明日の伝説

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90年代戦隊シリーズとは何であったのか?〜「正義」と「ヒーロー」の新しいあり方を試行錯誤した10年間〜

つい最近、Twitterのスペースでフォロワーさんと「90年代戦隊とは?」ということについて熱い議論を交わしたのですが、お陰で私自身内心で思っていたことをしっかり言語化できました。
スーパー戦隊シリーズについて最近書く文章に行き詰まりを感じていたのですが、内心を洗いざらいぶちまけたことによって、今後の戦隊シリーズ考察への手がかりが掴めそうです。
まあ、そもこんな場末のブログを真剣に読んで考えてくれる人がどれだけいるかは怪しいものですし、実際そんなに期待してはいませんが、今回に関しては完全な自己満足でやっています。
まず普通の人には理解できない、どころか「何言ってんのお前?」と言われるであろうことは大前提で今回の議論を進めます、でなければ勘違いする人は絶対に出てくるだろうから。
基本的には今までの記事で論じてきたことに毛が生えた程度の文章ですが、それでもご覧頂ければ幸いですので、是非しっかり見ていってください。

 


(1)今までの戦隊シリーズの批評に欠けていた視点


最初に書いておくこととして、これから述べることは今までのスーパー戦隊シリーズの批評に欠けていた視点の話であるということです。
少なくとも、私が見たところスーパー戦隊シリーズで「戦隊シリーズと現実の戦争・テロリズム」という社会的な観点から読み解こうとする視点はゼロとは言いませんが、ほとんど見たことがありません。
スーパー戦隊シリーズの感想や批評を熱心に書く方はこの10年〜20年ほどで増えましたが、では批評の「質」が充実してきたかと言われれば、残念ながらそうではないのが現状です。
未だにスーパー戦隊シリーズはライダーシリーズやウルトラシリーズに比べてワンランク下というイメージで見られてしまい、ほとんどの人が単なる「ありがちな集団ヒーローものの娯楽作品」として消費しています。


もちろんそれはそれで間違いではないのですが、一方でそういう人たちがいるかぎり、スーパー戦隊シリーズがなぜ『バトルフィーバーJ』以降一度も打ち切られずに作り続けられてきたのかが議論されないままです。
未だにスーパー戦隊シリーズに対して「5(6)対1で倒すなんて卑怯である」といった薄ら寒いツッコミが流行している一方で、スーパー戦隊シリーズそのものへの真剣な研究・批評は未だ十分になされていません。
これに関しては以前にも記事で書きましたが、そもそもスーパー戦隊シリーズのファン層にそういう真剣な姿勢で批評してより作品そのものを豊かにしていこうという気概を持ったファンが少な過ぎるのです。
掲示板やSNSを含めて、ほとんどがスーパー戦隊シリーズそのものの知識の紹介や面白いつまらない、あるいは好き嫌いといった個人的主観を抜け出ないものに終始してしまっています。


少なくなくとも、その時代背景にあった現実の戦争や社会情勢などから逆説的にスーパー戦隊シリーズを読み解いて、作品やシリーズそのものに厚みを与えるという試みはなされないままでした。
こんなことに苛立っているのは私だけなのかもしれませんが、言葉にしないまま終わるよりは嫌われてでもいいから、煙たがられてでもいいからそういう読み解きをしていこうとは思っています。
誰かがやらない限りこのまま埋もれて終わってしまうのであれば、その役目を勝手ながら私が背負ってやっていく方がマシだなという結論に至りました。
フォロワーに私を追い越したいという方がいらっしゃいますが、果たして本当にそう思っているのかどうか、これから試す意図も含めて書いていきます。
これは私から読者の方々へ、そして私自身へ課す宿題にして、一生かかっても成し遂げられるかわからないライフワークです。


(2)ポスト冷戦の世界観に合わせて戦隊シリーズそのものを批評した『鳥人戦隊ジェットマン


まず、『鳥人戦隊ジェットマン』を改めて再定義するならば「ポスト冷戦の世界観に合わせて戦隊シリーズそのものを批評した作品」と言えるのではないでしょうか。
これに関しては今配信で感想を書いていますし、「ジェットマン」の批評並びに感想、そして「ジェットマン」以前と以後について扱った記事を書いていますので、そちらも併せてご覧ください。


「戦うトレンディドラマ」などと揶揄を含めて未だに世間からは色眼鏡で見られがちな「ジェットマン」ですが、作品の中で描かれている本質は非常に鋭く、単なる異色作として片付けていい作品ではありません。
これは私がジェットマンを幼少の砌(みぎり)に視聴したという原体験のみならず、作品そのものを改めて今日の視点で読み解いていって初めて見えたことです。
ジェットマン」の複雑怪奇にして面白いところはいわゆる前作「ファイブマン」までにあった「絶対的な正義」と言われるべき大義を持っている人が誰1人としていないことにあります。
そのことは第一話、第二話をご覧頂ければわかることなのですが、いきなりジェットマンとしての宿命を告げられた凱、雷太、アコ、香は以下のような反応を示しているのです。


凱「しかしよ、いっそのこと人間なんざ滅んだ方がいいんじゃねえのか。公害問題に人種差別、確かに人類って愚かなもんだ」
雷太「僕は野菜を作るのが仕事なんだ!第一、僕は暴力は大嫌いだ!帰ってくれ!」
アコ「時給1,500円ぐらいは欲しいな」
香「もし、あなたたちのお話が本当なら、私決めましたわ。戦います、ジェントルマンとして!」


時系列は違いますが、4人の台詞からわかることは誰一人として「自分が戦いの当事者である」という意識が欠落していることであり、要するにポスト冷戦の世界で平和ボケを起こした現代日本人の代表・象徴なのです。
そしてそんな4人に呆れ憤慨して「地球の危機だ!個人的感情なんて問題じゃない!」と竜と小田切長官は呆れ果てるのですが、その2人ですら絶対的な正しさや権威というものはまるで持っていません。
竜はスカイフォースの一員として優秀な成績を残したエースではありましたが、それもあくまで恋人の葵リエがそばに居たからこそであり、元々は等身大の青年でしかなかったのです。
そんな人たちがいきなり見ず知らずの状態で未曾有の危機が迫ってきたから一緒に戦えと言われてどうすればいいのか、それはチームとして結束するまでに32話までかかりますよね。


だから、単なる4人の惚れた腫れただけで話が進んだわけではなく、もう1つ「自分たちの決断で世界の運命が決まってしまう」というのが本作の作風を大きく特徴付けています。
これが「セカイ系」と言えるのかもしれませんが、「ファイブマン」までと大きく違うのはその5人の決断が絶対的な正しさを持たず、常に状況によって変わってくるということです。
ここが大きな違いであり、彼らは決して軍隊所属だから強いのでも正しいのでもなく、ましてバードニックウェーブという付与された特殊能力故にヒーローであるというわけでもありません。
あくまでも、バイラムとの戦いに際してバックボーンらしいバックボーンがない中で自分たちなりの正義や結束を築き上げていくからこそ彼らはヒーローであり、正義の味方と言えるのです。


凱が指摘して見せた安っぽい人類批判はそれ自体さして深い意味を持つものではなく、今見直せば何とも陳腐なものですが、同時にポスト冷戦における「絶対的正義の欠如」をも浮き彫りにしていました。
そしてそのようなことを指摘した凱がどんな結末を辿ったのかは最終回を見ていれば一目瞭然であり、彼は詭弁とはいえ自らが「愚か」だと断じた人間によって遥かな眠りの旅へ行くことになるのです。
このように、本作においては誰一人として絶対的正義を持たない者たちの物語として描かれており、これこそが「ファイブマン」までが持っていた世界観との大きな分岐点・分水嶺になっています。
こと80年代戦隊シリーズが抱えていた「ヒーローの中の人間性」という問題点を本作が全て浮き彫りにし、バラバラに解体した上でこれからのヒーローが向き合うべき現実と正義のあり方を再定義しました。


(3)宗教戦争の構造を持ち込んだ『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー


鳥人戦隊ジェットマン』が起こした変革を受け、宗教戦争の構造を持ち込んだのが杉村升メインライターの『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』の三部作です。
それぞれ「ジュウレンジャー」が西洋ファンタジー、「ダイレンジャー」が中華ファンタジー、「カクレンジャー」が和風ファンタジーという風になっており、しかも「神様」と呼ばれる権威的な存在がいます。
そのため、表向きはまるで「ファイブマン」までが持っていた80年代戦隊シリーズのようなヒーロー像に逆戻りしたように見えますが、大きく異なるのは「宗教」としての倫理観・死生観が入ることです。
例えば「ジュウレンジャー」は神と悪魔というキリスト教の価値観が入り、最後は大サタンという悪魔と究極大獣神という神様の戦いに発展しますが、ラストは魔女バンドーラが涙を流して力を失います。


続く「ダイレンジャー」はダイ族とゴーマ族という、元が1つの民族だったものが2つに分かれて争いを始め両方とも滅び、その縮図が現代に蘇ったという構造であり、要するに東洋的な陰陽思想です。
そのため、どれだけ戦い続けても決着はつかず、戦いは50年後に持ち越しという永劫回帰(輪廻転生)のような無限ループの考えが持ち込まれることになりました。
そして「カクレンジャー」では西遊記と日本の忍者をモチーフにして仏教的な価値観が持ち込まれており、ラストの「妖怪は人間の負の感情だから生まれたものだから倒せない」にそれが現れています。
仏教には「衆生済度(仏や菩薩などがこの世で迷っている衆生(あらゆる生き物)を迷いの苦しみから救い、悟りの境地へと導くこと)」がここに盛り込まれているのですから、妖怪は倒さず生け捕りにして封印するのです。


このように、ファンタジー戦隊三部作と呼ばれるこれらのシリーズは実質の「宗教戦争三部作」と言っても過言ではなく、明確に「地球の平和」を守るための戦いであるとは明言されていません。
また、彼らはいわゆる「伝説の戦士」であるにも関わらず、どんな使命を抱えていて、どうすれば世界に平和をもたらすことができるのかという明確な根拠を持っていないのです。
実際に「ジュウレンジャー」のゲキたち5人は1億数千年も眠っている間に伝説のことはすっかり忘れていましたし、「ダイレンジャー」「カクレンジャー」の連中も同じことが言えます。
亮たち5人は初期だと特にやる気がなかったが故に大きな失態を招いてしまいましたし、カクレンジャーに至ってはサスケとサイゾウが金に目が眩んで妖怪を復活させてしまった程です。


つまり、宗教戦争三部作に共通しているのは、5人の戦士たちは「目の前の悪を許せない」という意味での正義感はありますが、その正義感を支える強固なバックボーンはありません。
どちらかと言えば、その強固なバックボーンを持っていたのは彼らの指導者である大獣神、道士嘉挧、三神将ら権威的な存在であり、彼らのバックアップがなければ戦えないのです。
特に「ダイレンジャー」では終盤道士が突然にダイレンジャー解散を宣言したことによって、亮たちは戦う意味を一度見失いますが、かと言ってそこから自主的な判断を下して戦えません。
奇しくもこれらは宗教戦争が根源として持っていた「神様に縋ることの危険性」を浮き彫りにしたともいえ、その限界点が露呈してしまうのが次作「オーレンジャー」です。


(4)冷戦に基づくヒーロー神話が通用しないことを白日の元に晒した『超力戦隊オーレンジャー


(3)で述べた「神様に縋ることの危険性」を図らずも露呈させてしまったのが1995年の『超力戦隊オーレンジャー』だったのではないでしょうか。
「ゴレンジャー20周年」という文脈の元にハードな国家戦争の文脈で作られた本作は、冷戦に基づく旧来ヒーローの神話が通用しないことを白日の元に晒した作品となりました。
マシン帝国バラノイアとそれを迎え撃つ国際空軍UAOHの5人のエリート軍人という設定はもう完全に古びた記号的存在であったということが挙げられます。
そんな彼らの戦いの末路は超力という特殊能力の喪失と、そこから生じた半年間の地球征服という目も当てられない最悪の事態となったのです。


同じ杉村升脚本の括りで見れば、この展開は「仮面ライダーBLACK」終盤の展開の焼き直しといえますが、本作のそれは「BLACK」とは根本的に意味合いが異なります。
仮面ライダーBLACK」で南光太郎/仮面ライダーBLACKが一度負けて世界を征服されたのは彼自身が「秋月信彦を救いたい」という私的動機と「地球の平和を守る」という公的動機で葛藤したためです。
その結果一度シャドームーンに膝を屈することになりましたが、「オーレンジャー」の5人にはそのような私的動機も内面の葛藤もなく、最後まで三浦参謀長らの言うことを聞いて戦っていました。
要するに組織の都合のいい駒を抜け出られなかったため、彼らの力も源である超力が失われ変身できなくなった時に、どうすればそれが回復できるのかという対策まで講じていなかったのです。


そして更なる問題はヒステリアがカイザーブルドントとマルチーワ姫が遺した赤ん坊を助けてくれと命乞いされた時に露呈してしまいます。
オーレンジャーはそれまでバラノイアを熱い血流れぬ鋼のマシン=倒すべき敵だと思い込み、実際にその通りに戦い続けましたが、そんなバラノイアですらも実は愛があったことを理解するのです。
このように相手を「人間」「個人」と認識してしまうと途端に殺しにくくなってしまうのですが、それは同時に「カリスマの凋落(ちょうらく)」を意味するものだったのではないでしょうか。
昭和天皇崩御、冷戦の終結、そしてバブルの崩壊と昭和の価値観がどんどん崩れ去って行く中で、日本でも同年に阪神・淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件などが起こりました。


これらの事実によって、「オーレンジャー」は「ファイブマン」までの戦隊シリーズが抱えていた旧来ヒーローと悪の組織の構図がもう限界を迎え、既存の方法論が通用しないことを示したのです。
戦争が完全に対岸の火事となり平和ボケを起こし始めた現代日本において、戦隊シリーズもまた改めてヒーローと悪の組織の形を再定義し、作り直す必要があることを示されました。
要するに「ジェットマン」が先駆けて問題提起した数々の要素を丁寧に紐解きながら、新たなる戦隊のスタンダードを作り上げていったのが次作「カーレンジャー」以降の作品群です。


(5)高寺・浦沢コンビによる「湾岸戦争の戯画化・風刺」である『激走戦隊カーレンジャー


本当の意味での「ポスト冷戦」の世界観が具現化したのが本作であり、本作はギャグ・コメディの形を借りながらも実に的確にポスト冷戦の現代日本を戯画化し、1つの社会風刺を行っています。
本作のモデルになっているのはポスト冷戦の戦争として象徴的だった湾岸戦争であり、それを高寺・浦沢コンビがギャグとして戦隊シリーズの世界に落とし込んだものといえるでしょう。
その証拠に第一話冒頭のダップの星が花火にされるところの絵は湾岸戦争の夜戦のカットに酷似しており、せっかくですので見比べてみます。

 

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カーレンジャーの夜戦

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湾岸戦争の夜戦




こうして見てみると実にそっくりですが、これは決して偶然ではなく、かなり意図的に悪意を持ったパロディをしていると見ていいのではないでしょうか。
湾岸戦争イラク軍がクウェートを占領したことにブチ切れたアメリカをはじめとする多国籍軍がミサイルを大量に打ち込んだことで始まりましたが、本作もそのような図式です。
ダップと父親のVRVマスターはさしずめイラクの石油王の家系の末裔、ボーゾックが力だけはあるが指導者がいないアナーキズム状態のアメリカであるといえます。
そして恭介たちカーレンジャーの5人はそんな石油王の個人的事情に巻き込まれて戦うことになってしまった平和ボケを起こしている現代日本人のカリカチュアです。


「給料税込で19万3,000円で、どうして宇宙の平和まで守らなきゃいけないわけ!?」と恭介たちは言いますが、コミカルに処理されているものの実に皮肉の効いた痛烈なヒーロー作品へのカウンターです。
ここで問われているのは「もしあなたの日常が何者かによって脅かされ、自分が戦わなければならないと知った時にどうすべきか?」ということですが、ここで「ポスト冷戦」という世界観が生きてきます。
戦争がすでに日本人の感覚から消え失せて画面の向こうの対岸の火事でしかなくなったとはいえ、それは決して真の平和を意味するものではなく、いつ日本が戦場になってもおかしくはないのです。
そんな対岸の火事対岸の火事でなくった時にどういう行動を起こすべきなのか、誰一人正義の戦士としてのバックボーンなど持たない状態でカーレンジャーの5人は戦い続けます。


途中からはシグナルマンなども戦いに加わることになりますが、そのシグナルマンですら規律に縛られて判断を間違えることが多くなりますし、ダップもVRVマスターも指導者としておぼつかない側面があります。
そんな命がけの戦いの筈なのに真剣に戦っているように見えないのが本作の一貫してドライにして面白いところなのですが、その中でボーゾックのバックアップに暴走皇帝エグゾスがいることが明らかとなりました。
エグゾスは例えるならば、戦後好き勝手やってきたアメリカを裏で牛耳っていると噂されている超富裕層のカリカチュアともいえ、表で善人のフリをしながら裏ではとんでもない悪事を働いています。
それに対抗するにはカーレンジャーとボーゾックが和解して手を組むしかなく、皮肉にも最後はゾンネット=ファンベルト王女がカーレンジャー5人の指導者となり、エグゾスを倒すという目的を与えました。


そして、一度失われたクルマジックパワーを主体性をかけて取り戻すことによって、彼らは真のヒーローとなってこの戦いに終止符を打つことができたのです。
このように、本作は高寺プロデューサーと浦沢義雄先生を中心に、作り手が改めて「ポスト冷戦」の世界観として現代日本に成立しうる「等身大の正義」を作品のテーマとして押し出しました。
その源流はすでに『鳥人戦隊ジェットマン』で打ち出されてはいたのですが、明確に作品のテーマとして打ち出したのが本作と次作「メガレンジャー」だったのです。
本作の成功に手応えを感じたスタッフが次に向き合うことになるのが日本で起こった最大のテロリズム地下鉄サリン事件」であり、その読み解きを次作「メガレンジャー」で行うことになります。


(6)高寺・武上コンビによる「オウム真理教事件の読み解き」である『電磁戦隊メガレンジャー


前作「カーレンジャー」で打ち出された「等身大の正義」の路線を受け継いだ本作を「ポスト冷戦」の世界観として見る場合、モデルとなったのは実は「オウム真理教事件」ではないでしょうか。
元鮫島博士ことドクターヒネラーはいうまでもなく、オウム真理教の指導者・麻原彰晃カリカチュアと読み取ることができ、しかもそれが主人公である健太たちの指導者・久保田博士の元親友なのです。
そしてそんなドクターヒネラーが作り上げた邪伝王国ネジレジアがどんな集団だったかというと、その実態が「身近な人間の悪意」の表象であることが終盤で明らかになってきます。
そう、悪は遠いところからやってくるのではなく身近なところからこっそりと忍び寄ってきて突然に日常を侵略し始めることになるのです。


さて、ここでオウム真理教が起こした一連のテロリズムですが、あれは「世直しを求める真面目な人間たちの逆恨み」だったのだと今見直せば誰もがわかることでしょう。
要するに学生運動の平成版とも言えるのですが、麻原彰晃をはじめオウム真理教に入信したのはそうした平和ボケを起こし腑抜けてしまった現代日本に苛立ちを感じた人たちでした。
それが本作においては、「科学の研究のために実の娘を死なせてしまい、世間から糾弾されて悪意に目覚めた鮫島博士」という設定に置き換えられているのです。
敵の侵略の形も遥かに巧妙化しており、宗教の指導者になりすましたり、地下鉄サリン事件を彷彿させる毒ガステロなどもまた話の中で描かれています。


そしてまた、それは終盤のネジレンジャー関連でも描かれており、ネジレンジャーが人間の姿に化けて音声や体格から正体を割り出そうとする展開は巧妙なテロリストの手口です。
明らかにそれまでの戦隊の悪の組織とは異なる陰湿なやり口ですが、逆にいえばそういう悪意と向き合うことが健太たち現代の若者に突きつけられた課題でした。
ところが健太たちは力を手にしていながら普段はのんべんだらりと日常を享受する若者たちの領域から抜け出ることなどなく、どこか真剣味が足りません。
そんな彼らへのしっぺ返しと言わんばかりに、健太たちは終盤で支えとなっていた高校生活も全てを失って孤立無援の状態に追いやられるのです。


これはすなわちかつての鮫島博士=ドクターヒネラーが辿った道であるともいえ、それを高校生という若い時分に経験することによって彼らは大人への通過儀礼を行いました。
だからこそ最終決戦の「ならば聞こう。お前たちは幸せか?」とドクターヒネラーに聞き返されたときに、健太たちは何も言い返すことができなくなっているのです。
これは「ライブマン」ら80年代後期の戦隊シリーズ、そしてそれを継承した「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」が経験した「ヒーローの挫折と敗北」でもありました。
健太たちはこの戦いに勝ち残れるだけの強固な戦士としてのバックボーンを持ち得ず、誰1人として心の中のドクターヒネラーに打ち勝つことができなかったのです。
それは同時にオウム真理教事件に対して、実は誰しもがその存在を忌避しながら完璧に否定しきれなかったことをも意味していたのではないでしょうか。


(7)海外で起こった民族紛争の解体と再構築である『星獣戦隊ギンガマン


本作を現実の戦争・紛争になぞらえる場合、モデルとなったのは海外で起こった民族紛争であったのかもしれません。
これは私自身も改めて腰を据えて見直して気づいたことですが、ギンガマンという作品は歴代で見ても「多国籍(ないし無国籍)」であるということです。
例えば宇宙海賊バルバンは4つの軍団で構成されていますが、サンバッシュ魔人団が西部劇、ブドー魔人衆が時代劇、イリエス軍団がエジプト神話、そしてバットバス魔人部隊が産業革命期のイギリスに見えます。
全く毛色も国籍も異なる4つの国籍が海賊となっているのに対して、ギンガマンギンガマンで星獣たちとギンガの森の民たちの関係性自体が既に多国籍であることが伺える設定です。


これが2クール目になると同じ「星を守る戦士」でありながら、ギンガの森の民とはまるで異なるバックボーンや歴史を持つ黒騎士ブルラックとゴウタウラスが物語の本筋に絡んできます。
リョウマたちは故郷の星を亡くし復讐鬼となった黒騎士との対峙の中で、改めて自分たちの使命である「星を守る戦士」というものがどうあるべきかを改めて意識するようになるのです。
本作のベースにあるものは「ジュウレンジャー」〜「カクレンジャー」までのファンタジー戦隊三部作が構造として持っていた宗教戦争の発展版といえるものですが、大きな違いがあります。
1つは指揮官である知恵の樹・モークや星獣たちが決して大獣神や道士、三神将のような権威ではなく横並びの関係性であること、そしてもう1つがリョウマたちの持つ使命が絶対的価値観ではないことです。


これは「チェンジマン」「オーレンジャー」辺りと見比べるとわかることですが、ギンガの森並びに銀河戦士自体は決して世間に認められていない非合法な武装集団であり、側から見ると異質な存在といえます。
3,000年もの間世俗と隔絶しつつ外の情報をしっかりキャッチしておき、その上でバルバンとの戦いに備えていたという時点で、まず敵に回したら恐ろしい人たちではないでしょうか。
また、そんなギンガマンたちの宿敵である宇宙海賊バルバンも数々の星を滅ぼしてきた多国籍のならず者たちの集まりであり、要するに物語開始の時点で「殺すか殺されるか」でしかないのです。
土着の戦闘民族と敵対する多士済々の荒くれ者の戦いとはさながら90年代に勃発したユーゴスラビア紛争やルワンダ内戦あたりに代表される民族紛争を伝説化し、戦隊のフォーマットに落とし込んだものといえます。


何が言いたいかというと、要するにリョウマたちギンガマンが掲げている「星を守る」という使命はあくまでもギンガの森の民の思想に過ぎず、世間から見ての一般的価値観ではないということです。
最初は特に青山親子を通じてギンガマンとの戦いに対する考え方や意見に温度差があるように描かれていたのも、そうした相対化された価値観の違いからくるものではないでしょうか。
つまりリョウマたちギンガマンは決して完全無欠で正しい立場にいる者たちではなく、あくまでも自らの意思によって力を制御し、正しく行動し続けることによってのみヒーローであることが証明されるのです。
口で「星を守る」と言い放つヒーローはいくらだっていますが、それを常に内省しつつ最後の最後まで意識的に星を守る戦士であった、あろうとし続けたのは民族紛争の思想や正義のあり方そのものといえます。


(8)ノストラダムスの預言と阪神・淡路大震災を掛け合わせた『救急戦隊ゴーゴーファイブ


前作とは対照的に神話的な要素が色濃く反映されているのが本作であり、実はその意味で前作「ギンガマン」とは真逆の路線を極めた戦隊であるといえます。
ギンガマン」が土着の戦闘民族と宇宙海賊の血で血を洗う地球の覇権を巡った民族紛争であるならば、本作は1995年の阪神・淡路大震災ノストラダムスの預言を組み合わせているのです。
実際にあった事件のみならず、この時代実しやかに信じられていた世紀末の予言までもを取り入れているため、表向きはリアルっぽい公権力ヒーローでありながら内実はギンガマンよりファンタジックでした。
しかし、それらはあくまで作品の世界観を構成する設定であり、ドラマとして本質的に描かれていたのは「複雑化した家族の価値観の相克」だったのではないかと思われます。


これは「ファイブマン」と比較してみるとわかることですが、「銀帝軍ゾーンを倒す」という復讐の元に自発的に結成され、兄妹同士が仲良くまとまっていた「ファイブマン」はどこか昭和のような家族観です。
それに対して本作では巽兄妹たちが表向き「人の命は地球の未来」「信じ合うのが家族です」をモットーにしながら、それでも家族同士の喧嘩や言い争いが終盤まで絶えることがありません。
特に6話のショウがマトイと父親のモンド博士に対して言うセリフが絶妙であり、家族だからと一緒にいることが必ずしも幸せというわけではないことが示されているのです。
これに関しては、家族同士なのに険悪な仲であり、尚且つ息子や娘を組織の駒扱いしかしない大魔女グランディーヌが降臨して以降の災魔一族のあり方に反映されています。


昭和から平成に移った時、間違いなく崩壊してしまったことの1つが「家族の絆」であり、特に阪神・淡路大震災で親御さんを亡くして独り身になった子供も少なからずいました。
あの震災を「家族」と言う観点から見る場合、間違いなく自分が真っ先に頼るべき対象である親がいなくて誰にも頼れない孤児が再び生まれてしまった歴史的大事件でもあったのです。
本作の巽一家がバラバラの状態からスタートし、1年をかけて家族の絆が再生していくプロセスが描かれているのもそうした震災への意識が少なからずあったのかもしれません。
もっとも、本作ではこの「家族の価値観」に関して必ずしも真正面から描き切れたとは言い切れず、必ずしも文芸作品として成功作だったとは言い切れないところがあります。


というのも、マトイたちは一般人設定といえど、全員が国家公務員という特殊な救急の家系であり、世間一般の価値観を持った普通の家庭とは言い難いからです。
その辺りにもっと深く切り込み、例えば職業が違うという設定を価値観の相克といった深刻な問題につなげても良さそうですが、本作ではそれは慎重に回避されていました。
ただひたすら職務を全うし続ける救急戦士の姿が純粋に肯定されており、必ずしも現実的な親子の対立や価値観・時代性の違いが描かれていたとはいえないでしょう。
本作が積み残した課題は全て次作「タイムレンジャー」で真正面から語られることとなり、そのための礎となったのが本作だったのではないかと思われます。


(9)旧世代と新世代の価値観の相克を描いた『未来戦隊タイムレンジャー


様々な試行錯誤を繰り返してきた90年代戦隊の集大成ともいうべき位置付けにある本作が描いたものを別の角度から見ると「旧世代と新世代の価値観の相克」といえます。
前作「ゴーゴーファイブ」とは対象的に、価値観が多様化・複雑化した現代社会の中における「私闘」を描いた本作では家族の幸福というものに対して徹底して否定的です。
それは主人公の浅見親子の確執を見れば一目瞭然ですが、他にも物語開始時点ですでに家族を失った孤児であるユウリや故郷の星を亡くしたシオンなどにも代表されています。
そして何より後半で登場する第三勢力であるタイムファイヤーこと滝沢直人がその特色をより際立たせ、それが本作独自の「戦い」ということになりました。


私のフォロワーさんは本作を「自己犠牲を「否定」するのではなく「超越」したところにある戦い」といった趣旨のことを述べていましたが、言い得て妙です。
何故ならば、本作は世界の運命や地球の平和なんてご大層なものではなく、「自分の明日」という極めて卑近なものを変えていくための戦いだからであり、命を奪わない戦いとなります。
圧縮冷凍という本作独自のSFガジェットもまたそんな本作の戦いがどういうものであるかをわかりやすく象徴しており、だからこそ自己犠牲がそもそも発生しない戦いとなるのです。
ここが歴代でも特殊な位置付けであり、現実の国際紛争や震災・予言といったものではなくもっと内的かつ身近なものと戦うのが本作の真髄といえるでしょう。


竜也たちは決して権威あるものにすがっているわけではなく、むしろ既存の社会のルールや旧態依然の価値観に対してこそ戦うことになります。
浅見会長たちはそういう意味で「旧世代」の象徴といえ、竜也たちがいわゆる「新世代」の象徴ともいえ、これからの歴史を担う新しい若者たちがぶつかるべき現実を描いているのです。
しかし、だからといって先人が築き上げてきた功績だったり生き方だったりを否定するのでもなければ、竜也たち未来ある若者たちの姿が安直に肯定されているわけではありません。
双方の価値観をしっかり相対化して立てつつ、後半では歴史修正命令を分岐点として浅見親子の歩み寄りや歴史に対する価値観のパラダイムシフトが描かれていました。


本作は終盤で大消滅という歴史的な出来事を食い止めることになるのですが、その決断の根拠になったのはあくまでも竜也の決断と未来人4人の個人的決断が重なった結果に過ぎません。
そこにもはや正しい歴史がどうのこうとか権威がどうとかは関係なく、自分の意思で自分の人生を決める決断を5人は最後の戦いにおいてしたことになるのです。
だから本作で描かれている戦いは「ゴーゴーファイブ」までとも、そして「ガオレンジャー」以降とも異なるものであり、少なくとも本質的に本作と同じ戦いを描いた作品は他にないでしょう。
ジェットマン」から始まった「ポスト冷戦の世界観で、等身大の正義を拠り所として戦う」というテーゼは本作をもって1つの極みに達したといえるのではないでしょうか。


(10)まとめ


いかがでしたでしょうか?
これまでの記事と比べても遥かに長くなりましたが、言語化してみて気づいたのは、理解したつもりでいた90年代戦隊でもまだまだきちんと言語化されていない部分があるということです。
もちろんこれはあくまで序論というか叩き台のようなもので、決して完璧でもありませんし、かなり下調べや論拠も甘いので改良の余地はあることは認めます。
しかし、「スーパー戦隊と社会」「戦争とヒーローの戦い」といった所に踏み込んで、現実の戦争との繋がりを論じて、作品そのものを豊かにしていくことは可能なはずです。
特に昭和から平成という時代の移り変わりであり激動期であった90年代の戦隊シリーズはそのテーマを非常に論じやすいものであると言えます。
この記事が少しでもそういったスーパー戦隊における「戦い」の意味を別の角度から捉え直し、新たな視点から批評するきっかけになれば幸いです。

 

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