょうか。
以前にフォロワーさんから孫悟空はヒーローではなく戦闘狂である」と指摘をいただいたのですが、それはその通りで「ドラゴンボール」は今日の視点で見直すと勧善懲悪作品として成り立っていません。
それもそのはず、元々は「Dr.スランプ」でナンセンスなシュールギャグを持ち味としていた作家であり、「ドラゴンボール」もピッコロ大魔王が出てくるまでは普通のギャグ漫画だったのです。
ところがピッコロ大魔王編で人気が出てしまいサイヤ人編で完全なバトル漫画に移行してから鳥山先生もまたかつての藤子先生と同じように強さのインフレとパワーバトルばかりを繰り返すようになりました。


そして人造人間編で未来トランクスが出てからはとうとう読者にごまかしようのない形で破綻や矛盾が目につくようになってしまい、不本意な展開ばかりを描かされることになってしまったのです。
思えばこの瞬間から鳥山明先生も商業主義のために作家としての誇りや魂をかなぐり捨てて堕落への道を歩むことになってしまったのかもしれません。
とはいえ、鳥山先生は賢い人ですから、自身がそのような破綻と矛盾を孕んだ展開を描いてしまったことを心のどこかで気にしていたのではないでしょうか。
そしてそれがあったからこそ、後付けという形ではありますが「銀河パトロールジャコ」でタイムマシンが実はとんでもない違法であり重罪であるという後付けを行っています。


そしてこの話を描いた時、鳥山先生の中では「原作の未来ブルマや未来トランクスが行ったことは重罪ではないか?本当にあのまま未来世界を幸せにしていいのか?」という考えが擡げてきたのでしょう。
こうなってしまえばもう後は引き返すことはできず、「ドラゴンボール超」の未来トランクス編は大長編ドラえもんが敢えて突っ込むのを避けたタブーへと突っ込むことになりました。
再び未来世界に訪れたザマスという神様の脅威、殺されてしまった未来ブルマ、そして共に生き延びようとするマイなどどんどん溜まっていたツケを払うことになるのです。
そして原作とは逆の形で今度は悟空とベジータがまるでのび太ドラえもんのようにして未来世界へと介入し、ザマスたちと戦うことになります。


こうしてどんどん拗れていく事態を収束させるにはどうすればいいのか、答えは簡単でデウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)を用いて強制終了させることです。
特に未来世界のトランクスに関しては原作の時点ですでに銀河法を違反していたことになるのですから、自分たちの都合のためとはいえ決して許されません。
まさに「この親にしてこの子あり」とよく言ったもので、ベジータが星々を侵略していたのだとすれば、未来トランクスは時空を侵略していたのです。
しかしハッピーエンドにすることはできないのですから、こうなれば答えは1つで全王様に未来を消滅させるしか事態を収束させる方法はなかったのではないでしょうか。


同時にそれは原作で未来トランクスが悟空のいる現在の歴史を改変する遠因を作り、またその現在の歴史で力を得て未来を改変してしまったことへの罰であったのかもしれません。
まあそもそも未来ブルマがタイムマシンなんてものを開発してしまったのが元凶なのですが、そう考えると実は孫悟空とブルマこそがあの世界で一番の悪党だったりして(苦笑)
ちなみに似たようなテーマをゲーム「クロノ・トリガー」「クロノ・クロス」でも扱っているのですが、あちらはゲームなのでエンディングをマルチにすることでその辺の矛盾や破綻をギリギリ回避しました。
こんな風にタイムトラベルSFを下手に扱ってしまうと、しかもそれをヒーローものの物語にしようとすると「歴史改変というタブー」を犯すことになるという問題点と格闘することになります。


これらの問題点を回避しつつ矛盾や破綻を防いで名作たらしめたのはそれこそ「未来戦隊タイムレンジャー」なのですが、あれの何が良かったかというと「31世紀はどうなったのか?」を描かなかったことです。
大消滅を食い止めた後の未来がいい世界になったとしたら御都合主義過ぎますし、逆にバッドエンドでも「竜也たちのこの1年間の頑張りはなんだったのか?」ということになり兼ねません。
そこを下手に描かず視聴者の想像に委ねたことによって名作のまま終えられたのですが、そう思うと「ゴーカイジャー」のタイムレンジャー回は余計なことをして台無しにしたなあと思うところですけどね。
未来トランクス編はある意味で大長編ドラえもんなどのタイムトラベルSFが抱えていた問題とその行き着く先でを示した反面教師だったのではないでしょうか。

ホームページ更新のお知らせ

だいぶ溜まっていたので、とりあえず「ジュウレンジャー」「ボウケンジャー」「ニンニンジャー」の1クール感想をまとめてhtml化しました。

 

スーパー戦隊シリーズ30作目『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)11・12話感想

 

Task11「孤島の決戦」


脚本:會川昇/演出:竹本昇


<あらすじ>
大邪竜ザルドとギラドの強力タッグ攻撃によってダイボウケンは完敗し、ダイボウケンは大邪竜2体の手によって連れ去られてしまった。一方、波右衛門の人形に隠されていた地図を見てから、様子がおかしかった暁は、ダイボウケンから脱出せず、ひとり、活動停止したコクピットの中に残るが……。


<感想>
さて、「ボウケンジャー」1クール目の実質のクライマックスであるこの決戦編ですが、前回までを踏まえて1つの美しい形に集約されました。
結論から申し上げるなら、やっぱりチーフはただ仲間を置き去りにしてでもプレシャスが欲しかっただけという、真墨が言う通りただの「冒険バカ」でしたということに。
さらに申し上げるならこの人は昭和のワーカーホリック体質もある人なので(リアルに「24時間戦えますか?」を実践している人)なので、冒険バカ+ワーカーホリック=冒険ホリックという称号を贈呈します。
そんなチーフの取った独断専行を残された4人は「自分たちを危険に巻き込まないようにするため」といい方向に解釈していますが、本人は全くそんなことはありません。


まあそんなチーフの独断専行に同族嫌悪の観点から気づいているのは真墨1人であり、あまりにも自責の念が強いさくら姉さんに対して素敵な助言を。


「悪いのはまた仲間を置き去りにした明石だろ。見つけたら、思い切り殴ってやれよ!な?」


わかりますかね?セリフ自体は短いですが、まずチーフがやっていることを決して美化せず独断専行と容赦なく切り捨て、チーフに会ったら何をすべきかまで助言し、さらに「な?」と寄り添うというこの凄さ。
後に真墨はチームにとって欠かせない存在へと成長し頭角を現していくのですが、さくら姉さんの心情を慮った上で状況整理と対策と心配を全部やっちゃう高度な会話術は彼にしかできません。
チーフは基本的に「正論めいた詭弁」しか言わない人なので(「俺様は冒険が全てだ!」という冒険ホリック)、とにかく24時間365日頭の中は冒険しか考えていないのです。
だから、(蒼太、菜月、みんな悪いな。だがここは俺一人で行くしかなかったんだ)と一見仲間を心配している素ぶりを見せつつ、彼らの奥底の心情への思いやりが全く足りていません。


チーフって自分が強い人間だからこそなのでしょうが、弱い者の苦悩や葛藤にまで気が回らないのが今回はかなり裏目に出てしまった感じですね。
まあそんなだから過去に冒険仲間を失うことになってしまったわけですし……要するにどう綺麗事で糊塗したところで仲間を裏切ったことに変わりはありません。
そしてもう1つの裏切りがネガティブシンジケート側でも発生していて、ガジャ様がリュウオーンを裏切ったわけであり、ボウケンジャーとネガティブシンジケートはやってることが同じと示しています。
しかし、そんな状況があっても真墨たちはその宝の地図をヒントにチーフの元へ追いつき、尺のほとんどがチーフに割かれていながらも、最後は仲間たちがしっかり追いつきました。

 

 

「チーフ、スーパーリミッターは、解除してあります」
「テスト無しであれを試すつもりか。そいつは」
「ちょっとした冒険、ですよね!」
「フッ……よし、行くぞ!超轟轟合体だ!」
「「「「「スーパーダイボウケン、合体完了!!」」」」」


ここでTask4、Task7を踏まえて戦隊シリーズの本質の1つである「団結」をロボットの「合体」で表現するという技巧をしっかり凝らして持ってきたのは見事です。
まあぶっちゃけこのスーパー合体自体はあまりにもゴテゴテしすぎではあるのですが、「ゴーオンジャー」「シンケンジャー」に比べれば全然まとまっている方ではあるのでまだ見られます。
何より「戦い」以外の用途がきちんと設定されているために違和感がなく、紆余曲折あったもののチームの絆は表向き強まりました……まあ裏で真墨とさくら姉さんが頑張ってくれたおかげですが(笑)


「9つのパラレルエンジンを直結させる。失敗すれば吹っ飛ぶぞ!いいな!」
「はい!」
「うん!」
「うん」
「ああ。5人の心を合わせるんだ!」
「ブラックらしくないアドバイスですね」


この流れも見事で、一見協調性がなさそうな真墨が実は一番協調性があって仲間思いであり、チーフは逆に仲間思いと見せかけて実はとんでもなくわがままで単独主義というのが表面化してきました。
つくづく思うんですが、チーフってマネージャータイプじゃなくプレイヤータイプだからどう考えてもリーダー向きじゃないのですが、表向きのカリスマ性みたいなのだけはあるのですよね。
ロボアクションは非常によくできたカタルシスであり、ボウケンジャーがひとまず「チーム」としてまとまるという集約を見せてきたのは非常に好感が持てます。
今やっている「ドンブラザーズ」の方が予想の遥か斜め上をやっているため、本作がいわゆる「いつもの戦隊」をきちんとできていることに安心感を覚えるのですよ。


そしてガジャ様たちを撃退したチーフは改めて蒼太たちに事情を説明するのですが、ここでいよいよ冒険ホリックとしての地金を出します。


「だって宝の地図だぞ!カーッと熱くならないか!?」


ここで4人中3人が「へ!?」と呆気にとられる中、1人だけ「やっぱりな」と真意に気づいていた真墨だけが呆れた反応を示す。


「そしたらダイボウケンがさらわれそうになったんで、これで地図の島に行けるって思わず体が動いてた」
「やっぱり駄目だ、こいつはただの冒険バカだ」
「命令して下されば、どこまでもついていきました!」
「冒険は命令されてするもんじゃない。だからお前たちにはヒントだけ残しといた。そして、お前たちは自分たちの意志で来た、それでいいんだ」


ここで改めて本作の戦いの動機が私的動機であることがチーフの口からはっきりと示され、本作の公私の比率が決まりました。
本作において「命令=公」で動くさくらだけが規律を頑なに守ろうとし、後のみんなはなんだかなんだ個人的動機で動いているのです。
そしてチーフが「いい話」としてまとめ上げるのではなく、冒険ホリックとしての本性を包み隠さずドヤ顔で全員にさらけ出すというのが反応として秀逸。
だからこの人って統率力は確かにあるのですが、それは「まとめる力がある」というより「カリスマ性に仲間たちがくっ付いている」という感じです。


これは前回も言いましたが、本作がしっかり「戦隊」としての作劇の基本を守りつつ、00年代戦隊の括りで見ても異色なのは普遍的なヒーロー像へと安易に着地していないこと。
スーパー戦隊シリーズにおいては「ジェットマン」以降いかにして「等身大の正義」を普遍的な公的大義に繋げていくのか?というところが重視されていました。
しかし、本作ではそこを決して普遍的なヒーロー像へ繋げるのではなく、むしろボウケンジャー=正義のヒーロー」と「5人の冒険者たち=私人」というわけかたをしています。
その上で戦隊としてまとまるところはまとまりつつ、それですらあくまで個人の決断が重なった結果でしかないという、「タイムレンジャー」の延長線上といえるわけです。


Task7を経てチーフがもはや単なる冒険ホリックでしか無くなってしまったわけですが、本作の凄いところは決してそれをチーフマンセーへ持っていかないこと。
ラストシーンで、真墨のアドバイスをしっかり覚えていたさくら姉さんが腹パンをかましてチーフが倒れるという……これに関しては完全なチーフの自業自得です。
視聴者としても「このクソ野郎!」とチーフの独断専行が行き過ぎていたのでそこをなかったことにせずしっかり責任を取らせるのはよかったのではないでしょうか。
思えば「ニンニンジャー」の天晴はこの辺りの線引きがなあなあで天晴マンセーにしかなっていないので、やっぱりキャラクターに対してしっかりシビアになれるかどうかが大事です。


総合評価はS(傑作)、改めてTask7のステップアップを踏まえて初期から提示してきた要素がしっかりまとまり、1クール目の集約として見事でした。
そして次回はメンバーでほぼ唯一公的動機で動いているさくら姉さんに再びスポットが当たりますが、「ボウケンジャーとはどんなヒーローか?」をしっかり構築することに成功。
この基礎基本すらまともにできていない戦隊が今同時で見ている中で多いので、本作が相対的に大傑作に見えてしまうという異常事態が怒って起こってしまっています(苦笑)


Task12「ハーメルンの笛」


脚本:小林靖子/演出:竹本昇


<あらすじ>
13世紀、ハーメルンで子供たちを連れ去った男が吹いていたプレシャス=ハーメルンの笛を巡りボウケンジャーダークシャドウは激突するが、さくらの機転によりなんとか笛を回収した。しかし、菜月は仲間よりも笛を優先したかのようなさくらの行動に不安を抱き、さくらに真意を訊くのだが……。


<感想>
今回の話は「タイムレンジャー」以来6年ぶり、ライダーでは「龍騎」以来4年ぶりとなる小林靖子女史が参戦となりますが、この頃に入ると円熟味を増してきましたね。
Task7のチーフ、Task9の真墨に続いてさくら姉さんは元自衛隊の特殊部隊に所属していたという納得の背景が明かされましたが、ここで公的動機をしっかり入れてきたのはよかったところです。
思えば戦隊ピンクとして見ても「タイムレンジャー」のタイムピンク/ユウリ以来となるクールビューティー系のピンクですが、その系譜をしっかり受け継いでいるせいか小林女史の筆致も乗っています。


「既に落ちてしまった以上、出来ることは何もありません。優先すべきはプレシャス回収。そうでしょ?」
「さくらさん、2人が心配じゃないの?」
「心配ですよ!でも、任務があったでしょ」


え?前回までのあの深刻さはどうしたの?と言わんばかりにハッチャケているさくら姉さんですが、本作の良識派だったさくら姉さんこそが実は一番とんでもない思考回路を持った人でした。
まさに「ブルータス、お前もか!」なのですが、本作の侮れないところは一見ヤバそうな真墨が意外にも「いい人」で、一見頼れそうなチーフやさくら姉さんが実はとんでもなくぶっ飛んだ基地外というのが面白いです。
更にチーフが「冒険ホリック」という私的動機、さくら姉さんが「職業軍人」という公的動機に振り切れており、ある意味では釣り合いが取れている2人ともいえます。
そんな非情ともいえるさくら姉さんの合理的すぎる判断に戸惑いを隠せない菜月を真墨がしっかり汲み取るのです。


「確かにさくら姐さんは間違ってないんだけどな……」
「ま、女性としてはもうちょっとこう、可愛げがね」
「菜月が言っているのは、そういうことじゃないの」
「俺たちは冒険のプロであって戦闘のプロじゃない。仲間が死ぬかもって時に、ああ冷静にはなれない」
「そう、そういうこと!さすが菜月の気持ちわかってんじゃん。さくらさん、頭もいいし頼りになるし、菜月すっごい尊敬してるけど、菜月の目指す冒険者とはちょっと違うかなあ」
「安心しろ。お前はなろうと思ったって、さくら姐さんみたいにはなれやしない」


まあ明らかに論理的思考で動いている人と直感的思考で動いている人ですからね、あまりにも違いすぎる。
また、真墨の「冒険のプロであって戦闘のプロじゃない」というセリフは同じ小林女史が脚本を担当した「ゴーゴーファイブVSギンガマン」を彷彿させます。
あの作品では確かマトイ兄さんに「リョウマ!お前たちは俺たちとは違う戦いのプロだ!だがな、要救助者がいる限り、こいつは救急(レスキュー)だ。救急を戦いのプロなんかに任せられるかよ!」と言わせてましたね。
小林女史自身「ギンガマン」で戦闘のプロ、「ゴーゴーファイブ」で救急のプロを描いていますから、そのあたりの違いをしっかり俯瞰して書き分けることができる人なのでしょう。


もはや今回は今までのおとなしさは何処へやらと言わんばかりのさくら姉さん無双ステージであり、はっきり言って他の4人はほとんど蚊帳の外と言っていいレベルです。
特に真墨、蒼太、菜月は完全に下僕に成り下がってしまっており、前回チーフに正拳突きをかましたことで吹っ切れたのか、途端に圧倒的強者のオーラを出してきました。
それにしても「一見ヤバそうだけど実は意外に話がわかるやつ」の黒、そして「一見良識派だけど実はとんでもないタカ派」の桃というのは「ドンブラザーズ」にも通じるところが(笑)
あっちも犬塚が意外に普通そうですし(やっていることは明らかな犯罪ですが)、逆に一番良識派っぽい雉野が実は一番ぶっ飛んだヤンデレですからねえ。


同時配信で見ている戦隊の横の並びは今年はどうも過激路線というか、どれもぶっ飛んだ作品ばかりですねえ。
だって生身で伝説の武器を構える戦意剥き出しの古代恐竜人類、明らかにやばい過去を持ち合わせた冒険者たち、ラストニンジャになるためなら身内の殺し合いも平気な従兄弟たち……。
更に現役で放送されている戦隊があの「ドンブラザーズ」ですし、今年の戦隊はとにかく狂気が濃色120%の作品ばかりで、ある意味充実してはいます(苦笑)
ラストでは菜月のなかでさくら姉さんが憧れの冒険者の1人となり、これまで大人しかったさくら姉さんも一気にこの回で頭角を現しキャラ立ちしました。


今の所キャラ立ちがしっかりしているのはチーフはもちろん真墨とさくら姉さんですが、反面まだくすぶっているのが蒼太と菜月の2人です。
蒼太は色々技巧派というか老獪かつ軽快な男としてキャラ立ちしていますが、一番パンチの弱い菜月が中々キャラ立ちしません。
総合評価はA(名作)、前回までを踏まえて2クール目に向けて弾みをつけてくれました。

 

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スーパー戦隊シリーズ39作目『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(2015)13・14話感想

 

忍びの13「燃えよ!ニンジャ運動会」


脚本:下山健人/演出:金田治


<あらすじ>
十六夜がよみがえらせた新たな幹部は牙鬼家家老・晦正影(つごもり・まさかげ)。いかなる計略にも遊び心を入れるのが「粋」という彼の信条によりもたらされる作戦とは?天晴たちは「忍者運動会」に参加することになり、燃えていた。彼ら以外にもいろんな流派の忍者が結集している。そんなころ、キンジはラストニンジャ好天より孫たちと仲良くし過ぎな点を指摘され……。


<感想>
「1人しか継げぬラストニンジャを塾かなんかで学ぶことと混同するでない」


え?じゃあ今までのニンニンジャーの戦いは全部塾レベルの緩い勉強だったということでよろしいでしょうか?(笑)
というか、そもそも「ラストニンジャは1人しか継げない」とか言われたところで「だから何?」としか思えないのですけどね。
今回にしても次回にしても、どうして本作は物語中盤の山場でやるような話を序盤の立ち上げの段階でやるのか、全く理解できません。
今後も再三書くことになりますが、本作のやっていることを勉強に例えると「小学生レベルの基礎問すらできてないバカがいきなり東大の赤本を解く」レベルの愚かさなのですよね。


「あっしは狙う方。坊ちゃん方は狙われる方。仲良くするのは、変でございやす」
「何急にキャラ変わって?ただでさえ変な忍者なんだから」
「変でございやすか?」
「うん、すっっごい変!お爺ちゃんに弟子入りとか変すぎ」


いきなり核心を突いてしまった凪と核心を突かれて動揺するキンジの関係が最近の私のフォロワーさんと私のように見えてしまい、思わず吹き出してしまいました(爆)
ただ、確かにキンジが変というのはその通りなのですが、キンジの「ニンニンジャーと距離が近すぎたから敢えてまた距離を取る」とか凪の指摘する「急にキャラ変えしたこと」はこの段階で描くべきことではありません。
これらのテーマはまずキンジのキャラクターを最低1クール以上かけて丁寧に描き、キンジの考え方や戦い方、そしてニンニンジャー5人との関わりの中で描いた変化を踏まえてこそ意味があるわけです。
しかし、キンジはまず基礎基本のキャラ立て自体がまだできていない上、そのニンニンジャーとの関わりにしても精々毎回天晴や好天をストーカーのようにして付け回すくらいしか印象に残る描写がありません。


強いて心境の変化らしきものがあるとすれば前回の天晴を4人が信頼し、その信頼を見て絆された感じなっていましたが、あれも結局天晴マンセーのための取って付けたようにしか見えませんしね。
つまり、普通の戦隊が1→2→3と段階を踏まえて描写し持って行くべきところを本作は1→6→2→100→-10みたいなバラバラな持って行き方をするため、全然理解も共感も納得もできないのです。
また、そのような本来ギャグではなくシリアスで描くべきテーマを中途半端に運動会という描写の中でしか描かないのもまた「何だかなあ」と思ってしまっています。
なぜ運動会かというと、単純にドラマよりもアクションで見せたい金田監督の作風に合わせた形で、確かにアクションではなかなか面白いものが見られました。


ただ、そのアクションですらもその物語のチグハグさをカバーできるようなものでは到底ありませんし、運動会に参加していた他のニンジャたちって一体何者か?という疑問もありますし。
通常なら「あっそ」でスルーしてもいいはずの出来事がことごとく引っかかってしまい、わざと仕掛けているであろうズレが全く面白みに繋がりません。
フィニッシュはアカニンジャーとスターニンジャーの連携攻撃で決めていましたが、これは画の組み合わせが完全にシンケンジャー」十八幕のシンケンレッドとゴールドの同時攻撃のパクリです。
これに関しては「インスパイア」でも「オマージュ」でも「パロディ」でもなく完全な「パクリ」であって、むしろこれがやりたいがために話を作ってきたんだろうなと思いました。


しかし、シンケンレッドとゴールドの連携攻撃が即席ながら上手く行ったのは源太が丈瑠の幼馴染という設定ありきで、しかも正統派な剣術の丈瑠と居合術の源太という違いを示していたからです。
両者の個性と性格の違いを重ねつつ、自然に源太がシンケンゴールドとして戦う流れを踏まえればこそあの連携にも違和感がなかったわけで、本作のアカニンジャーとスターニンジャーでそれは無理じゃないでしょうか。
前回配信分での八雲とキンジの衝突といい、どうも本作は悪い意味での「シンケンジャー」リスペクト、うっちーリスペクトをやっているのですが、ガワだけ変えた割に元ネタはそのままだったりするから困ります。
元ネタを安直に引用するのではなく、なぜその元ネタが成立しているかをしっかり分析した上で「この作品ではそれはできないからじゃあ代わりにこうする」と独自の派生ネタを考えるのが筋です。


何が言いたいかって、要するにここまでの物語が全て作劇の基礎基本すらできていないのに積み重ねを無視してあれこれ手を出しては失敗という繰り返しを改めて認知させたことにあります。
「とにかくあっしは2人を超える妖怪ハンターになる為、ラストニンジャ様の弟子になろうと思ってるんでございやす」と言っていますが、この発想もただただ意味不明。
天晴や好天を超えることと妖怪ハンターであること、そしてラストニンジャの弟子になることが全て別事項にしかなっておらず、「線」になっていないのです。
そもそも天晴たちニンニンジャーと牙鬼軍団が戦う理由や因縁すらまともに構築できていないこともキンジがズレた発想を持つに至った理由の説明になっていないことに繋がっています。


まあその他、単純に運動会の種目自体が面白くないですし、あんな山の中に不自然にる自販機など、結局個々の要素がバラバラに存在しているだけのいつもの「ニンニン」クオリティでした。
総合評価はもちろんF(駄作)、ここまで基本的にこの評価しか出ていないのは逆に凄いのかもしれません。


忍びの14「助けてサギにご用心!」


脚本:下山健人/演出:金田治


<あらすじ>
スターニンジャーはあいかわらず天晴に向かって「御命頂戴!」と隙を狙っている。おかげで部屋がめちゃくちゃになり、風花は爆発!キンジと天晴は神妙にしていたが、妖怪が現れるとすぐ飛び出してしまう。誕生した妖怪はヤマビコ。公衆電話と融合した妖怪は早速電話をかけ始める。「お兄ちゃん!助けて!」風花の声で電話の相手は天晴宛だったのだが……。


<感想>
「お前なんか知らないけど、俺を騙したらしいな!」


はいこいつ、戦隊随一の「バカレッド」決定!


もう誰が何と言おうとこの瞬間に天晴は私の中で歴代最強最悪のバカレッドに決定しました、おめでとう!(えぇー?)
そんな今回の話ですが、まさか戦隊シリーズデカレッド/バンを超える突き抜けたバカがここに誕生するとは思いませんでしたよ。
だってさあ、こんなあからさまなオレオレ詐欺に引っかかるなんてアホすぎるというか、流石にサスケや鷹介はこんな手口に引っかからないと思うのです。
まあ強いて言えば鷹介はバカなのでひっかかりそうですけど、そういう時は大体兄者が諌めてくれますから。


今回の話は天晴と風花の兄妹の絆をメインに見せたかったのでしょうが、そのために2人とも妖怪に騙されてしまうというのはやり過ぎだったと思います。
というか、こういう老獪な手口の罠である場合、知性派の八雲と霞を裏で活躍させた方がより「チームの絆」や個性というものがちゃんと描けたはずなのですが、それすらできていません。
天晴ってファンからは「自分がバカであることを自覚して周囲に任せることができる」と評価されてますが、そんな大局的な目線の持ち主だったらこんなセリフを吐かないでしょう。
騙されるのは仕方ないとしても、それなら八雲や霞に「いや待て、そんな話があるわけがない」といった常識的なツッコミやそこから逆転の知略を考えるなどするはずです。


それをどうして本作は「名前ではなくコードネームで呼び合う」になるのかがわかりません……まあ下山健人らしい「論点をずらした挙句のわけわからんオチ」への繋げ方と言えばそうですが。
どちらかと言えば今回は「名前」ではなく「声が似ていたから」騙されたわけで、そのような場合発言の言質を取って「本物の天晴ならそんなことをいうか?」と疑うのが真っ当な解決方法です。
こういう詐欺の手口はまず相手の言っていることの大前提を疑うところから始めないといけませんし、むしろこういう腹の探り合いこそニンジャヒーローの醍醐味なわけで。
本作はどうにも「忍びなれども忍ばない!」「忍ぶどころか暴れるぜ!」というキャッチフレーズから察するに、お堅いニンジャヒーローをバカの理屈に染めたいのでしょう。


しかし、「話がバカっぽいけど笑える」ことと「登場人物の頭脳がバカである」ことは全く違うわけであり、本作はどうにもその辺りの区別やメリハリがついていません。
それからキンジがニンニンジャーをつけ狙うのが「家族の幸せがわからない」のはいいとして、だから簡単に人の命を取る方向へ持っていくというのは単なるサイコパスでしかないでしょう。
ある意味でキンジは幼少の頃に倫理観や価値観を壊されてしまった人といえますが、それが物語の面白さになっているわけでもないし、また仲間の命を奪おうとすることの免罪符にはなり得ません。
下山健人に限りませんが、どうにも「倫理観が狂っているが故の面白さ」を「非常識であること」と混同している作り手は沢山いますが、本作もそれにもろはまっていることに。


それからラストのシリアスな兄妹の稽古シーンもそれ自体は悪くないのですが、そもそもニンニンジャーの真面目な稽古シーン自体があまり印象がないので(大体は試験や勉強だった)取ってつけたようにしか見えません。
あとあまりにも画面が暗すぎて表情がよく見えないのもあって、金田監督はアクションだと色気は出せてもドラマを撮らせたらダメだなあと思ってしまうのです。
まあ女の生足撮ることしか基本的に興味がない坂本浩一監督よりはマシですけど……総合評価はF(駄作)。多分この評価はもう最終回まで覆らないんじゃないかなあ。

 

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スーパー戦隊シリーズにおける「復讐」の系譜 ①「ゴレンジャー」〜「タイムレンジャー」まで

昨日書いた「ドンブラザーズ」8話の感想が中々好評だったこともあったのと、最近実写版「金田一」を見直したこともあり、「復讐」について改めて向き合い考える時間が多くなっています。
なぜかというと、そもそも「復讐」というものを単なる「物語を盛り上げる要素の一部」として安易に捉えすぎていると思ったからであり、私自身もどこかそういうところがありました。
しかし、スーパー戦隊シリーズに限らずあらゆる創作の中で「復讐」は古今東西使われるテーマにしてモチーフの1つですし、「戦いの動機」という観点から考えても「復讐」はかなり大きな比重を占めています。
今回はスーパー戦隊シリーズにおける「復讐」という要素について、改めて語源を確認しつつ再定義し、それがシリーズの流れとしてどのような歴史を辿ってきたのかを考えてみましょう。

 

 

(1)復讐の定義


まず「復讐」という漢字の成り立ちとその意味を考えてみましょう。まず復は「ふたたび」「また」という意味、讐は「かたき」「あだ」といった意味があり、2つの意味が合わさったものです。
元々は「再び敵対する」であり、類語としては「仇討ち」「報復」「仕返し」といった単語がありますが、こと「復讐」に関してはどこかそれらと違ったニュアンスで用いられている気がします。
どう違うのかというと感覚の問題となってしまいますが、「復讐」というと他の漢字に比べていわゆるネガティブな感情、それも極端に尖った負の感情がそこに伴っているということです。
単に相手にやり返すのであれば「仕返し」「報復」「仇討ち」でもいいのでしょうが、これらの場合はそこまで強い負の感情がなく単なるちょっとした反撃程度の意味合いでも使えます。


しかし、そういうちょっとした反撃や形成逆転の意味で「復讐」という言葉を使うかというとそうではなく、やはりそこにはどこか禍々しい怨念が渦巻いている印象があるでしょう。
「復讐」をテーマにした作品は全部が全部ではないにしてもそこに薄暗く深い闇の情念が漂っていて、人々はそれを見た時決して覗いてはならない深淵を覗いた気分になるのです。
そしてそれはスーパー戦隊シリーズにおいても同じで、歴代でも「復讐」が目立つ作品はいずれもが単なる仇討ちや報復・仕返しの領域を超えたどす黒いものとして描かれています。
「復讐」とは詰まるところ「凄まじい負の怨念を戦う力に昇華して仇討ちを行うこと」を意味しており、ちょっとやそっとの反撃程度では「復讐」とはいえません。


また、「復讐」はその裏に「執着」「執念」といった「相手を地獄の果てまで追い詰める」といったイメージがあり、単なる「やり返す」という類ではないでしょう。
だからこそ物語のテーマにまでなり得るわけですし、またそれが根源的な人間の感情に基づくものとして古今東西使えるだけの普遍性がある題材でもあるのです。
ことスーパー戦隊シリーズにおいて「復讐」という要素を盛り込んでいる作品は印象に残りやすいのですが、その分再現の難しいテーマでもあります。
作劇として盛り上げやすい反面、扱い方のさじ加減を間違えると作品そのものを台無しにしてしまう諸刃の剣、それが「復讐」ではないでしょうか。


(2)復讐は公的動機か私的動機か?


次に「復讐」という要素がいわゆる「公的動機(=人類は今何をすべきなのか?)」か「私的動機(=自分は今何をすべきなのか?)」かという問題ですが、ここでは「私的動機」と定義します。
何故ならば上にも書いたように復讐とは単なる仇討ち・仕返し・報復ではなく強烈な負の感情が伴っており、そこには執念深さや怨念といったものが込められているからです。
少なくとも世間一般が公に認めていない全くの個人的感情が出発点にある以上、公的か私的かということで言ったら間違いなく「私的」なものであることには違いありません。
因みに「公的私的」ということに関して、「戦隊史学基礎」というサイトでは以下のように触れられています。

 

 

ただ、「戦い」とはいっても、それが使命感・正義感に基づいたものであるとは限らない。たとえば、自分の両親を悪の組織に殺されている人間が登場する作品がある。そして、悪の組織と戦っているものの、それはあくまでも自分の復讐感情を満足させるためであり、本懐を遂げる過程で無関係な人間に巻き添えを食わせることになっても知ったことではない、と考えているということはありうる。そうであれば、これは公度私度に入れられるようなものではない。


引用元:http://hccweb.bai.ne.jp/~hci59301/sheroine/map/map2.htm


何故えの氏がこのように述べているのかというと、氏が定義する公的動機と私的動機の基準になっているのが「使命感」、もっといえば「善の正義」として定義されているものだからです。
しかし、そのように考えれば復讐もまた作品によっては「悪の正義」の一種ともいえるわけであって、公私でいえば「私」の方に分類される要素ではないでしょうか。
これに際して、昨日のスペースで頂いた質問として「組織全体で「復讐」という要素を抱えている場合は公的動機なのか?」がありましたが、これも答えは「私的動機」となります。
何故ならば組織全体での復讐も、だいたいは中心にいる人物が何かしらの復讐心を抱えていて、他のメンバーも共感するか、あるいは個々のメンバー全員が復讐心を抱えていることもあるからです。


そしてそのように設定されている作品は大体において自発的に結成された戦隊である確率が高く(あくまで傾向であって絶対ではない)、公度はあまり高くありません。
そういう事情のため、ここであくまで復讐は「私的動機」の1つとして等価値に扱わせていただきます。


(3)歴代戦隊における復讐の歴史(「ゴレンジャー」〜「タイムレンジャー」)


それでは具体的に歴代戦隊における復讐のケースについて見ていきましょう。
表の見方ですが、まずNo.と戦隊名はそのままで、復讐の有無は作品の中で「復讐」と呼べるケースがあるかないかを判別するもので、なければ「復讐の対象」「作品内での扱い」は「-」です。
復讐がある場合には「有」と書いた上で、「復讐の構図」、すなわち誰が誰に対して復讐をなそうとしているのかを復讐者→復讐の対象という形で書き、更に「作品内での扱い」で「大中小」で判定します。
「小」は一話単位、あるいは少しだけ触れている場合、「中」は物語全体に影響を及ぼすわけではないもののしっかり描かれている場合、そして「大」は物語のメインテーマにまで影響を及ぼす場合です。
作品数が多いので今回は20世紀戦隊、すなわち「ゴレンジャー」〜「タイムレンジャー」までとし、「ガオレンジャー」以降はまた次の項目で述べます。

 

No. 戦隊名 復讐の有無 復讐の構図 作品内での扱い
1 秘密戦隊ゴレンジャー - -
2 ジャッカー電撃隊 ハートクイン/カレン水木→クライム
3 バトルフィーバーJ 2代目バトルコサック/神誠→エゴス
4 電子戦隊デンジマン - -
5 太陽戦隊サンバルカン - -
6 大戦隊ゴーグルV - -
7 科学戦隊ダイナマン ダークナイト(メギド王子)→ジャシンカ
8 超電子バイオマン - -
9 電撃戦隊チェンジマン - -
10 超新星フラッシュマン フラッシュマン5人→メス
11 光戦隊マスクマン - -
12 超獣戦隊ライブマン 初期ライブマン3人→ボルト、ライブボクサー2人→ボルト
13 高速戦隊ターボレンジャー - -
14 地球戦隊ファイブマン ファイブマン5人→ゾーン
15 鳥人戦隊ジェットマン レッドホーク/天堂竜→バイラム(ラディゲ)
16 恐竜戦隊ジュウレンジャー ドラゴンレンジャー/ブライ→ティラノレンジャー/ゲキ
17 五星戦隊ダイレンジャー 孔雀→ガラ
18 忍者戦隊カクレンジャー - -
19 超力戦隊オーレンジャー - -
20 激走戦隊カーレンジャー ダップ→ボーゾック
21 電磁戦隊メガレンジャー Dr.ヒネラー→人類全体
22 星獣戦隊ギンガマン 黒騎士ブルブラック→バルバン、ブクラテス→ゼイハブ
23 救急戦隊ゴーゴーファイブ ジーク→ゴルモア
24 未来未来戦隊タイムレンジャー タイムピンク/ユウリ→ドルネロ

 

(4)全体の傾向


全体の傾向として、「復讐そのもの」を大々的に描いた戦隊は少なく、物語全体に影響を及ぼしたのはダイナマン」「ジェットマン」「ギンガマン」の3作しかありません。
あとはほとんどないか、あったとしても本筋や作品全体に影響を及ぼすわけではない添え物・枝葉末節として扱われているものがほとんどです。
個人の因縁が強い「フラッシュマン」「ライブマン」「ファイブマン」といった戦隊ですらも物語全体に食い込むほどの要素として扱われていません。
逆にいえば、個人の因縁などがなくても作劇が成立するのがスーパー戦隊シリーズの作劇の自由度というか幅の広さの所以だなあと思うところです。


中でも特異的なのは「ダイナマン」で、メギド王子がジャシンカ全体に復讐を行い、更にダイナマンまで圧倒せんばかりの勢いだったのは見事でした。
いわゆる敵組織の幹部だったやつが離反して第三勢力になるというパターン自体は「デンジマン」のバンリキ魔王が原点となっていますが、明確な「復讐鬼」として描かれたのはメギド王子とブクラテス位でしょう。
他にもジュウオウやスーパーギルークなどの例はありますが、物語全体に影響を及ぼす復讐鬼というと殆どいないのであり、それだけ扱いが難しくそう何度も使える手ではありません。
強いて挙げるなら他にも「カーレンジャー」のダップや「メガレンジャー」のDr.ヒネラーなど主要キャラが復讐を動機としていることはあっても、物語全体のテーマとなるほどではないのです。


このように見ていくと、我ながら思うのは「復讐」という点において「ギンガマン」がいかに歴代で異色の構成だったかということにあります。
ギンガマン」の面白い点は元ヒーロー側→敵組織という古典的なダークヒーロー系と敵組織幹部の裏切り者→敵組織首領という形で二重の「復讐」の構造が存在していることです。
そして、ブルブラックとブクラテスがそれぞれ2クール目と4クール目で己の復讐を果たすためにリョウマの兄・ヒュウガを利用しています。
ヒュウガを媒介することによって単なる「復讐」ではなく疑似的な形でヒュウガがブルブラックの痛みや悲しみを追体験する構造になっているのです。


また、「ジェットマン」のレッドホーク/天堂竜も最初は復讐の対象が「バイラム」という組織全体だったのが、最終話手前の「それぞれの死闘」で復讐の対象がラディゲ1人となっています。
ラディゲ自身がバイラムの象徴だから当然ではあるのですが、主人公が復讐する対象がマクロなものからミクロなものへと矮小化されていくのも当時としてはかなり珍しいでしょうか。
竜の復讐は恋人・葵リエを失ったことが原因ですが、それが単なる痴情のもつれというだけではなく、ジェットマンというチーム全体にも影響を及ぼすという点でも殆ど例がありません。
それくらいメインテーマに「復讐」という要素が関わること自体が珍しく、ほとんどがどうしても「山場を盛り上げるための1イベント」としてしか扱えないのではないでしょうか。


20世紀最後の戦隊となった「タイムレンジャー」のユウリとドルネロの関係は天堂竜→ラディゲの復讐の女版ともいえそうですが、やはり「物語の一部」としてしか扱っていません。
タイムレンジャー」自体があくまで「明日を変える」ことに軸足を置いた戦隊であり、ユウリにとってのそれはあくまで「ドルネロを逮捕すること」だけだったのです。
きちんと消化はされたものの本筋に与えた影響は極めて少なく、最後の大消滅を食い止めに戻ってきたのはあくまで「竜也との思い出」があったからでした。
総じて20世紀スーパー戦隊シリーズにおいて「復讐」という要素を「盛り込む」ことはできても「メインテーマに組み込んでガッツリ格闘する」という作品はほとんどありません。


今回はとりあえずここまでで、残りの「ガオレンジャー」〜「ゼンカイジャー」はまた後ほど。

 

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