明日の伝説

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「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」は鳥山明なりのヒーロー論

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B09NLTQC7W

最近東映特撮をはじめ、自分の中のアニメ・漫画熱が息を吹き返しはじめたのですが、その1つに実は今年の4月22日に公開される「ドラゴンボール超」の新作映画があります。
賛否両論あるかと思いますが、予告などから察するにここ数年鳥山明自らの手で「ドラゴンボール」連載当時にやり切れなかったことをもう1度果たそうという意思が窺えるのです。
それは正に富野監督が「Zガンダム」の新訳劇場版を直々に制作したり、庵野監督が自ら「エヴァ」を新訳するようなのと似たよう流れだと思っています。
「復活のF」で旧来ファンから呆れられつつも、その後力の大会→「超ブロリー」にかけて、鳥山先生も往年の輝きを取り戻しているかのようです。


そんな中で作られる映画の新作のタイトルは「スーパーヒーロー」、これまで「正義」「ヒーロー」という言葉を決して標榜しなかった「ドラゴンボール」がとうとう「ヒーロー」という言葉を標榜しました。
そしてまた、そんな新作映画の主人公が孫悟飯やピッコロである意味も含めて、鳥山明先生がこの新作映画で何を成そうとしているのかということの考察です。
似たようなことはドラゴンボールの大ファンであるYouTuber・BIX氏も語っているので、引用がてら動画を貼り付けておきます、気になる方はどうぞ。

 

youtu.be

 

 

(1)悟空とベジータはヒーローではなく戦闘狂


まず大前提として述べておきたいのは、悟空とベジータはヒーローではなく戦闘民族サイヤ人の生き残りであり、元侵略者であるという事実です。
意外と「ドラゴンボール」を評価・考察する時にこのポイントを忘れている人が多く、そのせいでこんなズレた解釈をする人までいます。

 

ameblo.jp

 

まずこの記事に限らず、私自身はこの人の書いてる記事が全体的に「私は鳥山明先生及びドラゴンボールのことをきちんと理解している真のファンなのよ」みたいな論調で大嫌いですが、それは置いといて。
単なるベジータ×ブルマのカップルファンで原作の魅力もろくすっぽ理解できていないことが丸出しのこの人が書いた記事で、特に違和感を覚えたのはここです。


もはや言い古されつつある、悟空の人間味のなさのネタ。20年経っても変わらない、読者と悟空のすれ違いに少し悲しくなってしまいます。悟空の地球への愛、悟空の故郷は惑星ベジータでは無く、地球です。その想いはこんなにも大きく深く重く悲しいものなのに、やはり読者にはまったく伝わらないのです。


もはや自分の解釈に酔い痴れているナルシシズム全開の文章でしかないのですが、私からすればそもそもその解釈自体が間違っているとしか言いようがありません。
悟空は「地球の平和を守る」という英雄的思想を持った人物ではありませんし、富・名声・社会的地位といったものに固執する人物ではないのです。
その点でいえば、まだBIX氏が述べている「悟空はただ強いやつと戦いてえだけの男である」という主張の方がよっぽど筋が通っているといえます。
地球に来て頭を打ったせいで本来のサイヤ人カカロットとしての凶暴な面が消えただけであって、元々悟空は少年期から人間味が淡白な人でなしだったのです。


それはベジータも同じであって、よくファンはベジータが地球に来て人間臭くなったとか言いますが、これも結局ベジータは単に地球の環境に自分を適応させただけだと思っています。
よく愛妻家や息子思いの「実はいい奴」風の評価をされがちなベジータですが、どんな悪党だって身内を大切にするのは当たり前でそれ自体はなんら矛盾することではありません。
それに、魔人ブウ編でも「超」でも「GT」でも、ベジータは悟空同様に地球の平和とか富とか名声とか地位とかを気にする人物ではなく、単にライバル認定しているカカロットと戦いたいだけです。
ベジータは味方だから地球にいるのではなく「敵」だから地球にいるのであって、逆説的ではありますが悟空を超えることでサイヤ人の王子としての誇りを守ろうとすることにアイデンティティがあります。


つまりこの2人の根っこにあるものはそれこそ石川賢漫画と似たところにある純粋な闘争本能であって、サイヤ人の誇りとか亀仙人から教わったこととかは全部後付けで手に入れたものでしかありません。
このことは魔人ブウ編のラストでベジータの口からはっきりと「なぜ悟空が強いのか?」という強さの源泉に関して言語化されています。


「守りたいものがあるからだと思っていた。守りたいという強い心が得体の知れない力を生み出しているのだと……たしかにそれもあるかもしれないがそれは今のオレも同じことだ…オレは、オレの思い通りにするために楽しみのために、敵を殺すために、そしてプライドのために戦ってきた……だが、あいつはちがう。勝つために戦うんじゃない ぜったい負けないために限界を極め続け闘うんだ!」


そう、ベジータは圧倒的な悟空との力の差を見せつけられ、強さの根拠が決して凡百のヒーロー作品にありがちな英雄的思想=「守るもののため」ではないことに気づいたのです。
私は正直このシーン自体はベジータが完全な悟空のマンセー要員と化してしまっている点で嫌いなのですが(鳥山先生としても不本意だったに違いない)、それでも悟空の魅力を再定義し言語化したという点では意味があります。
悟空もベジータも一般的なヒーロー論では語られない、ヒーロー作品の理屈に囚われずに強さを追求していった結果、今ある強さに辿り着いただけなのです。
だからファンからよく言われる「悟空はサイコパス」「ベジータが人間臭い愛妻家」というのはズレた評価であって、彼らは元々戦闘狂であり元侵略者でしかありません
それが環境の変化などによって結果的に正義のヒーローとライバルのようになっただけであり、元々彼らはそういうヒーロー作品の枠に囚われない人物だったのです。


(2)純粋なサイヤ人の戦いを再定義した前作「ブロリー

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2018年に公開されたドラゴンボール映画史上最高傑作と評される「ドラゴンボール超 ブロリー」は鳥山明先生が原作から一貫して紡いで来たサイヤ人の物語の集大成となった一作です。
下級戦士の生まれでありながら地球人として育った孫悟空、王族の生まれとしてベジータ一家の中でも稀代の天才・ベジータ、そしてその2人を潜在能力で上回る野性味のブロリー
純粋な戦闘狂であるサイヤ人3人に絞って改めて悟空たちがどのような戦いをしてきたかを原作やアニメの「Z」などの要素も吸い上げながら、最高傑作へと昇華しました。
具体的な作品評はまた別個書きますが、あの戦いは純粋な戦闘狂であるこの3人だからこそ可能だった規模の戦いを描いたわけであり、もっといえば原作のサイヤ人編の魅力を再生させた作品です。

 

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こちらのBIX氏の動画でも魅力が解説されているのですが、サイヤ人編の特徴はなんといっても「バトルの規模感の拡大」にあって、単なる地球内の小さい侵略の話に収まらない凄みがありました。
ピッコロ大魔王までは狭い地球の枠内で世界征服だのなんだのといった話でしたが、サイヤ人編で登場するベジータやそのベジータすらカス扱いできるフリーザは単独で星を滅ぼす力を持っています。
実際悟空のかめはめ波ベジータギャリック砲との撃ち合いを見ればわかりますが、ベジータはこの時「避けられるものなら避けてみろ!貴様は助かっても、地球は粉々だ!」というのです。
悟空は「考えたなー、チキショー!」と言いながら3倍界王拳かめはめ波を繰り出すのですが、ここで悟空が避けていたら間違いなく地球ごと破壊されてしまって一巻の終わりでした。


しかもそこに持って行くまでの流れも凄まじくて、まず悟空自体がそのベジータの10分の1以下の戦闘力しかないラディッツにゴミ扱いされ、ピッコロの魔貫光殺砲による心中という自己犠牲を選ぶ必要があったのです。
そこで界王様の元で惑星ベジータと同じ10倍の重力で修行を重ね、界王拳を物にすることでやっと戦闘力を8,000まで引き上げたわけであり、しかしそれでもベジータの戦闘力18,000とは大きな差がありました。
配下のサイバイマン、そしてナッパによってヤムチャ・餃子・天津飯・ピッコロと次々に戦士たちが散っていき、悟空が界王拳でナッパを圧倒することでやっと活路が見出せたのです。
その悟空ですら体にガタが来る界王拳を3倍〜4倍まで引き上げても簡単にはくたばらず、元気玉などを使っても殺せなかった辺りいかにベジータが恐ろしい存在だったかが窺えるでしょう。


つまり、サイヤ人編の時点で綺麗事ではないヒーロー作品の枠を超えた「殺すか殺されるか」という領域の戦いを描いていたのであり、地球の平和を守ったかどうかは結果論でしかないのです。
そんなサイヤ人たちが超サイヤ人ゴッド・ブルーの領域まで己を鍛え上げ、その上で小惑星バンパで過酷な生活をしてきたブロリーと戦うのですから、そりゃあもう綺麗事の戦いではありません。
ブロリーが大猿の力を解放しただけで氷が溶けて一気にマグマ地帯と化してしまうのですから、まさに「溶けた氷の中に恐竜がいたら玉乗り仕込みたいね」という歌詞通りになりました。
さらにその後父親のパラガスを失った悲しみと怒りによって超サイヤ人へと覚醒、そりゃあゴジータブルーでなければ手に負える相手ではなかったといえます。


純粋な戦闘狂3人によるサイヤ人編の超拡大版、それがこの「超ブロリー」で再定義された全盛期の「ドラゴンボールZ」の魅力だったのではないでしょうか。
悟空・ベジータブロリー、3人のサイヤ人の強さの根拠を示しながら、決して過去に囚われず今の自分たちが持てる最大の力を振り絞って戦う
殴る蹴るのやり合いだけで氷山が崩壊し、体内エネルギーを放出するだけで星をも破壊できてしまう、そんな純粋な力と技のぶつかり合いがサイヤ人編の魅力でした。
孫悟空ベジータが強いのは決してヒーローらしい思想を持っているからではなく単純に強さを渇望し、破壊神と天使の元で訓練を積んできたから強いということを鳥山先生は存分に描いたのです。
それこそが鳥山先生が最も描きたかったものであり、人造人間編や魔人ブウ編と違って抱えるべきもののない純粋な力のぶつけ合いこそが鳥山先生が描きたかったものだったのでしょう。


(3)「孫悟飯の物語」のリターンマッチである「スーパーヒーロー」


ではその「ブロリー」で描かれたサイヤ人編のリブートを経て、改めて人造人間編の設定を用いて作り直される今度の新作映画の企図は「孫悟飯の物語」を描くことにあるのではないでしょうか。
原作の人造人間編やハイスクール編・魔人ブウ編での描き損ねたことのリターンマッチであり、戦いのスケール自体は「ブロリー」からかなりパワーダウンするはずです。
そして戦いの意味合いも異なり、単なる力のぶつけ合いではなく「正義」「スーパーヒーロー」という言葉を予告でも標榜していたことから、いわゆる「思想戦」の趣が強いと思われます。
つまり、初めて鳥山明先生が「ヒーローとは何か?」「正義とは何か?」というハードなテーマについて、孫悟飯・ピッコロ・パンの三者を通して格闘する物語となるのでしょう。


よく「ドラゴンボール」の批判として挙げられるのが「主人公交代に失敗したこと」であり、これは確かに鳥山先生自身も失敗してしまった不本意な部分ではありました。
しかし、これに関してはそもそも鳥山先生自身孫悟飯を本気で主人公として立てる気があったのか怪しい部分、そもそも人造人間編以降の展開は引き延ばしによる蛇足の産物なのです。
人造人間編が本来2人だけ倒して終わる予定だったのを編集から散々ダメ出しされて引き延ばした結果、セルゲームで悟飯にスポットが当たって主役級の活躍をしたからそう見えるに過ぎません。
あの時は悟飯の怒りによる潜在能力解放という形でしか超サイヤ人の壁を超える方法がなく、もし他にいいアイデアがあれば悟飯ではなく悟空がこの役割を担っていた可能性があります。


それは魔人ブウ編にしたって同じことであり、ハイスクール編のみ一時的に悟飯が主人公だったのは物語の都合で悟空を退場させて他に主人公として動かせるやつがいなかったからです。
元侵略者だったベジータを主人公にするわけにもいかないし、トランクスを主人公にしてしまうとそれこそ「未来編で主人公やってたじゃん」と批判されることになります。
また悟天が主人公をやろうとしても完全な悟空の二番煎じになってしまい、悟空が天下一武道会で戻ってくるまでの一時的な主人公代理を務めたに過ぎません。
実際悟飯は鳥山先生にとって主人公として動かしにくい人物であったことはあのグレートサイヤマン〜アルティメット悟飯の迷走ぶりから伺えますし、「復活のF」の異様な弱体化に出ています。


だからこそ、鳥山先生としてももう1度「孫悟飯の物語」として、蛇足から生まれてしまった人造人間編〜魔人ブウ編の要素を集約させつつ「ヒーローの物語」として再構築しようとしたのでしょう。
実際「ドラゴンボール」の中で一番英雄らしい思想を持っていたのは他ならぬ悟飯であり、ハイスクール編のグレートサイヤマンの活躍を見ても、一番地球人の感覚で生きている人だといえます。
最初に書きましたが、悟空やベジータはヒーローではなく戦闘狂にして元侵略者だからこそ単なる思想戦の枠に収まらない「強いやつと戦いたいから戦う」というのが成立したのです。
そんな彼らにとって人造人間やセルとの戦いはさしたる興味の湧かないものでしょうし、何よりブロリーという最強のサイヤ人を知っている以上あんなしょぼい人造人間との戦いごときで満足できるわけがありません
だから、彼らが地球で悪者にされたってさほどのダメージを受けることはありませんし、なんなら家庭を留守にしてウイスさんの元でずっと修行に明け暮れていたとしても平気な連中ですから。


しかし、そんな父親たちと違って孫悟飯やトランクス、悟天は地球人としての生活があり、特に悟飯は父親として、そして学者として生計を立てながら立派に社会人として生きています。
そんな悟飯が父親たちのことで世間からの弾圧や風評被害に晒され、家族にまで危険が及んでしまったとしたらどうなってしまうのでしょうか?
悟空やベジータは「そんなもの興味がないからどうでもいい」としても、彼らの配偶者であるチチやブルマ、さらには他の関係者たちにまで被害が出てしまうのは確実です。
最悪の場合悟飯は家族を失い孤立してしまって、漫画版「デビルマン」のような展開になってもおかしくないわけです、まあ鳥山先生はそんな脚本書かないでしょうが。


だから、悟空やベジータが圧倒的な戦闘力の強さと引き換えに捨ててしまっている富・名誉・社会的地位といった世俗的な価値観を守る「ヒーローらしいヒーロー」の象徴である孫悟飯
今度の新作映画は初めて「ドラゴンボール」という枠で真正面から「ヒーロー作品」として描かれることになるわけであり、それまで鳥山先生が向き合ってこなかった要素に挑戦する物語となるのです。
逆にいえば今まで「ヒーロー」と銘打たずに世界的ヒットまで持って行ったのが凄いともいえますが、4月の映画公開に向けて改めて「ドラゴンボール」を原作漫画から読み直してみましょうかね。