明日の伝説

好きな特撮・アニメ・漫画などに関する思いを書き綴る場所。更新停止

スーパー戦隊シリーズ46作目『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)第11話感想

 

ドン11話「イヌのかくらん」


脚本:井上敏樹/演出:山口恭平


<あらすじ>
獣人が人間界に現れたビジョンを見たソノイは桃井陣の元へ。陣は獣人の出現はあり得ないと言いながらも、獣人の作る折り紙に気を付けろと助言する。飲食店で働いていた犬塚翼は刑事の狭山に見つかってしまう。翼は異空間に逃げるが、追いかけてきた狭山がひょう変して……。


<感想>
もうこれ完全に「仮面ライダーアギトじゃないですか展開が……ここに来て第三勢力まで出すとかなあ。


まあ何となく予想はしてましたけど、やっぱりタロウは脳人側の人間っぽいというか、そもそも指導者が同じだったというのは予想できた展開です。
で、なぜ「アギト」なのかと言ったら、何となくドンブラザーズ=アギト側、脳人=警視庁チーム(G3ユニット)、獣人=ギルスというカテゴリに近いんですよね。
そもそもタロウ自体が翔一君ベースのキャラと言いましたが、脳人は対照的に全員美形で揃えてる感じがクールなG3チームという感じがしますし。
んで、獣として見境なく人を襲う獣人はギルスのイメージがあり、今回獣人になりかけた犬塚に何となくギルスで苦しむ葦原と重なりました。


そして何よりも驚きだったのがまさかの雉野の妻・みほが獣人だった説がラストで浮上したことであり、個人的にはどうしてもこの夫妻のことが引っかかって仕方ありません。
井上先生、雉野には失うものがないってまさか「みほは元々人ならざる存在だから、形の上では結婚していても心は決して夫婦ではない」とかいうんじゃないでしょうね?
もしかしてみほが雉野の奥さんとして堂々としていたのも、いわゆる芯の強いアゲマンというよりそもそも人ならざる存在だから、雉野にさしたる興味がなかったとか?
そしてそのせいで犬塚と恋人関係にあったのも単なる遊びの範疇だったと……なんかもう昼ドラ通り越してホラー映画の領域に突入しましたが、これは今年の戦隊同人界隈はすごいんじゃないでしょうか。


というか、井上敏樹先生や小林靖子女史がメインライターを務める作品って絶対にそっち方面の受けを半分故意に狙って描いてるところあるんじゃないかなあと思うのですが、今回でそれが確定。
ただ、そうなるといわゆる獣人とヒトツ鬼との区別や勢力図がややこしくなるので、その辺りの補足説明はきちんとスッキリさせて欲しいところではありますが。
井上先生って基本的に捻れに捻れさせて話を展開する人なので、難解というよりは煩雑になってしまうことが無きにしも非ずというのがなあ。


後、脳人とドンブラザーズは指揮者が実は同じだったというのはいいのですが、決して安易に馴れ合って欲しくはないなあと思います。
大丈夫だとは思いますが、いわゆる「タイムレンジャー」のタイムレンジャーとタイムファイヤーみたいにきちんと一線を引いて展開して欲しいところです。
昨今は何かと「とりあえず強い敵が出てきたから力を合わせてみんなでGO」みたいな中身のないクソ展開が多くなっているので(例:「ドラゴンボールヒーローズ」)。
竜也たち5人と滝沢直人は利害が一致すれば協力はするものの、あくまでも相容れない立場にあるというのが面白かったわけですからね。


これで終盤にタロウが「みんな!ここは争ってもしょうがない!俺たちで力を合わせて戦うぞ!」みたいになって脳人がドンブラザーズと徒党を組み和解するなんて展開だけはして欲しくありません。
まあ井上先生だからそんな安いことはしないでしょうが、かと言ってないとも言い切れないのが怖いので、きちんと打ち出している設定やテーゼはきちんと処理して欲しいところです。
後、何でニンジャなんだろうと思いましたが、まさか「隠密剣士」「仮面の忍者赤影」を書いてた父親へのリスペクト……ではないだろうから、単純に「ニンニンジャー」のパロディ要素と見るべきか。
どっちにしても、いわゆる強化モードが出てくる理由としては今ひとつ必然性が薄いので、この流れだと「敵が獣人にパワーアップしたからこっちも強化形態を出す」としか見えません。


仮面ライダー555」のあたりからどうにも白倉・井上コンビって玩具販促というか商売が雑なところがあるので、もう少し物語上の意味づけや格付けをきちんとして欲しいなと。
つまらなくはないのですが、全体的に設定を盛りすぎて犬塚よりもむしろ他の部分の方に目が行ってしまったという印象、総合評価はC(佳作)というところでしょうか。

 

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スーパー戦隊シリーズ16作目『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)19・20話感想

 

第19話「女戦士サソリ!」


脚本:杉村升/演出:小笠原猛


<あらすじ>
バンドーラの元に新幹部ラミイが現われた。恐竜の卵がバンドーラに渡ったとき、大獣神は倒れる。5人は卵を守って一体どう戦うのか?


<感想>
うーん、流石に色々と話を盛り過ぎて、何を見せたいのか全く伝わりません。


今回の話は新幹部のラミイ登場よりも兄弟の話の方がメインテーマとなっており、また予告で見せた大獣神がやられる場面もブライの脳内妄想という落ちでした。
先週配信分はクオリティ自体はさて置いて、「ブライの登場を劇的に演出したい」ということだけは伝わりましたし、演出的にも相当に気合が入っています。
しかし、今回は新幹部ラミイを見せたいのか兄弟のドラマを見せたいのか恐竜のタマゴ争奪戦を見せたいのか、一度にやろうとし過ぎてて1話に詰め込める量ではありません。
戦隊シリーズにおける杉村脚本は回によって出来の差が激しいのですが、その理由の1つが詰め込む情報量と見せたいものが良くも悪くも出たとこ勝負だから。


今のようにきちんと年間のドラマを綺麗に構成するだけの力量が当時のスタッフになかったのは重々承知ですが、それを差し引いてももう少し見やすくして欲しいなと。
それから現代の兄弟の絆と古代のゲキとブライの兄弟関係を盛り込んだのは対比させようという意図があったのかもしれませんが、100%無理がある展開です。
ゲキとブライはそもそも前回ゲキが兄弟である事実を知ったばかりですし、ブライの心は憎しみで一杯のままなので絆云々以前の問題なのですよね。
今回もぶつかり合ってはいるものの、そもも一方的にブライがゲキに執着しているため、この兄弟と同列に語れと言われてもなあ。


一方でラミイの活躍も悪くはないというか普通にかっこいいのですが、何せバンドーラ様のインパクトが強すぎるのと、あとは前作のマリア/葵リエが完璧過ぎましたからねえ。
ヒロインから悪役まで全部を完璧にこなしたわけで、本作はそのマリアに匹敵するレベルの悪役といったら魔女バンドーラ様がもう全てなんですよ。
だから、その部分だけを見ればいいのですが、女幹部なんて今更出さなくてももう十分なんですよねえ……第一あんまり女幹部に興味がないというか。
ものふがラリの中でしっかり格付けがされている場合は別として、今回のサソリ女に関してはそうでもないという感じです。


ここで恐竜の卵を無理に拾って争奪戦を繰り広げなくてもいいでしょうに、どうにも数々の仕込みが全然物語の中で機能していません。
本作はとにかく本筋とディテールが一本線で繋がっていないというのが最大の特徴で、いかにも昭和らしい短距離走を繰り返している感じなんですよね。
それがいい方向に転ぶといいのですが、悪い方向に転ぶと今回のように目も当てられないことになってしまうので、それがもろに出てしまったなと。
総合評価はE(不作)、ギリギリバンドーラ様の存在感故に面白く見れているというところです。


第20話「大獣神最期の日」


脚本:杉村升/演出:小笠原猛


<あらすじ>
打倒大獣神を宣言したバンドーラ。ゲキたちは対抗策を探すがバンドーラの策略で……果たして、大獣神は倒されてしまうのか?


<感想>
「わからない!バンドーラはどうやって大獣神を倒すっていうんだ!?……大獣神。身長41.7メートル。体重570トン。その力は一撃で山をも打ち砕く。恐竜剣ゴッドホーンは巨大化したドーラモンスターさえも一刀の下に切り捨てることが可能だ」


唐突に始まった大獣神のスペック説明ですが、個人的な印象としてこのような説明をいきなり始めるときは大体劇中の描写がきちんとしていない時、というのがあります。
しかしながら身長41.7メートルはまだしも体重570トンというのは「本当にそうか?」なんて思えてしまって、やっぱり特撮作品の数値設定って無茶苦茶だなあと。
で、描写としてはまあその通りだとは思いますが、大獣神って歴代でそこまで強い印象がないんですよね、かっこいいとは思うんですが。
というか、様々な形でこすり倒されている上後半に究極が控えているからか、あくまでも50%程度の力しか出せていない感じです。


で、そんな大獣神を倒すというバンドーラ様の作戦は皆既日食を狙って太陽光を遮って力を出せなくさせてやろうというもの。
大獣神はガイアトロンエネルギーと呼ばれるものを動力源として動いているため、地球から降り注ぐ太陽光がなければ本来の力を発揮できないのだそうです。
ここで初めてジュウレンジャー側の力の源が明かされたわけですが、ということはジュウレンジャー側の力も全てはガイアトロンエネルギー由来ということでしょうか。
いわゆる「ガイア理論」というやつでしょうが、ガイアトロンエネルギーとはこの時期に代替エネルギーとして注目を集めていたソーラーシステムのメタファーかもしれません。


90年代後半に入ると平成ガメラシリーズのマナ、ウルトラマンガイア、ギンガマンのアースなどはすべてこの「ガイア理論=星の力」をベースに動く作品が増えました。
その原点ともいうべきなのがこのガイアトロンエネルギーということかもしれませんが、それだったらそれでバンドーラ様に一つ申し上げたいことがあります。


昼間じゃなくて、夜間に作戦を実行すればよくね?


太陽エネルギーを供給しないとフルに力を発揮できないのであれば、最初から大獣神がフルに活動できない夜を狙う方がよほど効率いいと思います。
こんな皆既日食なんてわざわざ狙わなくても攻略できるはずなので、もういっそのことそれで簡単に攻め落としてしまえばいいのではないでしょうか。
ちなみに恐竜の卵はまたもや川に流れてしまい、まるでどこぞの桃みたいにどんぶらこどんぶらこと消えてしまうのでありました。


で、ドラゴンレンジャーが今回巨大化したのですが、この映像自体は非常にインパクトがあるものの、なぜ巨大化したかは不明です。
1つには復讐の怨念があるのでしょうが、もう1つは皆既日食という特別な現象あってのことなのかなあと思います。
歴代戦隊でも戦士が巨大化という展開は他に「カクレンジャー」のセイカイや「ギンガマン」のサヤくらいしかありません。
まあロボットのようになるという意味では重騎士ブルブラックやマジレンジャーの5人などもその例ではありますが。


しかし大獣神もやられっぱなしで終わらずに、恐竜剣ゴッドホーンである程度無双し、その後敢えてマグマの中に身を隠すことに。
この展開は衝撃といえば衝撃ですが、安易に巨大ロボに頼らず戦士を巨大化させ、また「神」と呼ばれる存在にどう弱点を与えるかの試行錯誤が見られます。
思えば30時間という制限時間付きでしか動けないという設定も完全な後付けではあるのですが、この時の巨大化がもしかするとブライの寿命を縮めていたのかもしれません。


今回は大獣神に弱点を絞って作戦を展開している分濃密な15分となっていてわかりやすいのですが、1号ロボをここで打ち負かすというのは展開として納得です。
神があまりにも強すぎると面白みがないですし、かといって簡単に一度設定したハードルを越えさせるわけにもいきませんしね。
総合評価はB(良作)、バンドーラ様の用意周到さが光る反面、ヒーロー側が完全に後手に回ってしまいどう乗り越えるのかが楽しみです。

 

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スーパー戦隊シリーズ30作目『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)15・16話感想

 

Task15「水の都」


脚本:小林靖子/演出:渡辺勝也


<あらすじ>
世界のどこにもない文字で書かれた文書が見つかった。もしかしたら未知の文明の発見か?直ちに文書の確認に向かうボウケンジャー。しかし、そこにジャリュウ一族のナーガとラギが現れて…一方、3日も徹夜して倒れてしまった牧野先生。どうやら新たなゴーゴービークルを作っている様子だったが…


<感想>
今回と次回は小林靖子脚本による前後編ですが、なぜこのタイミングで「水」をモチーフにした作品と出会ってしまうのでしょうか?


いやね、最近私「水」に多大なる興味を抱いていまして、飲み水や買う水は結構こだわって飲んでいますし、将来的にはMy Waterすら保有したいと割と真剣に考えています。
今回はそんな失われた古代文明のお話ですが、まずこれ自体が後半のある出来事に関する伏線となっておりその仕込みというか前段階を作っておこうという布石です。
そして2つ目に、この前後編は構造的に「星獣戦隊ギンガマン」のギンガの森をそのまま本作用に仕立て直した設定であるというのがいえるのでしょう。


ラギを演じたのがガオブルーを演じた柴木丈瑠氏、そして長老を演じたのが巽モンド博士を演じたマイク眞木氏というのも当然狙ったキャスティングです。
割と90年代後期〜00年代初期を思わせる作りになっているのは、小林女史にとっても日笠Pにとってもその時代の戦隊への思い入れが強いからかもしれません。
そんなセルフオマージュとして作られた今回の話ですが、演技というかドラマとしての見所はやはりラギと長老の掛け合いのシーンではないでしょうか。


「長老……」
「ラギ、なんという姿に。愚かな」
「もうすぐなんだ。絶対に水の都は復活する!」
「いいや、また誰かが死ぬだけだ。このまま終わるのが水の都の運命ならば、静かに受け入れなければならぬ」


このやり取りだけだとわかりにくいのですが、2人が語るところによると海と都を守る力だった秘宝アクアクリスタルが砕け散ったがために都が滅んでしまい、その結晶のカケラを集めることがラギの目的でしたという話。
ギンガの森との違いはギンガの森が一度「封印」という形を自ら取ったのに対して、水の都は「滅んだ」というところであり、現在の文化として生きているわけではありません。
それを狙っているのがリュウオーンであるということですが、先に評価を言ってしまうとやはり作りとしては今ひとつ甘いというか、物語としての奥行きが感じられないのです。
原典の「ギンガマン」があまりにも作りとして完璧すぎたのもあるんですが、それを差し置いてもこの内容ならばもう少し盛り込めたのではないかと思います。


サブをやっている時の小林さんって時々こういう雑さが出てしまうところはありますが、どのあたりがどう雑なのかは次回でまとめて語りましょう。
細かいポイントを言うと、牧野博士が実はとんでもないワーカーホリックで本質的にチーフと似た者同士というところかなと。
この辺りの細かいキャラ付けはさすがというところですが、総合評価としてはC(佳作)となります。


Task16「水のクリスタル」


脚本:小林靖子/演出:渡辺勝也


<あらすじ>
ジャリュウ一族は、伝説の都市「水の都」を甦らせることができるプレシャス=アクアクリスタルの所在を示す文書を狙っていた。そしてジャリュウ一族と行動をともにしていたラギは全てを捨てて竜の力を得た水の民だったのだ。リュウオーンは文書が失われた事を知ると、掌を返しラギを粛清しようとするが・・・


<感想>
いやいやいや、このエンディングで感動とかできないんですが小林靖子先生!


今回改めて見直しましたが、以前見たときに比べるとかなり作りの粗さが目立ってしまい、もう少しきちんと掘り下げて欲しかったところです。
話のテーマとしては要するに水の都を失ってしまったラギが最後に故郷を取り戻し、その上で水の民の証も取り戻して大団円という流れになっています。
チーフはそのサポートをしただけということで、表向き綺麗にまとまってはいるものの、諸々の点で突っ込みどころ満載であまり擁護できません。


まず何が問題かといってそもそも水の都がどんなところで、そこで人々は何を願いながら暮らしていたのか、どんな文明を築き上げていたのか?が不明なこと。
そういったところの掘り下げがなく水の都が単なる映像で示された以上の奥行きを持たないので、ラギの帰還に全く感情移入できません。
また、水の都を勝手に戻したということはある種の環境破壊にも繋がっているわけですし、今後この水の都に侵入者が来ないとも限らないでしょう。
おそらく建物の形などから察するにこの水の都はアトランティス大陸がモデルでしょうが、もっとその辺りの実態を深掘りして欲しかったところです。


そういう「故郷への思い」が強固だからこそ、そこに帰りたいというラギの思いにも説得力が出るし、それに力を貸すボウケンジャー5人の姿にも説得力が出ます。
この辺りは原典の「ギンガマン」に出てくるギンガの森の描写がきちんとしており、1年かけて丁寧にギンガの森の民がどんな民族で何を思いながら生きていたかが語られています。
その上でアースがギンガの森の民の象徴として描き、それを喪失してしまった4クール目のヒュウガの離脱とそれを取り戻して最終回にギンガの森へ戻る大団円が光るのです。
つまりラギとはボウケンジャー版のヒュウガといえるのですが、ヒュウガに比べるとあまりにもキャラクターとしてのバックボーンに厚みが足りなさすぎます。


まあ「冗談じゃない。お前達ボウケンジャーは、昔の宝を独り占めしてるそうじゃないか。残りのクリスタル文書を取り上げようってつもりだろう?!」は間違いじゃないのですが(苦笑)
また「違う!正直に言う、俺は幻の水の都が見たいんだ。甦る海なんて考えただけでワクワクする。こんな冒険、滅多に無い」はチーフの思いがこもっていて好きなんですけどね。
小林靖子先生が描くチーフは會川先生が描くチーフとはまた違ったキャラクターに見えて、同じキャラクターを描いておきながら結構温度差があるんですよね。


12話のさくら姉さんの回がそうですが、小林女史はキャラクターを大事にするものの、どこか客観的というか常に後ろで引いて俯瞰してキャラクターを描いている感じがします。
それに対して會川昇先生はすごく主観的というか、「俺は冒険が楽しくて仕方がないんだ!」を100%疑わないで進んでいくという意味ですごく主観的なのです。
つまり、會川昇先生がチーフに自分を投影しながらすごく主観的に描いているのに対して、その會川先生の主観で出来上がったチーフを第三者目線で「要するにチーフってこうだよね」と批評しているのが小林女史。
小林女史はメインの時もサブの時も決して主観的にならず常に知性でキャラクターをコントロールして描いている、だから80〜90点台の脚本家と言われがちなのかもしれません。


ただ、今回のこれに関しては小林女史がというより、そういう2話完結で描ききれない壮大な設定のネタを振ってしまった會川先生のシリーズ構成としてのミスだと思います。
おそらく「ギンガマン」をしっかり描き切った実績からお願いしたのかもしれませんが、あれは決して小林女史だけの力でできたわけじゃありませんからね。
様々な事情が折り重なってあれだけの傑作になり得たわけであり、それと同じことを本作でやろうとするのは無理があったのではないでしょうか。


総合評価はE(不作、この内容だったらもっとしっかり丁寧に掘り下げられたと思います。

 

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スーパー戦隊シリーズ46作目『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)第10話感想

 

ドン10話「おにがみたにじ」


脚本:井上敏樹/演出:田﨑竜太


<あらすじ>
漫画家の鬼頭はるか(志田こはく)は、新作も大人気で栄誉ある漫画賞を受賞。学校でも人気者で、彼氏とも順調、漫画家としての華やかな日々を送っていた。これまでに獲得したポイントにより、戦士を辞めて元の人生を取り戻したのだ。その頃、人気漫画家たちが行方不明になっていた。はるかは、サイン会にやってきた真利菜から電話番号を書いたメモを渡される。さらに、海賊鬼に襲われたはるかの前に、真利菜が現れ…。


<感想>
「才能は奪うもんじゃない!自分の努力で磨き、育てるものよ!」


井上先生、流石に今の時代そのメッセージでは古いですよ(^^;


うーん、今回の話は多分平成初期、「ジェットマン」「アギト」の頃であれば通用した価値観の話なのでしょうが、流石に令和の時代ではまるで目新しさのないメッセージでしかありません。
要するに「他者の才能を奪ってもそれは偽物だ」「才能はそれだけで輝くのではなく努力が大事だ」ということなのでしょうが、両者に関してはどちらも反例があるだけに肯定はしづらいところです。
例えば他者の才能を奪うことに関してですが、よくこの手の「偽物が本物に敵う筈がない」に関してはとっくに初代「仮面ライダー」の時点で答えが出ています。
あの作品ではゲルショッカー編終盤でショッカーライダーが出てきましたが、スペックだけでいえば本郷・一文字と同等のスペックであり、真っ向勝負では決着がつきません。


じゃあその場合どこで差がつくのかというと、結局は経験値やテクニック、そしてなんといっても「マインド」の部分であって「努力」という安易なものではないのです。
後発であってもそのコピーした才能を独自のやり方として昇華して自分のものとして使いこなしてしまえば先発を超えることも普通にあります。
ショッカーライダーはその意味で1号と2号を超えうる洗練されたスペックを持ちながらも、更に学習経験を積んで相手を超える・上回る経験をしていません。
つまり積んできた戦いの場数、そして何より「新技を開発して相手を倒す」というところに至る発想力がないという欠点が存在します。


今回の例もそれと同じで、おそらく写真家の真利菜は戦士としての素体スペックや性格面・協調性などの総合力では彼女の上を行く人材だといえるでしょう。
しかし、彼女には経験値や発想力・精神力といったところではるかに勝てない部分があり、実は戦士向きではないのです。
いわゆる2代目イエローネタという、歴代では「ゴレンジャー」の二代目キレンジャー、「バイオマン」の二代目イエローフォーのネタを彷彿させます。
話数的に考えて今回の場合は後者のオマージュでしょうが、でもネタの内容的には井上先生が「ターボレンジャー」のブルーターボネタで書いたネタの発展形という印象。


それに「才能は努力で育てるもの」という言葉の使い方も嫌いで、未だに日本って悪い意味で努力信仰が根っこにあるのだなあなんて思ってしまいます。
これは林修先生が言っていたことですが、「努力は実る」という言葉は決して正確な言い方ではなく、そこには「適切な環境で正当な方法によってなされた」という但し書きがつくのです。
努力は「量」も大事ですが同時に「質」も大事であって、例えばテニスでどんなに努力家であっても伸び悩む選手がいるのはそもそも基礎の部分で間違えていたり、努力の仕方に問題があったりします。
その部分を是正することなくただ闇雲に努力したってその才能を効率よく伸ばすことはできないというところへの目配りがなされていません。


というか、今回の場合話のテーマにすべきは「才能を奪う」とかではなく「個性の違い」を出すことにあるのではないでしょうか。
他者の物をただコピーするだけでは単なる「盗作」でしかないのですが、だからこそ大事なのは「その人にしか出せない個性」がその漫画や写真に感じられるかどうかなのです。
今回出てきたのはゴーカイジャーをモチーフとしたヒトツ鬼でしたが、本家「ゴーカイジャー」はまさにその辺りをテーマにした作品でした。
単に歴代戦隊の力を彼らは「持っている」だけであって、「使い熟す」というところにまでは至っていません。


ゴーカイジャーが歴代戦隊の力を100%フルに使えるのはその歴代戦隊と交流を重ね、その戦隊の魂とのシンクロ率が高まった時です。
つまりレンジャーキーや大いなる力自体は単なる「手段」「道具」でしかなく、それをどう自分たちのものとして内側に取り込んでいくかがマーベラスたちの課題でした。
そしてそこにおいて大事なのはやはり地球人代表の鎧が見習いとして入ったことであり、鎧が真の宇宙海賊に成長すると同時にマーベラスたちもまた真のスーパー戦隊に成長していく二重構造です。
その二重構造が「ゴーカイジャー」という作品が単なる宇宙海賊マンセーに終わっていないバランスの良さであり、ある種のアニミズムが存在していました。


じゃあ白倉・井上コンビがその「ゴーカイジャー」の本質を理解していたかというと、ジェットマン回を手がけた井上先生はともかく白倉の方はどうにもその辺をわかっていない感じはしますね。
前作「ゼンカイジャー」でも時々度が過ぎた不謹慎なネタがありましたし、白倉Pってわざとなのか今でも無神経な炎上商法をやっていますが、もうそんな方法が通用する時代ではありません。
いい加減やめてほしいものですが、でももうそのやり方で成功してきて過去の栄光に縋っているしかないしがない老害社長だから仕方ないのかなあという気もしますが。
真利菜とはるかがお互いに自分たちの人生を疑似体験することで本当に大切なものに気づかせる、という構造はいいのですが、どうにも伝えたいテーマと実際の描写がズレているという印象になってしまいました。


総合評価はどう高く評価してもD(凡作)というところで、本作が抱えている悪い意味での平成の価値観が出てしまったなあという一本でした。

 

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スーパー戦隊シリーズ39作目『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(2015)17・18話感想

 

忍びの17「グッバイ、スターニンジャー!」


脚本:下山健人/演出:加藤弘之


<あらすじ>
すっかりみんなに溶け込んでいたスターニンジャーことキンジ・タキガワだが、ラストニンジャ好天からは「期限は一ヶ月、それまでに孫達と決着をつけること」と言われていた。期限が翌日と知った天晴たちは何とか力になりたい。そんなとき現れた妖怪はウミボウズ。幻を見せ人々を海の中へと誘うのだった。晦の作戦はバリアを張って妖怪を誕生させニンニンジャーたちには気づかれないよう、スターニンジャーだけおびき寄せる作戦のようだったが……。


<感想>
いや弟子入りは無理でも6人一緒にニンニンジャーとして戦うことは別に不可能じゃないじゃん!


そんなことを突っ込みたくなった今回の話ですが、見せたいものは理解できなくはないものの全体的にピントがズレていてコレジャナイ感が物凄い(苦笑)
スターニンジャーのお別れシーンで一応帰る手段があったことには納得しましたが、問題は「スターニンジャーの弟子入り」と「幻術にかかった上での過去のトラウマ」が全く繋がっていないこと。
というか、単にニンニンジャーとして牙鬼軍団と戦うだけなら別に好天に弟子入りする必要はないわけで、まあその牙鬼軍団にかつての好天の弟子がいたことが問題だったわけなのですが。
何だろう、本作って中途半端に重たい要素やら提示しておきながら雑に解決、ではなくそもそも「連結装置すらない」というのが困ったところなのです。


幻術にかかってトラウマに陥るのを否定しませんが、そういうのはスターニンジャーの人となりがきちんと定まった状態でこそ有効な作戦となります。
そもそも「ニンニンジャーを闇討ちして好天に弟子入りしたい」ということしか内面を持っていないギャグキャラのキンジが今回に限ってシリアスをやっているのも違和感です。
また、そのトラウマの映像に出てくるキンジの肉親とその過去があまりにも映像としてショボすぎるのもあって、よくこんなクオリティーでGOサインが出たなとため息しか出ません。
ニンニンジャー5人との絆とかそういうのも特別に描かれてきたわけでもありませんし、なんか「第三勢力」なのか「6人目」なのか距離感がはっきりしないため、別れのシーンが際立たないのです。


というか、そもそも別れのシーンなんて描いても「どうせ戻ってくるんでしょ」と先が読めてしまう展開なので、わざわざ退場させる意味がわかりません。
そこに物語上の意味がきちんとドラマとして乗せられているのであれば話は違いますが、本作はそもそもそんな風な作りになっていませんし。
エンタメ重視としてもドラマ重視としても、どっちにしてもここまでで最低クオリティであることは間違いないです。


で、ここからはそれに伴い思ったことですが、久右衛門という裏切り者が出てしまったから弟子は取らないというのであれば、天晴たちはどうなのかと思ってしまいます。
天晴たちだって決してその久右衛門のようにならないとは言い切れないわけで、どうして身内に対してだけはこうも甘くて野放しにしているのかがわかりません。
まあ天晴のバカさではそんな闇落ちなんてやろうとしても面白みがないのはありますが、八雲や霞なんかは裏切りそうですし。
凪や風花はまず裏切りができる性格じゃないですし、やろうとしても絶対にボロが出て盛り上がらないなあと。


どっちにしても好天は最初からキンジを弟子入りさせるつもりなんてなかったわけですし、しかもそのことと牙鬼軍団の戦いとラストニンジャを目指すことに何の繋がりもないという。
関連性が薄い要素ばかりなので全く盛り上がらず、全くキンジというキャラクターの集約にならなかったのは誠に残念。評価はF(駄作)以外にありません。


忍びの18「八雲が愛した妖怪」


脚本:毛利亘宏/演出:加藤弘之


<あらすじ>
晦の次なる作戦はニンニンジャーを尾行しアジトを突き止めることだった。戦いを終え散らばる天晴たちをジュッカラゲが追う。天晴と風花は父の日のプレゼントを買いに向かうのだが……一方旋風はスーパーへ夕食の買い物に出かけた。そこに降ってくる雨、「ご自由にお使い下さい」と横にあったカサは実は……旋風が忍者となって大活躍!?


<感想>
イギリス=芝刈り機なんてイメージはいつの間に出来たんですか?


いや、別にイギリスだけじゃなくアメリカだろうと日本だろうと芝刈り機で国や国民性を表すのはやめていただきたいです。
イギリならせめてハリーポッターとか産業革命とかノルマンコンクエストとかもっと色々ネタはあったでしょうに。
まあ毛利さんなんて所詮荒川稔久劣化コピーなので、高尚なテーマや話題なんて書けないのは自明ですけどね(「キュウレンジャー」がその典型)。
内容的には可もなく不可もなしといったレベルですが、こういうミスリードさせる展開はいかにサスペンス要素を盛り上げるかがミソなのですが、そこの演出が甘かったなと。


それに洗脳されて味方を襲う演出って普段のヒーローとしてのかっこよさや強さをきちんと描けていてこそ、対比として成り立つわけじゃないですか。
本作はまずそのヒーローとしてのかっこよさすら貫けていないため、単にノルマをこなしているだけという印象にしかなりません。
まあ天晴の「たかが芝刈り機」発言は最も好感度下げたポイントなので、そこだけ見ればよかったんですけどね。
そう、天晴って単なる馬鹿ではなく無神経さが根底にありきなので、所詮はこの程度のキャラかと底が見えてしまったのがね。


この辺り、下山脚本で描きたい天晴と毛利さん解釈の天晴があまりにも違う気がするんだよなあ。
下山脚本の天晴は「本番に強い人でなしの天才」なのに対して、毛利さん解釈だと「相手に対する思いやりが全くないただのバカ」という感じです。
まあ前者がきちんと描けていないために後者の表現がキャラクターの個性の幅に収まっていません。
それから八雲はだんだん物語の中で湿度の高さと不憫さが目立つようになり、良くも悪くも少しだけ面白くなりましたが。


総合評価はE(不作)、これならもっと面白く出来たのではないでしょうか。

 

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「鳥人戦隊ジェットマン」「激走戦隊カーレンジャー」が異色作としてしか語られてこなかった理由

gingablack.hatenablog.com

 

先日の記事の続きですが、「ギンガマン」はファンタジックな設定でありながら本質はとてもSF的なマインドに満ちた作品であることを述べました。
まさに「80年代戦隊の概念を90年代戦隊の技法で再構築した作品」、つまり「チェンジマン」〜「メガレンジャー」までの歴史の集約なのです。
そこでどうしても外せないのがその間にいわゆる「異色作」として評価されている「鳥人戦隊ジェットマン」「激走戦隊カーレンジャー」になります。
この2作は歴代戦隊の中でもコアなファンが多く評判も高いのですが、一方で風評被害のような歪んだ評価を長年され続けてきた作品でもあるのです。


たとえば「鳥人戦隊ジェットマン」は戦うトレンディードラマ、「激走戦隊カーレンジャー」は狂気の浦沢ワールドという評価が長い間定着していました。
なぜそんな偏った評価がされていたかというと、作風もさることながら90年代当時の視聴環境が今ほど充実していなかったことが挙げられます。
私が原体験を持った90年代は戦隊にしろライダーにしろ、今とは違って全ての作品がソフトビデオ化されていたというわけではありません。
また、当然インターネットやサブスクもない時代なので歴代戦隊の歴史を知らずにその1作だけを切り取った変な評価が罷り通っていた時代でした。

 

gingablack.hatenablog.com


そして何より、以前こちらの記事でも触れていますが、いわゆる「と学会」みたいな変な連中が特撮を色眼鏡で見て面白おかしく腐してやろうという風潮があったのです。
そのような人たちがのさばって幅を利かせている状態では真っ当な評価などされにくいもので、「ジェットマン」「カーレンジャー」のどちらも好きな私としては歯痒い思いをしました。
今はいろんな世代の方々に触れていただくことができるようになり、そのような歪んだ評価が是正されて少しずつスーパー戦隊シリーズの1作品」として再評価されているのです。
しかし、その一方でこの2作が未だに歴代の中でも奇異な作品として評価され続けている現状はまだ完全に是正されておらず、真っ当な批評の文脈はまだ十分に形成されてはいません。


その原因について考えてみたのですが、色々原因はあれど個人的に思うのはSF的なマインドで見た時にこの2作がそれぞれ設定をきちんち詰められていないことに気づいたのです。
もちろんSF的なマインドと作品としての面白さは別物ですが、どんな作品だって細かくパーツ毎に因数分解していくと設定の粗や弱点の1つや2つくらいあって当然でしょう。
ましてやスーパー戦隊シリーズのように戦いをテーマにした作品であればこの辺りのことをもっと掘り下げて語ることは避けられず、どうしてもきちんと考察してみる必要があります。
ということで、今回は前回の「ギンガマン」の記事から少し派生させて「ジェットマン」「カーレンジャー」の2作をSF的なマインドで語ってみましょう。

 


(1)「鳥人戦隊ジェットマン」のバードニックウェーブ


まず「鳥人戦隊ジェットマン」のバードニックウェーブですが、これは反物資惑星である太陽系十番惑星の調査で発見された新元素「バードニウム」から生まれたという設定になっています。
それをスカイフォースが現代の科学力によって人体に浴びせても大丈夫なように調整していますが、この設定に近いのは「超新星フラッシュマン」のプリズムでしょうか。
地球とはまるで異なる星のオーバーテクノロジーを受け取っている点は同じですが、プリズムと違うのはバードニックウェーブにはいわゆる「副作用」がありません。
40話で対バードニックウェーブ兵器としてやってきた隕石ベムによって1度バードニックウェーブを失効するまでは問題なく使うことができていました。


浴びる前と浴びた後でどう違うかというと飛躍的に身体能力が向上し、アコは走り棒高跳びをアクロバットで乗り切り、凱に至っては車を素手で受け止めてすらいたのです。
これだけ大きな力を与えておきながらリスクが一切ないというのは珍しいのですが、一方でSF的に見るといくつかの疑問が湧いて出てきます。
それはなぜこれだけ飛躍的な身体能力を得ていながら、小田切長官との訓練シーンでアコ・雷太・香の3人がコテンパンにやられていたのかです。
バードニックウェーブを浴びてない素の小田切長官に3人がなぎ倒されるのは少し疑問でしたが、ただこの3人は劇中だと「弱い戦士」として分類されています。


香は特に序盤が顕著でしたが、バードニックウェーブを浴びて身体能力が向上したはずなのに足が折れたり訓練で失敗したりということが多いのです。
一方で正規戦士の竜やアウトローの凱はそのようなシーンはほとんど散見されませんが、この2人は既に戦い慣れているというか力の使い方を知っているのでしょう。
竜は正規の軍人として訓練を受けているから当然として、その日暮らしの凱もチンピラやヤクザのような危ない連中とストリートファイトに明け暮れていたと想像できます。
変身後の凱の戦いって竜の正統派の動きとは違った喧嘩殺法みたいなチンピラの動き方で戦っていたので、竜とはまた違う戦闘センスを持っていたということでしょうか。


そして2つ目、これが最大の疑問ですがバードニックウェーブはプリズムと同じように「ほかの惑星の力」を使って戦っているということです。
以前Twitterのスペースで戦隊ファンの知人が「ゴセイジャージュウオウジャーって「星を守る」と言う割には地球の力を使って戦っていない」と批判していました。
確かにそれはその通りなのですが、実はプリズムやバードニックウェーブも厳密には地球の力ではないため、地球の力で戦っているとは言い難いのです。
だからこそか、この2作は「星を守る」「地球を守る」という言葉を安易に口にしてもいないしテーマにも掲げていません。


そしてまた、さらなる問題は上記の隕石ベムとの戦いでネオジェットマンのバードニック反応炉という完全な上位互換のエネルギーが出たことにありました。
どうやって一条総司令らがこんなものを開発したのかはわかりませんが、もしかすると裏でバードニックウェーブの弱点や問題点を分析していたのかもしれません。
バードニックウェーブは飛躍的な身体能力を与えるものの、決して永久保証ではないから、その力が失効した時にどうすればいいのかがわからないのです。
その問題点が完全に露見してしまったのが隕石ベムとの戦いであり、ここでジェットマンは一度飛躍的な身体能力と共に変身能力を失いました。


ネオジェットマンのバードニック反応炉はそうした問題をクリアしてずっと失われることのない永久機関、つまり「バードニックウェーブの完成版」として出てきたのです。
ピンと来ない人がいるかと思いますが、この「ずっと失われることのない無尽蔵のエネルギー」というのは「ドラゴンボール」の人造人間17号・18号、「エヴァ」のS2機関などがそれに近いでしょう。
スーパー戦隊シリーズでこの手の永久に尽きることのないオーバーテクノロジーを開発しただけでも凄いのですが、そんなものがあるのだったらもっと早く出せよとも突っ込みが来ます。
また、ネオジェットマンの5人は戦闘能力その他全てにおいて竜たちジェットマンよりも上なので、心構えに問題がなかったらずっと戦い続けられた可能性もあるのです。

 

そう、「ジェットマン」のバードニックウェーブやその上位互換のバードニック反応炉に焦点を絞って見た場合、実は結構設定に穴や欠陥があることが見えて来ます。
何よりも「プロの軍人ではなく未経験の素人が戦うべき理由」というのを「マインド」「経験値」以外に十分出すことができなかったのです。
ただ、そうしたSF的な設定の詰めの甘さを本作は複雑な人間関係や「真のヒーローになる物語」といったドラマ性によって補い傑作にしています。
だからこそ、最終回手前で5人の心が完全無欠のヒーローになった時、つまり魂のステージが上がった時にバードニック反応炉を己の体内に取り込むことに成功したのです。


最終回手前でジェットマンの5人がジェットフェニックスの等身大版を使うことができたのは5人の心が真のヒーローに昇華されたからではないでしょうか。
1話のバードニックウェーブも41話のバードニック反応炉も竜たちは「外的な力」としてそれを与えられる形となりましたが、自由自在に引き出す訓練はしていなかったと思われます。
またどうすればその力を引き出すことができるのかまで述べられていないため、最終的にはジェットマン5人のマインドが復讐やわだかまりを乗り越えて真の正義に目覚めることにしたのです。
つまり、「バイオマン」「チェンジマン」が中盤でやっていたオーバーテクノロジーを精神的昇華によって内側に取り込み自由自在に引き出す」というのを本作は最終回手前で行っています。


ジェットマン」はこうして分解してみると実に80年代戦隊の残滓が色濃い作品ですが、一方で上記の課題点は決してクリアできているとはいえない状況でした。
この辺りが長年「戦うトレンディドラマ」というレッテルを貼られて評価され続ける理由になっているのかもしれません。
そしてこれと似たような問題が後続の「激走戦隊カーレンジャー」のクルマジックパワーにおいても起こっているのです。


(2)「激走戦隊カーレンジャー」のクルマジックパワー


次に「激走戦隊カーレンジャー」のクルマジックパワーですが、これもまた一体どのような力なのか?ということに関しては明確に定義されていません。
わかっているのは宇宙にある5つの正義の車正座が源であること、そしてそれがカーレンジャーの変身能力やRVロボおよびダップの力の源になっているということです。
このことは序盤の立ち上がりの段階で実はサラッと描かれており、さらに終盤のクリスマス決戦編や暴走皇帝エグゾスとの最終決戦の部分でしっかり絡んで来ます。
だからこそ無視しようにもできない設定なのですが、これも結局は厳密に定義すると「星の力」ではあっても「地球の力」ではないのです。


恭介たちが第1話および最終回で自分たちが守るべきものを「星」でも「人」でも「地球の平和」でもなく「宇宙の平和」と言っているのもこのことと無縁ではないでしょう。
異星人の力を借りて戦っているのに地球だけを守るというのは身勝手な言い分なので、漠然とまずは「宇宙の平和」という風に設定したのだと思われます。
そして終盤でその宇宙の平和を悪の大宇宙ハイウェー計画という形でかき乱し我が物にせんと企むエグゾスという形で脅威を具体化させ、それを守るカーレンジャーというのに説得力を持たせています。
だから「カーレンジャー」は一見東京の下町にいるご当地ヒーローのように見せていながら、守っているものはかなりの広範囲であり、いうほど「狂気の浦沢ワールド」でも「等身大の正義」でもありません。


しかし、かといってこのクルマジックパワーやカーレンジャーというヒーローの設定が完璧だったのかというと決してそのようなことはなく、改めて見直してみると突っ込みどころ満載の設定です。
例えばカーレンジャーは伝説の戦士という設定ですが、ではその伝説が具体的にどんなものでどれくらいの歴史があって、いつの時代からどのように語り継がれて来たのかという説明はありません。
この設定はおそらく浦沢師匠よりも高寺プロデューサーが設定を固めることにこだわったためにこうなったのでしょうが、1作目ということもあってか詰めきれないままでした。
しかし、その割に終盤でカーレンジャーのクルマジックパワーが失われる理由を「伝説では数万年に一度星が乱れる」とかいう展開になっており、些か唐突なものになっているのです。


また、クルマジックパワーがいわゆる「星の力」なのか「思いの力」なのか、それともバードニックウェーブやプリズムみたいな結晶体のようなものなのか、よくわかりません。
荒川さんが描いたクリスマス決戦編ではクルマジックパワーをカーレンジャーから奪うだけではなく、その源であるダップまで拉致してアクマジックパワーに利用しようとしました。
この時にVRVロボのエネルギーが回復する展開などで具体的に可視化されているのですが、これまでそもそも「クルマジックパワーとは何か?」が定義されていないため、どうにもピンとこなかったのです。
そして終盤では車正座が酒に酔いつぶれたことによってクルマジックパワーが失効し、カーレンジャーは一度ボロボロの状態に追いやられてしまいます。


その後「心はカーレンジャー」であることに気づき、やはり「ジェットマン」と同じように精神的昇華を成すことで真のヒーローの心構えを描き、あぶり出すことに成功したのです。
最終回手前の生身での名乗りはそういう「真のカーレンジャー」になったからであり、ここをギャグながらも描き切ったところが本作のヒーローとしてよくできたところでした。
そして最終回ではそのクルマジックパワーを自ら取り戻しに行き、主体性をかけてクルマジックパワーを手に入れた彼らはそのクルマジックパワーを100%引き出すに至ります。
主題歌の歌詞にある「夢を追い越した時僕らは光になるのさ」という歌詞通り、彼らは一度夢を追い越すことによって宇宙の平和を守る真のヒーローへ覚醒しました。


そのことはRVソードを使ってのハイパークラッシャー、明らかに威力がアップしたオートバニッシャー、そしてカーレンジャークルマジックアタックに象徴されています。
最終回でのカーレンジャーは間違いなくクルマジックパワーを精神的昇華によって己の内側に取り込んだわけですが、一方で力の源に関しては100%詰めきれなかったのも事実です。
また、その辺が曖昧だったがためにボーゾックの持つ「悪」と向き合わずにギャグで有耶無耶にして和解してしまったことがどうしても批判点として残ってしまいます。
この辺りをもっとしっかり詰めておけばシリーズ屈指の大傑作になり得たでしょうに、どうにもこの辺の詰めの甘さで失敗してしまったことは否めません。


だから「激走戦隊カーレンジャー」自体は私も好きですし今でも見返しますが、結局「狂気の浦沢ワールド」という表面的なネタ要素だけが取り沙汰されるのはこの辺に理由があるのではないでしょうか。
浦沢師匠がこの辺に慣れていなかったから仕方ないのかもしれませんが、やはり「ジェットマン」同様「チェンジマン」以後のスーパー戦隊シリーズが行き詰まっていた壁を打ち壊すことはできなかったのです。


(3)SF的に見てもスーパー戦隊シリーズの歴史は奥深くて面白い


こうした例を見ていくと、最終的に「ギンガマン」が「ジェットマン」「カーレンジャー」がクリアできなかった課題を見事にクリアしたのはやはり小林靖子女史の参戦が大きかったと思います。
メタルヒーローでの育成期間を経て「星獣戦隊ギンガマン」でメインライターに抜擢された全盛期の小林靖子女史はまさに虎の子であり、この辺りの諸問題をしっかり分析していたのでしょう。
もちろん高寺プロデューサーや田崎監督、長石監督などのちに平成ライダーシリーズで大活躍するメンバーが揃っていたこともありますが、SF的に優れた作品を見事に作り上げてみせました。
ギンガマン」ではいわゆる「ジェットマン」「カーレンジャー」が最終回で辿り着いた境地にスタート地点で立っているわけですが、それは先達の試行錯誤があったからです。


このようにしてみると、スーパー戦隊シリーズの歴史、わけても「未来戦隊タイムレンジャー」までの歴史は凄く綺麗に繋がっており、着実に変化を積み重ねていることがわかります。
まずは上原正三先生が「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」で土台を作り上げ、曽田博久先生が「ゴーグルV」〜「ファイブマン」で幅を広げて更なる飛躍を可能にしました。
そして井上敏樹先生が「ジェットマン」で80年代戦隊をバラバラに開拓した後杉村升先生が「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」で「ファンタジー戦隊」という新ジャンルの開拓に挑戦。
それらの試行錯誤を踏まえて浦沢師匠が「カーレンジャー」で戦隊シリーズをもう一度解体して「メガレンジャー」「ギンガマン」で「ヒーローとは何か?」をもう一度突き詰めました。


それらの基盤の上にレスキューポリスの戦隊的再構成をやってのけた「ゴーゴーファイブ」「タイムレンジャー」によってスーパー戦隊シリーズの歴史は1つの到達点に達したというところでしょうか。
力の源というSF的な観点から見ると、一見トリッキーで凄まじいことをやってたように見える「ジェットマン」「カーレンジャー」もまだまだ発展途上であることが伺えて面白いところです。
そろそろこういった別の観点からこの2作を批評してみる動きが出ても面白いのではないでしょうか。

 

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スーパー戦隊シリーズ16作目『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)17・18話感想

 

第17話「六人目の英雄(ヒーロー)!」


脚本:杉村升/演出:東條昭平


<あらすじ>
秘密の森に無敵の戦士が眠ると言う、その秘密を巡ってゲキたちとバーザが戦う。遂に甦った戦士はヤマト族プリンスを名乗り、ドラゴンレンジャー・ブライに変身した。


<感想>
いやバーザとノーム、マジでクズじゃね!?


ごめんなさい、ブライ兄さん以上にそっちの方が気になってしまってて、幾ら何でも小さい子供に向かって機関銃・手榴弾フォークリフトはないでしょう(^^;
特にフォークリフトは私も仕事柄使わせて頂いていますが、あれは安全上の問題があってきちんと免許を持った人でないと扱ってはならない代物です。
本当にヒヤリハットの法則じゃないですが、子供を追い詰めるために軽々しく使っていいようなものじゃないですから……まあ92年だとこんな表現でも許されてたんでしょうが。
というか、そもそもその機関銃や手榴弾、ましてや迷彩色の軍服などの装備一式をどこから調達してきたのかが全くわからないんですけれども。


内容的にはとにかく「ブライ復活」に焦点を絞っているためか、後半のブライ復活のシーンにインパクトを持たせるような構成になっています。
それだけ気合いを入れたこともあり、またブライ兄さんを演じたのがかつてのチェンジグリフォン/大空勇馬を演じた和泉史郎氏だけあって貫禄が全然違います。
おかげでただでさえ影の薄かったジュウレンジャー5人の存在感が余計に霞んでしまい、もはや「この作品の主役誰だっけ?」状態になっているんですけども。
ちなみに最初にブライが名乗るシーンはカッコよかったんですが、大獣神が覗くシーンが一瞬あって、そのシーンの「何やってんのこいつ?」感がシュールでした(苦笑)


ブライ兄さんは初登場でも凄くかっこいいし、この成功があったからこそスーパー戦隊シリーズの追加戦士にベテランを据える傾向が続いたのも納得です。
ただ、それを加味して考えてもなおこの演出・脚本であったことには疑問を感じるところで、サブタイが「六人目の英雄」なんて言ってますが、やってることは完全な悪党ムーブ!
いきなり大獣神のコックピットに乗り込んで5人を強制的に外に追い出し、更に立て続けに5人を相手に無双するという凄まじい力の発揮の仕方。
ちなみに追加戦士自体はブライが初めてではなく、前作「ジェットマン」も含めて既に何パターンも試行錯誤がなされています。


その上でなおこの演出に脚本では確かにそりゃあ印象には残るであろうなとは思うところですが、私はどうにもこういう杉村脚本のネジの外れた狂気がイマイチ苦手です。
これに関しては完全に好き嫌い分かれるところだろうなあとは思うんですが、私は正直嫌いな方かつあまり高くは評価できません。
やはり後発の作品群がこれよりはるかに洗練されてしまったものを見せてくれているからでしょうし、だからこそこれであまり大きく盛り上がることはできません。
総合評価としてはどう高く評価してもC(佳作)以上の評価はできず、杉村脚本特有の上原脚本や曽田脚本とは違う狂気の表現が個人的に受け付けられませんでした。


第18話「憎しみの兄弟剣」


脚本:杉村升/演出:東條昭平


<あらすじ>
ドラゴンレンジャー・ブライはゲキを憎みその命を狙う。バンドーラはブライに手を貸し魔剣ヘルフリードを与えた。そして、ゲキとブライの戦いが始まった。


<感想>
いやブライ兄さん、やることなすことあまりにもしょうもなくないですか!?


いくら自分の家族を殺された上で王位継承まで全部を奪われたからといって、その矛先をゲキに向けるのは完全な筋違いだと思うんですけどね……。
前作「ジェットマン」のバイラムの内輪揉めがそうですが、この時期の戦隊シリーズはどうも宗教色の強いエピソードが多く目立ったように思われます。
今回の話は王位継承の裏で起こった陰謀という中世ヨーロッパの出来事が背景にありましたが、いざ戦隊ヒーローでそれをやられるとみっともないなあと。
確かに自分の実の両親を殺した上で、本当の王ではない人間にそれを継承させたことを恨む気持ちはわかりますが、ゲキ本人には何の罪もないわけです。


ただ、そこを理屈で割り切れないからここまで「復讐」という形で執着しているのかもしれませんが、どうにもやっていることが小さいというか狡いというか。
だって目標が大獣神を倒す→ジュウレンジャー5人を倒す→世界の帝王になるって目標がショボ過ぎです(苦笑)
ブライ兄さんって大物ぶった小物というか、物凄く威厳のある雰囲気を醸し出しながらやっていることは実に泥臭いというか人間臭いです。
しかもジュウレンジャー5人は圧倒できているのに、大獣神には易々と攻撃を防がれやられてしまうというね。


このあとは更に復讐というか憎しみを増大させて大獣神すらも圧倒するほどの力を手にするのですが、全体的に脚本の練り不足を役者の演技力と演出力でねじ伏せている印象。
いうまでもなくブライとゲキの設定は「ギンガマン」のヒュウガとリョウマの「炎の兄弟」に継承されているのですが、大きな違いはゲキがリョウマと違って事実を知らなかったことでしょうか。
今まで兄弟はいないと思い込んでいたゲキが実は弟かつ本当のプリンスではなかった、つまり本当のティラノレンジャーではなかったという設定はなかなか斬新でありました。
この「正規戦士ではないレッド」というのはギンガレッド/リョウマで1つの雛形として完成を迎えるのですが、やはりあちらの方が1話からそれを打ち出していたため唐突な印象が拭えず。


しかもあちらの場合はそれだけではなくヒュウガを黒騎士ブルブラックが取り込んでいて、更にその黒騎士はヒュウガの暗黒面を体現した存在であるという念の入れよう。
ここまでしっかり脚本・演出ともに出来上がったものを見せられてしまった後だとやはり物足りないという印象は否めず、前回同様評価はやや低くなってしまいます。
何より2クール目で追加戦士との内輪揉め・同士討ちを味方がやってしまうとテンションが下がり気味になるので、あまりしつこくならないようにして欲しいところです。
総合評価としては前回同様C(佳作)で、歴代でも特徴的な追加戦士の転換点となっているドラゴンレンジャー/ブライですが、最初の段階だと小物の復讐鬼以上の印象は受けません。

 

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