明日の伝説

好きな特撮・アニメ・漫画などに関する思いを書き綴る場所。更新停止

国家公務員は果たして「ヒーロー」たり得るのか?

最近「ゴーゴーファイブ」を見ていて、どうしても疑問に思うことがあるので、ちょっと考察がてらつらつらっと思いを書いていきます。
文章を見ればわかると思いますが、「ゴーゴーファイブ」って個人的にどうしても「ギンガマン」ほど熱中できないんですよね。
つまらないわけじゃないんだけど、こう全力で主観的に作品のストーリーや世界観、キャラクターにしっかり入り込んで楽しむまでには至らないというか。
これは本当にこの1年程で変わった部分で、昔は「ゴーゴーファイブ」を凄くいいなあと思ってたんですけど、今ではもう「ギンガマン」とすっかり差が開いてしまいました。


実はこれに関しては数字でもはっきりと差が現れていて、「ギンガマン」が平均視聴率7.9%だったのに対して、「ゴーゴーファイブ」は平均視聴率6.6%と1.3%も下回っています
単にストーリーの有無や子供人気のせいだけではないと思っていて、どこが原因なんだろうと考えてみたのですが、行き着くところは「現実に存在する職業」だからだと思うんです。
消防局に航空隊、お巡りさんに救命士と確かに人の命に直接携わっている、世間からすれば「ヒーロー」と呼ばれるような国家公務員と呼ばれるような人たちではあります。
でもそれって果たして本当にそれだけでヒーローと言えるのだろうか?という根本的な疑問がどうしても生じてしまい、客観的には「面白い」と思えても主観的に「楽しい」と思えないというか。


まあもちろんフィクションと現実を混同してはならないという前提はあるのですが、個人的に今「ゴーゴーファイブ」を見ても「命は大切」「家族の絆はいいよね」以上のものを今のところ感じません。
というか、それを毎週のように口にして叫んだり、話で強調しなければならない程人々の心から「命の尊さ」に対する感覚が薄れているというか、「明日死ぬかもしれない」という実感がないのでしょうね。
戦争がもはや対岸の火事となり、自然災害なりテロでも起こらなければ命の危機を感じないほどに平和ボケしてしまっているのが現代日本ですから、その点まだ「ジェットマン」「カーレンジャー」のが普遍性があります。
あの2作はいかにもヒーロー然としていなくて、平和ボケを起こしている現代人がいきなり戦場の狂気に巻き込まれたらどうなるか?を独特のタッチで描いた作品で、そこからどうヒーローになるのか?を描いているのです。
その上で以下、「ゴーゴーファイブ」をはじめ私が警察やレスキューポリスのような国家公務員系のヒーロー作品を主観的に心底楽しめない理由を論ってみます。

 


(1)国家権力が絶対に正しいのだという前提


これがまず一番私が疑問に思うところですが、そもそも国家権力が絶対に正しいという暗黙の了解に基づいて描かれているのですよね、「ゴーゴーファイブ」なりそのモデルとなったレスキューポリスシリーズなり。
で、警察モチーフの作品においてもそれは言えることで、戦隊でいえば「ジャッカー」「デカレンジャー」「ルパパト」に出てくるパトレンジャーがいわゆる国家権力の象徴して描かれている作品だといえるでしょう。
しかし、これらの作品はヒーローである根拠が「警察だから」であり、国家権力で法律に守られている警察は絶対に間違ったことをしない品行方正な職業だという前提のもとに描かれていないでしょうか?
実際の警察は普通に汚職事件だって起こすし、民事事件に対しては不介入ですし、届け出を一々出して意思決定までに物凄く時間がかかるし対応も後手後手だったりします。


更には冤罪で自白強要とかも普通にやりますし、そんなことを平然とやっている国家の犬である彼らが本当に子供たちや世間から見て本当の意味でのヒーローといえるのかは疑問です。
もちろん中にはプロ意識を高く持ってやっている人もいらっしゃるでしょうが、世の中全ての国家公務員が本当にそうだったら不祥事が明るみに出ることはないよねと思ってしまいます。
どんなに警察と言っても中身は所詮人間であり、間違いや不正、裏切り、不義理を起こさない可能性がないわけではありませんし、むしろノルマを稼ぎたいからやっている人も多いのです。
それこそ荒川氏メインライターの「デカレンジャー」のジャッジメントなんて毎週どうやって犯罪者を死刑に持っていくかというノルマ稼ぎでやっているようにすら見えることがあります。


デカレンジャー」の総合評価に書きましたが、ジャッジメントシステムは「機動刑事ジバン」の対バイオロン法並みに仕組みがめちゃくちゃで、いくら特撮が荒唐無稽でなんぼと言っても2004年にこれはきついなと。
そもそも宇宙最高裁がたった数秒で被告側であるアリエナイザーの生死を決めてしまう処刑人のようなことを一介の宇宙警察がやってしまっているというのを疑問視・批判する声は当時からありました。
まるで作品自体が「法律を破った者に対して更生の機会はない」と言わんばかりのシャーデンフロイデの極致みたいなもので、葛藤も苦悩もなく○×方式で犯罪者の命を一方的に弄ぶシステムはどうかと思うのです。
そんなものを一話完結なり二話完結なり見せられるのも嫌で、そんな排他的な暴力主義をまさに「暴れ暴れ暴れまくれ!」と言わんばかりに能天気にやってしまえる作品作りに私は疑問を感じてしまいます。
同じような疑問はやはり「ゴーゴーファイブ」にも感じてしまい、国家公務員だから絶対に間違いを犯さない清廉潔白なヒーローであるという思い込みが作り手や作品の中にある気がするのです。


(2)やっていることが警察の範囲を超えた代理戦争


それこそ平成ライダーの「クウガ」「アギト」を見た時に内心思ったことですが、警察がグロンギやアンノウンに対して武力を強化して戦うようになる様を私は手放しにかっこいいとは思えなかったのですよね。
あくまでその街の近隣や市民の平和を守ることこそが警察の存在意義であり、むしろそんな過剰武装をしたら余計に争いの火種が起こるだけで、血を吐きながら続ける悲しいマラソンとなります。
何故と問うことすらもせず、アギトやG3ら人類に敵対するものは全て殺すべしと言わんばかりの姿勢は見ていて疑問に感じ、私はどうにも警察が代理戦争をやっているように見えてしまうのです。
この点「カーレンジャー」のシグナルマンがボーゾックを殺していたのは「道路交通戦争」と、あくまで「戦争」であることを明示した上でやっているので、まだ納得できます。


また、やはりここで挙げられるのは同時代にやっていた小林女史の「タイムレンジャー」ですが、あの作品はその点でフィクションとしてのヒーローである警察が陥りがちな罠を絶妙に回避していました。
圧縮冷凍という、相手を傷つけずに逮捕するという方法は特撮ヒーローとしてのカタルシスが得にくいとはいえ、安易に犯罪者の命を奪わない神がかったガジェットだったといえます。
また、時空警察だからといってタイムレンジャーの5人がヒーローである根拠が警察であることにあるわけじゃなく、彼らのドラマの根幹を成しているのは「明日を変える」ことにあるのです。
だからこそ、決して警察であることに正義の根拠を置かないし、むしろ時間保護局であるリュウヤ隊長らの方がよっぽどひどいことをしていたので、安易に国家権力を振りかざしてはいないのですね。


つまり、警察が精一杯やれる活動ってどこまで行こうと「タイムレンジャー」レベルが精一杯であり、それ以上の悪人を殺すだの裁くだのといったことになると、それはもう警察がやるべきことではありません
それに、警察が科警研だのといった研究機関に依頼して開発したようなものが未知の脅威に対してそこそこ効いてしまう時点で、残念ながらその敵は大した敵ではないということになりかねないのです。
少なくとも昭和時代の仮面ライダーの世界において警察はあまり出てきた試しがないし出てきても役に立たないのですが、それは当然の話で敵組織の力人知を超越したものだからということになります。
初代ライダーがそうで、ショッカーという未曾有の脅威に対して対抗しうるのは敵と同じ力をバックボーンとして持った仮面ライダーのみであり、だからこそライダーの孤独なヒーロー性が際立つのです。


しかし、「クウガ」「アギト」ではむしろ警察が戦隊ヒーローやウルトラシリーズの防衛軍みたいな立ち位置として描かれていて、かえって疑問を抱いてしまいました。
こんなに手厚く公共機関からバックアップを受けて戦うライダーが本当に孤独のヒーローなのか?と…まあ最も平成ライダーのテーゼは昭和ライダーとは違うので仕方ないのですが。
例えば個人的には「クウガ」で雄介が掲げていた「非暴力」というテーマも、本来なら警察側と雄介とでもっと深刻な価値観の対立・相克が描かれるべきですが、なぜかそうはなりません。
綺麗事で糊塗してまるで友達のような馴れ合いに終始してしまっているため、なんだか学生運動の延長というか、「みんなでグロンギ滅ぼそうぜ!」なファシズムの匂いすら感じてしまいます。


後半になるにつれてグロンギがどんどん人間に近づいて行くのに比べて、人間側はむしろどんどん非人間的になっていく構図が凄く歪で、私は正直終盤の「クウガ」は心底楽しめなかったのです。
「アギト」に関しても、G3-Xになってからはどんどんアギトに近づいていく警視庁チームが怖く見えてしまい、あまりにも殺意が高すぎることに恐怖すら感じたことがあります。
このような警察の範囲を超えたドンパチは完全に治安維持活動ではなく代理戦争であり、本来なら軍隊や自衛隊がやるべきことを警察が代わりにやっているようなものです。
そしてそのことを誰一人として疑うことすらもしないのですから、その肝心なポイントを外して警察をヒーローとしてかっこよく描かれても胡散臭い偽善にしか見えなくなります。


(3)なぜか価値観の相克がない「ゴーゴーファイブ


話を「ゴーゴーファイブ」に戻しますが、あの作品を見ていて不思議なのは「仕事に対する姿勢」「性格」の違いからくる喧嘩はあっても、「人命に対する価値観の衝突」は描かれません。
例えば元犯罪者が出てくるグランドライナー初合体の11話、12話ですが、あの話でもし登山バスに乗っていた銀行強盗が改心しなかったらどうするつもりだったのでしょうか?
それこそダイモンを筆頭に力尽くで押さえつけるつもりだったのか、それとも…あの時点で警察が来ずにバスジャックにでもなっていたら、それこそ救助活動よりも危ないでしょう。
犯人がマツリたちの頑張る姿を見て感化されて改心するという描写でしたが、現実に銀行強盗を働くような暴挙に出る者がその程度で改心するなんて滅多なことではあり得ないです。


だからそこで犯罪者に対する命の扱いや同じ命を救うでも「じゃあ悪党である災魔一族の命はどうなるの?」とも思うのですよね、あの人たちだって家族であり兄妹なのですから。
相手は災害を起こすやつらですから倒す以外の方法は基本的にないのでしょうが、1人でもそのようなことを考える者が居ないし、災魔一族からそのような者が出ることもありません。
ゴーゴーファイブ自体もまたマトイたちの中から「むしろ災害を起こしているのは環境を破壊し続けている我々人類なのかも知れない」という発想が出てくることは微塵もないのです。
ここが「ゴーゴーファイブ」が前後の「ギンガマン」「タイムレンジャー」と比較した時にストーリーやキャラクターのドラマに深みがないと思ってしまうところでもあります。


私は正直災魔一族が大魔女グランディーヌを降臨させること以外でどんな目的や信念を持っているかも、最後までよく分かりませんでしたし、マトイたちもそのことを疑うこともしません。
ただ大枠の部分であいつら災魔一族は人間に害を及びす者たちであり、だからこそ倒すべき敵であるという決めつけがあるのみで、敵組織に対する細かい背景が描かれることもないのです。
この点はバルバンやロンダーズファミリーの方がよほどバックボーンがしっかりしていて、しっかりドラマのメインテーマに沿ってストーリーとキャラクターが設計されています。
もちろんそんな話を私は「ゴーゴーファイブ」で見たいということではないのですが、そういう起こって然るべき価値観の相克や衝突が発生しないのが見ていて疑問です。


もちろんエンタメとして見る限りでは「ゴーゴーファイブ」も良質の作品ではあるのですが、一方で作品としての面白さとは別に根本的な部分で欺瞞を感じないわけでもありません。
国家公務員は絶対的なヒーローだから正しい、果たしてこの前提が本当に真実なのかどうか、それこそ国家権力が今ボロボロ崩れ去っている風の時代にこそ批判的に問うべきではないでしょうか。