明日の伝説

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原作「ドラえもん」レビューその②〜繰り返される野比家の失敗〜

ドラえもん」という作品を見ていると、好みでないなりに色々考えさせられるのですが、その中でも大きく考えさせられたのが36巻に収録されている「のび太の息子が家出した」の話。
あらすじは怠け者ののび太に父親ののび助が痺れを切らして説教してしまい、大目玉を食らったのび太が家出をしてしまうという、実はこれ自体はそんなに珍しいことではありません。
のび太が息苦しい家庭環境に嫌気が差して家出する話はそれ以前にも何本か書かれていましたし、のび太の家出話では10年も無人島で暮らしていたあの話が一番印象に残っているからです。
今回の話はのび太の家出そのものではなく「親の心子知らず」「子の心親知らず」がテーマですが、今回のレビューは「なぜ野比家の家出が繰り返されるのか?」を中心に考察します。


結論からいえば答えは「そもそも根本的な原因をきちんと親子間で話し合っていないから」であり、一種のディスクコミュニケーションが孫の代まで繰り返されているからです。
今回の話のきっかけはのび太の父・のび助がのび太にガツンと説教したことがきっかけですが、そのコマがこちら。

 

のび助の説教


セリフの内容だけ見ているとかなり酷いことを言っているので今だと確実に表現の規制に引っかかってしまうと思われますが、一見のび太が可哀想に見えて実は一番可哀想なのは他ならぬのび助です。
なぜならばのび助は他ならぬ「画家の夢を挫折して平凡サラリーマンとして生きざるを得なくなった男」だからであり、もしのび太の母・玉子と結婚していなければ天才画家として名を馳せていたでしょう。
しかし、彼は単に「絵を描くのが好き」なだけであって「画家として生計を立てていきたい」というわけではなく、予定されていた女性との結婚を諦めて平凡サラリマーンへ成り下がる道を選んだのです。
現代の視点で見ればのび助の選択は愚の骨頂としか言いようが無く、画伯になり得る才能を持ちながらそれを自ら断念してしまうという方向へ進んでしまったからだといえます。

 

のび太の両親の馴れ初め


そんなヘタレっぷり故に会社では安月給の平社員に甘んじてしまい家庭では玉子の尻に敷かれ、息子ののび太は怠け者で自分の思ったように動いてくれないという有様です。
一見恙(つつが)なく平穏無事な家庭のようでいて、実は相当堕落している問題ありまくりの家庭が野比であり、ドラえもんが来る前までは本当に悲惨な家庭だったと思われます。
のび助がうだつの上がらないサラリーマン人生を送っており、内心妻に頭が上がらないことを屈辱だと思っているのは酒を飲んだ時にやたらと饒舌になり亭主関白を宣言するあたりにもあるでしょう。
しかし、すっかり玉子の尻に敷かれてしまっているのび助は画力も落ちぶれており、まるで修行をサボってフリーザごときに簡単に敗北してしまうほど弱体化したどこぞの地球人とサイヤ人の混血児を彷彿させます。


皮肉なことにのび助は自分の「好き」と「得意」が「仕事」へと合致しなかった悲しい例であり、もし画家として生計を立てていたら超一流の画伯として大成していたかもしれないのです。
その場合そもそも玉子と結婚しなかったでしょうしのび太も生まれてこないため「ドラえもん」のストーリーが根本から破綻しますが、逆にいえばそれが「ドラえもん」の根底にあるものだとわかります。
要するに「ドラえもん」とは「のび助が人生で大きな挫折を経験してしまったが故に生じたIF」であって、のび太が天才的な才能を持ちながらも落ちこぼれ扱いされる理由はそもそも父親のダメっぷりが原因です。
のび助にしろ玉子にしろ息子に偉そうに説教できるほどの学生時代を送っていたわけではないと思われ、特にのび助に関しては「画家の夢挫折したお前がいうな」と誰もが突っ込みたくなるでしょう。


親が子供にガミガミ説教するのは「自分がそれをできなかったから子供には立派な人に育って欲しい」という願望が裏にあるわけであり、その思い自体は悪いものではありません。
しかし、それも度が過ぎるともはや「子供を自分の意のままに支配したい」という支配欲の塊になってしまい、これが野比家の両親、特に玉子が「毒親」と現代的な視点で批判される理由です。
だからのび助は「のび太には自分のように情けない人生を生きて欲しくない」ということであり、それを未来世界で父親となった自分の思いや、のび太の孫の登場で知ることになります。
つまりのび太は未来世界の自分を知ることでようやくのび助が説教した真意を理解するに至るわけですが、これが「いい話」なのかというと決してそうではないのです。


問題はなぜ野比家の失敗が繰り返されてしまうのかですが、これは結局のところきちんと野比親子が真正面から腹を割って自分の本音を話す機会がなかったからではないかと思われます。
ドラえもん」の親子や学校での価値基準が昭和時代の詰め込み教育に基づく「勉強して100点取ったら偉い」にあることは明白ですが、「ではなぜ勉強しないといけないか?」をのび助は説いていないのです。
それが同時に「ドラえもん」という作品、そして藤子・F・不二雄先生の作家としての限界であり、このテーマに真正面から取り組んだのが「金八先生」だったのかもしれません。
勉強することは確かに大事ですが、その勉強が将来大人になって社会に出たときに何の役に立つのかをきちんと子供が納得できる形で提示しなければ根本的な解決にはならないのです。


言っておきますが学校のテストで100点を取ったり成績が学年トップだったり、あるいは生徒会長だったり委員長だったりといったことは社会に出れば何の役にも立ちません。
なぜそんなことをするかといえば精々が「先生に気に入られたい」「内申点が欲しい」といった「いい子」でいるためであり、学校という極めて閉鎖的なコミュニティの中でしか通用しないものです。
社会に出て大事なのは「仕事ができるかどうか」であって、たとえ勉強ができなくても仕事ができる人もいますし逆もまた然りで、学力と社会に出てからの仕事の能力はまた異なります。
しかし、社会に生きていける基礎基本の習慣や物の見方や考え方・生き方の根源を学ぶという点において学校へ通うことは大きな意味があるのです。


だから勉強ができないよりはできた方がいいののですが、大事なのはその勉強で身につけたものをどうやって社会に出てから武器として生かしていくのかにあります。
そこの視点を欠いてただ上から一方的に「勉強しろ」と頭ごなしに叱りつけても無意味であり、その根本の部分を修正しないから孫の代になっても同じ失敗が繰り返されるのです。
ドラえもんが来たことでのび太の運命は変わりしずかちゃんと結婚できることが現実的にはなったものの、どうやらそれはそれでまた別の問題が発生するようです。
のび太の息子が「口うるさいババアに」と言っていたことから、しずかがのび太と結婚したらそれこそ玉子さんのような教育ママになりのび太は尻に敷かれるんでしょうね(笑)