明日の伝説

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ウルトラシリーズ第2作目『ウルトラマン』(1966)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B001FZSSRG

 

導入文

 

さて、かねてより計画していたのですが、スーパー戦隊シリーズと70年代ロボットアニメの批評をある程度投稿したので、リハビリも兼ねて別のシリーズを批評してみましょう。
今回取り扱うのはウルトラシリーズ2作目『ウルトラマン』ですが、私は正直ウルトラシリーズに関しては昭和の「タロウ」までしか見ておらず、子供時代の原体験もありません。
そのため、原体験ではなく大人になってから改めてウルトラシリーズに造詣の深い方に丁寧な紹介とガイドをもらって見たというのが初めてなので、戦隊シリーズほどの思い入れはないのです。
しかし、そんな私ですらも虜にしてしまう普遍性というか奥深さがあるのが昭和ウルトラシリーズの魅力であり、その中でもこの「ウルトラマン」は1966年にして最高峰のクオリティといえるでしょう。


それまでスーパー戦隊シリーズ仮面ライダーシリーズなどの勧善懲悪を基調とした東映特撮に染まっていた私にとって、それとはまた違う価値観で作られた「ウルトラマン」は非常に発見の多い作品です。
当時から現在に至るまで魅力という魅力は語り尽くされ、完全な古典的名作として評価も固まっているので、今更私ごときが大したことを書けるものでもないですが、それでも言語化したくなる魅力があります。
分けても大きな特徴は本作の主人公は決してウルトラマンではないということであり、あくまでもウルトラマンは外からやって来た異邦者に過ぎないというルールが一貫していることです。
これは東映特撮のヒーロー像とは大きく異なるものなのですが、ウルトラシリーズの原点にして、同時に前作「Q」のテイストを色濃く継承している本作の魅力ははたしてどこにあるのでしょうか?


(1)主人公はウルトラマンではなく怪獣たちと人類(科学特捜隊


導入でも書きましたが、私が主題歌を聴き本編の映像を見て感じた特徴として、主人公はウルトラマンではなく怪獣たちと人類(科学特捜隊という特徴が挙げられます。
まず主題歌の歌詞「胸につけてるマークは流星 自慢のジェットで敵を撃つ」という歌詞自体がウルトラマンではなく科学特捜隊のことを謳っているのです。
そして、実際にドラマの内容もウルトラマンではなく怪獣たちと科学特捜隊、あるいはその回のゲストキャラが中心であり、ウルトラマンは本当にここぞというところでしか出て来ません。
これは言うなれば「ドラえもん」のようなものであり、ドラえもんはあくまでも狂言回しとしてそこに存在するのみであり、主人公はのび太たち現代の小学生たちです。


なぜこのような構成になっているかというと、それは本作の世界観が前作「ウルトラQ」の延長線上にあるからであり、はっきりとヒーローものであるなどとは言われていません
前作「ウルトラQ」は人類が毎回ウルトラ怪獣と呼ばれる怪獣や怪事件に遭遇する構成になっていますが、この時代は怪獣が日常に現れること自体がそもそも「非日常」であり、驚きの対象だったと思われます。
だからこそ毎回どのような怪獣や怪事件に遭遇するか、そしてそれに人類がどういう反応を示すのかが面白かったのであり、本作はそこに科学特捜隊ウルトラマンという宇宙人の要素が加わったもなのです。
私は本作を見る前「ウルトラマンが怪獣や宇宙人を倒すお話」という雑な認識しかなかったのでいい意味でその認識を裏切るような奥深い世界観とストーリーに大人ながら夢中になりました。


科学特捜隊のメンバーもまた個性的で、特に隊長格や参謀格が好きな私にとって、ムラマツキャップの渋さとイデ隊員のひょうきんながらも硬軟両方を併せ持ったキャラクターはとても好みでした。
ムラマツキャップは「仮面ライダー」でおやっさんこと立花藤兵衛役を演じた名優・小林昭二氏の演技力も大きかったですし、イデ隊員役の二瓶正也氏の存在感が非常に魅力的です。
特にイデ隊員は最初こそ三枚目気質が多くズッコケのシーンも目立ちますが、それ以上に後半に入ると開発能力や作戦立案、またウルトラマンに関する葛藤・苦悩が色濃く描かれています。
また男勝りすぎず女性らしすぎずのバランスで描かれたフジアキコ隊員や責任感の非常に強いアラシ隊員など、少数精鋭の科学特捜隊のメンバーは今見ても非常にいいチームです。
そんな人類たちが最終的にはウルトラマンから自立し、ウルトラマンがいなくても地球を守れるほどの存在に成功していくまでの物語、すなわち「真の防衛チームになる」までの物語と言えます。


そして何と言っても成田亨氏がデザインを担当しているウルトラ怪獣たちがこれまた魅力的で、バルタン星人にしてもゴモラにしても、どのウルトラ怪獣をとっても一度見ると忘れないデザインです。
しかも文芸的にもきちんと怪獣がどういう生態なのかが描かれているために、単なる「やられ役」「かませ犬」などで終わらず、独立したキャラクターとしての存在感を誇ります。
中でもバルタン星人やメフィラス星人、またゴモラはかなり印象に残っていますし、またギャグではありますがスカイドンウルトラマンですらも手こずる強さに大笑いさせていただきました。
そのような懐の深さ、キャラクターの奥行きといったところがきちんとしているからこそ本作を娯楽作としても文芸作品としても最後まで楽しく見ることができるのです。


(2)ウルトラマンはあくまでデウス・エクス・マキナ


それではウルトラマンはどういう存在なのかというと、あくまでデウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)であり、本当にここぞという所でしか出て来ませんが、これには理由があります。
1つ目に、ウルトラマン自体が人類にとっても怪獣にとっても異邦者であり、本来地球にいない方がいい、というかいてはならない存在なので、滅多なことではその力を振るうことができません。
2つ目に、物語の導入の段階でたまたまの事故だったとはいえウルトラマンはハヤタ隊員の命を奪ってしまったわけであり、そのお詫びに協力するというニュアンスもありました。
しかも自分の命を最終的にハヤタ隊員を生き返らせるために惜しげも無く与えているのですから、到底地球人と怪獣にとっては理解し難い存在と言えるのではないでしょうか。


そして面白いのが、そんなウルトラマンが実は序盤の7話「バラージの青い石」で否定されていることであり、この回自体がそもそも終盤〜最終回の展開へ向けての伏線になっています。
アントラーを前にしてウルトラマンスペシウム光線が効かず全くの役立たずであり、アントラーにトドメを刺したのはムラマツキャップが取って投げた青い石でした。
あの回はウルトラマンが神様として、まるで宗教の神様であるイエス・キリストブッダのように扱われてしまうことのないよう、慎重に地雷を踏むのを避けたのです。
この時点で既に「ウルトラマンは必要ない」という否定のメッセージが込められていたといえ、それが本作を決して安易な勧善懲悪に見せていないことにも繋がります。


ウルトラマン科学特捜隊がどうしようもなくなった時や緊急の時に出て来て事態を収束させますが、実はその中で科学特捜隊がどんどん強くなっていくのです。
それがピークを迎えたのが37話「小さな英雄」であり、あの回のイデ隊員の葛藤とそこから導き出した答えはもう最終回に向けて1つのテーマが出来上がったのだと言えます。
だからウルトラマンがいなくても本作は話が成立してしまうわけであり、そのメッセージの集大成が最終回でウルトラマンを圧倒したゼットンを倒す科学特捜隊なのです。
あの回を「あっさり倒した」と評する向きもあったようですが、デウス・エクス・マキナ同士がぶつかり合ったらそのようになってしまうのは当たり前ではないでしょうか。


ウルトラマンは確かに最初のAタイプ、中盤のBタイプ、そして終盤のCタイプとどんどん優しい顔つきになりますが、あくまでも最後まで異星人であることは一貫しています。
少なくとも劇中で一度も手放しでウルトラマンを肯定したことはなく、最後まで金城哲夫先生をはじめ作り手はウルトラマンを肯定しないのが本作の優れたバランス感覚です。


(3)名作扱いされているけど納得の行かない佐々木脚本&実相寺監督回


そんな魅力的な本作扱いされている「ウルトラマン」ですが、どうしても納得の行かない回が2つだけあり、それが佐々木脚本&実相寺監督が担当なさった回です。
1つが「恐怖の宇宙線」、そしてもう1つが「故郷は地球」ですが、どちらも見せたいものが私の肌には合わず、明確に「嫌い」と断じてしまえるクオリティになっています。
まず前者ですが、この回はガヴァドンを作り出した子供の我儘を野放しにしてしまっており、しかもそのために子供達にウルトラマンを批判させるという胸糞悪い展開です。
これが単にクオリティが低いだけならいいのですが、佐々木脚本&実相寺演出回はクオリティが凄く高いからこそ、悪質に見えてしまいます。


確かにウルトラマンは異質な存在であり地球人と価値観も異なりますが、だからと言ってウルトラマンをああまで子供達から嫌われるように演出したのは明らかにやってはならないことです。
それを子供達の言うことも聞かず一方的に倒してしまい、しかも子供達の我儘を最後まで通してしまうあたり、悪い意味でこのコンビは子供たちを甘やかしているのだと映ってしまいました。
そして後者ですが、これは日本の悪しき風習が出てしまったところであり、ジャミラを露骨な被害者として可哀想に描いてしまうというのは私はどうしても納得がいかないというか腑に落ちないのです。
ジャミラとは言ってみれば日本が生み出す妖怪や幽霊と似ていますが、海外の悪魔と異なるのは妖怪や幽霊が多くの場合被害者根性から産まれた負の遺産という点にあります。


日本人はそもそも人権に対する意識が薄い民族だと言ってしまえばそれまでですが、障害者福祉などがそうであるように自分よりも劣った存在に寄り添っているようでその実バカにしているのです。
「為政者はいつもこうだ、文句だけは美しいけれど」とまるで政治批判のようなオチに持って行っていますが、この結論に持って行くこと自体に無理がありますし、もっと言えば水に弱い設定も必要ありません。
明らかにウルトラ水流で殺すことありきの設定であり、日本人特有の弱者を正当化してしまう文化の悪いところが出てしまい、形は違えどこれもまたウルトラマンを必要以上に悪く見せる演出です。
しかもこの「故郷は地球」はNHKや国語の授業でも題材として取り上げられることがあるそうですが、何を持って本作が名作なのかというと映像のクオリティの高さに騙されて脚本や設定の酷さが見えていないのでしょう。


念の為にフォローしておくと、私は実相寺監督と佐々木監督回自体は好きなものも多いのですが、個性が強烈な分当たり外れも大きく、その意味で上記の2作は完全に大外れして墓穴を掘った形となりました。
せっかくの名作にあまりケチはつけたくないのですが、私はこの2回だけは見直すのも苦痛であり、だからこそ手放しには褒められないというのが本作に対して引っかかっていることでもあります。


(4)「超越的な存在」を必要としなくなる世界の実現


最終回まで全てを見えて、1966年ながらに本作が素晴らしいのは「超越的な存在」を必要としなくなる世界の実現というメッセージが令和に入った今の時代でも十分に通じるメッセージだからです。
ところがこの素敵な最終回でも批判したがる人は一定数いるものであり、私が見つけた中にはこのような否定的な意見もありました。

 

「だったらせめて俺の命のハヤタにあげてくれ」と懇願するウルトラマンに対して
「命をふたつ持ってきたから、ひとつをハヤタにあげよう」とゾフィー
だから、最初からそうしていれば、地球の平和は人間だけで守ろうとしたし、ウルトラマンも39話分闘わなくて済みましたよね。
遅い、遅いよゾフィー。何もかも遅い。
ウルトラマンが地球でしてきたこと大体否定されて終わってしまった・・。


引用元:https://www.chove-chovo.com/entry/ultraman

 


この感想自体は確かに一理あります、確かにゾフィーは仕事が遅いせいでファンからは「無能」「弱い」なんて言われることもありますが、彼らはそもそも地球人とは違う価値観で動いている異星人です。
そして2つ目に、科学特捜隊ウルトラマンを超えるだけの力を手にするためには少なくともウルトラマンの存在は必要であり、何だかんだ人類にとって求心力だったからこそ成長できた側面もあります。
もし科特隊がウルトラマン抜きで戦っていたとしたら序盤数話で詰んでいた可能性もありますし、優れたメンターというか導き手の存在がなければ人が個人でできる成長には限界があるのです。
確かにウルトラマンは劇中で諸手あげて肯定されていませんが、人類がウルトラマンから独立して動けるようになるには38話分のウルトラマンとの共闘という形は必要でした。


本作に限りませんが、物語の中には「守破離」があって、序盤の段階では人類はウルトラマンを仰ぎ見ながら徹底的に守って戦い力を身につけていき、バラージの青い石から徐々に破っていきます。
そして37話の「小さな英雄」をもって完全に科学特捜隊ウルトラマンからの独立を果たしていたわけであり、でもこれらはウルトラマンという目指すべき高みにして超えるべき壁がいなければ実現できませんでした。
ウルトラマンにそのような自覚があったとは言いませんが、科学特捜隊にとってウルトラマンは自分たちを導き成長させてくれた存在であり、しかも最後にゼットンを倒したのが岩本博士というのも意味があります。
というのも、岩本博士役を演じているのは初代「ゴジラ」で芹沢博士を演じた平田昭彦氏であり、オキシゲンデストロイヤーという禁断の兵器を開発した流れのオマージュであるとも言えるのです。


そのようなメタ的な意味でも良くできており、またどんどん既得権益者が滅んでいる今となっては一周回って非常に普遍性のあるメッセージだったと言えるのではないでしょうか。
「超越的な存在」を必要としない世界への実現というメッセージがあったからこそ、以後のウルトラシリーズが様々なテーマを描いているのですし、東映特撮もまたいろんなヒーローを誕生させました。
単純にウルトラマンを否定するのではなく、ウルトラマンからの脱却・自立を果たすというテーマだからこそ、ウルトラマンの存在を肯定も否定も実はしていないというのが最終回に込められたメッセージかもしれません。
作り手が命を削って考えに考え抜いたからこそ、これだけ奥深い最終回が出来上がり、いまでも古典的名作として輝きを放っているのではないでしょうか。


(5)「ウルトラマン」の好きな回TOP5


それでは最後に「ウルトラマン」の中から好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…34話「空の贈り物」
  • 第4位…33話「禁じられた言葉」
  • 第3位…10話「謎の恐竜基地」
  • 第2位…7話「バラージの青い石」
  • 第1位…37話「小さな英雄」


第1話と最終回は殿堂入りなので敢えて外し、それ以外で選出しました。

 

それぞれ軽く説明すると、まず33話は佐々木脚本&実相寺演出の中では一番ぶっ飛んでいて好きであり、ウルトラマンでここまでのギャグが可能なのかと大笑いしました。
4位はウルトラマンメフィラス星人の駆け引きが素晴らしい名作回であり、ハヤタ隊員が出した「両方さ」という答えがこれ以上ない痺れるかっこよさです。
上位3つですが、10話はウルトラマンVSゴジラの擬似的な再現を行っていると同時に、様々な解釈の余地が生まれる名作回であり、非常に趣深い一作となっています。
2位はなんども説明していますが序盤の傑作回にして最終回の伏線であり、ここで実はすでにウルトラマンの力がなくても戦える科学特捜隊を描いているのです。
そして1位は本作の実質の最終回にしてイデ隊員の集大成でもあり、ある意味では最終回よりも大好きと言えるほどのレベルであるかもしれません。


基本的にどの回もクオリティーが高いのですが、中でも私の好みに深く刺さったのはこの5本という感じであり、どれも甲乙付け難い出来ですね。
正直ここだけでは物足りないクオリティであり、機会があれば全話感想を書いてみたい次第であります。


(6)まとめ


偉大なる原点にして、ある意味では全ての特撮作品の頂点といえる本作は何度見直しても奥深いメッセージや新たな発見があります。
初代こそが原点にして頂点など安易にいうつもりはありませんし、まだそこまで全てのウルトラシリーズを見ているわけではありません。
しかし、本作は前作「ウルトラQ」の基盤をしっかり継承しつつ、とても奥行きと深みのある世界観・ストーリー・キャラクターを創出しました。
その上で現代においても色あせることなく伝わってくるあの最終回の完成度は私が見てきたあらゆる特撮の中でも間違いなくトップクラスのクオリティでしょう。
できれば腰を据えてじっくり感想を書いてみたい一作であり、評価は文句なしのS(傑作)です。

 

ウルトラマン

ストーリー

S

キャラクター

S

アクション

S

カニック

S

演出

A

音楽

S

総合評価

S

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)