明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ46作目『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)第8話感想

 

ドン8話「ろんげのとりこ」


脚本:井上敏樹/演出:加藤弘之


<あらすじ>
「喫茶どんぶら」では、ロン毛の客が、鬼頭はるか(志田こはく)をモデルに無断で絵を描いている。はるかは注意するが…!? 犬塚翼(柊太朗)は、男にからまれているソノニ(宮崎あみさ)を助ける。人間の恋愛という感情に興味を持つソノニは翼に愛の言葉を求めるが、翼には大切な女性がいるという。雉野つよし(鈴木浩文)は、街で愛する“夏美”の面影を追う翼の姿を見かけ、声をかける。妻・みほ(新田桃子)を愛するつよしは、翼の夏美への想いに共感。みほの手料理をふるまおうと、翼を自宅に誘う。


<感想>
「あいつはミホちゃんを襲った。そんな奴はこの世に存在しちゃいけないんだ」
「みほちゃんは僕が守る、絶対に……。たとえ相手が誰でも、何をしても……」


なるほど、こう持ってきましたか井上先生……まさか戦隊シリーズ「555」ばりのドロドロした人間の心理が描かれなんて思ってもみませんでした。
しかもこのセリフ、如何にもシリアスな空気じゃなく爽やかなラストシーンのカタルシスとして軽めに描かれているのがかえって雉野の闇の深さを際立たせています。
特にラストの陰影が濃い雉野の表情は冗談抜きで美術館に飾っておきたいレベルの逸品で、まさか戦隊シリーズ俳優の演技・表情に惚れ込む瞬間をまた味わえるなんて思いませんでした。
加藤監督って基本的には「ギャグはそこそこだがシリアスは大して面白くない監督」という印象でしたが、長くキャリアを積んでいるお陰かだいぶ熟れてきましたね。


個人的に実は本作で感情移入して見ていたのは第一話感想でも書きましたが桃井タロウでも鬼頭はるかでもなく雉野で、あまりにも大人しすぎる善人設定だから「あれ?」と思ったんです。
だって、「ジェットマン」の大石雷太や「555」の啓太郎ですらサイコパス紙一重の善人」だったのですから、ストレートな善人を井上先生が描くわけがないじゃないかと。
そこで犬塚と5人揃って共犯関係になってしまう5話や桃井タロウとの勝負の中で妻に褒めてもらいたくて必死に頑張る6話などを見て「こいつ、何かあるな」と密かに睨んでいました。
それが今回の後半で完全なる狂気、今風にいうなら「メンヘラ」「ヤンデレ」と言えるくらい非常に重苦しい依存症の愛だったのだということが判明して、正に重い鉛玉を食らったような気分です。


まだまだ全盛期のキレが戻ったとは言い難い井上脚本ですが、今回に関してはバカにするとかじゃなく純粋に「雉野は一体どうなるんだろう?」と興味が湧きました。
正直な話、レッドが脳人側の人間かどうか以上にこっちの方が面白く感じられてしまうのもどうかと思いますが、一番視聴者の立場に近い「THE 平凡」の雉野をこのように扱いますか。
Twitter等で反応を見てみますとやはり過去のケースだと「555」の草加雅人や木場勇治が連想されたらしく、しかも草加雅人を演じた村上幸平氏も反応していたようです。
そんな今回の話ですが、個人的に感じられたのは「被害者根性と復讐」という刑事ドラマなどでありがちなテーマをこういう形で描いてきたか、という感じでしょうか。


極論をいえば、今回雉野が選んだのは「死刑」であって、今回ようやく「脳人にデリートされたヒトツ鬼は永遠に消去され元に戻れない」という設定が極めて重く物語の中で機能しました。
ドンブラザーズと脳人、一見「善と悪」に分かれているようでいて、実態は「光の正義と闇の正義」という「2つの正義」として機能しているようです(「光と闇」は井上先生がよく使うモチーフ)。
で、ドンブラザーズ側がヒトツ鬼を人間に戻す「救済」の象徴であるのに対して、脳人は人間を抹消する「破滅」の象徴であり、仏教的には「衆生済度」の有無なのかなと。
要するに「可能な限り衆生(世間一般の人々)を救う」のがドンブラザーズであり、脳人は衆生なんぞ救う気は一切ない」というスタンスであり、雉野は今回結果的に脳人側に与したことになります。


加えて、ちょうど昨晩「金田一少年の事件簿」の新シリーズを見たこともあって、「復讐」について考えることが多くなっており、正にベストのタイミングで絶妙なネタがもたらされました。
犬塚翼という犯罪者がいることもあるのですが、「被害者根性」とはこういうものなのではないかというのを雉野を通してわかりやすく描こうとしています。
その前振りとして、単なる三角関係というだけではなく、雉野と犬塚という「無実の一般人」と「濡れ衣を着せられた犯罪者」という、ある種のストックホルムを匂わせる関係性を描いたのもそれに関連しているのでしょうか。
つまり雉野も犬塚も「惚れた女に一直線」という点で意気投合していたが、逆にいえば犬塚翼とは雉野がなる得るかもしれない姿であり、また雉野の姿も犬塚の鏡面と言えなくもないわけです。


今回の優れたところは「罪を悪んで人を悪まず」というありきたりなレトリックに意地でも用いていないところであり、被害者側の遺恨は程度の差こそあれどそう簡単に消えるものではありません。
いじめでもそうですよね、「いじめた側は簡単に忘れてしまうが、いじめられた側は一生覚えている」とはよく言うもので、今回ミホを襲った犯人は雉野の最も触れてはならない地雷を踏んでしまったのです。
最終的にミホが助かったからいいものの、これでミホが殺されていたら雉野はおそらく天堂竜や草加雅人の比じゃないくらいに狂って精神の糸が切れてしまうのではないでしょうか。
「普段優しい人ほど怒らせたら怖い」と言いますが、その理由は優しい人ほどキレたらかえって冷静、というか冷徹になってしまい卑劣な手段も辞さないようになるからです。


今回、妻への愛から来る復讐がテーマでしたが、「ジェットマン」の天堂竜と違うのは天堂竜がそこにヒーローとしての大義という仮面で覆い隠していたのに対して、雉野はむしろその復讐心をむき出しにしています。
その上で自らボコってトドメを刺すのではなく(トドメを刺すと殺人になってしまうから)、あくまでも脳人側に消去してもらう=敵側の戦力すら利用してしまうのがどこまれも卑劣なのです。
しかも別に雉野はソノイに「あいつを殺せ」と教唆もしていないので、ドンモモタロウの攻撃の妨害がギリギリ共犯になっていないという絶妙さが狡いところでしょう。
無茶苦茶やっているように見えますが、そこは流石に腐っても井上先生ですから、因果応報や自業自得といった形できちんと守るべき一線はしっかり守る人だと思うのです。


それからもう1つ、これは自身が「ジェットマン」で打ち立て、平成の特撮ヒーローの1つのスタンダードであった「私的動機を正義感へ昇華して戦いヒーロー」への反証を自ら行おうとしているのではないでしょうか。
ちょうど先日、公的動機と私的動機に基づいて平成仮面ライダーについて話をしていた時に、常連のフォロワーさんから「平成の私的動機で戦うヒーロー像のベースはブラックコンドル/結城凱ではないか」と問われました。
すなわち、自分の身近な人や自分の生活が傷つけられるのは誰だって嫌なわけであり、そこから公的動機としての大義へ繋げていくヒーロー像の雛形となったのがブラックコンドル/結城凱です。
それを踏まえて本作で雉野つよしを通して描こうとしているのは「なら、大事な人を守るためなら手段を選ばなくてもいいのか?私的動機を抱えて出発すれば公的動機に繋げることはできるのか?」でありましょう。


井上先生自身、この疑問についてはすでに「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー555」などで描いているわけですが、スーパー戦隊シリーズでこのテーマに向き合ったのはそれこそ小林靖子女史くらいです。
復讐に関しては「ギンガマン」の黒騎士とブクラテスを通して非常に優れた物語が展開されましたが、あれが「王道」として描かれていたのに対して、本作は「邪道」として復讐を描いている。
小林女史はヒーローに「復讐」という要素を抱えたとしても時代劇のようにズバッと論理的かつ明快にそれを消化するのに対して、井上先生はギリギリまで引っ張って土壇場で爆発させます。
もしかすると雉野つよしは単なる「一般人=衆生」の象徴というだけではなく、「私的動機のみで戦うヒーローのアンチテーゼ」にして「復讐鬼」というテーマを背負わせているのかもしれません。


序盤でここまで私に考えさせ言語化させるくらいの話を今回はたった25分の枠内で描いていたわけであり、「ジェットマン」から31年、ある種の原点回帰にして集大成という意味合いもあるのでしょうか。
果たして雉野が今後闇落ちして復讐鬼と化すのか、犬塚と犬猿の仲ならぬ犬雉の仲となって憎み合い殺しあうところまで行くのか、それを受けてタロウたちはどうするのか?
そのような「今後どうなるのだろう?」という不安と期待を雉野を通して我々に示し、「ドンブラザーズはこういう方向性で行く」というのがようやくここで打ち出された気がします。
総合評価はA(名作)、雉野と犬塚、みほという三者の関係を中心にして既存のヒーロー像やヒーロー作品のあり方そのものに一石を投じ揺さぶりをかけてきて、今後どうなるかが楽しみです。

 

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