明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ22作目『星獣戦隊ギンガマン』(1998)39・40話感想

 

第三十九章「心のマッサージ」


脚本:きだつよし/演出:辻野正人


<あらすじ>
作戦失敗続きのバットバス軍団はダイタニクスの心臓部をマッサージさせて復活させる為に、非常に上手なマッサージ師を見つけて巨大化させようと魔人バズガスを繰り出す。一方でヒュウガがまたもや離脱してしまったギンガマンは新たに戦いへの決意をする中で、ヒュウガへの憧れから生じた未練を断ち切れないでいるサヤが訓練中に足を挫いてしまう。勇太に柔道が得意な忍というマッサージ師を紹介してもらい、カウンセリングしてもらったところサヤは張り切りすぎだと指摘される。そんな中、バルバンの襲撃を知らされサヤがそこに行くとリョウマたちが風船のように体積を膨張させており、サヤもまたマッサージ師をかばって巨大化するのだった。


<感想>
さて、前回のヒュウガ離脱の話を受けて今回はサヤの話であり、脚本はのちに「仮面ライダー響鬼」の前半や「仮面ライダーウィザード」でライターを担当するきだつよし氏。
あまり表に出ない戦隊ショーの脚本を務めることの多い人ですが、この回やのちの四十七章の脚本を見るに、どうにも完璧超人型の昭和ヒーローへの憧れがあるっぽいです。
話としてはサヤが十四章以来の足を挫いたパターンなのですが、今回はそこから「足を挫いても、健気に頑張ります」路線へ持って行こうとする形になりました。
また、今回は「カクレンジャー」以来となる戦隊メンバーが巨大化するパターンで、いうまでもなく元ネタは「ウルトラマン」の巨大化するフジ・アキコ隊員です。


とはいえ、この「足を挫いたって頑張ります!」みたいな「アタックNo.1」「エースをねらえ!」に代表される健気なスポ根少女漫画路線をギンガマンでやって映えるかと言われると微妙。
「足を挫いても頑張る」というと、戦隊シリーズでは丁度現在同時進行で感想を書いてる「ジェットマン」のホワイトスワン・鹿鳴館香がそうですが、あれが映えたのは素人だからです。
正義感もゼロで戦いの覚悟も身体能力も弱く、歴代戦隊でもおそらく強さでいえば最下層に位置するであろう彼女がそれでも懸命に頑張る姿が視聴者の共感を呼びました。
しかし、本作は素人ではなく3,000年間も臨戦態勢でバルバンとの戦いに備え続けたプロ中のプロたるギンガマンであり、頑張ることは「当たり前」です。
むしろここで足を挫いてしまったのはサヤが自己管理ができていないからということになってしまい、作劇としてあまり褒められたものではありません。


まあ一番サヤらしいなあと思ったのが「よくも私を大きくしてくれたわね!」魔人を握りつぶそうとする描写なのですが、ここで握りつぶしていれば、ある意味戦隊の歴史が変わっていたかもしれません(笑)
また、見所としてはリョウマたち男性陣が風船みたいに膨らんでしまいながら、それでも戦闘民族として生身で戦う姿であり、どんなに太っていてもあくまで戦闘民族であるという姿勢は変わらないのです。
思えば「シンケンジャー」ですら、ピンチに陥ると動けないことが多い中で、ギンガマンは動けなくとも何とかしようとすることが多く、改めて優しさの奥に潜む使命感の強固さが浮き彫りになっています。
それから、抑制薬でリョウマたちを戻す時に大砲代わりに獣撃棒を使うというのも、三十七章のガレオパルサー同様に奇跡的に納得できる解決法ではありました。


「心をほぐして、常に自分らしくか」
「それが戦いに勝つ秘訣、どんな戦いでもね」


これがどうやら今回のメッセージのようですが、ギンガマンはそもそも第一章の段階で「自分らしく戦う」なんて領域をとっくに通り越したプロで出来上がっているのです。
それから半年をかけて黒騎士との対比を通してギンガマンの正統派ヒーロー像は浮かび上がり、第二十五章まででリョウマが公と私のどちらを取るかという試練もクリアしています。
その上で二十六章の炎の兄弟があるわけであって、つまり第二十六章でもうギンガマンのヒーロー像は1つの完成を見ているわけですよ。
だからハヤテたちもとっくに「自分らしさ」なんてもので葛藤する意味がないくらいに公私の双方でブレがなく、そこが私が本作を好きな理由でした。


だから、今回改めてサヤのヒュウガへの思いを取り上げたことは良かったと思いますが、そこからどうして健気な昭和スポ根路線へ話が飛躍したのかがわかりません
何より、こういう黒騎士関連の話で最も重要度が高いキャラクターはギンガレッド・リョウマが担っているので、入り込む隙間がないんですよね。
それだったらいっそのことサヤはヒュウガへの憧れと別路線で立てた方がいい気がするのですが、どうにもそういう方向でキャラ立てができなかったのか。
内容としては可もなく不可もなしといった出来でしたが、きだ氏が提唱する昭和ヒーローへの憧れと本作が提示するヒーロー像にズレがあり、どうにも時代錯誤な話になってしまった感じ。


個人的にサヤメイン回はあまり好きではないのもあって、最終的な評価はE(不作)となります。


第四十章「哀しみの魔人」


脚本:小林靖子/演出:辻野正人


<あらすじ>
心臓マッサージ作戦に失敗したバットバス軍団はもう後がないと地球に迫ってくる彗星のエネルギーを捉え、それをダイタニクスに注ぎ込むことで復活させる作戦をビズネラは提案する。しかし、それを実現する為には捨て駒となる魔人が必要であり、バットバスは「あいつなら死んでも構わない」と老いぼれとなった魔人デギウスを出撃させることにする。一方ギンガマン側では稽古をサボり気味だったヒカルが目に見えてやる気を出し、自主的に稽古に取り組むようになった。そんな矢先、バルバンが暴れているとの情報を聞きつけたギンガマンはデギウスと戦うが、ギンガイエローがデギウスと一緒に洞窟へと落ちてしまう。


<感想>
さあ来ました、二十九章以来となるヒカルメイン回ですが、この回は個人的に静かだけれども大好きです。
辻野監督の叙情的な演出もさることながら、ヒカルが一気に大人のステージへと登った回でもあり、脚本・演出ともに非常にクオリティの高い話となりました。
まず冒頭ではバルバンが地球にやってくる彗星を引き寄せてダイタニクス復活に使うのですが、その為に使い捨てされるのが今回の魔人デギウス。


「なるほど、あいつなら捨てても惜しくはない」
「なんであろうと惜しくはねぇよ。ダイタニクスの為ならな」


バットバスとゼイハブのコメントがもうあからさまに強烈な悪の美学を表現しており、本作の悪はあくまでもどんな命であろうと粗雑に扱われるというところにあります。
また、地球に彗星がやってくるという展開も本来なら超展開のはずなのですが、本作ではバルバンが普通に天変地異を軽く起こせる奴らなので、全く違和感がありません。
彗星を吸収する装置というのも第二十九章で使われていたアース吸収装置の応用のようなものだと思えばいいのではないでしょうか。


さて、その一方で自主的にやる気を出し始めているのがギンガイエロー・ヒカルですが、ヒュウガと離れたことでまたもや「自分がしっかりしなきゃ」という自覚が芽生えたのでしょう。
そこからデギウスとの戦いにもつれ込むのですが、今回のドラマの見どころはここからの2人の交流にあります。


「何で俺を助けたんだ?」
「俺の最期の相手だからさ。てめえこそ何で俺を助けた?」


ここでヒカルが星を守る使命のため、ダイタニクス復活を阻止するためだと語るのです。
そして改めてデギウスはヒカルに自分もかつて星を守る戦士だったことを語ります。


「俺も昔、そんな目をして星を守っていたんだ」
「え……!」
「すげえ昔だ。だがな、戦うたびに大事なものがなくなっちまうんだ、親や兄弟や故郷なんかがな。坊やもそうじゃねぇのか?何だかバカバカしくなっちまってなぁ、気がついたらバルバンに入ってたって訳だ」
「全部失くしたからって、星もそれを守る自分も捨てるのかよ!?いいのかよそれで!?やり直せよ!!星を守る戦士に戻れよ!!」
「そうするには俺は人を殺しすぎた。元に戻ったんじゃあ虫がよすぎるんだよ!」


ここで改めてデギウスの出自が語られるのですが、彼の場合はいわゆる黒騎士ブルブラックのIFというよりはギンガマンのIFなのかなと思います。
もう1人の黒騎士ブルブラックは今第三勢力として裏で密かに訓練中のヒュウガとブクラテスであり、デギウスはまだ星を守る戦士までは失っていなかった模様。
ここでヒカルの「全部失くしたからって、星もそれを守る自分も捨てるのかよ!?」という言葉が強烈に響きます。
本作が提示して来たのは「公も私も守るヒーロー」なので、それとは真逆にひたすら自己犠牲の道を歩んできたデギウスとの対比が浮かび上がるのです。


また、ヒカルが年少者でデギウスが老人という構図もおそらくは意図的に組んだものであり、こうした少年兵と老兵のやり取りだとアムロとラルを思い出します。
そこから本格的な戦いに至るのですが、デギウスはいわゆる「昔取った杵柄」というやつで、ヒカル相手でも決して隙を見せません。
しかし、星を守るためにずっと仲間も人も星も大事にして戦い続けてきた最前線の戦士とバルバンに堕ちてしまった老兵では最後で差が出ました。


「雷一掃!!」


久々に出るヒカルの一撃で勝負はつきますが、ここからが更に切ない展開です。


「強ええな坊や、俺の負けだ。遠慮はいらねぇ、トドメを刺しな」
「お前は敵なんかじゃない!お前の技はあんなに真っ直ぐじゃないか!俺にはわかる、あれはバルバンの剣じゃない!星を守る剣だ!」
「……!」
「残ってるんだよ、戦士の心が。もう一度星のために戦えよ。まだ遅くない」
「坊や」


ここでヒカルがデギウスを説得にかかるのですが、この説得のフェイズでもリョウマ、クランツのどちらとも異なるものです。
ヒカルは少年兵だからストレートに言葉をぶつける以外にはなく、しかしこれこそが最もヒカルらしい説得の仕方と言えます。
普通の戦隊ならそれこそデギウスが味方化するルートもあり得たでしょう、それこそ荒川脚本ならそうしている可能性もあるのです。
しかし、本作は決して甘くはない、一度バルバン側に堕ちてしまったら相応の報いを受ける以外にはありません。
案の定ビズネラが後ろからバルバエキスを流し込み巨大化させてしまうのです…是非ともこのシーンを覚えておきましょう。


しかもビズネラはコントロール装置をつけているために、かつての鋼星獣と同じような状態になってしまいました。
ここで改めてビズネラの悪どさを強調しつつ、この後に待ち構えている悲劇の最期のフラグをどんどん回収しています。


「死なせない!やり直すんだ!戦士として!」
「坊や、危ねえっ!」


しかし、結局のところデギウスは悪事に加担させられたままで終わってしまい、黒騎士とは違い完全なバッドエンドに突入したのです。
結果的に魔獣ダイタニクスが復活してしまうのですが、よりにもよってダイタニクス復活を果たしたのが「元星を守る戦士」というのが皮肉でした。
もちろん成功したゼイハブたちはついに願ったり叶ったりで祝賀モードなのですが、一方でギンガマン側はもう悲惨な思いです。


「すまねえ、結局俺は星を裏切り続けちまったな」
「デギウス――――!!」


ギンガマンとは違い星を守る戦士としての生涯を貫き通せず、自己犠牲でしかその人生を終えることができなかったデギウス。
この対比があまりにも切なくて、黒騎士とデギウスで大きく違うのは「復讐」という要素がそこに絡んでいないことでした。
しかし、ギンガマンとの差を分けたのはそれが「公も私も守る」ではなく「公のために私を犠牲にする」という戦い方です。
だからこそブルブラックと違い星を守る戦士に戻ることは許されず、あのような最期を遂げる以外にはありません。


「デギウスみたいな奴は一人で十分だ。バルバンは絶対に倒す!!」


ここでヒカルに声をかけて慰めようとしたサヤをハヤテが制止する演技もよく、下手な慰めは今のヒカルのためにならないと見ています。
少年から大人へというヒカルの成長に伴いそこに「痛み」が出てくるというのが非常によくできたところです。
大人になるということは何かを失うこととセットであり、ヒカルの場合もまたハヤテなりヒュウガなりが甚振られる場面を前にして成長してきました。
しかし、ハヤテもヒュウガも最終的に助けてきたヒカルがバルバンの老兵だけはどうあっても救うことができず、無力感に苛まれるのが秀逸。


単に「ギンガマンがこうなったかもしれない」というIFだけではなく、「復讐」という要素がない自己犠牲の戦いというものを示しています。
本作が凶悪なのは何度も書いていますがヒーロー側ではなくヴィラン側が自己犠牲をしている、もしくはそれを敵側が強いているところです。
この「何もかもを投げ打って戦う」という姿勢は昭和の特撮ヒーローが持っていたものであり、また高度経済成長期の大人たちのメンタリティでした。
世代で考えてみると、デギウスはいわゆる必死に働き続けてきても報われなかった大人世代の象徴だったとも読み取れます。


そうみるとバルバンとはある意味でいうと自己犠牲型ヒーローのダークサイドとも取ることができ、その逆を行くギンガマンのヒーロー性が強調される形に。
まさにリョウマが黒騎士に言ってみせたように「何もかもを犠牲にして勝ったとしても、その後に何も残らない」のであって、デギウスはその袋小路に陥った者でした。
黒騎士のように最終的に救われる者がいる一方で、今回のように救われない者がいることを示すことで、改めてギンガマンの世界観はシビアでハードだと示されています。
評価はもちろんS(傑作)、これを受けた上で残りのダイタニクスらバルバンとの決着や第三勢力のブクラテスとヒュウガの関係性がどういう決着になるのかが楽しみです。

 

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