明日の伝説

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『鬼滅の刃』レビュー〜ヒットの理由は理解できるが、個人的に今ひとつ刺さらなかった作品〜

今大ヒットしている作品の1つが『鬼滅の刃』なのですが、もっとブームが沈静化した後に批評を書こうと思っていました。
しかし、最近戦隊熱と同時にジャンプ漫画熱も自分の中で再び湧き始めていて、「ドラゴンボール」を熱心に再読しているのもその流れです。
そういうわけで今回は『鬼滅の刃』の漫画・アニメの批評を書きましたが、最初に書いておくとそんなにいい評価ではありません
つまらないというわけではないし、ヒットする理由も何となく理解できますが、私好みの作風や方向性ではない、というのが正直な感想でしょうか。


いい点と悪い点をそれぞれ述べ、最後になぜ私が本作に熱中することができなかったかについて述べていきます。
ファンの方々にとっては間違いなく気分を害するであろう酷評になっていると思われますので、この時点でブラウザバック推奨です。

 


【いい点】


(1)ペースが早くてサクサクと読める


まず物語のペースが早くてサクサクと読める、これが『鬼滅の刃』の魅力であり、長らく長期政権化していたジャンプ漫画の歴史を再び揺り戻してくれました。
単行本で全23巻ですし公式のファンブックまで発売されており、しかも各章毎に物語としてのハードルが設けられているというのがいいのではないでしょうか。
この「わかりやすさ」というのは作品にとって大事なことであり、本作はその点誰にとっても馴染みやすく読みやすいものになっているのが美点として挙げられます。
黄金期〜ポスト黄金期のジャンプ漫画、具体的には『ドラゴンボール』『ONE PIECE』『NARUTO』はわかりやすいのですが、40巻を超えるので途中で離脱する人も多いのです。


また、短く終わった作品の中でもきちんとラストのゴールを綺麗に締めることができずにグダグダで終わった作品も数多くあり、漫画家にとって物語を綺麗に完結できるかは大事でしょう。
その点でいえば、『鬼滅の刃』は最初にきちんと敷いたレールをきっちり走りきり、脱線や破綻・迷走などもなくしっかりゴール仕切ってみせました。
竈門炭治郎と鬼舞辻󠄀無惨の一騎打ちという形で締めたのも、その内容の良し悪しはあれど物語の落とし所としては順当なところではないかと思われます。
各章毎にゴール設定が明確化されているので、一気見にも向いているし、リアリタイムの連載でもストレスフリーで読めたことは間違いなく本作の長所でありましょう。


(2)誰にとっても取っつきやすいキャラクター像(特に煉獄さん)


2つ目に敵味方共にわかりやすく取っつきやすいキャラクター像が挙げられ、これもまた大ヒットに繋がった要因の1つです。
味方側であれば特に序盤ヘタレとして描かれていた我妻善逸は「弱いけど頑張るキャラ」という、「ドラゴンボール」のクリリンや「ONE PIECE」のウソップのようなアクセントになるキャラでしょう。
また、個人的にはいわゆる「THE・漢」という感じで描かれていた煉獄杏寿郎は正論を言い過ぎてしまうところが玉に瑕とはいえ、個人的にはとても好感度の高い男前でした。
というか、これは主人公の炭治郎をはじめ劇中の男性陣が割と感情をむき出しにしやすいからこそ、その反動で多くを語らない煉獄さんが余計にカッコよく見えるのもあるとは思いますが。


敵方の「」もファンが語るように1人1人のキャラ設定がきちんとしていて、「どうして鬼になったのか?」という背景設定がきちんと語られているのがいいところです。
ジャンプ漫画に限った話ではありませんが、特にここ最近の作品では「なぜそうなったのか?」というバックボーンの部分が設定されておらず、記号的に「悪だから倒す」している作品も少なくありません。
また、最初にそれをきちんと設定にしたにも関わらず話の中で迷走や破綻することも少なからずあるのですが、本作に関しては良くも悪くも迷走・破綻に関してはそこまで多く見受けられませんでした。
世界観が大正時代に出てきた鬼をやっつける和風ファンタジーという設定だからというのに頼らず、きちんとキャラの魅力を前面に押し出すという基本がしっかりできています。


(3)「理念なき悪」が本作の示した答え


最終的にたどり着いた答えは無惨がそうであったように、「真に悪い奴などいない」というのが最終的な本作の示した答えというべきものだったのかもしれません。
これは同時に後述する私に全く刺さらなかった理由にもなっているのですが、本作の「鬼」とは要するに「利己的な考えに走ったもの」だったということでしょう。
無惨の目的は「完璧な生物になること」でしたが、彼の行動には美学もクソもなく、よく言われるように現実世界のブラック上司やエゴイストのそれだといえます。
つまり言っていることとやっていることがまるで一致しておらず、その場の感情で動き気に入らないものは容赦なく排除するというクソオブクソでした。


少なくとも「ドラゴンボール」のフリーザ様や「ONE PIECE」のクロコ・ダイル、「NARUTO」の黒ゼツのような歴代ジャンプの存在感のある悪役に比べると、無惨はボスとして余りにも小物です。
現実に例えるなら無能な経営者のそれであり、パワハラをやった挙句に部下を使い潰し、挙げ句の果てに発狂しての自滅というのはなんともの情けないものでありました。
しかし、それはよくいえば「人間臭い」ともいうことができ、理念がないからこそここまで横暴な振る舞いができたという意味で、歴代でも類を見ない悪党であります。
とても悪役として魅力があったとは言い難いのですが、昨今の時代性になぞらえるなら「そもそも本当の意味での悪人なぞ存在しない」というのが無惨ら「鬼」を通して示された答えでしょうか。


【悪い点】


(1)戦闘シーンがわかりにくい(漫画版のみ)


まずこれはもうジャンプ漫画として見た場合の明確な欠点であり、本作は戦闘シーンが何をやっているのかわかりにくいという難点があります。
これはアニメ化によって改善された部分ではあるのですが、原作漫画を見る限りコマ割り・構図なども含めて迫力がなく、キャラがどんな風に動いているのかがわかりません。
例えば「ドラゴンボール」は戦闘シーンのコマ割り・構図が完璧で、スピード感やダイナミズムはもちろんのこと、キャラの動きが一発でわかるように描かれています。
全盛期の鳥山先生の画力あってのものという前提はありますが、魔人ブウ編まで含めてどのシーンのバトルも非常に分かりやすく迫力のあるものに仕上がっていました。


また、「ONE PIECE」「NARUTO」は画力や戦闘シーンの迫力こそ「ドラゴンボール」に敵わないまでも、その戦闘シーンにしっかり「キャラのドラマ」がうまく乗っかっています。
そのため多少戦闘シーンが間延びしたり冗長だったりしてもしっかり楽しめたのですが、本作は漫画版のみを見た場合だと戦闘シーンが何をやっているのかわかりません。
物語に重点を置いているのはいいと思うのですが、やはり戦闘シーンの格好良さはきちんとして欲しいところであり、これはアニメ版が頑張って改善してくれました。
特に炭治郎が覚醒するシーンはアニメ版だと中々の迫力に仕上がっていたのですが、原作漫画を見ただけだと何がどう凄いのかが全く伝わらなかったのです。


これは女流作家だからということではなく、単純に近年のジャンプ漫画と比較しても迫力がなく下手なので、なんぼストーリーがよくても戦闘シーンで気持ちが削がれてしまいます。
アニメから原作に入った人や往年のジャンプ漫画のバトルシーンを堪能した人にとってはお世辞にも満足の出来であるとは決していえないでしょう。


(2)ギャグシーンやコミカルな描写にセンスがない


これは漫画・アニメの双方に共通することですが、ギャグシーンやコミカルな描写にセンスがなく、かえって物語を阻害してしまっているというのが挙げられます。
シリアスなシーンは登場人物の気持ちに素直に入ることができために乗っかれるのですが、日常シーンだけならまだしも戦闘シーンにまで妙なギャグを挟まれると乗っかれません。
もちろん上記した国民的ジャンプ漫画の三大名作でも戦闘シーンなどでギャグが入ることはありますが、決して物語の流れを阻害するものではありませんでした。
特に善逸のギャグシーンに関しては善逸の変顔がくど過ぎ&大味過ぎて、狙ってやっていることとはいえ「ここで笑うのは無理」と思うことがしょっちゅうです。


それから炭治郎や富岡にまで変顔させるのは幾ら何でもやって欲しくなかったところであり、この「ほら、こうすればあんたらは笑うんでしょ?」という押し付けがましさが見えました。
そもそも炭治郎からして自分から積極的にギャグをやるキャラではなく、真面目に頑張っている姿が人によっては滑稽に映るから面白いのであって、自らウケ狙いに行く人ではないでしょう。
ギャグシーンの難しいところはアイデアが大事かつ物語の中で知的にコントロールしないといけないため、そのお笑いのアルゴリズムを外してしまうとただ寒いだけになってしまいます。
本作はこのシリアスとギャグのバランスやギャグの織り交ぜ方が全体的に不自然であり、「そこでこのギャグを入れる必要はないでしょ」というのが随所で目立っていました。


(3)主人公たちが言葉で内面を語り過ぎ


そしてこれが最も悪い点にして私が大嫌いだったのですが、主人公たちが言葉で内面を語り過ぎているというのも欠点として挙げられます。
もちろん子供向けのジャンプ漫画なのである程度説明台詞があるのは仕方ないのだと思いますが、戦闘中にまでベラベラと内面を喋っていると「戦いに集中しろや」と思ってしまいます。
それこそ、ロシアのガンダムファイターの「戦いの最中に無駄口を叩くのは素人だ」というありがたいお言葉を本作の登場人物についついぶつけたくなってしまうのです。
ボスクラスとの舌戦は構わないのですが、それはあくまで戦っている中で自然にボルテージが高まった結果起こるものであって、動いている最中に内面を語るのはむしろ雑念でしかありません。


また、本作はテンポが妙に早いせいか、主人公の次の言葉が余りにも薄っぺらくて私は辟易しました。

 

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炭治郎のこのセリフ、これだけを見ればかっこいいのですが、そこに至るまでの心境の変化や内面の掘り下げが浅過ぎて私は「どうしてその結論に至ったの?」と思ってしまったのです。
だって、炭治郎が鬼殺隊に入って鬼を殺しまくる理由の根っこにあったのは「妹を助けたいから」であって、そういった正義というのはゼロではないにしても後から形成されたものですよね?
別に後付けでも構わないのですが、炭治郎が明確に誰かに「影響を受けて」ここに至ったならともかく、炭治郎自身は技術面の成長はしても人間的に他者から影響を受けることはあまりありません。
そのため、日常シーンにしても戦闘シーンにしても、言葉で多くを語り過ぎているが故にかえって一言一言の重みがなく軽く見えてしまうというのがいただけないところでした。


【なぜ私が『鬼滅の刃』に熱中できなかったのか?】


(1)物語としてのハードルが低すぎる


一番気になったのはそもそも物語としてのハードルが低過ぎることであり、最初から23巻で短く終われるように敢えて規模を縮小させているように思えました。
上にも書いたように、炭治郎が戦う動機が「鬼にされてしまった妹を助けたいから」であって、それをゴールに設定した以上そんなに大きな物語にしなくても違和感はありません。
また、鬼殺隊が政府非公認の組織であるというのも、闇夜でのみ刀を振るい人知れず鬼退治を行うという設定であることに説得力が出ており、破綻は少ないのです。
しかし、やはりジャンプ漫画の醍醐味は「強さのインフレ」にあったわけであり、規模感を物語の中で拡大できるのもジャンプ漫画ならではの爽快感でありました。


例えば「ドラゴンボール」なら最初は単なるドラゴンボール集めだったのがピッコロ大魔王との地球の覇権争いに拡大し、その後サイヤ人編のベジータ、ナメック星編のフリーザという風に宇宙規模へ広がっています。
ONE PIECE」の場合は宇宙規模でのインフレは無理でも、ルフィたちが戦う相手がどんどん強くなるにしたがいギア・覇気・神への覚醒など上手いこと破綻のない範囲での強さのインフレを成功させているのです。
NARUTO」の場合も最初は小さな任務レベルだったものが第二部に入って里全体を守るように、そして終盤では五里全てが結集しないと倒せないというレベルにまで規模が広がりました。
本作もその意味では強さのインフレ自体はあるのですが、炭治郎たちの守っているものが小さ過ぎるために、そんなに大きな規模の戦いに見えないという物足りなさがあります。


確かにデフレさせたからこそ描けるバトルの醍醐味もありますし、それこそ中には「ジョジョの奇妙な冒険」「HUNTER×HUNTER」のように緻密な能力バトルで幅広く奥深いバトルやテーマを展開した作品もあるのです。
しかし、それらの名作群と比較しても本作は物語としてのスケールがストーリーと戦闘シーンの双方においてハードルが低く、見終わった後の充実感や達成感がいまいち感じられません。
時代性の違いと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、やっぱりジャンプ漫画たるものある程度規模感を大きくしてほしいというのはあるわけです。
かといって、上記したように規模を縮小してハードルを低く設定しただけの濃さがあるのかというとそういうわけでもなく、最後までいまいち燃焼率が上がりきらないままでした。


(2)覚醒シーンの格好良さがいまいち


2つ目に、肝心要の炭治郎の覚醒シーンがいまいち格好良くなかったからであり、この「覚醒」の要素を外されると流石に厳しいです。
ジャンプ漫画、わけても「ドラゴンボール」の超サイヤ人以後の伝統になっている「覚醒」という要素はあらゆる作品の中で継承されていく要素となりました。
うち「ドラゴンボール」の超サイヤ人孫悟空の覚醒シーンの魅力については以前にも記事にして語ったので省略します、是非合わせて読んでください。

 

gingablack.hatenablog.com


他にも「ONE PIECE」のルフィならば太陽神「ニカ」しかりエニエスロビー編でのギアしかり新世界後の覇気しかり、ここぞというタイミングでかっこよく覚醒しています。
また「NARUTO」のうずまきナルトも同様に中忍試験で最初に見せた九尾の力、第二部で手に入れた仙人モード、そしてそこから更なる六道仙人モードへの覚醒、いずれもがナルトの成長とともに示されていました。
スポーツ漫画でも「テニスの王子様」の無我の境地しかり3つの扉(百錬自得・才気煥発・天衣無縫)しかり「黒子のバスケ」のゾーンしかり、こういった要素は決して外せません。
本作の炭治郎も同様にアニメ・漫画共に覚醒シーンが描かれるのですが、いずれも往年の名作群に匹敵しうるほどの迫力が感じられませんでした。


何より覚醒してもなお敵とギリギリの戦いになってしまっているというのが「覚醒した割には大したことないじゃん」という風に見えてしまう要因ではないでしょうか。
やはり覚醒を大々的に描くからにはパワーアップした後の主人公は敵を有無を言わせず圧倒して欲しい、それも全力出して頑張ってる感じじゃなく余裕で全ての剣を見切って倒すぐらいの感じでいて欲しい。
下手ではありますが、「覚醒」とはそれだけバトル漫画においては非常に大事な要素であり、本作は残念ながらそのパワーアップイベントでも格好良さが感じられませんでした。
強いて言えば師匠を殺した裏切り者を倒す善逸はキャラの集大成としてかっこよかったのですが、あれは「覚醒」ではなく「集大成」という要素なので意味合いが異なります。


(3)敵に絶望感がない


そしてこれが最もハマれなかった理由は敵である鬼に絶望感がなかったことであり、(1)の物語のハードル設定の低さと併せて敵自体のハードルも下がっているのです。
例えばフリーザ様の場合は数万〜十万程度でイキっていたサイヤ人たちを相手に「戦闘力53万」と言い切り、そこから更に3段階もの変身を残していました。
そして最終形態になった時はもう悟空しか頼れるものがいなかった上、その悟空ですらも超サイヤ人という壁を超えなければ倒すことはできなかったのです。
クロコ・ダイルもそうで、ルフィが初めて戦った王下七武海という噂に違わず、政治から戦闘力、頭のキレまで凄まじい絶望感を持ち合わせルフィを何度も打ち負かしました。


ナルトの大蛇丸しかり暁しかりライバルのうちはサスケ然り、終盤のマダラと黒ゼツしかり「どうやったらこんな敵に勝てるんだ!?」というのがあったわけです。
そこを修行なり知略なり、持てる力を全て振り絞って限界を超えていくところが面白かったわけであり、だからこそかっこいい悪役として歴史に名を刻みました。
しかし、本作の「鬼」は最初から「日中では活動できない」という制約を与えた上、呼吸をしっかりマスターして強くなれば倒せてしまうような敵ばかりです。
最強にして最悪とされる無惨も、「人間臭い」という評価はできますが、「絶望的なまでに強い」というほどの迫力は感じられませんでした。


これはジャンプ漫画に限りませんが、スーパー戦隊シリーズでも仮面ライダーシリーズでも「強大な悪」というのが時代が下ると共に迫力を持ち得なくなりました。
現代において「悪」とは身近なところから現れるため、複雑化した「悪」を描かざるを得ないというのはあるでしょうが、だからといって最初から「主人公たちがちょっと頑張れば倒せます」はないでしょう
それがリアリズムといえばリアリズムなのかもしれませんし、破綻してないのだからいいではないかという意見もあるかもしれません。
しかし、それはあまりにも後ろ向きすぎる考えであり、上記した「理念なき悪」というのもこのことと決して無関係ではないでしょう。
その辺りがやはり往年のジャンプ漫画をしっかり堪能した上で本作を見た場合にどうしてもハマれない要因となってしまいました。


【それでも若者に受ける理由は何となくわかる】


上記したように、ジャンプ黄金期〜ポスト黄金期の作品群を堪能した上で本作を見てしまうと、どうしても物足りなさを感じてしまいます。
しかし、これらはあくまでも最終的には私個人の好みの問題であり、決して本作が悪いわけではなく、今の若者、特に女性にヒットしたい理由は理解できるのです。
内面を事細かに言語化してくれる主人公たちやそこまでインフレしない戦闘シーン、また人間臭く共感しやすい鬼の設定など日本の伝統芸能の「」の要素が本作には凝縮されています。
単にコロナ禍だからヒットしたわけでもアニメがよかっただけでヒットしたのでもなく、ヒットを起こすだけのポテンシャルは十分にありました。


あんまり作品を世代で括っていいわけではないとは思うのですが、昨今の若者の消費傾向からするといわゆる「軽く消費できてしまうもの」が好まれる傾向にあります。
本作はその意味で深みが特別にあるわけでもなければ、戦闘シーンが特別に歴代と比較して突出した凄みを持っているわけではありません。
また、時代考証や設定面なども決して完璧に詰められていたとはいえませんが、毎週買って読む分には気にならないくらいには読者を引きつける求心力があります。
何よりチャンバラ時代劇という、昔ながらの日本人のDNAに深く刻み込まれているジャンルであったことも馴染みやすさに繋がっているのでしょう。


ただ、逆にいえば「軽く消費できてしまう」ということはあと数年経ってしまえば「語られなくなる作品」となってしまう可能性もあります。
例えば一時的にその時代は大ヒットしたものの、時間が経って全く語られなくなり影も形もないという作品だって世の中にはごまんとあるわけです。
近年でいうならば細田守の「サマーウォーズ」や新海誠の「君の名は」なんて、公開当時こそ大人気でしたが、その後数年経ったらパタリと語られなくなりましたよね?
なぜかというと、これらの作品群は「初見で見るには面白い」けども「再見する価値がない作品」だからです。


映画に限りませんが、真の名作とはその時だけヒットするものではなく10年後も20年後も語られ続け、また随時新しい視点の批評が出る作品のことを指します。
先日紹介した「令和になって初めてドラゴンボールを見る人の反応」もある意味ではその一例といえ、真の名作とは時代や国を超える力があるのです。
しかし、本作は確かに近年の中では異様なまでのブームを巻き起こしているのは事実ですが、その魅力がまだきちんと言語化されきっていません。
いわゆる「鬼滅キッズ」と呼ばれる層や若い女性の間で単なる「そこそこ面白い作品」として消費されてしまっているという感じが否めないのです。


少なくとも近年の作品の中では間違いなく「オリジナリティ」がある作品でしたし、従来のジャンプ漫画とは違ったあり方でヒットした作品ではあるでしょう。
しかし、これが10年後も20年後も語られる程の普遍性を持ち得た作品であるかというと、少なくとも私が見る限りではそこまでの作品とは思えません。
また、現段階でも「鬼滅ならではの魅力」をきちんと言語化できている批評に出会えたこともなく、肯定するにしろ否定するにしろまだ十分な判断は下せないのです。
評価を敢えて今下すのならC(佳作)というところですが、よほど大きな何かがない限り私の中でこの評価が変わることはないでしょう。
ジャンプ漫画としての要諦は押さえられているものの、決して酔狂する程ではなかった、それが私にとっての『鬼滅の刃』という作品です。