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スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー10作目『超電磁マシーン ボルテスV』(1977)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00M91709M

さあ遂に来ました、我が人生のバイブルの1つである『超電磁マシーン ボルテスV』…本作に関してはもう冷静になれないくらいに高評価かつ大好きな作品です。
ロボアニメも含めいろいろなヒーロー作品を見て来ましたが、個人的にはそれこそギンガマン」「Gガンダム」「エクスカイザー」に匹敵するバイブルといえます。
リアルタイムで見ていない世代にも関わらず、本作が打ち立てた世界観、ストーリーの普遍性は現代においてもなお古びないレベルではないでしょうか。
その上で、ロボアクションも最高峰、年間のストーリーや設定が最初から最後までしっかり一貫性をもって完成されているなど、70年代ヒーロー作品の中で最高峰のクオリティです。


好きになった要因は色々ありますが、何と言っても天空剣Vの字斬りがめちゃくちゃかっこいいことと最終回の濃密さに全てが集約されるのではないでしょうか。
実際フィリピンでは本作は国民的アニメと言っても過言ではないレベルの傑作としてムーブメントを巻き起こしましたし、その熱が未だに覚めません。
もちろん当時は前作に比べて玩具売上も伸び悩み、更に視聴率も芳しくなく、目先の結果だけを見れば決して順風満帆とはいえなかったでしょう。
しかし、本作がなければそれこそ後の「ガンダム」で起こした革命や大河ドラマ方式に基づく作劇のロボアニメは生まれなかったと断言します。


そして個人的に最もハマった要素は5人がきちんとボアザン星人との戦いに備えて臨戦態勢で準備して来たプロフェッショナルの戦士たちという設定を出していることです。
基本的にズブの素人が力を手にすることが多いロボットアニメにおいて、本作は最初からきちんと訓練したプロとすることで少年少女がしっかり戦えることの違和感がありません。
しかもそれだけではなく、人間味が感じられるような別の動機も設けられており、似たような設定で始めたグレートマジンガー」の二の舞を回避することができたのです。
本稿では前作との比較も踏まえつつ、改めて「ボルテスV」がロボアニメ史やヒーロー作品の歴史にどんな功績を残したのかを私なりの視点で分析してみましょう。

 


(1)公的動機と私的動機が対等になった作品


まず本作を改めて見た時に私が思ったのは「公的動機」と「私的動機」が完全に対等になった作品ということであり、これはさりげなく大きなパラダイムシフトです。
マジンガーZ」をはじめ、それまでのロボアニメは基本的に「公的動機」、すなわち「人々がそう望んだから戦う」という作品が多かったのではないでしょうか。
それこそ前作「コン・バトラーV」にしたって、豹馬たちがキャンベル星人と戦ったのは自分の意志よりも、それを国や世間が求めるから戦ったという意味合いが強くあります。
また、それこそ70年代のアニメ史に残る傑作「宇宙戦艦ヤマト」はそれこそ公的動機(地球を救う)から大胆に私的動機(愛する人のため)へとシフトした作品です。


本作はそうした歴代ロボアニメの蓄積を踏まえて、「公的動機(=地球の平和を守る)」と「私的動機(=剛健太郎博士を取り戻す)」が完全にイコールで結ばれました
何かとプロフェッショナルチームとして優等生じみた気質のボルテスチームですが、そこで剛兄弟の3人に共通する私的動機に「父親の剛健太郎博士を取り戻す」があったのです。
これは「グレートマジンガー」の失敗を踏まえてのことだといえますが、剣鉄也と炎ジュンには公的動機はあっても私的動機と呼べる要素は皆無でした。
強いて言えば、終盤で浮上した「兜甲児への嫉妬」が挙げられますが、この動機自体がラストになって唐突に付け加えられたしょうもない動機であるのは否定できません。
そもそも、世界の運命をかけた戦いなのにそんなしょうもない個人的動機を咄嗟にもってくる失敗ぶりは戦隊シリーズだと「ジュウオウジャー」に匹敵するダメダメ具合です。


だからといって、単なる公的動機だけでは前作のガルーダのインパクトの前に霞んでしまった豹馬たちコン・バトラーチーム同様に影が薄くなり、単に消化試合をこなすだけでしかありません。
そこで本作は立ち上がりの段階で剛兄弟の母親にしてボルテスチームの司令官の片割れである剛光代を2話の段階で死なせ、更に2クール目で浜口博士すらも死去させているのです。
その上で父親である剛健太郎との束の間の対面、更に新しく司令官となる左近時博士の存在などをしっかり挟むことで、安易な「父を訪ねて三千里」のドラマに終始させず、重みを持たせています。
公的動機に匹敵するレベルの強烈な私的動機を設定し、それ自体をボルテスチーム、特に剛兄弟の戦う動機としたのは実に鮮やかな手法と言えるのではないでしょうか。


だからこそ剛たちボルテスチームのメンバーが決して没個性になることも空気になることもなく、バックボーンのしっかりしたキャラクターになったと言えます。
この「公的動機に匹敵する私的動機」は同年の「ザンボット3」を手がけ、本作の演出にも参加していた富野監督をはじめとする製作陣が強烈に意識していたことではないでしょうか。
剛健一らボルテスチームは単に地球の平和を守るだけではなく、それと同じくらいに大切な私的動機があったからこそ、それを信じて最後まで戦うことができたのです。
これを年間の縦糸として通すことができただけでも、本作は十分に傑作と評するに相応しいクオリティの作品になったのだと思われます。


(2)70年代最高峰のロボアクション


2つ目に挙げられる点として、やはり70年代最高峰のロボアクションという要素が本作最大の美点として挙げられるのではないでしょうか。
一番の理由はやはり天空剣Vの字斬りに代表される「〇〇剣××斬り」という剣の必殺技の元祖を作り上げたからなのですが、それだけではありません。
本作では前作同様にきちんと各ボルトマシンの活躍が描かれていますし、またボルテスファイブ自体のパワーアップもきちんと折に触れて果たしています。
特に超電磁ボールを生み出す中盤の3話連続での強化話は非常にうまくできていて、よくぞこれだけリアリティのあるパワーアップをできたものだと思うのです。


また、17話の左近時博士の特訓に代表されるように、安易なロボの武器強化だけに終わらせるのではなく、ボルテスチーム全員の連携を強化してすらいます
左近時博士はスパロボシリーズでも厳しい鬼軍曹として描かれていましたが(「スパロボA」などはその典型)、決して非情だとか冷血だとかいうわけではありません。
きちんと健一たちへの思いやりはありますし、彼らの私的動機である「剛健太郎博士との再会」という要素を無遠慮に踏みにじったり否定したりしないのです。
厳しいといってもきちんと筋の通った厳しさであり、「愛情に裏打ちされた厳しさ」として描かれているわけであり、決して厳しいだけの頑固親父ではありません。


こうしたドラマ性のあるロボアクションが単なる「イベント」「消化試合」で終わることなく、しっかりと一貫性を持って意味付けされていたのが見事です。
また、これは終盤で明らかにされますが、実はボアザン星人とボルテスチームが実は同じ科学技術を力の源として戦っていることが明らかになります。
言うなれば「ダイターン3」と同じで、本作は「仮面ライダー」が抱えている「敵と同じ力で戦う」という背景設定がきちんと背骨にあるのです。
これらのバックボーンの強固さが3クール通して貫かれているからこそ、ここまでクオリティの高い作品となったのではないでしょうか。


本作以前で剣というと「グレートマジンガー」のマジンガーブレードが連想されますが、あちらよりもボルテスチームのが遥かに洗練されています。
マジンガーブレードはあくまでもとどめを刺す前の「つなぎ」であるのに対して、本作は「つなぎ」ではなくきちんとした必殺武器に昇華されているのです。
だからこそ本作は70年代の作品の中でも最高峰のロボアクションを見せてくれたと言っても差し支えないのではないでしょうか。
少なくとも本作に匹敵するレベルのロボットプロレスはなかなかないので、本作はその点もきちんとできていたと言えます。


(3)視点の拡張性


そして、これはファンの方があまり指摘しないことですが、本作は最後まで見て行くと「視点の拡張性」が1つの特徴として盛り込まれて行くのが挙げられます。
最初は単純に地球の平和を守っていれば十分だった健一たちが途中から自分の中にある「ボアザン星人の血」が流れていることを知ると、安易にボアザン星人を敵対視しなくなります。
スパロボシリーズではあまり再現されないのですが、私は32話で健一がジャンギャルを殺すか殺さないかで葛藤するシーンで言う次の台詞が印象に残りました。


「わかってくれ一平!奴らが俺達をどう扱うかは、俺達もよく知っている。しかし、だからといって俺たちが奴らと同じ真似をしていいという法はない!ボルテスファイブの誇りにかけてもだ。たとえ、敵と味方に分かれていても、流れている血の色は同じだ!この俺の血と同じように…」


後半で健一たち剛兄弟が実は半分ほどボアザンの血が流れていること、そして父親の秘密や正体を聞かされた上で、健一たちの価値観に大きな変化が起こるのです。
それこそが正に上のセリフに代表されるような「悪を憎み、ボアザン星人を憎まず」という展開になるのですが、でもそれで安易にボアザン星人を許すこともしません。
健一たちは後半〜終盤にかけて、単なる消化試合ではなくもっと奥にあるボアザン星人の「本質」を、血と肉たらしめる部分を見つめていくようになっていきます。
その展開があるからこそ、健一たちの視野はどんどん広がっていき、最終的には「地球の平和」のみならず「ボアザン星の平和」もまた救うようになるのです。


(1)で述べた公的動機と私的動機の兼ね合いも含め、どんどん健一たちの視野が広がり、単なる「疑わしきは罰せよ」という一方的な勧善懲悪から脱却しようという動きが見られました。
それが後述するボアザン星人の悪の本質ともリンクしていきますし、また同年に「ザンボット3」を手がけていた富野監督たちサンライズスタッフにも多大な影響を与えていきます。
スーパー戦隊シリーズで見ても、例えば1985年の『電撃戦隊チェンジマン』などは正に本作が終盤で成し遂げた「視野の拡張性」という視点をしっかり盛り込んでいるのです。
ボアザン星人を決して簡単に信用こそしないけども、たんに「侵略者だから殺す」のではなくもっとその奥にあるものを見つめていこうとする動きはとても大きいのではないでしょうか。


それと同時にこれは偉大なる革命作「宇宙戦艦ヤマト」を超えた瞬間でもあり、本作はいわゆる家族や肉親との情をテーマにしながらも、決して「愛」で片付けることはなかったのです。
地球の平和を救う構造は「ヤマト」も本作も同じなのですが、「ヤマト」が最終的に打ち出したのは「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない、愛し合うことだった」でした。
もちろんそれはそれで1つの回答であり、作品のテーマとして間違いではないのですが、それでも戦う敵の「悪」の本質が何であるのか、主人公が立ち向かうべき問題に関しては向き合えていません。
結局愛という「個」の関係に落とし込むことでラストは解決したのですが、本作では「個」ではなく「全」へと物語を拡張していくことによって、スケール感の壮大さを打ち出していきました。


(4)本作の最終回が示した「悪」は「社会(世界)そのもの」


そして最終回、本作が示したボアザン星およびボアザン星人の悪の本質とは「社会(世界)そのもの」であり、そのような仕組みを作る社会そのものと健一たちは戦うことになるのです。
ボアザン星の「悪」のラスボス皇帝ズ・ザンバジルは設定こそ強大な悪のようですが、中身は歴代ラスボスの中でも屈指の俗物であり、小さい頃に受けた差別・迫害を今度は自分がしていました。
要するに「ミイラ取りがミイラになる」というものであり、そのザンバジルの怨念がボアザン星の搾取型の社会構造を作り上げ、ハイネルたちを操って裏から殺そうと企んでいたのです。
演出手法としては古典的な時代劇の手法とも言えるのですが、最終的に「差別・迫害を作り出してしまう社会そのもの」という構図と立ち向かう健一たちの図式が浮き彫りになりました。


この構造がしっかり背骨にあるからこそ、ラストのハイネルと健一たち剛兄弟が同じ剛健太郎という父親の血を分けた腹違いの子であるという衝撃のラストがドラマとして映えるのです。
単純にヒーローとヴィランが実は同じ血を分けたもの同士という設定だけなら割とありがちですが、本作ではそこに上流階級が下流階級を差別・迫害するという社会的な仕組みの問題を背景設定に据えています。
そうすることで単なる肉親のドラマに終わるのではなく、「そうさせてしまった社会が悪い」という落ちへ持って行ったのは見事な因縁の決着だったのではないでしょうか。
しかもそれで終わるのではなく、健一たち剛兄弟とハイネルは決して和解することなく、またハイネルとカザリーンも結ばれることなく無残に散ってしまうことになるのです。


本作はその意味で決して「善悪の相対化(あるいは逆転)」をしているのではなく、また「ヤマト」が打ち出した「愛し合えば万事解決」という結末にもしていません。
寧ろ「愛」で解決させたいためにこそ光代母や浜口博士、岡長官の死という重い代償が描かれているわけですし、またハイネルやカザリーンが愛で結ばれるには多くの者を殺しすぎました。
そんな者たちが最後に安直な肉親の情や愛で結ばれ解決できるということがあってはならないのであり、その辺りの一線の引き方・守り方がしっかりしているのが本作です。
この壮大な社会の背景設定と登場人物の等身大のドラマの絶妙な連動性こそが本作の最終回で1つのピースとして見事であり、ロボアニメおよびヒーローものの最終回として1つの到達点と言えるでしょう。


これは同時に前作「コン・バトラーV」が解決できなかったキャンベル星人の悪の本質そのものの問題を本作なりの形でしっかり伏線を貼って解消したことにもなるのです。
最初から基地が鳥型だったのもボアザン星に向かえるようにするためですし、第1話からそこに向けて大枠を形成していたので、年間通して非常に芯の強い物語となりました。
ここまで描き切ったからこそ本作は現在においてもなお普遍性のある傑作となったわけであり、フィリピンでは国民的アニメとして評されるほどの人気作となったのです。
そして本作が打ち出した「そうさせる社会(世界)そのものが悪い」という構造は後に富野監督が手掛ける「機動戦士ガンダム」という伝説の傑作へ受け継がれていきます。


(5)「ボルテスV」の好きな回TOP5


それでは最後に「ボルテスV」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…28話「父 剛健太郎の秘密」
  • 第4位…32話「ジャングルの追跡」
  • 第3位…17話「愛も涙もふりすてろ!!」
  • 第2位…22話「裏切り者の計画」
  • 第1位…最終話「崩れゆく邪悪の塔!!」


まず5位は一切ロボアクションも何もない語りだけで成立させた名作回として、非常によくできています。
次に4位は上記した健一の名言が炸裂する、ボルテスチームの視野の拡大と最終回へ向けての大きなジャンプアップを可能にした回です。
3位は浜口博士なき後のボルテスチームを左近時博士が鍛え直し、本作のヒーロー像をより強固なものとしました
2位はハイネル様に反逆を起こそうとするド・ズールの最期が描かれた密度の濃い傑作回であり、これ自体も終盤の伏線となっています。
そして堂々の1位は殿堂入りの最終回、この回無くして「ボルテス」の魅力を語ることはできません。


本作は年間のアベレージがとても高いので選ぶのに苦労しましたが、その中でも個人的に好きな5本といえばこちらのものが挙げられます。


(6)まとめ


本作は前作「コン・バトラーV」で培った基盤や要素を継承しつつも、1つの大河ドラマとしての連続性や大筋を持たせることに成功した作品です。
ロボアクションも高いクオリティのものを打ち出し、プロフェッショナルである健一たちにも共感しやすい私的動機を持たせることで親近感も演出しています。
そして終盤に向けて健一たちがどんどん視野を広げていき、最終回で血と肉たらしめている悪の本質を炙り出すことで、1つの到達点にたどり着いてみせました。
宇宙戦艦ヤマト」ですらも成し得なかった「社会(世界)そのもの」と戦う健一たちボルテスチームの勇姿とハイネルの悲劇の業は間違いなく歴史に名を刻みました。
総合評価は言うまでもなくS(傑作)、「マジンガーZ」から連綿と続いてきた70年代ロボアニメの集大成ともいえる本作はまさに王道中の王道を行った「光」の作品です。

 

超電磁マシーン ボルテスV

ストーリー

S

キャラクター

A

ロボアクション

S

作画

S

演出

S

音楽

S

総合評価

S

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)