明日の伝説

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大長編ドラえもん1作目『のび太の恐竜』(1980)

出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00005HVG5

昨日『ドラゴンボール超』の未来トランクス編のレビューを書いたときに大長編ドラえもんに言及した影響で、久々に大長編ドラえもんを見て唐突にレビューを書きたくなりました。
丁度今YouTubeで『恐竜戦隊ジュウレンジャー』を配信していますし、恐竜モチーフは戦隊シリーズだとヒットするモチーフの1つというのもありますし、扱うなら丁度今かなと。
思えば大長編ドラえもんでも恐竜モチーフは何度か用いらているものですし、古代の生き物として使えるので創作の題材として用いやすい普遍性のあるものなのかもしれません。
さて、そんな本作ですが、最初に書いておきますと、基本的に私は本作をはじめとする大長編ドラえもんシリーズに関しては基本的に否定的かつ嫌いというスタンスであることを明記しておきます。


その理由はこれから具体的に述べますが、まずそもそも論理的かつ俯瞰的に見た場合のび太たちの行動原理が明らかに矛盾や破綻を含んでおり、それが見逃せないからです。
子供向け作品の中には大人になってもしっかり見直せる普遍性のある良質な子供向け作品と、子供の時には楽しめても大人になって見直すと矛盾や破綻が気になって楽しめなくなる子供だましの2種類があります。
本作はその点で見ていくと間違いなく後者であり、特に特撮作品などの勧善懲悪を見慣れたその視点で見た場合のび太たちのやっていることが実は無自覚な悪であることが目についてしまうからです。
それに気づいてしまった時、私はどうしても「ドラえもん」という作品を子供の頃のような感性で素直に楽しめなくなってしまいました。


私はそもそも原作の「ドラえもんからして好きか嫌いかで言えば「嫌い」な方なのですが、それでも国民的漫画・アニメとしてヒットするだけのものは持っており、コンテンツとしては高く評価しています。
原作の「ドラえもん」が国民的漫画になり得た要因はいわゆる「等身大の小学生同士の原風景」をSF(少し不思議)をスパイスとして絡めることで面白さに昇華した作品だからです。
藤子・F・不二雄先生はのび太を「自分の分身」と仰っていましたが、確かに人間としてダメな部分が愛されに繋がり、また意外な天才的資質を持ったアンチヒーローというのは藤子先生と重なるところがあります。
それをさらに対比としてわかりやすく見せているのがのび太自身の憧れにして嫉妬の対象でもある出木杉英才であり、出木杉とは一言で言って「藤子先生から見た手塚治虫先生のカリカチュアでしょう。


生前、藤子先生はF氏もA氏も「手塚先生には到底及ばない」というコンプレックスがあり、A先生は確か手塚先生の漫画「来るべき世界」の大量の原稿を見てその異次元さを感じ取られたのだとか。
確かに「来るべき世界」をはじめとする「メトロポリス」「鉄腕アトム」など手塚先生が手がけた本格派のSF漫画と比べたら、「ドラえもん」は決して良質・高尚なSF作品だとはいえません。
それでも名作になり得たのは「藤子先生に及ばない」というコンプレックス・負け犬根性から生まれた等身大の小学生の織りなす日常のドタバタが多くの子供の心を掴み共感を呼んだからです。
しかし、本作がひとたび国民的漫画・アニメとしてヒットすると当然編集者やアニメ会社・スポンサーは当然「金の生る木」として「ドラえもん」を消耗品として擦り倒す方向性に打って出ます。


本作はそのような「さらなる飛躍」のために小学館シンエイ動画の楠部三吉郎氏に説得される形で描いたものですが、皮肉にも本作によって「ドラえもん」は完全に別路線へ進むことになりました。
それまで等身大の日常のみを矛盾や破綻の目立たない範囲で描いていた藤子先生が大長編などと銘打ってヒーローものや本格派SFといった領域に手をつけてしまうことになったのです。
このことはきっと藤子先生にとって不本意であったことに違いなく、いわゆる「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」と似たタイプの日常系を得意としていた人がいきなりヒーロー作品を描いたらどうなるか?
本作はまさにその悪しき事例と見ることができ、私がこれから書く評価は世間一般のそれとは明らかにずれていることを承知でスタートしますので、ファンの方は閲覧注意です。

 


(1)原点はのび太のしょうもないわがままから


本作の元ネタが短編として収録されたのび太と恐竜・ピー助の交流であったことは誰もがご存知でしょうし、私もしっかり原作の話はチェックしています。
まずこの話からして相当に荒唐無稽な話で、スネ夫がいつものごとく金持ちマウントを取ってティラノサウルスの爪の化石を見せて自慢したのにのび太が無駄な対抗心を燃やしたのがきっかけでした。
のび太はその後偶然にも恐竜の化石を発掘してしまい、タイムふろしきを使って孵化させて生まれた恐竜に「ピー助」と名付けて育てるのですが、これが現在の視点で見ると色々問題があります。
後述する恐竜ハンターのこととも繋がってくるのですが、私はこの一連のエピソードに関しては今でも正直懐疑的な視点でしか見ることはできません。

 

化石の発掘を無許可で行うのび太


まずはのび太スネ夫の金持ちマウントに苛ついて対抗心を燃やすのはわかるのですが、そもそも化石の発掘を小学5年生が独断で行っていいものなのでしょうか?
私は小さい頃ボーイスカウトカブスカウトなどに参加した経験があるからわかりますが、こういう化石の発掘は結構危ない作業なので子供の遊びでやっていいものではありません。
川辺でザリガニを捕まえるのとはワケが違いますし、本来こういうのは怪我などの安全面を考慮して命綱などをつけて行うのが自然な対応かと思われます。
これは何も大人になって思うことではなく小学生当時から原作を読んで疑問に思っていたことで、両親ともそんな話を来て「やっぱりこれっておかしいよね」と突っ込んでいました。


2つ目にその恐竜の化石を勝手にタイムふろしきで孵化させてしまったことですが、これもやはり「国に無許可で」やってしまったことが問題だったといえます。
のび太がやったことはただでさえ考古学者が驚くようなことなのに、それを更に小学生が無断で現代に復活させてしまったというのは引っかかってしまうのです。
更に言いますと恐竜は変温動物であり、そもそも気候変動が激しい現代日本の環境で生きていけるとは到底思えず、「ジュウレンジャー」「アバレンジャー」のように機械の体にするか神様にでもならない限り不可能でしょう。
ゲッターロボ」の恐竜帝国が基本的には地下のマグマのようなところに住んでいるのも1つは気温などの環境問題があるからです。


そして3つ目、私はこれが最も許せなかったのですが、のび太たちがピー助をこれまた自分勝手な判断で白亜紀に捨ててしまったことであり、のび太お前何やってんだ!?」と私は激怒した記憶があります。
のび太たちのやっていることは「ペットを飼えなくなったから捨てる」という行為そのものであり、そんな無責任なことをするくらいなら最初から孵化させない方がマシだったのではないでしょうか。
つまりのび太の恐竜復活はそもそものび太の個人的なわがままから事態が肥大化してしまったわけであり、更にその遠因をスネ夫が作っているのですから一蓮托生といえば一連托生です。
そのような子供の織りなすコミュニティが時折とんでもなく悪い方向に行くこと自体はよくあることなので、決してそれが全て悪いというわけではありません。


しかし、本作に関してはスネ夫のび太の無駄なライバル意識が原因でこうなったわけであり、それこそ「ウルトラマン」のガヴァドン回と本質的には似たようなことをやっているのです。
要するにガキのわがままの肯定であり、子供同士の日常を描くこと自体はいいとしても、それをそのまま野放しにした挙句大人が誰も説教せず美化されたままなのはどうなのでしょうか?
そういうこともあって、私はまず原典となった短編からして嫌いで、そのことに藤子先生が自覚的であったかはわかりませんが、かなり後味の悪い最終回だったといえます。


(2)後味の悪い短編の結末のその先へ


このように、短編からしてそもそも後味悪い話として終わったので、どうにも尻切れトンボで終わった感じは否めず、続編はあるから描いてくれた方が良かったのでしょう。
しかし、その結末が「現代では飼えないから白亜紀に置き去りにする」という、正に航時法違反のことをやってしまっており、そもそも基礎土台からして問題が大有りだったのです。
そんな状態からスタートする本作を長編映画にするために考えられた措置はのび太たちを「正義の味方」にして責任を取らせることにするしかありませんでした。
しかもタイムマシンですぐにでも帰れる状態にしてはならないからとタイムマシンの故障やタケコプターのバッテリー消耗などひみつ道具に制限を持たせることになります。


そしてまた、長編映画にするのはもう一波乱欲しいからと出て来たのが原作漫画2巻でも出て来た「恐竜ハンター」とタイムパトロールの隊員たちという設定です。
要するにピー助をはじめとする恐竜に危害を加えようとする犯罪組織とそれを捕まえに来た時空警察という勧善懲悪の要素を取り入れるしかありませんでした。
このようにして、藤子先生はそれまで何があろうと「ヒーロー作品」ではなかった「ドラえもん」をとうとう「ヒーロー作品」にしてしまったのです。
これこそが本作をはじめとする大長編ドラえもんがやってしまった最大の禁忌にして失敗であり、大長編ドラえもんは原作漫画の本質から乖離することになりました。


ドラえもん」の世界ではヒーローというものはあくまでも「画面の向こう側」の存在として、「憧れ」があると同時に「揶揄」「皮肉」の対象でもあったのです。
先日紹介した「ドラえもん」の大長編を批判した記事ではヒーロー番組に夢中になるのび太ドラえもんが冷ややかな目でバカにする1シーンがありました。
そう、「ドラえもん」のユニークかつ面白いポイントの1つに「ヒーローに対する憧れと皮肉」が混在しているところにあり、このバランス感覚が絶妙です。
のび太がいわゆる「アンチヒーロー」ながらに主人公であることができたのも「かっこいいヒーローなんてとても描けない」と藤子先生が思っていたからこそではないでしょうか。


それを大長編では根本から変えてしまってのび太たちを「かっこいいヒーロー」にしてしまったわけであり、こうなると藤子先生ら作り手も、そして我々受け手も元には戻れません。
事実ヒーロー作品として活躍させるにはのび太たちがヒーローであるにふさわしい根拠、また恐竜ハンターたちが犯罪者たるに相応しい理屈を描く必要があります。
しかし、この「恐竜ハンター」という設定自体もまた大きな問題を孕んでいるのですが、果たして何が問題だったのかを後述してみましょう。


(3)恐竜ハンターとのび太たちのやっていることは本質的に同じ

恐竜ハンターとのび太たちは何がどう違うのか?


これは当時から読者にも突っ込まれ、また宮崎駿氏を始め作り手側にも突っ込まれていますが、本作の恐竜ハンターとのび太たちがやっていることは本質的に変わりません。
なぜなら自分たちの都合で恐竜を私物化し、ペットにした挙句育成が難しくなったから捨てて来たのび太たちは恐竜を金儲けに使おうとする恐竜ハンターと大差ないでしょう。
また、両者とも結果的に、うち恐竜ハンターは意図的に白亜紀に干渉しているわけであって、その点においてのび太たちも恐竜ハンターもやっていることは同じです。
本作ではまるで恐竜ハンターが間違いでのび太たちが正しいかのように扱われていますが、何がどう違うのか納得できる合理的な回答は示されていません。


要するに恐竜ハンターにしてものび太たちにしても、やっていることは「タイムレンジャー」のリュウヤ隊長と大差ないわけであって、個人の欲望で明日を変えようとしたのです。
というか、そもそもその航時法自体がどういう法律なのかさえきちんと定義されておらず、恐らく藤子先生の中ではそれらしい法律を持ち出せばのび太たちの行動原理を正当化できると思ったのでしょう。
しかし法律さえ持ち出せば合理化されるわけではないことは『特捜戦隊デカレンジャー』のジャッジメントが示しており、あれも犯人をバンたちが殺せるように法律を使って無理矢理死刑を合法化していました。
それくらい本来はデリケートな問題のはずなのに、本作はその勧善懲悪の理を中途半端に使って無理矢理正当化しており、なぜか原因となったのび太たちのことに関しては触れられないままなのです。


もっとも、のび太たちが白亜紀に来なくても恐竜ハンターたちの犯罪は発生していたと思われ、それがたまたまのび太たちの冒険と重なってしまっただけと見ることはできます。
しかし、のび太たちも恐竜狩りはしていないにしても自分たちの都合でむやみやたらに恐竜時代に干渉しているのであって、タイムパトロールの人たちから責めを負わないのはおかしいでしょう。
強いて挙げるなら「子供のやることだから」かもしれませんが、子供だから何をやっても許されるわけではないので、タイムパトロールのび太たちを厳しく叱りつけるシーンを挟むのが筋です。
が、本格的な勧善懲悪としっかり向き合って描いたことのない藤子先生にそんな芸当ができるわけもなく、中途半端に盛り込んだ割に雑に解決してしまうことになってしまいました。


こうしてのび太たちは理不尽な形でなし崩しに「正義の味方」にされてしまい、以後国民的漫画・アニメのマスコットキャラとして擦り倒されていくようになってしまいます。
同じような道を「クレヨンしんちゃん」も辿ってしまうのですが、そう考えると『未来戦隊タイムレンジャー』は「ドラえもん」が根本の部分で抱えていた問題と向き合った作品かもしれません。
決して竜也たちタイムレンジャーはあの世界で「正義の味方」と定義されていたわけではなく、あくまで未成熟で絶対的な正しさを持たない未成熟な若者としてしか描かれていないのです。
その大人の世界における善悪を描いたのは「ドラえもん」が中途半端に突っ込んだのに有耶無耶にした問題と徹底的に向き合い、1つの解答を示すためだったのではないでしょうか。


(4)藤子先生が手塚先生の足下にも及ばないことが証明された作品


このように考えていくと、本作は「ドラえもん」を確かに国民的漫画・アニメという高みへ押し上げたきっかけとして重要な作品であったことは事実でしょう。
しかしその内容はお世辞にもクオリティが高いとは言えず、勧善懲悪やヒーロー作品として見ると多々問題を孕んでいた作品でもありました。
そしてそれを藤子先生の作家としての力量として見る場合、どこまで行こうと藤子先生が手塚治虫先生の足元にも及ばないことが証明された作品ではないでしょうか。
まあ藤子先生に限らず、日本のあらゆる漫画家の中で手塚先生ほど多作かつ様々なジャンルの漫画のパイオニアになったという点で匹敵する存在はいませんが。


メトロポリス」「鉄腕アトム」「来るべき世界」で本格的なSF漫画を描いて高く評価され、その後も様々なヒット作を生み出し「火の鳥」という壮大なライフワークを手がけた手塚先生。
未完で終わってしまったとは言え、あれだけクオリティの高いストーリーやキャラクターを次々と生み出した漫画の神様に藤子先生が唯一勝てたのは「キャラクターへの共感」でした。
どこかドライに突き放してキャラクターを描く手塚先生に対して、藤子先生は逆で自身がキャラクターに寄り添いながら一緒になって生み出していくという優しさがあったのです。
その優しさが温かさとなって多くの読者の共感につながり、短編でブラックジョークなどもありながら実に世代や国を超えて親しむことのできる漫画となったのでしょう。


しかし、その持ち味すらも商業主義のためにかなぐり捨てて、本来の良さとはかけ離れることになってしまったのがこの「のび太の恐竜」だったのではないでしょうか。
手塚治虫先生には及ばないながらも自分だけの勝負できるフィールドを見つけて1つの子供向け漫画・アニメのフォーマットを作り上げた藤子先生も間違いなく天才作家でした。
その天才作家が商売主義に作家としての魂を売り渡してしまい、以後原作漫画と並行して「血を吐きながら続ける悲しいマラソンを走り続けることになったのです。
結局、藤子先生はどこまで行こうと手塚治虫先生を作家としても作品としても超えることができなかったことを本作は悲しいことに白日のもとに晒してしまったといえますが、何だか切ない話ですね。


(5)まとめ


いかがでしたか?本作を今日の視点で見直すとかなり矛盾や破綻が目立つ作品であり、のび太たちのやっていることが実は違法であることに気づかされます。
また、決して藤子先生が得意ではなかった「勧善懲悪のヒーローもの」に足を突っ込んでしまい、それを綺麗事として糊塗するためにいろんなエクスキューズを用意しないといけなくなりました。
その破綻に気づくか気づかないかで本作の評価は大きく異なりますが、私は不運にもそれに気づいてしまった側の人間であり、決して高くは評価できません。
やはり本作だけではなく、そもそも「ドラえもん」自体が子供だましの作品であるという、気づかなくていいことにまで気づかされてしまいました。


しかし、本作のヒットがなければ以後の大長編シリーズや「ドラえもん」そのものの国民的漫画としての浸透はなかったといえるでしょう。
その火付け役になったという意味で本作は外せない作品ですが、同時に商業主義に魂を売り渡してしまった作品であることも否定はできません。
まあ逆にいえば、本作以後の大長編ドラえもんが様々な問題を孕んでいたからこそ、後のヒーロー作品や漫画・アニメの反面教師ともなったのではないでしょうか。
総合評価はそういう意味で見るとF(駄作)、評価すべき点がないわけではないものの、原典の「ドラえもん」と切り離して考えるべき作品です。

 

ドラえもん のび太の恐竜

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

D

作画

C

演出

E

音楽

B

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)