明日の伝説

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「エポックメイキング」とは「受け手に気づきを与える作品」である

Twitterでフォロワーさんから非常に面白い指摘を頂き、ここ1週間くらいモヤモヤしていたものの正体がやっとわかりました。
それは「エポックメイキング」とは決して「新しい試みを行う」ことを意味しないということです。
むしろ逆で、「受け手に気づきを与える作品」が「エポックメイキング」の真の意味ではないでしょうか。


私はなんだかんだ賛否両論ありつつ「ドラゴンボール」が大好きなのですが、高く評価しているポイントに「気の可視化」「戦闘力の数値化」が挙げられます。
しかし、実は両方とも「ドラゴンボール」が初めてというわけではなく、それ以前の作品から実験的な要素として盛り込まれていたものです。
例えば「気の可視化」はジャンプ漫画以前に富野監督が「ライディーン」「イデオン」「ダンバイン」などを通して盛り込んでいた要素でありました。
また「戦闘力の数値化」に関しても「キン肉マン」は言うに及ばず、それ以前の作品でもカタログスペックで「仮面ライダーのキック力はnトン」という書籍が出ていたのです。


しかし、「ドラゴンボール」が先達の作品群と大きく異なる点は「それらが決して当たり前ではない」ということを受け手に気づかせた点にあるのではないでしょうか。
このことに関して、いつぞやの「DB」のレビュー記事で引用した方(その方から直のコメントも頂きました)はそのことに関して非常に鋭い指摘をなさっていました。
以下の要素であり、今回の記事を書く上で絶対に外せないので引用させて頂きます。

 

 

鳥山明は基本的に根性論が嫌いである。
そのことは、鳥山の不健全さと健全さを表している。根性論が嫌いなのは、「努力すれば何でもできる」という信仰が、受験競争やスポ根などの個人の適正を欠いた努力に向かわせるからである。
だから鳥山は、本人の適正にあった努力は好きである。かつて「悟空が倒れるような修行をしても、そこからフラフラと立ち上がるようなことはない」と書いたが、それには以上のような理由がある。
ならば倒れながらもまたフラフラと立ち上がって修行をするベジータはどうかといえば、ベジータはそれが似合うのである。なぜならベジータは「堕ちたエリート」だから。エリートがプライドをかけて、全てをなげうつ姿を、鳥山は認めているのである。


引用元:https://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2019/01/05/115456

 


まさにその通りで、昭和のジャンプ漫画をはじめとする作品群は「とにかく肉体を鍛えて強くなることが正義」とされており、今日の視点で見直すと狂気の沙汰としか思えない特訓をさせています。
例をいくつか紹介してみましょう。

 


(1)巨人の星

 

大リーグボール養成ギブス


(2)アストロ球団

 

アストロ球団の地獄の特訓シーン


(3)リングにかけろ

 

特訓で右腕を潰した志那虎

特訓の危険性を医者に指摘される剣崎



ね?これらをご覧いただければわかるように、明らかに個人の適性に合っていないどころか下手すれば選手生命すら潰しかねないような特訓シーンが多いでしょう?
もちろん全てが間違いという訳ではありませんが、実際に昭和スポ根漫画の特訓シーンはこういうのが主流だったことが判明しており、明らかに頭が湧いているとしか思えません。
特に車田正美先生が描いた「リングにかけろ」はその苛烈な特訓シーンの危険性もまた医者の視点や「特訓の代償としてできなくなったこと」というマイナスに目を向けています。
鳥山先生がこれらのことを知らなかったとは到底思えず、実際に「戦闘力の数値化」に関してはその概念が登場したサイヤ人編で早速ベジータにこんなツッコミをさせているのです。

 

戦闘力のアテにならなさ


そう、ベジータは「戦闘力のコントロール」が自由自在にできる地球人の気質を即座に理解し、戦いとは決して計算だけでわかる訳ではないということを示唆しています。
先達となった「キン肉マン」でも実際に格下の戦闘力の数値しかないものが格上の者を倒すことがありますが、その理由をもっと端的にわかりやすく説明しているのです。
ベジータは実際ナメック星編で地球人から「戦闘力のコントロール」を学び我流ながら実戦に生かしていましたし、人造人間編でも「計算だけでわかるものじゃない」と言っていました。
このように、ドラゴンボールは一見数値化することでわかりやすく見せたようでいて、実は数値に依存して戦うことの危険性と無意味さを示唆するということをしていたのです。


また、ひたすら肉体を痛めつけて修行することに関してもセルゲーム編で精神と時の部屋の修行を終えて出てきた悟空が嫌味を言ってきたベジータに対してこう言い返しました。

 

肉体を痛めつけることの危険性を指摘する悟空


これは単なるベジータへの反論とも取れますが、視野を広げてジャンプ漫画全体への警鐘と捉えると、実に先達の作品群に対する懐疑や批判が盛り込まれているセリフです。
しかももっと凄いのはこれが単なる「怠け者の言い訳」ではなく、あくまで初期に亀仙人から教わった「よく学びよく遊びよく寝る」の教えを悟空なりに実践していた結果にもなっているところにあります。
ひたすら肉体を痛めるベジータの修行はまさに「リングにかけろ」でひたすらアポロエクササイザーを使って体を痛めつけるだけの修行しかしなかった剣崎順と通ずるものがあるのです。
そして実際に剣崎はアポロエクササイザーで両腕を限界以上に痛めつけた結果、主人公・高嶺竜児との試合でとうとう両腕を壊して一度手術のために渡米することになりました。


ベジータサイヤ人として屈強な肉体を持っているのでここまでのことにはなっていませんが、少なくともただ体を酷使する特訓だけでは悟空を超えることはできなかったのです。
鳥山先生が示した「ドラゴンボール」の修行論が面白いのは様々なファンの方が指摘するように「ただ肉体を鍛え上げればいい訳ではない」という気づきを読者に与えたことにありました。
地球での暮らしを経験するまでベジータは修行すらもしたことがなく、また地球で重力トレーニングをするようになっても修行の仕方を教えてくれる師匠は存在しなかったのです。
どんなに才能あるエリートでも独学では悟空を超えられなかった理由はそこにあり、「ドラゴンボール超」で再びベジータが悟空を超える戦闘力に戻れたのはウイスビルスに師事したからでした。


このような気づきを世間一般の人々に作品を通して与えたことこそ「ドラゴンボール」が時代を超えて「エポックメイキング」と評され理由であり、実際私も「DB」で学んだことの1つがそれです。
単に修行すればいいわけじゃなく、自分の得意不得意を見極めた上で長所を伸ばす訓練をすることや自分に合った勉強法や学習環境の選択を行うようになりました。
これがあったからこそ、以後のジャンプ漫画は「能力」という形で個人の適正に見合った努力や戦闘スタイルの細分化・差別化がなされるようになったのでしょう。
例えば「ONE PIECE」の悪魔の実や3種類の覇気、「NARUTO」における九尾の力や写輪眼・白眼・輪廻眼などといった様々な能力が出るようになったのもこの辺りにあるのです。


そしてそれは「ドラゴンボール」に限った話ではなく戦隊シリーズやライダーシリーズなどあらゆるジャンルやシリーズものにおいて言えることではないでしょうか。
例えば「鳥人戦隊ジェットマン」「仮面ライダークウガ」はそれぞれ戦隊シリーズとライダーシリーズの大きな分岐点とされるエポックメイキングな作品ですが、1つ1つの要素は斬新でも特別でもありません。
しかし、それでもファンから未だに「シリーズの歴史を変えたエポックメイキング」と評される理由はそれまでのシリーズのお約束・文法となっていたものへの懐疑・批判を多分に盛り込んだからでした。
その上で「実はそのお約束・文法は当たり前ではなかった」と気づかせた上でどうすれば先へ進めるのかを1年かけて丁寧に解体・再構築したことに意味があるのではないでしょうか。


まさに「創造の前に破壊あり」であり、既存の方法論をまずは一通り学んで抽出し、崩せる部分を崩して再構築して独自の方法論を再構築すること。
守破離の精神でもあるのですが、「エポックメイキング」とは決して「オリジン」でも「パイオニア」でもなく次へ繋ぐための破壊と新たな創造を行うことなのです。
機動戦士ガンダム」もまた60〜70年代のあらゆるロボットアニメ・SF映画世界名作劇場といった作品群を学んで抽出し、解体・再構築をしたからこそ今でも尚エポックメイキングと評されています。
そこに気づくことができて初めて有効な批評は可能となるのであり、受け手にどれだけ気づかせることができるかという「後世に与えた影響」という点において「ドラゴンボール」は正にジャンプ漫画のエポックメイキングなのです。