明日の伝説

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「考えるな、感じろ」は怠け者の言い訳ではない

本日も楽しく「ニンニンジャー」酷評の記事を書こうと思っていたのですが、今日Twitterで久々に反応しがいのあるTweetを見つけました。
本人の名誉の為に引用はしませんが、要約すると内容は「考えるな、感じろ」という、かの偉大なる武道家にして哲学者でもあったブルース・リーの名言です。
「ごく一部の特撮オタクはやたらに設定や脚本・演出がどのようなロジックで成り立っているかに目を奪われてしまいがちだから、もっと素直に感じろ」と仰りたいのでしょう。
まあよく居るんですよ、この手の「セリフの奥に込められた真意」を探ろうともせず、安易な自己正当化の理屈として用いてしまう人って。


しかもその人は「大人になっても子供のような感性を忘れないでいることは尊い(意訳)」みたいなことを言ってもいたのですが、私からすれば笑止千万ものです。
その癖自分はプロフィールに「考察流しちゃいます」みたいなことをプロフィールに書いて、その主張と相反するように大人の見解で特撮を読み解くということをやってすらいます。
こういうのを典型的な「二枚舌」というのですが、文面などから察するに「一見大人の理屈で語ってるが、実は子供に寄り添える俺カッコいい」という謎の優越感を覚えているのでしょう。
しかし、私に言わせればそれは五感でしっかり感じ取って楽しむことを推奨しているのではなく、単なる思考停止の末の幼児退行を押し付けているだけです。


あまり人の見方にどうこう口を出すのも大人気ないとは思うのですが、しかし当の本人が理屈で考察する見方を露骨に否定して感性>理屈を主張してくるものだからそりゃ腹が立つのも当然でしょう。
言い分から察するにその人が批判の対象としている「特撮オタクの本当に一部の人」に私も含まれているでしょうから、これはもう紛うことなき私への挑戦状と受け取り、真正面から受けて立ちます。
その人がどんな人生を歩んで来てその意見を発するに至ったのかは知りませんが、私の中のアースが今心の中で覚醒してしまった以上、ぜひとも炎のたてがみで焼き尽くしてやろうじゃありませんか。
今まで見て来た私の大好きな作品から「五感で感じ取り、そこから考えに考え抜いたもの」を根拠にしつつ、その人が発した意見に対して一石を投じてみせようではありませんか!


総じて今回のテーマはタイトルにも書いた通り、「「考えるな、感じろ」は怠け者の言い訳ではない」です。
それでは以下具体的に解説していきます。

 


(1)「考えるな、感じろ」の原典


まずその人が意訳として主張している「考えるな、感じろ」が映画「燃えよドラゴン」の有名なあのシーンに由来することはエンタメ・サブカルに詳しい人であれば誰もがご存知でしょう。
ブルース・リーの代表作にしてある意味で集大成でもある「燃えよドラゴン」は映画史に残る作品ではありますが、同時に様々な誤解を招く作品になってしまったようにも思われます。
功罪の強い作品ですが、中でも「考えるな、感じろ」のあのシーンに関しては時代が下れば下るほど勘違いする人も多いのではないでしょうか。
まずは原典となったシーンを動画とともに紹介してみましょう。

 

www.youtube.com


元々は師匠のリーが弟子に対して教えを説くシーンで出て来たセリフですが、どうにもこのシーンはそこばかりが一人歩きして前後の文脈が排され、間違った解釈が伝わっているように感じられます。
このシーンは寧ろその前後に出てくる「怒りではなく五感を研ぎ澄ませろ」「月を指差すのと似たようなものだ」「指に集中するんじゃない、その先の栄光が得られんぞ」があって初めて成り立つのです。
ブルース・リーがここで弟子に教ようとしているのは目に見えるものではなくもっと内奥にある本質的なものを見極められるようになれという、それ自体は至極当たり前のことを説いています。
しかし、その当たり前のことは意見だけを聞けば「なんだ、そんなの分かり切ったことじゃん」と反論されるかもしれませんが、その当たり前こそが最も尊く大切なものなのです。


この「考えるな、感じろ」が日本だと特に「理屈ではなく感情で感じ取れ」ということばかりが肥大化されて伝わった結果誤ったイメージばかりが伝わっている気がしてなりません。
しかし、そもそもこの一連のシーン、そしてこのセリフが成り立つのは道家として、そして哲学者として考えに考え抜き研鑽を続けたブルース・リーだったから辿り着けた境地なのです。
喧嘩に明け暮れ、その中で学ぶことの重要性に気づきたくさんの本を読み漁り格闘技と哲学を融合させて「ジークンドー」という独自の格闘スタイルを築き上げたブルース・リー
そんな彼がたどり着いた1つの到達点としてたどり着いたからこそこの1シーンが成立するのであって、このシーンを真に理解するにはこの作品以外にも様々な作品を見る必要があります。

 

氷山の一角


このイラストを見ていればわかるように、「考えるな、感じろ」およびその前後に示されている1シーンは所詮氷山の一角でしかありません。
しかし、その氷山の一角の背景には95%の目に見えない様々な試行錯誤や歩んで来た道のりがあるわけであり、それを受け手は嗅ぎ取って読み取る必要があります。
その95%の部分を全部は無理にしても大筋の70〜80%程度までをきちんと汲み取ることができた時、初めてこの「考えるな、感じろ」にまつわる一連のシーンの真意に近づけるのです。
逆にいえば、そのような読み解きを受け手が行わず安易なエクスキューズとして「考えるな、感じろ」を用いてはなりません。


しかし、件のTweetをなさっている方はその辺りへの想像力を欠いたままこちらに「理屈で考えるのではなく感覚で掴め」などと要求してくるのです。
偉そうに……お前はブルース・リーでもなければどこぞの教祖様でも先生でも、そして人知を超越した神様でもないだろうが!!
たかが特撮作品が好きなだけの1ファンの分際で何をいうのかと思えば、一見もっともらしいことを説いているようで所詮は詭弁なのだよなと。
言ってみれば陰キャを見下す陽キャの行動原理みたいなもので、「特撮オタクの心理を理解できる」風を装いつつ奥底では「へ、所詮特撮オタクなんてこんなもんだろうが」と見下しているだけ。


人間、誰しもが他者を自分の思うがままにしたい、それこそ昨日ののび助の記事で紹介した支配欲ではありませんが、それに近いものを感じるのです。
そもそも原典にある「燃えよドラゴン」の一連のシーンは決して普段から考えない怠け癖のある人間が都合よく使っていいものではありません。
それをしてしまえば単なる曲学阿世(世に阿って学を曲げる)」でしかなくなり、以前にこちらの記事で批判したと学会の連中と大差ないものになります。

 

gingablack.hatenablog.com


(2)日本の代表的な作品で表現されている「考えるな、感じろ」の例


さて、日本の代表的な特撮・アニメ・漫画作品の中で「考えるな、感じろ」の代表として表現されているシーンをいくつか抜粋・紹介してみましょう。


①明鏡止水(『機動武闘伝Gガンダム』)

 

明鏡止水


②獣装光ギンガマン(『星獣戦隊ギンガマン』)

 

獣装光ギンガマン


③天衣無縫の極み(『テニスの王子様』)

天衣無縫の極み


④トッキュウ1号レインボー(『烈車戦隊トッキュウジャー』)

 

トッキュウ1号レインボー


⑤身勝手の極意(『ドラゴンボール超』)

身勝手の極意


⑥太陽神ニカ(『ONE PIECE』)

 

太陽神ニカ


いくつか抜粋してみましたが、他にも探せば例はあるでしょう。今回抜粋したのはあくまでも「私の中の」ということでご容赦願います。
この中で特に「考えるな、感じろ」のニュアンスが強いのはやはり明鏡止水と天衣無縫の極み辺りが挙げられるでしょうか。
明鏡止水は怒りが原点にあった超サイヤ人などの金ピカパワーアップを「怒りを消化したもっと潜在的な格闘家の到達点」として定めました。
ただし、この境地にたどり着くためにドモンは様々な喪失と試行錯誤、敗北を繰り返して来たわけであり、東方不敗に教わった10年間の教えの総決算として明鏡止水に至るのが素敵なのです。


そして天衣無縫の極みに関しても同様に、越前リョーマは単に「テニスが楽しいから」だけであの境地にたどり着けたわけではないことは明白でしょう。
ずっと父親に負け続きでテニスに真の楽しさを見出せなかった越前リョーマが自分の父親以外の手塚国光という相手に初めて負け、それで「負ける悔しさ」を実感したのです。
その上で「青学の柱になれ」という言葉によりリョウマの闘争心、具体的には「勝ちへの執着」が刺激され、そこからリョウマは初めて「真のテニスプレイヤー」になる決意をします。
そうして様々な強敵との戦いを乗り越え、チームとしての思いを背負い、その末に記憶喪失と五感剥奪という「テニスができなくなる苦しみ」を味わったからこそ「テニスの楽しみ」を感じ取れたのです。


ほかの作品も表現の方法は違っていても本質的には同じものであり、要するに「圧倒的な快楽にたどり着くにはその真逆にある圧倒的な苦痛も味わう必要がある」ということでしょう。
逆にいえば「考えるな、感じろ」とは「まずは考えろ」がベースにあり、己の強さをとことんまで考え抜き鍛え抜いた者が最後の最後で五感で感じ取るからこそ有意義なものなのです。
しかし、ほとんどの人がここにたどり着けないか、わかっていたとしても所詮頭の部分での理解に過ぎず、腹に落として実践し体現・表現するレベルには至っていません。


(3)左右極限を知らねば、中道に入れず


これらを総合すると導かれるのは仏教で教えられている「左右極限を知らねば、中道に入れず」ではないでしょうか。
仏教の言葉で「圧倒的な光を味わうためには、その真逆にある圧倒的な闇を経験しなければ真ん中にある普遍の真理にたどり着くことはできない」という意味です。
これは現代人の感覚ではどうしても共感されにくいもので、例えば物欲・性欲・睡眠欲・支配欲・独占欲等々人間の欲望は無限です。
ここで下手に常識を働かせて抑制するのではなく、何事も飽きるまでとことんやってみることが新たな境地へと繋がっていきます。


だから、「考えるな、感じろ」を本当に実践してみたいのであれば、まずはとことんまで考え抜いてみてください。
周りからは「何言ってんだこいつ?」「理屈ばっかこねやがって、雑語りじゃねえか!」なんて突っ込まれても私は正直構わないと思っています、というかそういうツッコミが出てくるくらいが丁度いい。
たとえ中途で試行錯誤があっても失望されてもいい、自分がとことん満足するまで、飽きるまで考え続けることをやってみればいいのではないでしょうか。
むしろそこまでやらなければ真に感じ取る悟りの領域に到達することはできないし、逆にいえば真に感じ取る作業もしてみなければ考えることもできません。


理屈っぽい?大いに結構、逆にいえば筋道立てて物事を考えることができるということだし、筋道立てて物事を考えられればその逆の心をまっさらにして感じ取ることも可能になるわけです。
逆にいえば、普段徹底的に自分の殻を閉じている人間こそが実はいざという時に自分の蓋を取った時に解放される力の反動が凄まじいということになります。
普段が優しい人ほどなぜ怒った時に怖いのか、そして普段厳しい人が不意に優しくした時になぜその優しさに引かれてしまうのか、それは正に左右極限を知っているからこそです。
それこそこないだ紹介した「ゲインロス効果」や経済のインフレデフレも似たようなもので、常に過大と過小を行ったり来たりしながら真ん中を目指していきます。


そこで最初の話に戻りますが、真に特撮作品の良さを感じたかったらもっと目を研ぎ澄ませて画面に目を凝らし、脚本・演出・役者などあらゆる観点から作品の仕組みを徹底的に読み解いてみましょう。
そして、その上で改めて最後の段階として映像を肌感で感じ取るということをしてみると、確かにその作品を真に楽しめるということになっていくのかもしれません。
しかし、最初に私が言及した方はその試行錯誤の段階を最初からすっ飛ばして端から思考停止で作品を感性で楽しめということを強要してくるのです。
感性と理屈、どっちかが大事なのではなくどちらも大事であり、どちらかを捨ててしまえばそこから真に面白い解釈や批評は生まれてきません。


まずは自分が知らないことを知ること、創造の前に破壊あり、感じる前に考えることあり、その全てがとても大切なことではないでしょうか。
感覚と理屈、そのどちらかを否定してどちらかを正しいと定義することはその時点で既に真理から遠ざかっていることを心がけておきましょう。