明日の伝説

好きな特撮・アニメ・漫画などに関する思いを書き綴る場所。更新停止

スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー8作目『無敵鋼人ダイターン3』(1978)

 

f:id:gingablack:20211227115052j:plain

出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00009QX5S

 

ザンボット3」を書いたので、次は是非「ボルテスV」をと思ったのですが、その前にまず「ダイターン3」を書きたくなったので、このまま連続で書きます。
さて、「ダイターン3」ですが、私のイメージとしてはやっぱりスパロボシリーズでの財力源として描かれることが多く、資金提供などを万丈が行うことが多いです。
そして外連味溢れる「世のため人のため!悪の野望を打ち砕くダイターン3!この日輪の輝きを恐れぬならかかってこい!」という見得切りも大きな特徴になっています。
そのおかげか、スパロボでは「マシンロボ クロノスの大逆襲」のロム兄さんと並んで絶対的正義の象徴のように置かれることが多く、かなり美化された存在です。


ただし、本作をご覧になった方はわかると思いますが、万丈のそれは全て虚飾でしかなく、スパロボがいかに万丈の表のかっこよさだけを綺麗に表現しているかがわかるでしょう。
また、作品の設定や背骨にあるドラマ、テーマ性はとても重たく黒く、下手すれば前作「ザンボット3」以上に怖い作品ということができるかもしれません。
モチーフとしては「007」シリーズを中心とした様々な痛快娯楽活劇を盛り込みつつ、それらをラストで全てひっくり返して見せるという構造になっているのです。
アプローチは違いますが、実はこの「ダイターン3」もまた「ザンボット3」とは違う形でのスーパーロボットアニメ神話をひっくり返す形になっています。


そのため、本作をスパロボでしか知らなかった私は本作を見た時、その背景にあるどす黒いものに気づいて「こんな作品だったのか」と愕然としたものです。
どうしても伝説の傑作「ザンボット3」やもはや言うまでもないロボアニメ史上最大のエポックと呼ばれる「ガンダム」に比べて本作はやや地味な位置づけになっています。
確かにアニメ史に大きく名を残した作品ではないかもしれませんが、この作品がなければ70年代ロボアニメをきちんとした形で完結させることはできなかったでしょう。
本稿では前作との比較も兼ねつつ、70年代ロボアニメ史において本作がどのような役割を担っていたのかを私なりに分析してみます。

 


(1)個人事業主の集まり


本作を見た時の第一印象は「非常にドライな作品だなあ」であり、それはOPの主題歌にある「涙はない 涙はない 明日に微笑みあるだけ」という歌詞からも伺えます。
前作「ザンボット3」や次作「ガンダム」は根っこはハードでありながらも割とウェットな人情話であるのに対し、本作はハードな設定を抱えつつも基本的にドライなのです。
万丈たちはあくまでもビジネスライクな「仲間」ですが、いわゆる「心を1つに団結」というような美しい戦隊シリーズの如きチームワークなどでは決してありません。
あくまでもそれぞれがそれぞれに独立した個人事業主の集まりであり、誰一人として万丈の求心力に依存していないという関係性が最後まで貫かれています。


その証拠に万丈はレイカとビューティーという2人の女を侍らせ、さらにはトッポやギャリソンまでいながら、彼らに対して特別見返りを求めません。
万丈が仲間たちを助ける時も、またその逆にレイカたちが万丈を助ける時もあくまでもそれは各自の個人的判断に基づくものであり、義務と考えているわけではないのです。
そういう意味では前作「ザンボット3」の勝平たちがそうであるように、万丈たちもまた公的動機で動いているように見せかけておいて、その実完全な私的動機で動いています
1つ面白いのは本作では司令官が不在であるということであり、万丈がその司令官を兼任しているのですが、いわゆる「007」でいうMのような存在がいません。


つまり本作の正義の味方側がやっていることはあくまでも「全共闘」であり、ダイターンチームは「組織」ではなく「個人事業主の集まり」でしかないのです。
戦隊シリーズだと、これを最初に実現したのが「ゴーグルV」であり、以後「フラッシュマン」「ライブマン」「ファイブマン」「タイムレンジャー」などで実現しています。
これの何が重要なのかというと、この万丈たちが目指した戦いの形は学生運動が目指した「全共闘」そのものであり、本作は万丈をお金持ちの資産家にすることで説得力を持たせているのです。
だから戦いの責任は全て自分たちで負うしかなく、誰もそれを保証してくれるものなどいない、そうなると一々かっこ悪く無様なところを見せることはできません。


万丈にとってあくまでもレイカやビューティたちは「生死を共にする仲間」以上の意味はなく、罷り間違っても「守ってあげなければ」と思うことはないのです。
だから、レイカたちを人質に取られても万丈には全く効かないのですが、それはレイカたちが人質にされた程度で恐るタマではないといえるからでしょう。
また、万丈にはもう1つの隠された黒い事情があるのですが、そういうこともあって万丈は誰にも心を開いていないし、それは他の仲間たちも同じです。
本作にはいわゆるウェットな関係性ではなく、涙はありませんが、かといって愛や情があるというわけでもない、最後までドライな関係性を維持して終わりました。


(2)「鋼人」に隠されたダブルミーニング


(1)で書いた本作のヒーロー側の構造が読めてくると、本作が無敵「超人」ではなく「鋼人」であることの意味も読み解くことができます。
本作における「鋼人」には2つの意味があり、1つが「サイボーグ」、そしてもう1つが「鋼の体で心の弱さを覆い隠している人」という意味です。
その2つが最終的に意味するところは要するに敵組織のメガノイドであり、実は「無敵鋼人」とはダイターン3と同時にメガノイドにもかかっています。
最終話まで見ていくとわかりますが、本作の隠された背景設定にあるのは石ノ森先生の「仮面ライダー」が抱えている「敵も味方も同じ力を使っている」という設定です。


これが前作との大きな違いであり、前作「ザンボット3」のザンボットチームとガイゾックにはそのようなつながりはありませんでした。
しかし、本作ではダイターン3はメガノイドが実験用に作ったものであり、万丈はそれを盗んで反旗を翻したに過ぎず、要は「同族殺し」の話なのです。
これに関しては後述しますが、実は表向きの「世のため人のため」という明るさの裏にそのような愛憎渦巻く昼メロめいた設定が隠されています。
本作はそれをあくまでもサラッとドライに表現することで娯楽活劇に仕立てていますが、やろうと思えば本作はシリアスとして描くこともできるのです。


そして何より本作が「超人」ではなく「鋼人」と名付けている理由は「心が伴ってこその超人である」という逆説的な完璧超人ヒーローへの屈折した尊敬と憧れがあるからでしょう。
前作のザンボット3は「無敵でも超人でもない」、もっというと「超人に「させられてしまった」人たちの物語」であるのに対し、本作は自分たちで鋼人になることを選んでいます。
万丈と親友の話を見ればわかりますが、本作のメガノイドは元人間であり、機械の体を得ることで「超人」になったと思い込んでいる愚か者たちなのです。
これは石川漫画版「ゲッターロボG」に出てくる元学生運動のグループが百鬼帝国に魂を売って機械の体を得てしまったという設定と似たものと言えます。


しかし、そのように強大な力や技があったとしても、そこに「心」が伴っていなければ単なる暴力でしかなく、心も併せ持って初めて「一流」であり「超人」なのです。
万丈たちダイターンチームとメガノイドたちが同じ力を抱えていながらも差を分けたのはそこであり、正にヒーローもののテーゼである「力と心」の関係をしっかり描いています。
またこれは「マジンガーZ」が抱えている「神にも悪魔にもなれる」というテーゼを本作なりに読み替えたものといえ、換骨奪胎として成り立っているのではないでしょうか。
ここが見えてくると、本作は更にとんでもなく黒い背景が見えてくるのです。


(3)トッポという子役に設けられた意味


個人的に本作を語る上で最も印象的だったのがトッポという子役であり、彼はいわゆる兜シローや早乙女元気などのレギュラー子役と言ってもいいでしょう。
そんな彼がダイターン3をEDで人形として操っていたり、あるいは武器を持ってカチコミを決めようとするシーンが描かれたりしていることに大きな意味があります。
彼は単なる賑やかしや狂言回しというだけではなく、ある意味では子供という存在の残酷さ、そして本作の面白おかしさもまた象徴しているのです。
これは私が愛読している有名な富野ブロガー・グダちん氏もまた触れていることです。

 

nuryouguda.hatenablog.com


ダイターン3を操っていた破嵐万丈自身も「メガノイドを殺す」という自動思考に囚われた機械仕掛けの超人に過ぎなかったのでは?という残虐なラストになる。


後述するラストにも繋がっているのですが、本作で描かれる娯楽活劇のスタイル、様式美は全て富野監督たちにとっては滑稽なブラックジョークの対象でしかありません。
それを表すようにEDではトッポがダイターン3を傀儡として操り、「おいらの呼ぶ声聞こえたら地の果てから地の果てから飛んでこい」などと偉そうにトッポは言うのです。
トッポ視点で描かれたあのEDの歌詞とアニメーションが意味するものは「ヒーローなど所詮は子供の我儘を都合よく実現した存在でしかない」ということでしょう。
要するに「マジンガーZ」をはじめとして多くのロボアニメ、またヒーローフィクションというものは子供が憧れる「かっこいい」を満たしたものなのです。


それを逆手に取って、本作の製作陣はダイターン3や万丈ですらも所詮はトッポにいいように操られた傀儡でしかないという捻りを効かせたのではないでしょうか。
この辺りは前作「ザンボット3」とは真逆の手法であり、前作が一見ロボアニメのスタンダードを悉く破壊するアンチロボアニメから寧ろ丁寧に「ロボアニメとは何か?」を再定義しました。
本作はその逆に一見正統派の王道ロボアニメの体裁を取っていながら、その実はアンチヒーローもののキャラクター造形と作劇という二重にも三重にもパンチが効いた構造になっています。
それを象徴するものとしてトッポを象徴的に機能させているところにあり、本作はキャラクターの使い方にまるで無駄がありません。


(4)ラストの「同族殺し」が意味するもの


さて、ここまで本作の構造を読み解いていくと、ラストの「同族殺し」の結末が意味するものが何だったのかも見えてきます。
本作は最終回まで見ていくと「破嵐万丈による一族への復讐」であるというどす黒い構造が見え、また破嵐万丈も「完璧超人の皮を被った復讐鬼」であることが白日の下に晒されるのです。
そう、完璧超人の仮面の下に人間を改造して銀河へ羽ばたこうとする身勝手な家族への復讐を万丈が果たす、壮大な親子喧嘩を銀河規模のスケールでやっていることが明らかになります。
前作がミクロな視点からマクロな視点へ話を広げているのに対して、本作はマクロな視点からミクロな視点へと逆にどんどんターゲットが絞られていくのです。


そしてそんな万丈がドン・ザウサー=破嵐創造の成れの果てとコロス=万丈の母の成れの果ての象徴である2人の原動力にあるものが「」であると理解します。
ここで第一話の最後でダイターン3の周りを女性たちがハートマークで囲っていたことが皮肉な伏線として機能し、無条件に「善」の象徴とされていた愛が寧ろ「悪」の象徴になるのです。
敵側がまさかお互いの愛故にお互いに執着し、そして愛故に人をサイボーグにするというとんでもないことをしてしまったことを知ります。
そしてそんな彼らを憎しみ敵対していた自分もまた、そんなメガノイドと本質的に同じ「復讐のみに執着し、他者との関わりが見えなくなっている存在」だと万丈は気付いたのでしょう。


「僕は……嫌だっ!」


まさに前作の勝平同様に万丈もまた自らが信じていた正義の拠り所を失ってしまい、それまで「復讐」を「世のため人のため」で理論武装していたにすぎない己の中のメガノイドに気づいたのです。
この「完璧超人を装った復讐鬼」というのは昭和ヒーローには多く見受けられたもので、次作「ガンダム」のシャアが正にそんな万丈の造形を受け継いでいるとも言えます。
また戦隊シリーズで言うならば、「ジェットマン」のレッドホーク/天堂竜や「ギンガマン」の黒騎士ブルブラックもそのような存在であるといえるのではないでしょうか。
そんな万丈が最後に己の心を破壊されてしまい、レイカたちの前から姿を消して世捨て人になってしまう、ある意味では「逆襲のシャア」でアムロがシャアに対して指摘した言葉通りです。


「世直しのことを知らないんだな、革命はいつもインテリが始めるが夢みたいな目標をもってやるからいつも過激なことしかやらない」
「しかし、革命のあとでは気高い革命の心だって官僚主義と民衆に飲み込まれていくからインテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる」


この言葉通り万丈も、そしてシャアも気高い夢のような目標を持って過激なことをし始めながらも、結局「強さ」だけに固執し己の「弱さ」と向き合おうとしませんでした
だからこそ力に飲み込まれてしまい、世捨て人になって厭世的になってしまったことがラストに示されており、おそらく万丈は自分の拠り所すら失ってしまったのでしょう。
そしてこの結末は同時に「マジンガーZ」の兜甲児から連綿と続いていた完璧超人の主人公像を破壊した瞬間でもあり、ここでもう完璧超人の主人公を視聴者は必要としなくなりました。
だからこそ次作「ガンダム」では全く完璧でも超人でもないアムロ・レイという内向的な新世代の主人公が台頭してくることになるのです。
その意味では万丈という主人公、そして本作の立ち位置そのものが「70年代ロボアニメの終焉」を意味したのではないでしょうか。


(5)「ダイターン3」の好きな回TOP3


それでは最後に「ダイターン3」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…17話「レイカ、その愛」
  • 第4位…30話「ルシアンの木馬」
  • 第3位…37話「華麗なるかな二流」
  • 第2位…20話「コロスは殺せない」
  • 第1位…最終話「万丈、暁に消ゆ」

 

まず5位はレイカとの関係を通して本作の仲間達のビジネスライクな関係性についてしっかり定義した回です。
次に4位はメガノイドが抱える悲惨な背景設定についてしっかり突っ込んだ回でした。
3位は万丈と親友のエピソードを通して本作の正義と悪がどこで別れているのかをしっかり定義しています。
2位は万丈の完璧超人の仮面の下に隠れているおぞましき復讐鬼としての冷酷な本性を浮き彫りにした名作回です。
そして堂々の1位は文句なしの最終回、この最終回が「70年代ロボットアニメの終焉」を司りました。


本作は単発回によって出来に差がありますが、その中でもこの5本は突出して優れている、というものに絞って選べばいいので楽ですね。


(6)まとめ


前作「無敵超人ザンボット3」とは真逆の手法を用いながら、本作もまたロボアニメの構造を逆手に取って70年代ロボアニメを破壊した作品だと言えます。
完璧超人と思わせながら復讐鬼の顔をラストで剥き出しにし、己の中のメガノイドと向き合った時に足場をなくしてしまい世捨て人になる万丈。
ある意味では一番悲惨な結末を迎えてしまった主人公かもしれません、戦い続けて目標を果たした先に何も残らなかったのですから。
だからこそラストでは仲間たちもまた離れていくのですが、これがなんとなくどんどん富野監督から離れていく優秀なサンライズスタッフの関係性にも見えます。
とにかく、やるべきことはしっかりやった上で次作「機動戦士ガンダム」への下地を完璧に整えたA(名作)といえるのではないでしょうか。

 

無敵鋼人ダイターン3

ストーリー

B

キャラクター

S

ロボアクション

S

作画

B

演出

A

音楽

S

総合評価

A

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパー戦隊シリーズと限界効用逓減の法則

昨日、Twitterで私のフォロワーと色々話していたのですが、その中で「どんなシリーズ物もある程度の所まで行くと限界を迎える」ということがあります。
これは何事にも当てはまる1つの真理なのですが、専門用語で「限界効用逓減の法則」というものがあり、長年続けているものはどこかで必ずこうなるのです。
今回はいくつかの事象を例に取りながら、限界効用逓減の法則を当てはめて解説してみましょう。

 


(1)限界効用逓減の法則とは?


限界効用逓減の法則とは「一定期間に消費される財の数量が増加するにつれて、その追加分から得られる限界効用は次第に減少する」という法則です。
これだけだと「何のこっちゃ?」なことだとおもうので、まずグラフを見ながらわかりやすく解説していきましょう。

 

f:id:gingablack:20211226101701j:plain

限界効用逓減の法則


このように、最初の段階では物凄く数値が高くなるのですが、ある程度の所まで極まるとそこで青天井になってしまい、頭打ちになってなだらかになってしまうというものです。
例えば、食事に関して説明すると、例えば最初のビール一杯目を飲んだ時の満足度を二度目、三度目と飲んで行くうちに得られなくなっていきます。
よくお金持ちが毎日キャビアやフォアグラなどの高級料理を食しているかというと決してそんなことはなく、普段は質素な食事をしています。
それは毎日そんな食事をしているとかえって刺激不足になってしまい、1回目食べた時の感動を忘れてしまいかねないからです。


例えば最初にめちゃくちゃ美味しい食べ物に出会ったとしても、大体3日目くらいで飽きます。
美人は3日で飽きる、ブスは3日で慣れる」と言いますが、これも限界効用理論が働いているからです。
どんなに美しい人でもそうでない人でも、毎日顔を突き合わせているとそれが日常となり当たり前になります。


(2)結婚が人生の墓場と言われる理由


人間関係で最もわかりやすい限界効用逓減の法則はというと結婚が正にそれで、結婚が人生の墓場と言われる理由もここにあるのです。
これは特に恋愛の延長線上で結婚した夫婦にありがちで、結婚前はすごく楽しい日々だったのに、結婚した途端に夫婦関係が冷めてしまうことがよくあります。
そして気がつけば主婦は女子会、男は仕事仲間との飲みなどでお互いの愚痴をめちゃくちゃ漏らしまくるという本末転倒な結果となるのです。
こうなる理由もその1つには限界効用逓減の法則があり、毎日一緒にいることが当たり前になってしまい、倦怠期に入ってしまうことになります。


つまり、結婚式までで気持ちが最大限まで高ぶって1つのゴールに達した後、それ以上の刺激は得られなくなり頭打ちとなるのです。 
では解決策がないのかというとそんなことはなく、具体的な解決策がいくつかあります。
まず1つ目がマンネリを回避するために夫婦が別個に新しい個人的趣味を始めること…お互いのプライベートが充実すれば、それだけでマンネリは避けられるのです。
子育てが終わって自分のことに時間を割く時間が増えると、習い事や教室に行く主婦などが増えますが、これも限界効用理論によるマンネリを打破するためにあります。


2つ目は夫婦揃って社交的な場に出ることであり、これはメンタリストのDaigo氏も仰っていましたが、夫婦で共通の友人・知人を作るのはマンネリ打破になるのです。
2人の関係だけで閉じてしまうから広がりがないだけで、新しい人間関係を広げれば、そこからまた新しい関係が出来上がり、夫婦関係に新たな刺激がもたらされます。
そして3つ目、これはもう最後の手段ですが、思い切って離婚し関係性をリセットすることであり、夫婦関係を断捨離することがお互いのためになることもあるのです。
離婚というと日本ではマイナスのイメージがありますが、夫婦の絆を一度手放すことで、かえってそこから解放されて身軽になることもあります。


(3)「ドラゴンボール」に見られる限界効用逓減の法則


さて、次に私が大好きなジャンプ漫画黄金期の名作「ドラゴンボール」に見られる限界効用逓減の法則を見て行きましょう。
これはもう非常に分かりやすく、ナメック星編(フリーザ編)までとそれ以後になり、ドラゴンボール」はもう実質フリーザ編がクライマックスなのです。
クリリンの死と引き換えに超サイヤ人に覚醒した孫悟空フリーザ最終形態の極限のバトル…「ドラゴンボール」であれ以上のバトルはまずないでしょう。
しかも最後はナメック星消滅まで行きますから、あそこは漫画もアニメも最高潮であり、強さのインフレ自体はもうあそこで1つの到達点となるのです。


その後人造人間編でトランクスやベジータ孫悟飯までもが超サイヤ人になれるようになっても、ぶっちゃけそんなに強くなったようには見えません
そもそもレッドリボン軍の復讐という要素自体が物語としては極めて矮小化されたものであり、それがフリーザより強いと言われても説得力がないでしょう。
実際セルゲームにしてもブウ編に行っても、数字自体は増え続けているはずなのに大して強くなったように見えないのは正にこの限界効用理論が働いているからです。
原作者の鳥山明先生もフリーザと悟空の戦い以降は強さの表現をどうするかに苦心したと仰っていましたが、正に人造人間編以降のドラゴンボールはこの例に当てはまります。


だから超サイヤ人2だの3だの、そしてフュージョンだのポタラだのというのは結局じゃぶじゃぶ水嵩を増しているにすぎません。
言ってみればもう超サイヤ人に覚醒した時点で孫悟空デジモンで言うウォーグレイモンレベルまで進化しているわけです。
それ以上続けようとすると「ドラゴンボール超」の「神の気」がそうであるように、別の概念を導入するしか方法はありません。
ポケモンでいえば人工的に能力を引き出すメガ進化であり、「ドラゴンボール超」の悟空とベジータは正にそうやって進化しています。


(4)スーパー戦隊シリーズと限界効用逓減の法則


そしてここでようやくスーパー戦隊シリーズの話になりますが、スーパー戦隊シリーズも結局は「タイムレンジャー」、行って「ガオレンジャー」までで表現が青天井になります。
もうこの辺りまででシリーズの文法やお約束としてやるべきことややれることはほとんど出尽くしてしまい、実は「ガオレンジャー」以降は大したパラダイムシフトは起きていません。
もちろん、中には「ボウケンジャー」「シンケンジャー」「ゴーカイジャー」「トッキュウジャー」「ルパパト」など、転換点と言えそうな作品はいくつかあります。
しかし、これらも結局は超サイヤ2や3と同じように水嵩が増しているか、もしくは「神の気」の導入と同じように外付けハードディスクによる容量増設に過ぎないのです。


ガオレンジャー」で大量の玩具販促によるパワーアップに走り出してから、シリーズはどんどん物語やキャラをじっくり描く余裕が失われつつあります。
分かりやすい例がゴーオンジャー」のエンジンオーG12ですが、あれなんかはもうひたすら玩具販促の物量を詰め込んだために物語とキャラを犠牲にしているのです。
玩具売上が回復しながらも、なぜ視聴率が回復しなかったのかというと、それはキャラクターや物語の力が弱いからであり、「ゴーオンジャー」は歴代でもキャラの魅力が薄い作品となっています。
だからこそ「シンケンジャー」がそのあたりを打破しようとした感じはありますが、その「シンケンジャー」ですらも00年代の玩具販促のノルマに押し負けた感じがあるのです。


とは言え、スーパー戦隊シリーズはそれでも毎年一から作ろうという気概は見せているので、まだ本当の意味での限界値は来ていないのかもしれません。
ただ、制作陣の中に次世代を担える人がいなくて、今もう頼れる人が脚本家だと香村純子氏やそれ以前の井上敏樹先生、また演出家も柴崎氏や中澤祥次郎氏を最後に新世代は出ていないのです。
来年の「ドンブラザーズ」で平成の「アギト」「555」を手がけたスタッフ陣がわざわざ戦隊シリーズに来たのも、そろそろシリーズが本当の意味で頭打ちとなるからかもしれません。
かといってスーパー戦隊シリーズを終わりにして新しい企画をスタートできるのかというと、それも難しいのが現状です。
何となくここ数年のシリーズとしての行き詰まりなどをみるに、大元の原因はこの限界効用逓減の法則にあるような気がしましたが、皆様はいかがお考えでしょうか?

スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー7作目『無敵超人ザンボット3』(1977)

f:id:gingablack:20211225100807j:plain

出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00009KM13

勇者ライディーン」の次は是非「コン・バトラーV」について書こうと思ったのですが、Twitterのフォロワーさんからの熱いご要望にお応えして、「ザンボット3」について書きます。
ザンボット3」と言えば、ロボアニメ史上でも「ダイターン3」「ガンダム」「イデオン」と続いていく全盛期の富野監督の代表作の1つですが、スパロボでも実は原作再現がなされているのです。
代表的なのは後半で見せる人間爆弾ネタと、ブッチャーの最期などなどありますが、ただいずれもが断片的かつ一番大事な「民衆から迫害されるヒーロー」という要素は再現されていません。
しかも、「ザンボット3」の場合は他のロボアニメとの共存でそうした鬱フラグが悉く回避されるので、本作の魅力は実際に作品を見たものにしかわからないのではないでしょうか。


さて、そんな本作の魅力ですが、改めて今この時代にこの作品を見直して私が何かを特別に感じるかと言えば、ぶっちゃけそんなにないのですよね、というのも後年の作品が本作の問題点を乗り越えているから。
しかも、演出や脚本の素晴らしさはともかく作画が本当に酷く、この時はまだシリーズ通しての作画監督を置いていないので、本当に初期は小学生が描いたかのような絵の酷さだったりするのです。
しかし、そんな作画の酷さすらも覆してみせるだけのクオリティは間違いなくあり、ロボアニメの歴史を語る上で絶対に避けられないであろう作品であることは間違いありません。
本作に関しては単品として見るよりも寧ろお隣の「ボルテスV」や「マジンガーZ」から続く歴代ロボアニメとの比較の中で見ていく方がより有意義なものとなるのではないでしょうか。


もう既に評価も固まり切っているので、今更私ごときがそんなに特別な評論を書けるなどという烏滸がましいことを思ってもいません。
しかし、スーパー戦隊シリーズの歴史でいわゆる「ヒーローの戦う動機」などをベースに考えていくと、本作はかなりその辺りストレートでわかりやすいのも事実です。
そのため、今回の記事に関しては「スーパー戦隊ファン脳によるザンボット批評」みたいなものだと思っていただければと思います…というか、私が書くロボアニメ評なんてほとんどそんな感じですが。
前置きが長くなりましたが、改めて今日見直してみての「ザンボット3」の特徴や魅力などを因数分解しつつ語ってみましょう。

 


(1)「戦いを知らない民衆」がいきなり戦場の狂気に巻き込まれたら?


本作の第一の特徴は勝平たちザンボット3パイロットがマジンガーZ」の兜甲児以上のど素人として描かれているということです。
勝平のキャラクターはいわゆる「正義感が強い」というより幼い正義感を暴走させているだけのワガママなクソガキでしかありません。
また、皮肉屋の宇宙太や気の強い恵子なども勝平に比べると幾分理知的とはいえ、基本的には等身大の少年として描かれているのです。
いわゆる兜甲児やゲッターチーム、またお隣の「ボルテスV」のボルテスチームなどと比べても明らかに「ど素人」ぶりが強調されています。


戦隊シリーズファンとして面白いのはまず勝平たちザンボット3のメンバーが第一話で勢揃いせず、3話かけてようやくザンボット3が出てくる点です。
これはスーパー戦隊シリーズだと史上最大の革命作である「ジェットマン」の1話・2話でようやく実現するものであり、同じ手法を富野監督は「機動戦士ガンダム」でも使っています。
スーパー戦隊シリーズがポスト冷戦の1991年に入ってようやく実現することを富野監督ら当時のサンライズスタッフは70年代末期にして既に実現していたのです。
そして3人の足並みが揃った時にようやくザンボット3への合体が可能になるという、いわゆる「なぜヒーローは団結できるのか?」ということまで描かれています。


ゲッターロボ」「コン・バトラーV」でもチームが団結していくドラマは描かれていますが、大体はもう最初の数話だけで描かれて、あとは綺麗なヒーロー作品にしているのです。
それに対して本作では勝平たちザンボットチームは喧嘩もするしわがままも言うし、いわゆる「等身大の正義」以上のものを持たず、いわゆる立派な正義感や理念はありません
つまり歴代のロボアニメがヒーローたちを「完璧超人」という、一種の高みに置かれた存在として描かれているのに対して、本作の勝平たちは普通の子供として描かれているのです。
こうすることによって、富野監督はまずロボアニメの中にあったヒーローの神話のシステムそのものを崩しにかかったということが読み取れます。


そしてそれを可能にしたのが勝平たちが「睡眠学習」で戦えるようにしてあるという一種の洗脳システムであり、だから勝平たちには「死」への恐れはありません
このような設定になっているのはお隣のボルテスチームら歴代のロボアニメ主人公が皆最初から命がけの戦いに対して簡単に覚悟完了してしまうからです。
しかし、ボルテスチームのように敵組織の襲来に備えて鍛え上げられたプロフェッショナルならともかく、普通の生活しかしていないアマチュアがそのようにすぐに戦えるでしょうか?
それが可能であるとすれば戦時教育のように子供を戦う兵士へ洗脳するしかなく、極めて残酷な設定であると言えますが、子供というのはそれだけ大人にとって戦争の道具に利用しやすいのです。


初期段階で描かれているのは「「戦いを知らない民衆」がいきなり戦場の狂気に巻き込まれたら?」であり、これが2年後の「機動戦士ガンダム」で1つの形に結実します。
また、本作の20話ではそんな勝平たちと対比させる形でプロの軍人がザンボット3を押収して戦わせるも失敗に終わるエピソードがあるのです。
これは意図的な「勝平たちに戦わせるくらいならプロの軍人に戦わせればいい」というありがちなツッコミに対する反駁だったのでしょう。
プロにはプロの、そして素人には素人なりの戦い方があるというのを示したのも面白く、これは戦隊だと「ジェットマン」のジェットマンとネオジェットマンで描かれていますね。
足元の設定からしっかり崩していくことによって、ロボアニメの定石をしっかり覆していったことにこそ本作の妙味があるのではないでしょうか。


(2)公的動機と私的動機の逆転


その上で面白いのは実はザンボットチームが一般的な公的動機ではなく私的動機で戦っていることであり、洗脳されているとはいえ、勝平たちはあくまで個人の決断に基づいて戦います。
いわゆる兜十蔵博士の遺志を継いだ兜甲児や恐竜帝国に真っ当な正義の怒りを燃やすゲッターチーム、また戦闘のプロとして鍛え上げられたボルテスチームと比べると、彼らの正義感はさほどの強固さを持ちません。
そして逆に面白いのが、終盤で明らかとなりますが、敵側であるはずのガイゾックが完全な公的動機で戦っていることであり、これもまた本作ならではの面白さではないでしょうか。
つまり公的動機と私的動機が完全に逆転しているのですが、このようなことが可能になったのも、その下地として長浜ロマンロボアニメの流れがあったからです。


富野監督が最初に手がけた「勇者ライディーン」は後半になると長浜監督に替わっていわゆる「母もの」をテーマとして物語を展開することになりました。
そして続く「コン・バトラーV」の前半では敵側であるガルーダが実は自分を優秀な衛兵だと思い込んでいる無数のロボットの一体に過ぎなかった事実が明かされています。
それを踏まえ、ある意味で長浜ロマンロボの集大成とも言うべき「ボルテスV」では公的動機と私的動機が完全に対等のものとなっているのです。
本作のスタッフはそれこそお隣の「ボルテスV」にも参加されていますから、ボルテスチームをかなり意識的にライバル視していたのではないでしょうか。


これは「ボルテスV」の総合評価でも比較して語りたいのですが、あの作品の特徴はなんといっても主人公たちボルテスチームに私的動機が加えられたことです。
地球の平和、宇宙の平和を守るだけではなく、後半になると健一たちの実の父親と再会することが1つの私的動機として設定されるようになります。
しかもそれが単なる戦いの動機に終わるのではなく、ライバルであるはずのプリンス・ハイネルの設定やボアザン星人の問題とも深く関連しているのです。
つまりあの作品で主人公たちの戦いの動機である公的動機と私的動機が完全に対等のものになったといえ、ダイモス」の一矢は地球の平和よりエリカの方が大事と言います。


長浜ロマンロボの大きな特徴は「ボルテスV」「ダイモス」を通して完全に主人公の戦う動機を公的動機から私的動機へと反転させたことにあるのです。
その下地があればこそ、富野監督が本作と「ダイターン3」、そして「ガンダム」で長浜監督とは違うアプローチで「等身大の正義」で戦う主人公たちを描けたと言えます。
そしてなんといっても面白いのが、敵側のガイゾックとザンボットチームが特別な因縁を持たない者同士であるということです。
これもまた意図的に仕組んだ対比であり、勝平たちがザンボット3で戦うことになったのはあくまでも全くの偶然でしかありません。
望んでなったわけでもなければ望まれてなったわけでもなく、しかしその上で家族全員で一致団結して戦うことを彼らは決めたのであり、そのことが終盤の壮絶な展開に繋がります。


(3)民衆とヒーローにとっての「戦い」の温度差


さて、本作で全編を通した特徴として「民衆とヒーロー」というテーマがありますが、実はもうすでに「ジェットマン」「カーレンジャー」「メガレンジャー」に先駆けてこの辺りのテーマを突っ込んで描いています。
勝平たちザンボットチームは一般民衆から迫害されるところから始まりますが、これは単に民衆の愚かしさを描くことだけを目的としているわけではありません。
民衆たちにとってザンボットチームとブッチャーたちとの戦いはあくまでも対岸の火事という認識であり、戦場の狂気に巻き込まれるのを避けたいだけなのです。
この点に関して著名な富野ブロガーの方が以下のような評価を残していましたが、ちょっと抜粋してみます。

 

nuryouguda.hatenablog.com


まどかマギカとか龍騎もあんまり一般人は死んでないですからね!サークル内の内輪揉めの殺し合いの方がピックアップされている。最近のアニメはモブに優しい。(ただし、仮面ライダークウガはモブが毎週大量に殺戮されていて、クウガオダギリジョーも人格をむしばまれているので、面白いです。久しぶりにクウガのムック本を読んだら滅茶苦茶人が残酷に殺されてて気分が悪くなった)


この部分に私は同意すると同時に強烈な反発心が沸き起こったのですが、なぜ最近のアニメがモブに優しいのかというと、平成以降の日本には「命の危機」を実感する機会がないからです。
先日私が書いた「ジェットマン以前と以後の違い〜戦いが「日常」か「対岸の火事」か〜」というエントリーでこの辺りのことについてはしっかりと触れています。

 

gingablack.hatenablog.com


この時代にはまだ学生運動の余波が残っていたこと、そして何より冷戦という緊迫した状況で世界がいつ滅んでもおかしくないという緊張感が世界を覆っていました。
だから、日本人の中にも命の危機が常に切迫していたわけであり、次々と殺されていく民衆という設定や描写にリアリティがあるのですが、今の時代に「人の死」で戦いの残酷さを描くのはかえってリアリティがありません
モブに優しいということではなく、我々が命の危機を実感するほどの出来事が平成以降は社会全体の問題としてないから、人が次々と死んでいく描写をやってもリアリティがないのです。
その意味では「仮面ライダークウガ」の次々とグロンギが人々を大量虐殺していく様はかえってリアリティがないということもできます。


本作の民衆の死がなぜ印象に残るのかというと、「死んだこと」そのものよりもむしろ「死なせ方」のプロセス、持っていき方が絶妙に面白くできているからなのです。
その最たる例が終盤に出てくる人間爆弾であり、特に17話の「星が輝く時」でそれまで死から目を背けていた少年が死の寸前になると急に発狂して「死にたくない」と幼児退行化してしまいます。
これは序盤で民衆が勝平たちを迫害してしまったことへの罰でもあり、同時に「死」というものを恐れない人はいないはずだという富野監督なりの強烈なメッセージなのでしょう。
ジェットマン」でも18話で結城凱が「死にたくねえ!」と好きな人である香を前に叫び、実際に一度仮死状態に陥るのですが、その原点のようなものが示されています。
つまり戦場の狂気に洗脳によって身を染めている勝平たちと、そうではない民衆である人間たちとの温度差が描かれているのも本作の大きな特徴ではないでしょうか。


(4)「救い」であると同時に「罰」でもあるラスト


そして、本作を語る上で外せないのは何と言っても最終回、勝平がコンピュータードール8号を相手に完全に身ぐるみを剥がされてしまい、1人残されるラストです。
民衆と和解して勝平のみが残されるラストであるのですが、あのラストは単純なハッピーエンドでも、そしてバッドエンドでもありません。
あのラストはハッピーでもありバッドでもある、強いて言えば「ビター」というべきエンドだったのではないでしょうか。
結局のところ、勝平はコンピュータードール8号が問いかけてくることに対して、完全に理論で負けてしまったのです。


「この悪意に満ちた地球にお前たちの行動をわかってくれる生き物が1匹でもいると言うのか?」はその最たる例であり、勝平はその質問で完全に足場を失いました。
それまで信じていたものがボロボロに崩される展開は「メガレンジャー」終盤でもありますが、あれは自己犠牲をやってきた勝平たちへの問いであると言えます。
もちろんコンピュータードール8号の言い分も決して完璧に正しいわけではなく、むしろコンピューターの癖に随分身勝手なことを宣うものです。
要約すれば、ガイゾックの言い分は「敵が武装するのは許さんが、自分たちは理念のためにやっているのだから正しい」ということでしょう。


しかし、これ自体がそもそも矛盾の塊であり、理念を掲げていながら、その理念自体が完全にガイゾックの私情ありきで組まれたものと言えます。
この手法は後の「ガンダム」のジオン公国を乗っ取ったザビ家に継承されていきますが、結局は敵も味方も私的動機で戦っていたのです。
本作から「ガンダム」、さらには「イデオン」まで続く富野監督のロボアニメにおける戦いとは完全なる「私戦」でしかありません。
それは表向き完璧超人を装った次作「ダイターン3」で明らかとなりますが、その上で本作では勝平のみが救いにして罰として残されます。


あのラストは勝平にとっては「救い」でもありますが、同時にそれまで勝平たちを迫害し続けた民衆に対する「罰」でもあるのです。
なぜかというと、実はガイゾックの脅威は完全に去ったわけじゃないからであり、勝平たちが倒したのはごく一部に過ぎません。
これから第二、第三のガイゾックがまたやって来ないとも限らず、しかし神ファミリーたちは死んでしまいました。
そのことを民衆たちは知らないまま安直に勝利を喜んでいるのであり、あのラストを素直に喜んでいいものでしょうか?
戦いが終わったから完全な平和が訪れるわけではない、私があの最終回の結末で見た苦さや割り切れなさはそういうものであると思います。


(5)「ザンボット3」の好きな回TOP3


それでは最後に「ザンボット3」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…21話「決戦! 神ファミリー」
  • 第4位…5話「海が怒りに染まる時」
  • 第3位…17話「星が輝く時」
  • 第2位…18話「アキと勝平」
  • 第1位…20話「決戦前夜」

 

まず5位は神ファミリーの壮絶な絆が集大成として結実した回であり、かなりわかりやすく描かれています。
次に4位は「ザンボット3」の基本設定が完成した序盤の傑作回であり、ヒーローと民衆に対する本作の価値観を決めました。
3位は本作を象徴する人間爆弾の回として極まった姿が描かれており、民衆に対する最高の罰ではないでしょうか。
2位はそれを踏まえて、お互いに男女の意識があった勝平とアキの壮絶な別れを描いています。
そして堂々の1位は総集編の体裁を取りつつ、プロとアマの違いを本作なりの形で示した傑作回です。


どのエピソードも無駄がありませんが、中でも私の中ではこの5本が印象に残りました。


(6)まとめ


ロボアニメの歴史を大きく塗り替えたのは「機動戦士ガンダム」ですが、本作はそのための第一歩として描かれました。
「無敵超人」という名前を冠していながら、内実は無敵でも超人でもない人たちの物語として描かれているのです。
そうしていくことによって、ロボアニメが持っていた神話をことごとく破壊することに成功したのではないでしょうか。
そしてその完璧超人を打ち崩す試みは次作「ダイターン3」でも形を変えて結実し、作画がひどいことを差し引いても十分に御釣りが来るクオリティです。
総合評価はS(傑作)、同年の「ボルテスV」が王道を歩んだ「」の作品ならば、本作は道無き道を行く「」の作品でありましょう。

 

無敵超人ザンボット3

ストーリー

S

キャラクター

S

ロボアクション

A

作画

E

演出

S

音楽

S

総合評価

S

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

「ジェットマン」以前と以後の大きな違い〜戦いが「日常」か「対岸の火事」か〜

これは一度ブログやTwitterの方でいつかまとめようと思ったのですが、実はこれまだ誰もしっかり言語化していないことだったので、改めてまとめてみます。
昨晩、長々と私の考えを聞いてくださったTwitterのフォロワー様方、本当に私の稚拙な語りを最後まで御清聴くださり、ありがとうございました。
おかげで私の方も随分刺激をもらえて、やはりトークという形だと、また違った観点から違ったものが見えてくるから面白いところです。


さて、今回のテーマなんですが、改めてスーパー戦隊シリーズの歴史の転換点となっている「ジェットマン」について、改めて発見がありました。
まあ発見というよりは以前から私がこうじゃないかと思っていたことを改めて言語化しただけなのですが、それについて考えをまとめてみます。
間違っている部分があったり、あるいは「こうではないか?」という別の考えがございましたら、是非指摘してください。

 


(1)「ジェットマン」以前と以後の大きな違いは戦いが「日常」か「対岸の火事」か


まず、これは私が歴代のスーパー戦隊シリーズを見ていて感じることですが、「ジェットマン」以前と以後で大きく違うのは戦いが「日常」か「対岸の火事」かという違いです。
この点に関しては私が現在書いているジェットマンの感想をご覧いただきたいのですが、「ジェットマン」第一話感想で私はこのようなことを書きました。

 

 

当時としてはかなり大胆なアプローチで崩しており、特に香の「浮世離れしているが故に地球の危機にピンときていない」リアクションは秀逸です。
普通は「戦士になれ」と言われれば多少ためらいがあったとしても事態の深刻さを察知しますが、香は全く危機感がありません。
同じことは雷太にもいえて、農業の方が大事というのはかなり大きいでしょう…そして戦いでは2人とも役立たず。
これは80年代の曽田戦隊に見受けられた「素人がいきなり宿命を告げられて、あっさり覚悟を完了して戦う」というお約束を崩したものになっています。

 


まず凱が口にする「人間なんざ滅んだ方がいい」というセリフは本気でそう思ったわけではありません。
しかし、こんなふざけたことを言うアウトローみたいな男がよりにもよってジェットマンのNo.2に来たというのがややこしいのです。
そして竜はそれに対して「命の尊さ」を説き、さらには「個人的感情なんて問題じゃないだろ!」と追い詰めますが、この1シーンは様々な屈折があります。
まず「竜=プロフェッショナル」「凱(とその他)=アマチュアという配置にしていますが、これは同時に「外的(=公的)動機」と「内的(=私的)動機」の違いでもあります。
竜は「地球の平和を守る」という「外的(=公的)動機」、凱は「一人で自由に生きる」という「内的(=私的)動機」のために動いています。

 

1つ面白いのは「ジェットマン」という作品は狂気の闘争の世界(=非日常)にいる天堂竜と小田切綾、そしてその世界とは無縁に生きていた凱たち4人という大きな隔たりがあることです。
まさにここが戦隊シリーズにおける分岐点というか、バイラムの強襲によって恋人のリエを失っている竜と素人4人ではそもそも「戦いとは何か?」という部分の肌感や認識が全く違います
天堂竜は80年代ヒーローのアンチテーゼとして描かれていますが、しかし同時に戦いの世界を日常として生きているプロフェッショナルでもあるのです。
それに対して、戦いが完全に「対岸の火事」となっていて、バイラムが襲ってこようが目の前の自分の生活こそが大事と主張するのが凱たち一般人の立場でもあります。


この視点や感覚の違いがそのまま人間関係の複雑さとなって現れているのが「ジェットマン」であり、これは上原正三先生や曽田博久先生がメインライターを務められていた時代の戦隊にはなかったものです。
もちろん上原先生や曽田先生が描かれた戦隊でも「戦いを拒否する戦士」はいましたが、それを物語のメインテーマとしてがっちり組み込んだのは「ジェットマン」が実は初めてのことであります。
「戦うトレンディドラマ」と評されるの理由も正にここにあって、平和ボケした現代日本人がいきなり狂気の闘争に巻き込まれたらどうする?というポスト冷戦のお話になっているのです。
単に恋愛ドラマを盛り込んだから名作というわけではなく、冷戦の危機が去った平成初期の時代にどういう立脚点からヒーローを再構築するか?を作り手は十分に分析した上で作られたのでしょう。


そこで盛り込まれたのが戦いの世界を知っている天堂竜とそうではない凱たち4人という図式であり、プロとアマの混成チームにすることで、その辺りをうまく炙り出したのだと思います。
で、「ジェットマン」はそういう意味でいうと、すごく卑近な「個」の視点から戦隊シリーズが1年を通して「真の戦隊」になる話として描かれており、正に平成の世に向けた革命作だったのです。
冷戦が集結して平和になったと思われた1991年という平成の始まりに本作が出現したことは正に時代の必然だったと言えるのでしょう。
ジェットマン」で実はもうスーパー戦隊シリーズにおける「戦い」というものが「日常」から「対岸の火事」になってしまったのです。


(2)スーパー戦隊シリーズのメインライターが抱えるバックボーンの違い


この「ジェットマン」以前と以後の違いについて、脚本家の作家性の観点からそれを指摘していらっしゃる方がいらっしゃいますが、ここでは特に私が深く共感した部分について引用してみましょう。

 

katoku99.hatenablog.com


いや、そもそも彼が元々刑事もののライターであり、その当時の作品は、犯人逮捕という目的は果たせても、社会全体の歪みは変えられない、というアンハッピーエンドで問題提起的な幕切れが多かったこと、そして彼が世間的には“挫折の世代”といわれる学生運動の世代(=終戦直後の昭和20年代生まれのいわゆる“団塊の世代”)に属することなどを考え合わせると、この認識はそもそも杉村自身の中に社会“公”と個人“私”の関係としてあったもの、なのかもしれない。

 

kurigoto.hatenadiary.com


「サイボーグにならんか?」に始まり、『ジャッカー』世界はごく普通に何かが狂っているのですが、その、ごく普通に何かが狂っているという部分において、上原正三の色がかなり強い作品なのかもしれません。そう考えると、そんな空気と親和性が高かったのが後に80年代戦隊の要となる曽田博久であった、というのは何か納得するものがあります。戦隊で更にその後を引き継ぐ杉村升も、まさにこの、ごく普通に何かが狂っているラインですし(笑)
で、曽田戦隊と杉村戦隊の狭間であり、戦隊史におけるターニングポイントである『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)が、主人公を狂気に落とす所から物語を始めていたのは、戦隊史を見つめて戦隊を組み立て直す、という作品の意識において、必然であったのだと、改めて思う所(上述の3人と比べると、井上敏樹は正気と狂気の境界線がある人ですし)。


このような指摘がなされていますが、これらの違いはどこから生じているのかというと、「狂気の闘争」を脚本家(作家)が肌感で知っているかどうかにあるのではないでしょうか。
例えば上原正三先生は幼少期に故郷の沖縄を米軍の攻撃で一度失ってしまい、戦争難民として体験しているという幼少期の壮絶な経験が作風となって色濃く反映されています。
彼が「帰ってきたウルトラマン」「ゲッターロボ」「ゴレンジャー」「ジャッカー」「バトルフィーバー」「デンジマン」「サンバルカン」などで仮想敵としているのはアメリカなのです。
特に「怪獣使いと少年」はその意味で上原先生の作風が色濃く出ており、やや生で表現されてはいるものの、正にあれこそが上原先生にとっての「戦い」というものだったのではないでしょうか。


そして80年代のメインライターをお務めになった曽田先生や「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」までを務められた杉村升先生はいわゆる「全共闘」の世代です。
つまり、学生同士の狂気の闘争が日常にあったわけであり、上原先生とはまた違った形での自発的な闘争が描かれているのですが、それでもやはり最後は自己犠牲となります。
いくら個人が頑張っても社会全体の仕組みまでは変えられないというどこか諦観にも似た挫折を味わってきた世代であり、作風が狂っているように見えるのは戦いが日常だからでしょう。
必死に考えなければ生きられなかったのが70・80年代戦隊の作家や90年代前半の杉村先生が描かれたファンタジー戦隊三部作で描かれる「戦い」の本質だと思われます。


で、その点大きく変わったのが井上敏樹先生が描かれた「ジェットマン」や浦沢先生が描かれた「カーレンジャー」、武上先生の「メガレンジャー」「ゴーゴーファイブ」に小林先生の「ギンガマン」「タイムレンジャー」です。
90年代に入ると「ジェットマン」を臨界点として「ヒーローはなんのために戦うのか?」「なぜヒーローはヒーローたり得るのか?」を先人が描いてきたものを分析しつつ1から組み立て直すことになります。
ジェットマン」に関しては(1)でも述べたように井上敏樹先生の文学趣味が炸裂していて、卑近な個人の視点から「戦隊はどのようにして団結するのか?」を1年かけて描いているのです。
プロフェッショナルである竜と素人でしかない凱たちがその温度差や認識の違いを1年かけて埋めていき、最終回直前で真のヒーローになるという構造になっています。


そこから今度は高寺Pが担当し、浦沢先生が96年で描かれた「カーレンジャー」では完全に戦いが「対岸の火事」となった世界の話であり、恭介たちは一般人とヒーローを兼ねながら戦うことになるのです。
しかしその中で「自分にもある弱さを知れば本当のヒーロー」という本質が浮き彫りになり、敢えてヒーローをヒーローらしくなく描くことでたどり着ける一般人とヒーローの関係を再定義しました。
それこそが「等身大の正義」の中身であり、誰でもが勇気1つあればヒーローになれるというのを1年かけてしっかり描き切ったのが「カーレンジャー」ではないでしょうか。
そして、それを踏まえての「メガレンジャー」では完全にスタッフが一新し、武上先生と小林先生を参入させ改めて「新趣向の戦隊」として描いた向きがありました。
メガレンジャー」の終盤は80年代戦隊が抱えていた「狂気の闘争」を久保田博士とドクターヒネラーの因縁を通して擬似的に再現したものであるとも言えます。


そしてそれを踏まえた上で、小林女史が時代劇趣味の立脚点から戦隊を組み立て直したのが「ギンガマン」であり、あの作品でようやく「狂気の闘争」という呪縛からシリーズを解放することに成功するのです。
旧世代のレッドの象徴であるヒュウガと新世代のレッドの象徴として描かれるリョウマの「炎の兄弟」を通して自己犠牲や復讐という要素と真正面から向き合い、それをしっかり否定して次世代にバトンを渡しました。
だからこそ翌年の「ゴーゴーファイブ」ではマトイたち巽ブラザーズが復讐や自己犠牲によらない戦い方を実現することができたといえ、本当の意味での平成戦隊は「ギンガマン」「ゴーゴーファイブ」で実現したのでしょう。
そしてその戦いがさらに大人向けとして極まったのが「タイムレンジャー」であり、あの作品では善悪すら取っ払って完全に大人の世界の話として描かれています。


タイムレンジャー」までの戦隊シリーズ狂気の闘争を知る世代とそうでない世代の分水領が脚本家のバックボーンの違いとなって色濃く現れているのです。
まだこの部分に関して十分な批評の文脈が形成されていない気がしますが、この観点から戦隊シリーズを捉え直してみるのも一興かもしれません。
ここで気になるのが、それこそ昨日発表された「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」であり、メインライターが「ジェットマン」の井上敏樹先生なのです。
ジェットマン」以来30年ぶりとなる井上先生のメインライター戦隊ですが、果たしてどのような戦隊となるのでしょうか?
ジェットマン」と同じように狂気の闘争を知るレッドとそうでない4人との違いになるのか、それとも別の手でくるのか、楽しみです。

 

にほんブログ村 テレビブログ スーパー戦隊へ
にほんブログ村

スーパー戦隊シリーズ23作目『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)17・18話感想

 

第17話「マトイの花嫁候補」


脚本:宮下隼一/演出:長石多可男


<あらすじ>
サイマ獣から助けてもらったことでマトイに好意を持った少女・えりかは、手作りのカレーを食べさせようと、サイマ獣と戦うマトイたちのところにカレー弁当を持って来てしまう。だが、サイマ獣がえりかとマトイを狙い、それをかばったナガレたちが傷を負ってしまう。サイマ獣を退けたマトイは、えりかを追い返すが……。


<感想>
今回の見所はマトイ兄さん、幼女に面倒を見られてしまうダメ人間決定!(笑)


というか、大人にもなってスーパーに買い出しすらまともに行けない戦隊レッドなんて初めて見ました、これはおそらく歴代でもそうそういないのではないかと。
だって、世間に出るのなって初めてだった前作の銀河戦士ですらも街中に普通に買い出しに行くぐらいなのに、社会人として働いているマトイがそれをできないとは…。
13話の時点で「レスキューバ」ということが示されてからか、マトイ兄さんは圧倒的なヒーロー性と引き換えに人間力は歴代でも相当に低いレッドということに(笑)
まあ居ますよね、仕事はできるけどプライベートになるとダメダメな人って…よりにもよってマトイ兄さんがそのパターンだったとは思いもしませんでした。


「性格は至って温厚、みんなに慕われる長男であります」


嘘つけ!(笑)


どこが温厚やねん、2話の時点で弟たちそっちのけて一人でノリノリの名乗りをやってたり、3話でもナガレとダイモンの話を聞かずにブチギレてたじゃないですか。
それどころか13話では弟たちにものすごく無神経で横暴な振る舞いすらしてて、ひたすら休みの日もレスキュー隊員としての根性論を押し付けまくる長男…。
というか、まあ今回出てきたこの幼女があまりにもハイスペックすぎるんですけどね、買い物はおろか料理までできてしまうとかレベル高すぎでしょ。
そんなできた小学生女子相手に乱暴な物言いをしてしまうマトイ…あー、うん、流石に私はマトイのこういうところだけはネタとか抜きで許せません。


「もー、しっかりしてよ。これじゃ安心してお嫁にいけないじゃない」


こんなセリフが出てくる辺り本作に出てくる嫁とか大人の女性像とかってすごく時代に逆行しているのですが、マトイは将来間違いなく嫁の尻に敷かれるタイプだなあ。
後々マトイの婚約者候補が出てくる話があるんですけど、その時もやっぱりマトイって甲斐性なしの男として描かれているので、やっぱり仕事バカなんでしょうね。
そう考えると改めて前作の早熟な勇太くんに対して包容力を持って大人の対応をして居たリョウマ、そんなリョウマの未熟さを指摘しつつ時に優しく時に厳しくリードしていたヒュウガ兄さんの人格者ぶりよ。
炎の兄弟は歴代でも屈指の優等生気質だと思うのですが、この2人の素晴らしさを見た後のマトイ兄さんは本当にもう何というか全身から溢れる「レスキューバ」が一周回って面白すぎます。


全体としてはマトイ兄さんの人間性の低さとヒーロー性の高さが両極端に見える構成でしたが、ただいくら何でも小学生相手にあんなきつい物言いはしてはならないと思ってしまいます。
こればかりは横暴だからとかは関係なく、やっぱり横暴な長男であっても子供には対しては立派な大人の対応をして欲しいので、その意味でもあのきつい対応だけは許せません。
時々こういうところで好感度を落とすようなことをするから、マトイって好きになりそうなところでイマイチ好きになれなかったりするんですよね。
まあその分はマツリやナガレたちがカバーしているのでしょうけど、改めてマトイという男の格好良さも格好悪さもひっくるめて描かれた回であり、評価はB(良作)です。


第18話「逆襲のVランサー」


脚本:武上純希/演出:長石多可男


<あらすじ>
街に現われたサイマ獣・スパイダラスによって、市民たちが忽然と消えてしまった。彼らを捜していたマトイは、遊園地の通路に入った途端、凄まじい衝撃とともに異空間に出てしまう。そこには消えたはずの市民たちがいたが、彼らはゾンビの様に襲いかかって来る。手を出せないマトイ。それはジルフィーザの罠だった。


<感想>
今回は新兵器Vランサーの販促回でしたが…うーん、流石にこの回は微妙な出来栄えでした。グランドライナー前後編と違い、今回はモロに武上脚本の雑さが出てしまった感じです。


武器が全然効かないから新兵器を出してパワーアップ、大逆転みたいな安易な展開にしてほしくないというか、前作のあの丁寧さと比べたら今回のこの販促の弱さはどうしたことでしょうか?
Vランサー自体は後半まで活躍するゴーゴーファイブの主力武器の1つなので大好きなんですが、その登場回がいかにもな販促のための販促以上になっておらず、物語としてドラマ性が欲しいところです。
まあVRVマスターみたいな格好をしてアタッカーポンドで登場するモンド博士は何気に渋くて好きなんですが、そのために用意したのが敵の攻撃を分析して通用しないようにするというのも頂けません。
こういう風に「各武器が通用しなくなったから新兵器を出して乗り越えさせましょう」というのはやってはならない玩具販促のあり方で、そこは機転や知略で乗り越えるべきではないでしょうか。


これは「メガレンジャー」のバッファローネジレの登場回、まあメガシルバー初登場回もそうだったんですけど、玩具を売りつけるためのドラマとしてそれまでのキャラや武器を安易に踏み台扱いは非常によろしくない。
玩具販促のノルマがあることはわかりますが、問題はそこにどうやって物語上の意味付けを行うかが大事であり、前作はかなり矢継ぎ早に新兵器が出てきましたが、それでも1つ1つに意味づけがなされていました。
ところが本作はまずサイマ獣自体のインパクトややることが回によってまちまちで一貫性に今一つ欠けるため、どうしてもパワーアップのためのパワーアップにしかなって居ないのが惜しまれます。
まあモンド博士がVRVマスターもどきの格好で出てきたの時のこのセリフ回しはかっこよかったんですけどね。


「お前は?!ゴーゴーファイブは5人ではないのか!」
「命の重さを知るものが平和のために立ち上がるとき、人は皆ゴーゴーファイブになる!」


ここは8話で打ち出した巽ブラザーズだけではなくモンド博士や乾総監なども含めてのゴーゴーファイブであるというのを継承してていいセリフなんですが、だからこそ玩具販促のためのストーリーが雑なのが惜しまれるところ
砂漠のような異空間で戦うというと現在配信中の「仮面ライダーBLACK RX」などの80年代特撮を思い出す魔空間演出で好きなんですが、そこに物語としての面白さや盛り上がりが足りないのがなあ。
まあマトイ兄さんとジルフィーザという長男対決の構図に持って行きたかったのはわかるのですけど、それならそれでもっと全面にその因縁を押し出すべきであったかとは思います。
Vランサーを使ってのアクションシーンはすごくカッコよかっただけに、そこに行くまでの下地の積み重ねや物語上の意味づけといったドラマツルギーが足りていないのが返す返すも残念です。


ただ、ここから本格的に本作は物語がどんどん中盤の山場に向けてボルテージを高めていくことになるので、その第一歩というか、入りとしてまあまあといったところでしょうか。
評価としてはD(凡作)ですが、Vランサー自体もファイブレーザーやライフバードなど使用目的をはっきりさせた上で、物語の中にうまく組み込んでくれることに期待です。

 

にほんブログ村 テレビブログ スーパー戦隊へ
にほんブログ村

スーパー戦隊シリーズ23作目『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)15・16話感想

 

第15話「童鬼ドロップ出撃」


脚本:山口亮太/演出:諸田敏


<あらすじ>
竜神岳付近で奇妙な振動をキャッチし、ショウは調査に向かった。すると、インプスに襲われている三人の女の子を発見。ショウはグリーンホバーで救出しようとするが、サイマ獣の超音波攻撃に撃ち落とされてしまう。気絶していたショウが目を覚ますと、そこには三人の女の子が。ショウは彼女たちを山から逃そうとするが……。


<感想>
今回は6話以来となるショウメイン回ですが、うーむ、面白い面白くない以前に今回出てきた女3人組が超絶ウザすぎて、終始不愉快で胸糞悪くなりました。
もう今回に関していえば、ショウが3人に言ってみせたことが全てだと思います。


「大丈夫!?」
「大丈夫じゃねえ!俺一人の力じゃレスキューは成立しない。助かろうとする意志がなければ助かるものも助からないんだ」


この一言が全てで、何が良いと言って救出「する側」だけではなく救出「される側」の意思まできちんと組み込んだ話にしていることです。
そう、どんなにゴーゴーファイブや救出する人たちが最善を尽くしたところで、助かる側に自分で自分を助けようとする意思がなければ成立しません。
助ける側と助けられる側、双方の「生きたい」という意思があることで初めてレスキューが成立するというのを盛り込んできたのはいいところです。
ただ、そこはすごく良かっただけに、その3人組が「ムカつくけどいいところもある」のではなく「ただただウザいだけ」に終わってしまったことが残念でなりません。


しかも今回は地味にドロップが出撃しているのですが、そのドロップを「可愛い」と言ってしまえる辺りこの3人娘はどう考えても感性が奇特な方達としか思えないです。
そのドロップが今回せっかく出撃したのに、ショウたちのつまらない小競り合いに巻き込まれてしまったのが何だか気の毒でした。
そして、影に隠れがちですが今回の陰のMVPはナガレで、いつの間にかさらっと壊れたグリーンホバーを修理しており、前回に引き続き細かいメカニックを請け負うようになります。
今回の3人はぶっちゃけ最後まで好感を持てる要素が全くないのですが、この人たちは犯罪こそやっていないけど、人間的に性根が腐っていて救いようがない連中ということでしょうか。


ただ、そんなテーマを描くなら描くでもっと用意周到なキャラ設定を用意して欲しいなあと思うところで、ヒーローに難癖をつける民衆ってやり過ぎると民衆がバカっぽく見えるんですよね。
今回はモロにそれが出てしまったという形なので、是非ともきちんと軌道修正して考え直していただきたいと思うと同時に、自分はこの3人娘のようにならないようにしなきゃと思うのでした。
総合評価としてはC(佳作)というところでしょうかね、これがショウじゃなくマトイだったら確実にブチ切れて大喧嘩に発展していたかもしれません。


第16話「泥棒とサイマの卵」


脚本:小林靖子/演出:諸田敏


<あらすじ>
最強のサイマ獣、デモスの卵を盗んだレージ。彼はダイモンが警察官時代から捕まえようとしていた窃盗犯だった。卵を盗まれたピエールは、新たに生み出したサイマ獣でレージを狙う。だが、卵でひと儲けしようと企むレージは、サイマに身代金1億円を要求。レージの身を心配するダイモンたちは、取引現場を押さえようとする。


<感想>
今回はレージ登場回ですが、この人物は次作「タイムレンジャー」にも全く同じ犯罪者の設定で出てきます、役者も同じ人です。
そんな今回の話は「犯罪者」についてであり、ようやくダイモンの「警察官」としてのバックボーンが描かれていますが、サイマに一億円の身代金を要求するとは何て命知らずな若者か…。
うん、こういう三下系って大体最後に粛清されて終わりなんですが、本作のダイモンではそこまでできなかったのか、結局見逃したまま終わってしまったのは残念でした。


ただ、結構本質を突いたことを言ってもいて、さすがはレスキューポリスシリーズを見て東映特撮の脚本家に応募された小林女史だけあって、割と深いことは言っています。
今回のテーマはわかりやすくダイモンが次のセリフで言ってくれました。


「犯人を逃したら、その犯人はまた罪を重ねる。警察官は逮捕することで犯罪者を救うんだ。救急戦隊なんて言ってるのにお前を救えないまま警官辞めたことがずっと気になってたんだ」


ここはすごく良いところで、この小林女史が逮捕=犯罪者の救済という考え方が翌年の「タイムレンジャー」の圧縮冷凍という神がかったガジェットに繋がっているのだなと思います。
ただ、ここで難しいのは止むに止まれず罪を犯した場合は別として、そもそも逮捕することで救済されるような人は犯罪なんてしないだろうという考えがあるのです。
それに、最近ではむしろ捕まって刑務所での良い食事を味わいたいがためにわざと悪いことして捕まるという人もいるようですしね。
ダイモンのこのセリフはまだ新米の出来損ないのお巡りさんだからこそ出てくる綺麗事ではあり、まだ犯罪者の現実というものを知らないのだろうと思います。


私は正直「ゴーゴーファイブ」に深いドラマなんてあんまり期待していなかったのですが、ちょくちょくこうやってレスキューや犯罪に関する本質を突いたようなことをいうのは良いところです。
グランドライナー登場の前後編で登山バスに乗っていた銀行強盗の犯人が改心して逮捕というドラマはいらないと言いましたが、もしそれが今回の伏線として貼ったのであれば話は違います。
確かにあの話では強盗犯が最後に逮捕されることで魂を救済されたということで、ゴーゴーファイブ人の「命」だけではなく「心」もまた救おうとしていることがあの話と今回の話で伺えました。
ただし、それには1つ条件があって、前回の感想ですが犯人側に「自分で自分を救おう」という気がなければ救済はされないので、その点でもまた大事なことだと思うのです。


結果的に今回のレージは改心こそしなかったものの、それもまたリアルなところで、しかも「バカか!俺独りどうなったって、地球は変わんねぇんだよ!!」というセリフもまた本質を突いています。
そう、確かに「地球全体の運命」という俯瞰の視点で見ればレージごときどうでもいいのですが、そこを「どうでも良い」で済ませないミクロな視点の存在にも寄り添えるのがゴーゴーファイブのいいところです。
その点ではアプローチはギンガマンとは逆というか、ギンガマン「私」というか「個」から「全」へと広げて行くのに対して、ゴーゴーファイブ「全」から「個」へと降りて行く形になっています。
マクロの視点とミクロの視点、双方が大事なのですが、その点をきちんと押さえた上でミクロな人の命も、そしてマクロな地球の平和も双方を守るゴーゴーファイブのスタンスを補強しました。


また、卵を一億円で売りつけようとするというのも考えとしては浅いのですが、レージの犯罪者としてのリアルさみたいなのも肯定も否定もせずにそのまま現実として描かれているのも面白いです。
1エピソードとしては少し不満というか物足りない面はありましたが、改めてダイモンの警察官としてのバックボーンを掘り下げつつ、外の世界でダイモンと関わる人を増やせたのはいいことではないでしょうか。
評価としてはA(名作)、ダイモンメイン回は今の所ハズレがなく、今後もこの調子で順調な進行を期待したいものです。

 

にほんブログ村 テレビブログ スーパー戦隊へ
にほんブログ村

国家公務員は果たして「ヒーロー」たり得るのか?

最近「ゴーゴーファイブ」を見ていて、どうしても疑問に思うことがあるので、ちょっと考察がてらつらつらっと思いを書いていきます。
文章を見ればわかると思いますが、「ゴーゴーファイブ」って個人的にどうしても「ギンガマン」ほど熱中できないんですよね。
つまらないわけじゃないんだけど、こう全力で主観的に作品のストーリーや世界観、キャラクターにしっかり入り込んで楽しむまでには至らないというか。
これは本当にこの1年程で変わった部分で、昔は「ゴーゴーファイブ」を凄くいいなあと思ってたんですけど、今ではもう「ギンガマン」とすっかり差が開いてしまいました。


実はこれに関しては数字でもはっきりと差が現れていて、「ギンガマン」が平均視聴率7.9%だったのに対して、「ゴーゴーファイブ」は平均視聴率6.6%と1.3%も下回っています
単にストーリーの有無や子供人気のせいだけではないと思っていて、どこが原因なんだろうと考えてみたのですが、行き着くところは「現実に存在する職業」だからだと思うんです。
消防局に航空隊、お巡りさんに救命士と確かに人の命に直接携わっている、世間からすれば「ヒーロー」と呼ばれるような国家公務員と呼ばれるような人たちではあります。
でもそれって果たして本当にそれだけでヒーローと言えるのだろうか?という根本的な疑問がどうしても生じてしまい、客観的には「面白い」と思えても主観的に「楽しい」と思えないというか。


まあもちろんフィクションと現実を混同してはならないという前提はあるのですが、個人的に今「ゴーゴーファイブ」を見ても「命は大切」「家族の絆はいいよね」以上のものを今のところ感じません。
というか、それを毎週のように口にして叫んだり、話で強調しなければならない程人々の心から「命の尊さ」に対する感覚が薄れているというか、「明日死ぬかもしれない」という実感がないのでしょうね。
戦争がもはや対岸の火事となり、自然災害なりテロでも起こらなければ命の危機を感じないほどに平和ボケしてしまっているのが現代日本ですから、その点まだ「ジェットマン」「カーレンジャー」のが普遍性があります。
あの2作はいかにもヒーロー然としていなくて、平和ボケを起こしている現代人がいきなり戦場の狂気に巻き込まれたらどうなるか?を独特のタッチで描いた作品で、そこからどうヒーローになるのか?を描いているのです。
その上で以下、「ゴーゴーファイブ」をはじめ私が警察やレスキューポリスのような国家公務員系のヒーロー作品を主観的に心底楽しめない理由を論ってみます。

 


(1)国家権力が絶対に正しいのだという前提


これがまず一番私が疑問に思うところですが、そもそも国家権力が絶対に正しいという暗黙の了解に基づいて描かれているのですよね、「ゴーゴーファイブ」なりそのモデルとなったレスキューポリスシリーズなり。
で、警察モチーフの作品においてもそれは言えることで、戦隊でいえば「ジャッカー」「デカレンジャー」「ルパパト」に出てくるパトレンジャーがいわゆる国家権力の象徴して描かれている作品だといえるでしょう。
しかし、これらの作品はヒーローである根拠が「警察だから」であり、国家権力で法律に守られている警察は絶対に間違ったことをしない品行方正な職業だという前提のもとに描かれていないでしょうか?
実際の警察は普通に汚職事件だって起こすし、民事事件に対しては不介入ですし、届け出を一々出して意思決定までに物凄く時間がかかるし対応も後手後手だったりします。


更には冤罪で自白強要とかも普通にやりますし、そんなことを平然とやっている国家の犬である彼らが本当に子供たちや世間から見て本当の意味でのヒーローといえるのかは疑問です。
もちろん中にはプロ意識を高く持ってやっている人もいらっしゃるでしょうが、世の中全ての国家公務員が本当にそうだったら不祥事が明るみに出ることはないよねと思ってしまいます。
どんなに警察と言っても中身は所詮人間であり、間違いや不正、裏切り、不義理を起こさない可能性がないわけではありませんし、むしろノルマを稼ぎたいからやっている人も多いのです。
それこそ荒川氏メインライターの「デカレンジャー」のジャッジメントなんて毎週どうやって犯罪者を死刑に持っていくかというノルマ稼ぎでやっているようにすら見えることがあります。


デカレンジャー」の総合評価に書きましたが、ジャッジメントシステムは「機動刑事ジバン」の対バイオロン法並みに仕組みがめちゃくちゃで、いくら特撮が荒唐無稽でなんぼと言っても2004年にこれはきついなと。
そもそも宇宙最高裁がたった数秒で被告側であるアリエナイザーの生死を決めてしまう処刑人のようなことを一介の宇宙警察がやってしまっているというのを疑問視・批判する声は当時からありました。
まるで作品自体が「法律を破った者に対して更生の機会はない」と言わんばかりのシャーデンフロイデの極致みたいなもので、葛藤も苦悩もなく○×方式で犯罪者の命を一方的に弄ぶシステムはどうかと思うのです。
そんなものを一話完結なり二話完結なり見せられるのも嫌で、そんな排他的な暴力主義をまさに「暴れ暴れ暴れまくれ!」と言わんばかりに能天気にやってしまえる作品作りに私は疑問を感じてしまいます。
同じような疑問はやはり「ゴーゴーファイブ」にも感じてしまい、国家公務員だから絶対に間違いを犯さない清廉潔白なヒーローであるという思い込みが作り手や作品の中にある気がするのです。


(2)やっていることが警察の範囲を超えた代理戦争


それこそ平成ライダーの「クウガ」「アギト」を見た時に内心思ったことですが、警察がグロンギやアンノウンに対して武力を強化して戦うようになる様を私は手放しにかっこいいとは思えなかったのですよね。
あくまでその街の近隣や市民の平和を守ることこそが警察の存在意義であり、むしろそんな過剰武装をしたら余計に争いの火種が起こるだけで、血を吐きながら続ける悲しいマラソンとなります。
何故と問うことすらもせず、アギトやG3ら人類に敵対するものは全て殺すべしと言わんばかりの姿勢は見ていて疑問に感じ、私はどうにも警察が代理戦争をやっているように見えてしまうのです。
この点「カーレンジャー」のシグナルマンがボーゾックを殺していたのは「道路交通戦争」と、あくまで「戦争」であることを明示した上でやっているので、まだ納得できます。


また、やはりここで挙げられるのは同時代にやっていた小林女史の「タイムレンジャー」ですが、あの作品はその点でフィクションとしてのヒーローである警察が陥りがちな罠を絶妙に回避していました。
圧縮冷凍という、相手を傷つけずに逮捕するという方法は特撮ヒーローとしてのカタルシスが得にくいとはいえ、安易に犯罪者の命を奪わない神がかったガジェットだったといえます。
また、時空警察だからといってタイムレンジャーの5人がヒーローである根拠が警察であることにあるわけじゃなく、彼らのドラマの根幹を成しているのは「明日を変える」ことにあるのです。
だからこそ、決して警察であることに正義の根拠を置かないし、むしろ時間保護局であるリュウヤ隊長らの方がよっぽどひどいことをしていたので、安易に国家権力を振りかざしてはいないのですね。


つまり、警察が精一杯やれる活動ってどこまで行こうと「タイムレンジャー」レベルが精一杯であり、それ以上の悪人を殺すだの裁くだのといったことになると、それはもう警察がやるべきことではありません
それに、警察が科警研だのといった研究機関に依頼して開発したようなものが未知の脅威に対してそこそこ効いてしまう時点で、残念ながらその敵は大した敵ではないということになりかねないのです。
少なくとも昭和時代の仮面ライダーの世界において警察はあまり出てきた試しがないし出てきても役に立たないのですが、それは当然の話で敵組織の力人知を超越したものだからということになります。
初代ライダーがそうで、ショッカーという未曾有の脅威に対して対抗しうるのは敵と同じ力をバックボーンとして持った仮面ライダーのみであり、だからこそライダーの孤独なヒーロー性が際立つのです。


しかし、「クウガ」「アギト」ではむしろ警察が戦隊ヒーローやウルトラシリーズの防衛軍みたいな立ち位置として描かれていて、かえって疑問を抱いてしまいました。
こんなに手厚く公共機関からバックアップを受けて戦うライダーが本当に孤独のヒーローなのか?と…まあ最も平成ライダーのテーゼは昭和ライダーとは違うので仕方ないのですが。
例えば個人的には「クウガ」で雄介が掲げていた「非暴力」というテーマも、本来なら警察側と雄介とでもっと深刻な価値観の対立・相克が描かれるべきですが、なぜかそうはなりません。
綺麗事で糊塗してまるで友達のような馴れ合いに終始してしまっているため、なんだか学生運動の延長というか、「みんなでグロンギ滅ぼそうぜ!」なファシズムの匂いすら感じてしまいます。


後半になるにつれてグロンギがどんどん人間に近づいて行くのに比べて、人間側はむしろどんどん非人間的になっていく構図が凄く歪で、私は正直終盤の「クウガ」は心底楽しめなかったのです。
「アギト」に関しても、G3-Xになってからはどんどんアギトに近づいていく警視庁チームが怖く見えてしまい、あまりにも殺意が高すぎることに恐怖すら感じたことがあります。
このような警察の範囲を超えたドンパチは完全に治安維持活動ではなく代理戦争であり、本来なら軍隊や自衛隊がやるべきことを警察が代わりにやっているようなものです。
そしてそのことを誰一人として疑うことすらもしないのですから、その肝心なポイントを外して警察をヒーローとしてかっこよく描かれても胡散臭い偽善にしか見えなくなります。


(3)なぜか価値観の相克がない「ゴーゴーファイブ


話を「ゴーゴーファイブ」に戻しますが、あの作品を見ていて不思議なのは「仕事に対する姿勢」「性格」の違いからくる喧嘩はあっても、「人命に対する価値観の衝突」は描かれません。
例えば元犯罪者が出てくるグランドライナー初合体の11話、12話ですが、あの話でもし登山バスに乗っていた銀行強盗が改心しなかったらどうするつもりだったのでしょうか?
それこそダイモンを筆頭に力尽くで押さえつけるつもりだったのか、それとも…あの時点で警察が来ずにバスジャックにでもなっていたら、それこそ救助活動よりも危ないでしょう。
犯人がマツリたちの頑張る姿を見て感化されて改心するという描写でしたが、現実に銀行強盗を働くような暴挙に出る者がその程度で改心するなんて滅多なことではあり得ないです。


だからそこで犯罪者に対する命の扱いや同じ命を救うでも「じゃあ悪党である災魔一族の命はどうなるの?」とも思うのですよね、あの人たちだって家族であり兄妹なのですから。
相手は災害を起こすやつらですから倒す以外の方法は基本的にないのでしょうが、1人でもそのようなことを考える者が居ないし、災魔一族からそのような者が出ることもありません。
ゴーゴーファイブ自体もまたマトイたちの中から「むしろ災害を起こしているのは環境を破壊し続けている我々人類なのかも知れない」という発想が出てくることは微塵もないのです。
ここが「ゴーゴーファイブ」が前後の「ギンガマン」「タイムレンジャー」と比較した時にストーリーやキャラクターのドラマに深みがないと思ってしまうところでもあります。


私は正直災魔一族が大魔女グランディーヌを降臨させること以外でどんな目的や信念を持っているかも、最後までよく分かりませんでしたし、マトイたちもそのことを疑うこともしません。
ただ大枠の部分であいつら災魔一族は人間に害を及びす者たちであり、だからこそ倒すべき敵であるという決めつけがあるのみで、敵組織に対する細かい背景が描かれることもないのです。
この点はバルバンやロンダーズファミリーの方がよほどバックボーンがしっかりしていて、しっかりドラマのメインテーマに沿ってストーリーとキャラクターが設計されています。
もちろんそんな話を私は「ゴーゴーファイブ」で見たいということではないのですが、そういう起こって然るべき価値観の相克や衝突が発生しないのが見ていて疑問です。


もちろんエンタメとして見る限りでは「ゴーゴーファイブ」も良質の作品ではあるのですが、一方で作品としての面白さとは別に根本的な部分で欺瞞を感じないわけでもありません。
国家公務員は絶対的なヒーローだから正しい、果たしてこの前提が本当に真実なのかどうか、それこそ国家権力が今ボロボロ崩れ去っている風の時代にこそ批判的に問うべきではないでしょうか。