明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ第43作目『騎士竜戦隊リュウソウジャー』(2019)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/4091051723

スーパー戦隊シリーズ第43作目『騎士竜戦隊リュウソウジャー』はまたもや王道系のファンタジー戦隊という路線で作られた一作ですが、私は本作を初期から危惧していました。
まず、シリーズできちんとした実績を出せていない丸山真哉プロデューサーに加えて、脚本家も何処の馬の骨ともつかぬ山岡潤平氏…もうこの時点で地雷しかありません。
そしてそれは案の定外れることはなく、最初から最後まで悪い意味でトチ狂った地獄の闇鍋フルコースを食べさせられた気分であり、またもや歴代ワーストが更新されてしまったのです。
2010年代は「キョウリュウジャー」「ニンニンジャー」「キュウレンジャー」と世紀の大駄作レベルが次々と繰り出されましたが、本作もその仲間入りを果たしてしまいました。


ビジュアルからしてもはや何度目になるのかと言わんばかりの「ギンガマン」のn番煎じな上、その新しく打ち出されたはずの要素がどれもことごとく明後日の方向に行っています。
とはいえ、第一話だけを見たらそんなに悪かったわけではなく、「おお!なかなかの滑り出しじゃん」と思ってしまうほどに、そこそこキャッチーな始まりでした。
それがどうしてこのようになったのかは後述しますが、まあとにかく設定、キャラ、ストーリー、そして玩具販促の全てにおいてチグハグな作品だったことはいうまでもありません。
前作のルパパトが終盤の詰めの甘さを除けばかなり優等生のようなクオリティの作品だったというか、諸手あげて褒めたいレベルの名作だっただけに余計にそう思ってしまうのです。


「騎士」と名がついていたり、わざわざ師弟関係が個々の戦士に設定されていたりするために、最初は「継承」という要素を大事にしながら、丁寧に大河ドラマを紡いでいくのだと思いました。
しかし、その要素は序盤数話で完全に潰えた上、話の主軸もリュウソウ族とドルイドンの根源とかいう、スーパー戦隊シリーズではどだい掘り下げるのに無理な要素が終盤の角に絡んできます。
スーパー戦隊シリーズの中にはもちろんこのようなルーツに関する話を展開した作品がいくつかあるのを知っていましたが、そのいずれもが試みだけで失敗に終わったのです。
その上で本作は山岡氏をはじめとして、スタッフはほとんど力のない人たちばかりなので、そんなご大層なテーマを1年かけて紡ぎ出しニュースタンダード像を作れるほどの力はありません。


まあこんなネガティブコメントの雨霰なので評価としてはぶっちぎりの辛口で、大反省会となりますので評価の高い方や好きな方は閲覧注意です。
果たして本作の何がいけなかったのか、そして逆に王道とは何なのかを改めて反面教師として教えられた一作だったのではないでしょうか。
少なくともここ数年のスーパー戦隊シリーズの中で初期設定からの落差が酷かったシリーズは本作が断トツです。
敗因の分析は主に以下の4つとなりますので、1つずつ仔細に論じていきながら、「リュウソウジャー」が何であったのかを検討していきましょう。

 


(1)倫理観のおかしな戦士たち


まず1点目に挙げられるのはリュウソウジャーたちの倫理観のおかしさですが、これはもう歴代どの戦隊にも当てはまらない、悪い意味でのオリジナリティがあります。
本作をリアルタイムで見ていたとき、Twitterで「リュウソウジャーは自分たちをギンガマンだと思い込んでいるニンニンジャー」という評価が話題になりましたが、言い得て妙です。
コウたちリュウソウジャーはまるで自分たちを地球を守る使命を抱えた伝説の戦士だと思わされているアホばかりというような描写が序盤の1クール目で描かれています。
その証拠にコウは笑顔でういの頭をハンマーで叩いて記憶を無くさせようとしたり、ブラックのバンバに至っては人の大切な箱を切って破壊するというとんでもないことをしています。


こうした倫理観のおかしさは意図的に演出されており、それが悪い訳ではないのですが、問題はその倫理観のおかしいキャラクターに全く魅力が感じられないことです。
スーパー戦隊シリーズには大きく分けて2種類のキャラの表現があって、1つがヒーロー性重視、そしてもう1つが人間性重視であり、本作は前者を選んだのでしょう。
しかし、本作におけるヒーローがカッコいいのかというとそんなことはなく、もはやただただ思考回路が読めない頭のおかしい人というかサイコパスにしか見えません。
いわゆる70・80年代戦隊のような「狂気の闘争」でもなければ、90年代以降に見受けられる「意図された狂気」でもない、どっちつかずのものになってしまったのです。


最もこれは2010年代のスーパー戦隊シリーズの傾向を考えれば仕方のないことであり、2010年以降はいわゆる「正義そっちのけ」という感じの戦い方やヒーロー像が目立っていました。
公的動機なのか私的動機なのか、前向きに戦っているのか後ろ向きに戦っているのか、それすらもわからないような緩くてフワッとした餅や綿飴みたいな掴み所のないヒーロー像が続いたのです。
特にコウのキャラクターのあの天然なのか似非天然なのかよくわからないキャラクターは作り手も持て余していたようで、最終回まで見ても彼は何のために戦っていたのかわかりません。
そしてそれは他のメンバーも一緒であり、「仲間が大切」みたいなことだけ言っておきながら、その他にはまるで目を向けていないような杜撰さが最後まで目立ってしまいました。


つまり本作のヒーロー像の問題点は何かというと、リュウソウジャーのあやふやな倫理観やそれをベースにしたヒーロー像が「外の世界」との繋がりや広がりを持たず、内側で完結してしまったことです。
そのせいで、リュウソウジャーの世界観やヒーロー像がただの怪しい新興宗教で完結してしまった感じは否めず、物凄く狭い箱庭世界の話に終始するという陥穽にはまってしまいました。
過去作を挙げるまでもなく、駄作のセオリーを本作は辿るべくして辿った訳であり、それが見えてしまえば本作の評価はどう足掻いたって失敗作としか言いようがありません。
ではなぜそのような駄作のセオリーを本作が辿ることになってしまったのかを詳しく分析していきましょう。


(2)天秤に掛けること自体がおかしい公的動機と私的動機


(1)で指摘した倫理観のおかしさ、あやふやさは後半において顕著に出てくることになるのですが、中でもそのターニングポイントとなったのが38話での試練でした。
セトーはコウとカナロに「使命と仲間のどちらかを選べ」と言われてコウが「仲間」、カナロが「使命」と答え、その上で最終的に以下のような答えを出しています。


「力は欲しい。だけど、仲間と戦って手に入れるのは間違ってる」


そして最終的に「仲間とともに使命を果たす」という答えを出すのですが、この展開は「ニンニンジャー」の終盤並みに何が起きているのかがわからず、目の前で何が起きているのか全く理解できませんでした。
まず仲間=私的動機と使命=公的動機を天秤に掛ける時点でリュウソウジャーたちの頭の中が完全にバグってるとしか思えないのですが、その答えが「仲間とともに使命を果たす」というありきたりなものなのもよくわかりません。
そもそも仲間を私的動機、使命を公的動機とする分け方自体に何の意味があるのかがわかりませんし、スーパー戦隊シリーズでその展開はやっておくならせめて2クール目の終わりまでではないでしょうか。
もっと言えば、私的動機であろうが公的動機であろうが、リュウソウジャーのこの価値観の中には「守るべき人々・世界」といった広範囲のものが一切含まれていません


これが何を意味するかというと、リュウソウジャーとはすなわち「仲間の為なら使命を果たせるが、それ以外の為には動けない排他的差別主義の集団」ということです。
要するに仲間内で傷の舐め合いを繰り返しているだけの戦闘狂であり、自分や自分の仲間だけを守り、それ以外の気に入らない奴らは容赦無くぶち殺すことを意味します。
ある意味序盤からこの点に関しては一貫していたのでそういうものだと思えば一周回って楽しめるのですが、問題は「外との繋がり」による価値観の変化がないことです。
YouTuberのういと父親などゲストとの絡みはそれなりに描かれていたはずなのに、リュウソウジャーには印象的なサブキャラクターが誰一人としていません。


普通伝説の戦士という設定ならそこは異世界からやって来た者たちが外の世界の人たちとの交流を経て絆を強め、より使命感を強固にしていくということが大事なはずです。
しかし、歴代でこのハードルをきちんとクリアできているのは「ギンガマン」位しかなく、あとは「ゴセイジャー」「ジュウオウジャー」と似たような設定で軒並み失敗しています。
だからこそ本作ではその世界観をどう拡張するかが見どころだったはずなのですが、拡張するどころかその短所を正当化し最後まで貫くという「ガオレンジャー」方式を選んだのです。
ガオレンジャー」も価値観が非常に狭い閉じたものである上に後半は奇跡まで起こしていましたが、本作も同じように負のご都合主義を貫き、その結果が後述する要素で悪い方向に結実してしまいます。


(3)善悪の相対化ならぬ善悪の逆転


本作が最終章で出した答えは「ゴセイジャー」で見られた「善悪の相対化」をもっと推し進めた「善悪の逆転」であり、ここでリュウソウジャーとドルイドンのルーツが語られることになります。
ドルイドンのラスボスとして出て来たエラスを生み出したのはリュウソウ族であり、そのリュウソウ族の生き残りを駆逐する為にドルイドンやエラスは生み出されたとのことです。
問題はドルイドンはともかくエラスが全くの「悪」に見えないことであり、更にいうなら主人公たちが所詮は「自分のため」という私的動機の領域を超えなかったことです。


おそらく作り手は「ウルトラセブン」で賛否両論の「ノンマルトの使者」を下敷きにしたものであり、意図したかどうかはともかくそうした過去作が敢えて超えなかった一線を超えたつもりなのでしょう。
それを戦隊シリーズで問うことの是非もそうですが、何よりもこのような問題と向き合うにはあまりにもリュウソウジャーとドルイドンのキャラの積み重ねが全くできていません。
こういう展開をやるならやるで構いませんが、それならばリュウソウジャーが戦いの中でもっと「ドルイドンは本当に悪なのか?」を深刻に問い、答えを出させるべきではないでしょうか。


ところが、リュウソウジャーは最終回でそれに全く向き合うことなく目を逸らし続け、エラスと戦う理由があくまでも「仲間」「未来」といったことしか口にしません。
つまり先祖がやった血塗れの歴史に絶望するのでもなんでもなく、ただ臭い物に蓋をして綺麗事で自分たちのやらかして来た悪行を糊塗しようとするどこぞの上級国民(笑)と同じです。
ある意味日本人らしいと言えば日本人らしい発想ですが、そんな悪い意味での現代日本の若者の姿を無批判に肯定してしまうのは絶対に子供向け番組としてやってはなりません。
いくら倫理観がおかしな連中を描きたいにしてもやっていいこと悪いことはあり、本作は最後まで主人公たちが「ミーイズム」にばかり快楽を見出しているのはどうかと思うのです。


歴代戦隊で私度の高い戦隊というと「未来戦隊タイムレンジャー」がありましたが、あの作品はあくまでも「世界を守る戦い」ではないからこそラストの各自の決断に基づく最終決戦に説得力があります。
かなりのパラダイムシフトを起こした「タイムレンジャー」ですが、あの作品では最初から大人向けとして筋の通った世界観、ストーリー、キャラの構築がしっかりしていたので違和感がありません。
しかし、本作ではエラスの「地球を作り直したい」という、とても悪とは言い難い明確な動機に対してリュウソウジャーはそれらを薄っぺらい「仲間との絆」で否定しようとするのです。
なんだか大学教授から問題行動を散々起こして注意された飲みサーの学生が「楽しければそれでいいじゃん」と言ってる様を見ているようで、要するに「赤信号みんなで渡れば怖くない」でしかありません。
結果として、単なる狭い陽キャの「ウェーイ」な学生サークルの内輪話に終始してしまい、そこから壮大なスケールの大河ドラマに広がることが全くありませんでした。


(4)まるで連動性がなく広がり切らない設定、キャラ、ストーリー


このように、本作も結局は過去の駄作群が辿って来た失敗作のセオリーをほぼそのままなぞったような作品となってしまい、設定もキャラもストーリーも一切広がらずに終わってしまったのです。
騎士竜とは何か、リュウソウ族とドルイドン族の違いは何か、わざわざ師匠から継承することを設定した意味、リュウソウジャーと騎士竜の絆などいくらでも美味しく描ける設定はありました。
しかし本作はそれらをきちんと丁寧に扱い、1つ1つを細かく掘り下げて壮大な展開へ繋げるのではなく、短所に短所を重ねた挙句に目を背けて表向き運命を変えた風を装っていることです。
まさに上にも書いたようにリュウソウジャーとは「自分たちをギンガマンだと思い込んでいるニンニンジャー」であり、この評価こそが本作の全てを表しています。


要するにギンガマン風のビジュアルのエッセンスを装いっていながら、その実倫理観をはじめキャラクターもストーリーも全てにおいて連動性がなくあやふやな点は「ニンニンジャー」を継承しています。
ニンニンジャー」の場合酷かったのは結局ダメ祖父の傀儡であることを脱却しきれず、運命を変えた風を装ったことでしたが、これもまさにそのようなラストだったのではないでしょうか。
まあ本作の場合は主人公たちが都合よく自分たちの先祖がやって来た所業から目を背け続けて来たことですが、そんな奴らが勝ってしまうラストもある意味ではそれに相応しいものだったのかもしれません。
ただし、そのことと新たなヒーロー像として魅力的かどうかということは全くの別問題であり、そのようなヒーロー像をきちんと理解して受け止められる、共感できる人はほとんどいないでしょう。


別にぶっ飛んだストーリーやキャラクターを作るならそれで構いませんが、ぶっ飛んだ世界観にもそれ相応の一貫性やルールは必要であり、それは初期設定と描写の積み重ねがどれだけ強固にできたかによるのです。
本作はその初期設定と描写の積み重ねにことごとく失敗してしまったのであり、アクションにしても文芸にしても「王道を装った変化球の作品」というひねくれたことをしようとして失敗するという典型でした。
連動性がなくても楽しめるという人もいるのでしょうし、アクションはそれなりに派手なためにビジュアルだけでも楽しめる人は楽しめるのでしょうが、そのビジュアルすら過去作の劣化でしかありません。
戦隊シリーズには「作品」としての評価と「商品」としての評価がありますが、本作に関してはどちらにおいても完全に失敗した最下層ランクを更新した作品ではないでしょうか。


(5)まとめ


前作「ルパパト」の変化球から王道系に回帰した本作は表向き王道を装いつつ、その中に大胆な変革(笑)を試みようとした作品ではありました。
しかし、そのほとんどが実は過去作で失敗したものであり、まさに本作は先人が試みようとしたけど敢えてしなかったことをやってしまった例だと言えます。
別にそれ自体を悪いとは言いませんが、そんな難題に挑戦し成功させられるだけの力量を持つ人は少なくとも本作においては1人としていません。
ドルイドン殺しの罪から逃れ続け、仲間内で気持ち悪く馴れ合っているだけのリュウソウジャーのサイコパスぶりは一生記憶に残るでしょう。
そういう意味では成功といえば成功なのかもしれませんが、私にとっては何の魅力も感じられないカスであり、総合評価はF(駄作)of F(駄作)です。

 

騎士竜戦隊リュウソウジャー

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

F

カニック

F

演出

F

音楽

F

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)