明日の伝説

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スーパー戦隊シリーズ22作目『星獣戦隊ギンガマン』(1998)7・8話感想

 

 

第七章「復活の時」


脚本:小林靖子/演出:田崎竜太


<あらすじ>
勇太は星獣たちが仮死状態に陥った現実を受け入れられず、失意のどん底にいた。リョウマたちは必死に諦めることなくアースの力で星獣たちを蘇らせようとするも、あまりにも小さすぎてまるで効果ががない。バルバン側では、星獣の死という状況に浮かれていたサンバッシュに対して、ゼイハブが「あくまでダイタニクスが復活するまではぬか喜びだ」と釘を刺す。どうせなら死んだ星獣の肉体をバラバラに砕いでダイタニクス復活の生贄にしてはどうかとなり、タグレドーと兄・トルバドーガ向かうことになる。そんな彼らの作戦を食い止めるギンガマンだが、リョウマが自在剣機刃を出した途端、勇太が持っていた石から凄まじいエネルギーが機刃に流れて、リョウマは吹き飛んだ。


<感想>
さて、来ました…ギンガイオー誕生編の後編、前半の基礎土台がここまでで完成します。


前回、そして今回とやはり大筋が動く回になると味方側ではリョウマと勇太が頭一つ抜けて目立つわけですが、その中でもリョウマは既にこの時点で「炎の戦士・ギンガレッド」としての覚悟と決意を固めています。
小林女史がメインライターを務める戦隊のレッドは常に試練に晒されるわけですが、リョウマはもう既にこの段階から「命を失うかもしれない」というリスクを既に背負っていたわけですよね。
それこそ前回の星獣がそうであるように…そしてそれを優しく健気に見守る勇太少年が狂言回しであると同時にある種のヒロインのような役割を担うようにもなります。
第一章と第五章で示された「炎の兄弟」の関係と同時にリョウマと勇太の擬似兄弟の関係性もしっかり築き上げ、その上でハヤテたちも各自の役割を果たしているのです。


また冒頭のシーンで注目するべきは、失意のどん底に落ち込んだ勇太をなだめすかすようにフォローする晴彦…気難しい息子を気遣いつつ、単なるロマンに夢中なおっさんだけではないとフォロー。
絵本作家だと判明したのですが、こういうところできちんと「父親」として描かれているのが好きで、「タイム」「シンケン」でもそうでしたけど、小林女史が描く父親って短所はありつつもいい父親が多いですね。
ゴーゴーファイブ」でも小林女史が描いた回だと巽モンド博士が比較的(←これ重要)マシに見えましたし…戦隊に出てくる父親はロクなのがいない中で、青山晴彦はなんだかんだいい父親だなと。
中盤までは息子から素気無く扱われる彼ですが、後半〜終盤に向けてどんどん垢抜けてカッコよくなっていきますので、その辺りも楽しみに。


バルバンは星獣が仮死状態になったことで思わぬ部分的勝利を得るも、ゼイハブはあくまで「ダイタニクスの復活が目的だ」としっかり釘を刺し、この辺りのバランスが絶妙です。
目先の短期的な利益に一喜一憂してしまうサンバッシュに対して、あくまで長期的な利益を見据えて大局的にも俯瞰で物を見るゼイハブとの違いとなって現れています。
そう、ゼイハブって一見荒くれ者に見えながらも、理性的かつ冷静に対処しているので、単なる暴れて満足の脳筋なドウコクとは違うのです。
そこでタグレドーの兄であるトルバドーが出て来て、兄弟セットで星獣の死体を粉々にする作戦に移行するのですが…あれ?この兄弟どっかで見たような?


待てよ、タグレドーが赤+カブト、そしてトルバドーが青+クワガタ…あ、これってゴウライジャーじゃん!
まあもっというと「ビーファイターカブト」だったのかもしれませんが(小林女史は同作品にサブライターとして参加していた)、その辺りのセルフパロディもあるのだろうなと。
で、そんな兄弟たちの作戦を妨害しつつ、ギンガマンギンガマンでアースの力を使って星獣を復活させようとしますが、あまりにも小さすぎてできません。
それもそのはず、あくまでギンガマンの5人が人間サイズで使えるアースの力は微々たるものであり、星の力のごく一部に過ぎないのだから。
ここできちんと「アース」が神秘の力でありつつも、決して万能なチート兵器ではないことが示され、第四章に続いて物語上の制約をきちんとかけています。


その上で星獣の死体を石にしようとした甲虫兄弟の作戦の妨害にも説得力が出るのですが、自在剣機刃を出した瞬間に勇太が持ち出したギンガレオンの星の石からエネルギーが流れてギンガレッドが吹き飛ぶ。
その際リョウマはある赤いシルエットの幻覚を見るのですが、モークの分析によれば、星獣たちが秘密にしていた自在剣機刃の力とは膨大な星の力そのものを受け止めるというものだった!
つまり星獣が秘密にしていたのはギンガマンたちがその機刃の力を使った反動で命を落とすのではないかと心配していたからであり、何と優しい星獣たちよ!(涙)
どこぞの大獣神や三神将やガオゴッドらは星獣たちの爪の垢でも煎じて飲みなさいまったく…理不尽な戦隊の神様が多い中で、星獣たちの人格者ぶりが光ります。
やはりギンガマンたちが優しい戦士だからこそ星獣たちも優しいんでしょうね…と同時に、自在剣・機刃が武器以外のもう1つの役割も果たしていることで意味付けが補強されました。


星獣復活のためには、星獣の星から流れる膨大なアースを受け止める必要があるという、のっけから凄まじい試練…うん、歴代戦隊でこれに耐えうる戦隊ってどれだけあるんでしょうね?
しかし、同時にこれは3,000年もの間臨戦態勢で戦う力を研鑽してきたプロ中のプロであるギンガマンだからこそできたことだと思うし、それだけ思想的にも肉体的に十分に研ぎ澄まされているのです。
だからこそ「命を失うかもしれない」というモークの制止も振り切って、脇目も振らずに使命に一直線のギンガマンの本質がここで見えてきます。
非常に気高い魂とそれに見合う戦闘力を持つギンガマンですが、全ては「星を守る」というその一点のみにあり、ここまで地球を守ることに対して素直で純粋な戦隊はないでしょう。
だからこそ、勇太少年の悲痛な叫びとそれに対するリョウマの答えがストレートに響くのです。


「もしリョウマたちまで死んじゃったら、僕どうすれば…!」
「そうさ、俺たちは死ぬわけにはいかないんだ……必ず生きて、星獣たちと一緒に、新しい力を手に入れてみせる」


ここで改めて勇太のヒロイン性とリョウマのヒーロー性が示されていて特にリョウマの「死ぬわけにはいかない」「必ず生きて」という言葉に注目してみましょう。
リョウマは第三章の冒頭で以下の言葉を戦いの動機として掲げていました。


「俺たちは必ず地球を守る!そして平和になった地上にギンガの森を戻すよ」


そう、第三章の段階でリョウマたちは「バルバンを倒して地球を守る」という大義と同時に「平和になった地上に故郷を取り戻す」という身近な目標まで宣言しています。
これを歴代スーパー戦隊シリーズでいうならば「自己犠牲を否定する」ということ…使命に前向きで前のめりでありながら、そのために自分を犠牲にするということをしない。
「死んでも構わない」ではなく「死なずに未来へとつなぐ」戦いであり、リョウマが口にしたそのスタンスはギンガマン全員の思いであり、同時にスーパー戦隊シリーズの歴史を大きく変えるものです。
現在感想を書いている「ジェットマン」がその流れの源流を作ったと言えますが、あの作品は「死んでも構わない」という自己犠牲前提の戦いを完全には否定できませんでした
ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」の杉村升メインライターも何だかんだ自己犠牲が必須でしたし、「カーレンジャー」「メガレンジャー」でも完全に否定しきれていません。


本作ではその点自己犠牲をしない形でヒーローが「公」も、そして「私」も同時に満たせるような土壌をここですでに作っているのです。
リョウマの「自己犠牲や復讐」に基づく戦いではなく「前向きに未来を生きる」ための戦いというスタンスは2クール目の黒騎士編以降にも大きく影響しています。
それをしっかり実現するために3,000年もの間戦闘力を磨き上げ、心も磨き上げ、外の世界の情報収拾も欠かさずに戦っているのです。
そしてもっと素晴らしいのはそんなリョウマの覚悟に影響を受けた勇太が星獣復活のエネルギーを集めようとしたバルバンの作戦を阻止したこと。
それまで基本的に「視聴者代表」にして「力無き一般市民の象徴」だった勇太が自分の覚悟と星獣からもらった力でギンガマンを守るヒーローになる展開がいいのです。


この勇太君のヒーロームーブがあるかどうかで今回のクオリティが天と地の差があると言っても過言ではなく、また単に超越的な存在のギンガマンだけが活躍して終わるわけではありません。
民衆には民衆なりにできることがある、生きるための最善を尽くすことができるというのをしっかり描くことによって、ギンガイオー復活への大きな布石となっているのです。
そしてリョウマの言葉通り、星獣を仮死状態から見事に復活させたギンガマン…結果的には「ダイタニクス復活」と「星獣復活」で対比されていましたが、今回は勇太君がMVPとなりました。
この瞬間をもって自在剣機刃が単なる武器から「ギンガマンと星獣をつなぐ絆の象徴」として機能し、以降の回で使わなくなっても大丈夫なようにしています。
この辺りの意味付け、定義づけをしっかり行った上で、リョウマが叫ぶ。


「大転生!銀星獣!」


星からの大いなる力を受け取った星獣たちはまさに新しく生まれ変わり、銀星獣へ転生してそのままギンガイオーへと合体しますが、この合体シーンもまた神秘的。
CGを使っているのですが全然安っぽい感じがなく、またギンガレオンとギンガリラの変形機構がよくできており、1号ロボ初登場のカタルシスとしては最高です
単なる決戦兵器として出てきたのではなく「死と再生」というイニシエーションを経ての登場なのが物語をより盛り上げるのです。
しかも合体直後でいきなり銀凱剣を所持しているというところがギンガイオーの殺意を感じさせるところであり、コックピットも「カクレンジャー」のそれから発展させたシンプルなもの。


そして初登場となるギンガイオーですが、銀凱剣・銀河獣王斬りとガルコンボーガン・流星弾で立て続けにトドメを刺し、見事な1号ロボデビューを飾って最高のカタルシスとなりました。
あれほど失意のどん底にあった勇太とリョウマたちに大きな笑顔が戻り、この話までで「ギンガマンなるもの」の基礎土台はきっちり固まり、最高の完成度です。
第一章から提示してきた要素を全てギンガイオー登場のカタルシスという形に集約させ、ギンガマンとバルバンのドラマを非常にいい塩梅で展開しています。
また、その中でリョウマたちの戦う動機も定義し、奇跡を起こすには用意周到な積み重ねが必要であることを示した上でうまいことここまでもってきました。


幾分リョウマ中心であったとはいえ、本作ここまで無駄という無駄がなく、しかもこの後はさらにボルテージが高まりもっと面白くなっていきます。
一号ロボの必殺技が剣よりも弓武器という差別化も見事で、バルバンを何が何でも殺すという使命感の強さを体現していました。
総合評価はS(傑作)、非常に段取りや根回しがしっかりしていて、ここまでミスというミスがなくきていていい感じです。


第八章「愛情の料理」


脚本:武上純希/演出:田崎竜太


<あらすじ>
ゴウキの手料理に飽きたヒカルは「たまには外の料理が食べたい」と街に出ていた。近くでひったくり事件が起こったので犯人を取り押さえたが、後から追ってきた女性のシェフに犯人と勘違いされ取り押さえられてしまう。ヒカルはレストラン・ロニオンと呼ばれるお店に入ったが、そこにいたのが何と先ほどの女性シェフだったのだ。女性の名は静子と言い、ヒカルに席に座るように言うと手料理を振る舞う。その料理はヒカルが食べた中でギンガの森で母親が食べさせてくれた味を思い出し、また静子としてもヒカルに対してやや屈折した思いがあったのである。果たしてそれはなんだったのであろうか?


<感想>
序盤の基礎土台構築が済んだ上で今回は前作「メガレンジャー」の武上純希氏が参戦…やっぱりメインでもサブでもこの人はキャラクターのドラマが書けない人だなあと。
まあ前作の時点でそうだったんですけど、武上氏はメカニックや玩具販促は得意でもキャラのドラマやきちんとした物語は書けない人なんですよね。
それが「ゴーゴーファイブ」「ガオレンジャー」「ゴーオンジャー」でも全然変わらないこの人の短所でございまして…なので本作でもやっぱり微妙なのです。


今回の話はクオリティ的には可もなく不可もなしといったところなんですが、せっかくのヒカルメイン回にどうしてこんなクソエピソードを当ててきたの?と思ってしまいます。
まず序盤でヒカルを一方的に犯人扱いしたことに対しての謝罪もない上に、店を訪れたヒカルに対して終始上から目線で粗雑に扱う対応。
しかも勝手に「自分と似た息子がいたから」という理由でヒカルに亡き息子の面影を重ねていたからという、ヒカルにとっては迷惑でしかない話。
中途半端にギャグっぽく描いているのも良くないところで、こういう「擬似的な母親と息子」ならばいっそ小林女史に書かせた方がましだったと思うのです。


強いて見所を挙げるとするならば、シェフ直伝の「賽の目切り」といったキバナイフを活かしてのオリジナル技は中々面白いアクションでした。
しかし、どうしても静子おばさんが「厳しそうだけど実は愛情深い人」というよりは「道理を壊して無茶を通す老害おばさん」でしかないのが残念。
ただ、まだ一応はヒカルに直接的な被害がないだけマシな方で、後の「ゴーオンジャー」の「悪魔ナオンナ」では胸糞悪い話を書いてますからね
武上氏はどうも「なんでもギャグにすれば非常識な話でも面白くなる」と思い込んでいる節があるようで、この回はもろにそれが出てしまった形です。


目に見える形での破綻はないものの、やはり小林脚本のクオリティが高すぎる、しかもヒカルの場合は第四章という名編を経た後というのもあって失望しました。
評価としてはE(不作)であり、「シンケンジャー」の時同様サブライターがメインライターの提唱する細かい世界観・ストーリー・キャラのルールを理解できていなかった模様。

 

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