明日の伝説

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公的動機と私的動機についての補足と再考

 

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昨日、スペースでフォロワーさんから「地球戦隊ファイブマン」がどうして公的動機で戦う戦隊なのか?ということについて聞かれたので、ちょっと立ち止まって解説をば。
いわゆる「戦い」をテーマにした作品ではいかにして「戦う動機」を考えるかが重要なのですが、大まかに分けると「公的動機」と「私的動機」の二種類に大別されます。
「人類は今何をしなければならないか?」という観点に立って、マクロな視点から戦いの動機や戦略・戦術が割り出されていくのが公的動機です。
それに対して「自分は今何をしたいのか?」という観点に立って、ミクロな視点から戦いの動機・戦略・戦術が形成されていくのが私的動機となります。


両者は決して両立しうるものではない二律背反の関係にあり、組織の意向が優先されるのか個人の意思が尊重されるのかは作品によっても異なるものです。
その点で見ると「地球戦隊ファイブマン」は少し特殊な作品であり、組織自体は自発的に結成されていながらも私的動機ではなく公的動機で戦っています。
何故そうなのかというと、ファイブレッド/星川学の圧倒的なリーダーシップが絶対だからであり、誰1人学兄さんのリーダーシップに逆らうことはできません。
銀帝軍ゾーンとの戦い自体は「両親の仇」という復讐から生じた私的動機の筈なのですが、それを「人類のため」という公的動機へ消化してしまっているのが「ファイブマン」の恐ろしいところです。


そもそも「地球戦隊」という名前の時点で「地球に住む人々は今何をすべきなのか?」という公的動機の極致みたいなものですから、当然のことではありますが。
公的動機と私的動機の話をする際に難しいのは「公的機関に属していても私的動機の割合のが高い戦隊」「自発的に結成されたとしても公的動機の割合が高い戦隊」があるということです。
だからこそ大事なのは「設定」と「描写」がきちんと噛み合っているかどうかを見ることであり、またドラマとしての局面で「組織の意向」が強いか「個人の意思」が強いかを見る必要があります。
その辺りを数値化して考えていけば、私がかつて作った戦隊シリーズのチームカラーやジャンプ漫画のチームカラーになる筈なのですが、どうにもこの辺りのことがピンと来ない人が多いようです。


何故そうなのかというと、日本人は典型的な「滅私奉公」「年功序列」「個人は組織に服従すべき存在」という考えが潜在意識として刷り込まれているからではないでしょうか。
その考えがあるから、日本では集団ヒーローものが素晴らしく個人ヒーローが微妙とか「私的動機で動くやつが間違い」みたいにされがちなので、どうにも議論し難いものになるのです。
こういう時、格好の材料としてわかりやすいのが国民的ジャンプ漫画である「ドラゴンボール」「ONE PIECE」「NARUTO」なのですが、この3作品を中心に考えてみるといいでしょう。
3作品のうち、私的動機の割合が強いのが「ドラゴンボール」「ONE PIECE」であり、公的動機の割合が強いのが「NARUTO」となっています。
以前にもジャンプ漫画のチームカラーに関してはこちらの記事で述べた通りですが、今回はここから3作品に絞ってもっと具体的に考察してみましょう。

 

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(1)「ドラゴンボール」が公:私=1:9である理由

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置いていかれる餃子


人造人間編の「餃子は置いてきた」が典型ですが、「ドラゴンボール」はあくまでも「個人の強さ」が先にありきで、実はチームワークと呼ばれるものは存在しません。
これは少年期から魔人ブウ編、何なら今連載中の「超」に至るまで一貫しており、基礎戦闘力で敵を上回っていなければそもそも戦いの土俵に上がらせてもらえないのです。
主人公の悟空からし「強いやつと戦いてえだけの男」ですし、ベジータだって「悟空を超えたいから戦う男」であり、この2人が最終的に物語のメインになっている時点で私的動機の方が強いでしょう。
公的動機で戦う人というと孫悟飯や神様と融合してからのピッコロ、未来トランクスなどが当てはまりますが、その彼らが悟空やベジータを超えた試しはほとんどありません。


公的動機が私的動機を上回った瞬間はセルゲームの時の孫悟飯や未来世界を守ったトランクスくらいですが、これもあくまで私的動機で動く悟空やベジータに引っ張ってもらっている側面が強いです。
孫悟飯に関しては別個考察の記事を設けるとして、地球人とサイヤ人の混血組に共通しているのが「自発的な闘争心」が弱いことであり、戦闘能力以前に意識の差が存在しています。
だから潜在能力だけでいえば孫悟飯・未来トランクス・ゴテンクスが高いにも関わらず、結局総合力で純粋なサイヤ人である悟空・ベジータブロリーを追い越せないのはそうした理由です。
「強くなりたい」という闘争本能が潜在意識として存在しているのは純血のサイヤ人であり、強くなるための意識とそこからどうしていけばいいかの努力が違うからでしょう。


実際未来世界の悟飯が10年以上も修行したのに人造人間に無残にも負けてしまい、現代悟飯が悟空に修行をつけてもらうことで1年程度で超サイヤ人2レベルまで到達できたという事例を見てください。
これが可能だったのは悟空と一緒に修行したからであり、未来トランクスも同様に精神と時の部屋ベジータと一緒に修行してムキンクスになるほどの力を手にしなければ、未来世界の人造人間は倒せなかったでしょう。
悟空とベジータという2人の戦いの天才が公的動機によらない私的動機で戦っているからこそ、強くなるためのアイデアや修行環境の選択ができるわけであり、それが今現在「超」でも生きているのです。
地球人とサイヤ人の混血であるハーフ組やクォーター組に欠けているのはこうしたところであり、結局のところ「強いやつと戦う」ということに前向きな奴らが最強ということになってしまいます。


だから、今連載中の「ドラゴンボール超」で活躍し続けているのが若い世代の悟飯・トランクス・悟天ではなく悟空・ベジータであるという厳然たる事実もまたそれを示しているのではないでしょうか。
闘争心から生じる飽くなき向上心を持ち続けている悟空とベジータだからこそウイスビルスの元で鍛え続けて身勝手の極意や我儘の極意といったところへ到達することが可能になったのだと言えます。
対して悟飯はどうかというと「1人の人間として誰も見たことがない究極の姿を目指す」などと言っておきながら、未だにそこにたどり着くための具体的な道筋や方向性が見えてきません。
ピッコロに関しても同様であり、その辺りの答えを出そうとするのが新作映画なのだと思われますが、結局のところ私的動機で戦い続ける悟空とベジータこそが正解とされるのが本作のスタンスです。


原作者が「悟空に友情はない」と言ったのもそういうところであり、悟空はあくまで戦えるのなら自分1人で戦って勝ちたいのであり、チームワークがどうのこうのということは基本考えていません。
ベジータも同様であり、魔人ブウ編で最終的に元気玉で倒す段階に至って悟空とベジータの説得にZ戦士とその仲間以外が耳を貸さず、ミスターサタンの呼びかけでやっと民衆が耳を貸すのはその典型といえるでしょう。
私的動機で戦い続けていたら結果としてそれが公的動機で戦うヒーローの姿に見える、というのが本作の唯一無二といえる特徴であり、だから私的動機の割合が極度に高いのです。


(2)「ONE PIECE」が公:私=4:6である理由

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海賊王になりたいルフィ


ONE PIECE」は割合としては私的動機寄りですが「ドラゴンボール」ほど極端な個人主義の集まりではなく、一応「組織」という形には収まっています。
最初の「海賊王に俺はなる!」を見ればわかるように、ルフィの溌剌とした表情には屈託がなく、心の底から海賊としての冒険を楽しんでいる感じがあるのです。
しかも幼少期にガープじいちゃんやエース・サボとともに地獄のサバイバルを潜り抜けているため、いわゆる「強くてニューゲーム」の状態からスタートしています。
ルフィが仲間を集めるきっかけは「一緒に冒険できるだけの才能と動機を持ったやつが欲しい」からであり、それもまた私的動機によるものです。

 

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仲間たちの誓い


偉大なる航路(グランドライン)に入る前のこの5人の誓いが象徴的ですが、初期メンバーのルフィ・ゾロ・サンジ・ナミ・ウソップの5人はそれぞれ立派な私的動機があります。
ルフィの「海賊王」という目標に共感し、同じように偉大なる航路を冒険するにあたって個人的な目標とそれを実現するスキルを持った仲間たちが揃っているのです。
つまりが「個人事業主の集まり」であり、だから事情が異なれば時として組織を離脱するなんてことは決して不思議なことではありません。
実際ここにいる5人の中でルフィとゾロ以外の3人は一回ずつ組織の離脱をやらかしているわけであり、ナミとサンジの場合は家庭の事情によるものでした。


対してウソップの場合はゴーイングメリー号への捨てきれない終着を拗らせた結果ルフィとの決闘が生じたわけであり、だからこそ一度組織からドロップアウトすることになったのです。
このような紆余曲折を繰り返しながらチームとしての結束力を育んでいくわけですが、本作において公的動機で戦うのは主人公たちではなくむしろ敵側の海軍ではないでしょうか。
海軍は個人の自由意思ではなく組織の規律が優先されるわけであり、ガープじいちゃんを始めスモーカー大佐やコビーなども全員組織の規律に従って動いています。
時として呉越同舟のようなことをするとしてもあくまで結果論であり、基本的に海賊と海軍・世界政府は水と油というか相容れない関係性となっているのです。


新世界に入るに従ってチームワークというか連帯感も生まれていくとはいえ、それが個人の自由意思を阻害するということは決してありません。
だからこそルフィはギア5という形で太陽神「ニカ」へと覚醒できたわけですし、ほかのゾロやサンジにしたって同じようなものです。
ドラゴンボール」が打ち出した「スタンドプレーに基づくチームワーク」を「海賊」というモチーフとともに完成させたのが本作ではないでしょうか。
だからこそ公的動機=組織の規律よりは私的動機=個人の意思が尊重されるわけであり、戦いの時に一対一で戦うことがほとんどなのもそれを示しています。


(3)「NARUTO」が公:私=8.5:1.5である理由

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ナルトの目標宣言


ドラゴンボール」「ONE PIECE」とは真逆に公的動機が私的動機を圧迫する形になっているのが本作の大きな特徴だといえます。
ナルトの「火影を超し、自分の存在を里の全員に認めさせる」というのは一見私的動機のようでいて、実はそれ自体が木の葉の里全体の視点に立った動機なのです。
うずまきナルトはジャンプ漫画の主人公としては屈折していて、一見明るいムードメーカー的存在でありながら悟空やルフィと違いコンプレックスと承認欲求の塊となっています。
「強いやつと戦いたい」という孫悟空、そして「海賊王になる」というルフィは形や方向性は違えど純真無垢で屈託が一切ありません。


この2人に対してナルトは幼少の頃から「九尾の力の持ち主」というだけで里の人間たちから差別・迫害を受け続けて育ってきたのです。
アカデミーでも同級生や先生からばかにされ続け、唯一ナルトのことを認めてくれていたのは1話の段階だと心の師匠であるイルカ先生だけでした。
彼だけがナルトを1人の人間として認めており、亡き父親の代わりに父親のように愛してくれたわけであり、それがあったからナルトは腐らずに済んだのです。
しかし、問題はそれだけで解決するわけではなく、この世界の忍者というのは国家公務員のような位置付けとして描かれており、組織が個人を雁字搦めにします


本作において、公的動機に匹敵するだけの私的動機を持っていたのは「兄・うちはイタチへの復讐」を動機として持っていたうちはサスケくらいでしょう。
彼は呪われたうちはの血を忌み嫌っており、ナルト以上に家系のしがらみに呪縛されていた男であり、幼少期に兄・イタチによって家族を皆殺しにされたトラウマがあります。
そこから生じる強烈な復讐心こそがサスケを動かしていたわけであって、ナルトが「公」だとするならサスケが「私」といったところではないでしょうか。
そしてそれが大きな問題となったのはサスケが里抜けした時であり、シカマルが五代目火影の綱手からサスケ奪還チームを任命された時のやり取りに反映されています。

 

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火影の命令に逆らえないシカマル


非常に象徴的なやり取りですが、シカマルは本来サスケ奪還なんて面倒くせえことはしたくないし、あの時の暴走したサスケを止めることはかなり難しい状況でした。
しかし、一旦火影から命令として下された以上反発することなどできず、組織の規律に背いて個人の自由意志が尊重されることなどまずあり得ないのです。
だからサスケや暁のメンバーが里を裏切ったというのはそれだけで重罪となりうるわけであり、どこまでも個人の行動は組織によって規定されてしまっています。
ナルトがサスケを取り戻したいというのも私的動機といえば私的動機ですが、それはそもそも木の葉の里全体としてサスケを取り戻すべきという考えがあるからなのです。


(4)「組織→個人」なのか「個人→組織」なのかは主人公の動機と行動を元に算出すればわかる


今回はジャンプ漫画の代表的な3作品に絞って掘り下げてみましたが、要するに「組織→個人」なのか「個人→組織」なのかで話は違ってくるということです。
組織の方針が第一にあって、そこから個人の動機や戦い方が割り出されているのか、それとも個人の動機が先にあって組織の規律が後から形成されていくのか。
日本人は集団主義なのでどうしても前者が正しく後者が間違いであるかのように錯覚しがちですが、実際の作品を見ればそのようなことはありません。
ドラゴンボール」「ONE PIECE」はジャンプ漫画の王道として挙げられますが、実際はスタンドプレーから生じるチームワークになっているわけですから。


Twitterなどを検索してみると、私以外にもこの「公的動機と私的動機」に基づいてヒーロー作品を考察している人は少なくないようです。
それはなぜかというと現実のビジネスがまさに公的動機と私的動機の二種類によって形成されているからではないでしょうか。
大企業や公務員などは個人の意志よりも組織の意向の方が強くなりますし、中小〜零細企業や個人事業主は組織の規律よりも個人の自由意志の方が強くなります。
だからこそ注意深く見なければならないのは「公的動機と見せかけた私的動機」や「私的動機と見せかけた公的動機」のような厄介なパターンを見抜くことです。


冒頭で述べた「地球戦隊ファイブマン」はどちらかといえば後者の「私的動機と見せかけた公的動機」のパターンに当てはまっています。
始まりこそ「銀帝軍ゾーンへの復讐」がありましたが、それを私的動機のまま拗らせるのではなく2話の段階までで公的動機へと消化しているのです。
逆に翌年の「鳥人戦隊ジェットマン」は前者の「公的動機と見せかけた私的動機」であり、スカイフォースという公的機関に所属していながら個人の意思が優先されています。
主人公の竜だって「個人的感情なんて問題じゃないだろ!」と言っていますが、このように言ってること自体がそもそも個人的感情に走っていることを意味するものでしょう。


以前にスーパー戦隊シリーズのチームカラーについて書いたものの、あれはまだ暫定的なものですから、もっと具体化・細分化して書かなければならないようです。
だからこそ感想を1つ1つ具に書いて言語化することでしかそれは見えてこないのですが、ただでさえ46作もある作品ですから膨大な時間がかかります。
とりあえず今見ている作品でいうと「ジュウレンジャー」は圧倒的な公的動機、残りの「ボウケンジャー」「ニンニンジャー」「ドンブラザーズ」が圧倒的な私的動機の戦隊でしょうか。