明日の伝説

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「機動戦士ガンダムSEED」に見るガンダムシリーズの不幸

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B0000BX885

ガンダムシリーズについてロボアニメ批評も含めて自分なりの整理をある程度していたのですが、ここで「ガンダムSEED」「ガンダムSEED DESITINY」の壁があることに気づきました。
両方ともファンの支持が根強いものだから、迂闊に批判しようものなら脅迫され、最悪の場合刃傷沙汰に発展しかねないと思い、発言を控えていたのです。
ただ、私の中で「そろそろこれは吐き出しておかないといけないかな」と思い、批判や誹謗中傷は覚悟の上で改めて「ガンダムSEED」について書きます。
ガンダムシリーズを見ていく上で、多くのファンが躓く壁の1つは間違いなく本作であり、私はすごく批判的な目線を持って見ており、それは現在でも変わっていません。
それでは私にとっての「機動戦士ガンダムSEED」とはどういうものだったのか、当時の体験を交えつつ語ります。ファンの方々は閲覧注意です。

 

 


(1)ヒットした理由は「キャラ萌え」と「MSのスタイリッシュさ」にある


端的にいえば、「機動戦士ガンダムSEED」が大ヒットした理由は「キャラ萌え」と「MSのスタイリッシュさ」であり、作品が真っ当に評価されてのことではありません。
私の記憶では、リアルタイムでの本作の評価は真っ二つに別れていて、もう徹底的に批判するか宗教のごとく信者として作品を持ち上げるかの両極端でした。
少なくとも作品全体を俯瞰してのフラットな評価ではなく、スーパー戦隊シリーズでいえば「百獣戦隊ガオレンジャー」「獣電戦隊キョウリュウジャー」のような評価だったと思います。
私の思い出はといいますと、せいぜいストライクガンダムのプラモを1つだけ買った記憶があり、それ以外ろくな思い出がありません。


作品自体はガンダムマニアの同級生から又聞きしたくらいで、当時の私はゲームボーイアドバンスの「スーパーロボット大戦A」などにハマっていました。
そのため作品を見たのはブームが沈静化してからでしたが、そんな私が当時外から見て本作がヒットした理由は作品人気ではなく「キャラ萌え」と「MSのスタイリッシュさ」にあったのです。
まず「キャラ萌え」に関してですが、これは詳しく後述しますが、私は本作のキラ・ヤマトをはじめ登場人物に誰一人として共感も感情移入もできません
しかし、本作のキャラの誰か1人にでも萌えることができれば、そういうファンの人たちは作品のクオリティや整合性といった部分はどうだっていいのです。


これはスーパー戦隊シリーズにも当てはまることで、例えば「五星戦隊ダイレンジャー」「忍者戦隊カクレンジャー」はストーリーなどの面でかなり破綻が多い作品でした。
しかし、真っ当なスーパー戦隊ファンからは酷評されても、この2作は勢いがあってキャラがそれなりに魅力的だからキャラ萌えにハマったファンはそういう部分でもハマります。
そしてそういうキャラ萌えのファンというのはジャニーズヲタクと一緒で、自分の「推し」(この言葉自体が反吐が出るほど嫌い)が活躍しさえすればそれ以外はどうでもいいのです。
もしくは、自分が好きなデザインのMSが出てくればそれで満足であり、ストーリーの流れも含めた作品としての総合的な評価をする人はむしろ本作を酷評していました。


つまり、本作を買い支えていたのはそうした「キャラ萌え」と「プラモ好き」であり、他に雑誌「ガンダムA(エース)」も発売を開始した年ですから、ガンダムリバイバルブームが巻き起こった年です。
2002年はガンダムシリーズとしてみるとそういう年であり、またスパロボ御三家のマジンガーとゲッターもそれぞれOVAを出していましたから、そうしたロボアニメリバイバルブームの年でした。
そこを福田監督とその配偶者であり両澤氏は上手く狙い、「歴代最高の売り上げ」を作るための戦略を立てたわけであり、それがものの見事に的中してしまったのです。
だから、結局は「商品が売れればそれでいい」のであって、ストーリーやキャラクターはそのために擦り倒される消耗品に成り下がってしまいました。
つまり、今あるところのガンダムSEED人気とはそうした当時のファンが熱狂的に買い支えたものであって、きちんと作品を真っ当に評価したファンのものではないと思われます。


(2)キラ・ヤマトストライクガンダムに乗るべき合理的な理由がない


これは本放送の第一話を見た時から疑問だったのですが、そもそもなぜキラ・ヤマトストライクガンダムに乗って戦わなければならなかったのでしょうか
強いて理由を挙げるなら「敵の襲撃にたまたま居合わせたから」「旧友アスラン・ザラとの因縁」しかなく、アムロ・レイと比べるとガンダムに乗る必然性は薄いのです。
アムロ・レイガンダムに乗った理由は他のみんなを避難させている最中に自分しか動ける者がいなかったこと、そしてガンダムの開発車が自分の父親であるテム・レイだからでした。
そう、「マジンガーZ」の評価でも書きましたが、実は「マジンガー」「ガンダム」「エヴァ」の3作においては全て主人公はそのロボット開発者の肉親なのです。


たとえば兜甲児は祖父の兜十蔵から遺産として託されたマジンガーZを駆り、アムロ・レイは父親が開発したガンダムに乗り、そして碇シンジは母親をモデルとしたエヴァ初号機に乗ります。
ここでまず主人公がそのロボットに乗る理由を客観的に合理化した上で、「自分がやるしかない」という形に演出の上でうまく持っていっているのです。
この点違うのは「ゲッターロボ」のゲッターチームですが、これに関してはゲッターを乗りこなせる強靭な肉体と精神の持ち主、そしてチームワークができる若者という基準でした。
私が大好きな「Gガンダム」ではこの点若干捻っていて、主人公の父親ライゾウ・カッシュ博士は悪のデビルガンダムを作り、その親友兼ライバルのミカムラ博士が開発したシャイニングガンダムに乗っています。


このように、今でも有名なロボアニメというのは主人公とそのロボットが何かしらの深い因縁や継承という深いテーマを抱えてロボットに乗って戦っていました。
この点、ストライクガンダムキラ・ヤマトには合理的な繋がりはなく、強いていえば「最強のコーディネーターだから」以外の理由がありません。
しかもアムロと違ってどこか裕福で幸せそうです…だから、そんな彼が事件に巻き込まれて戦ったとしてもそつなく戦えてしまうせいで大した驚きにならないのです
アムロガンダムに乗る様が映えたのは戦場の狂気を理解していないズブの素人がロボットに乗ったらどうなるか?を細かくあの短い描写に詰め込んだからでした。


Gガンダム」のドモンはその点最初は兄であるキョウジ・カッシュへの復讐を動機として動いており、すでに出来上がったプロフェッショナルのファイターです。
その「戦いの動機」がキラ・ヤマトの場合はどうにも弱く、またそれを獲得し成長していくプロセスもなんだか薄っぺらいというかとってつけたように見えてしまいます。
後半に至ってフリーダムガンダムを手にしても、ただパワーアップイベントを消化しただけで、主人公のメンタル面の成長とリンクしているわけじゃないですしね。
まあただ、そういった点も含めて話題を呼んだ主人公ではあったかなあと思います、ただその「話題の呼び方」や「話題の内容」は褒められたものじゃありませんが。


(3)確かに一大ムーブメントは巻き起こしたが、アニメ業界に革命を起こしたわけではない


確かに「ガンダムSEED」はガンダムシリーズのみならず00年代ロボアニメの中でも破格の大ヒットを起こしましたが、しかしアニメ業界そのものに革命を起こしたわけではありません
ここが「機動戦士ガンダム」「機動武闘伝Gガンダム」「新世紀エヴァンゲリヲン」との違いであり、「ガンダムSEED」がどうして「平成のファーストガンダム」になれなかったのかもここにあるのです。
たとえば、「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリヲン」は実はハイティーンが熱中していましたが、国民的アニメのような存在として認識されていたわけではないでしょう。
しかし、放送終了後にファンの口コミや再放送などで改めて作品として成し遂げたことが話題を呼び、その後のアニメ業界にも演出や脚本などにおいて大きな影響を与えました。
これはスーパー戦隊シリーズでいうと「チェンジマン」「ジェットマン」「カーレンジャー」「ギンガマン」あたりのようなもので、本当の名作というのはその後何かしらの形で模倣されます


しかし、この点「ガンダムSEED」はどうなのかというと、目先のヒットは叩き出しましたし、キャラ萌えやバトルシーンなどはあの当時としてはかなり高水準な売れ方をした作品です。
ただし、「商品が売れたこと」と「作品としての良し悪し」は基本別物であって、しかも私が作品を評価する上で最も大事にしているのは「10年後、20年後も語り継がれ新しい批評が形成されるか?」にあります。
作品とは常に時代の試練に耐えながら、それを乗り越えて更新されていくものですから、受け手にもそれをきちんと見定めて良し悪しを見ていく必要があると思うのです。
この視点で見た時に、「ガンダムSEED」はいわゆるフェティシズム的な「ここがどう」は語られても、それが作品としてどのような意味や価値を持つのかは語られません。


そして、そういう人たちってなぜだかそういう「ここが凄かった」みたいなことをやたらに覚えていて、知識量だけでいったらその人たちの方が私よりもはるかにあるでしょう。
これはガンダムシリーズに限った話ではなく、スーパー戦隊シリーズでも仮面ライダーシリーズでも、そして他のロボアニメシリーズでもどんなジャンルにでも一定数います。
しかし、そういう人たちはあくまでもアイドルファンみたいなのと一緒で、感情的になっているだけで、なぜそれが凄いのかというのをきちんと批評して社会に存在させようとしないのです。
そういう批評的な目線を欠いた人たちが「ガンダムSEED」を群盲象を撫ず評すように語っているだけであり、いってみればそれは「流行りに乗っている」だけでしかないんですね。


実際上記した「機動戦士ガンダム」「機動武闘伝Gガンダム」「新世紀エヴァンゲリヲン」辺りはいろんなところでオマージュ、パロディが作られるほどの影響を与えています。
しかし、「ガンダムSEED」はどうかというと、長期的に見て作品そのものがきちんと批評され、アニメ業界全体に再考を迫ったりその後のロボアニメのスタンダードになったわけではありません。
むしろ文芸作品として見た場合「あんなものは真似てはならない」という反面教師になった筈です…それは作品にとって最も屈辱的なことでありましょう。


(4)「機動戦士ガンダム」はそもそもシリーズ化するべきではなかった


さて、ここからは完全に個人的な見解ですが、そもそも私は機動戦士ガンダム」という作品自体がシリーズ化すべきではなかった作品だと今でも強く思っています。
なにせ当時の若者世代は熱狂しても、真っ当なガンダムファンからは敬遠されることになったSEEDシリーズの存在を許してしまったのですから。
特撮の仮面ライダーシリーズやスーパー戦隊シリーズのような毎年続く子供向けのシリーズに「ガンダム」がなり得なかったのは元々あの作品自体で話が完結しているからです。
富野監督も安彦先生も、当時の作り手はみんなあの一作を誰も「革命作」を作ってる自覚はなかったでしょうし、これをシリーズ化しようとも思ってなかったと思われます。
それにもかかわらず、ガンダムシリーズに匹敵する旨味のあるシリーズがないから、仕方なく「機動戦士Zガンダム」が作られ、それでズルズルと引きずってしまったのです。


もちろんシリーズを続けたからこそ「機動武闘伝Gガンダム」のような怪物的作品が生まれることもありますが、それでも全体俯瞰すると安易なシリーズ化をすべきではなかったと思います。
むしろ、シリーズ化を惰性で続けてしまったからこそロボアニメ自体も全体として「ガンダムシリーズ以外はヒットしない」というジンクスが生まれたんじゃないかと思うのです。
かといって、そのガンダムシリーズに取って代わるほどのスタンダードになりえるロボアニメなんてもうなく、結局は「マジンガー」「ゲッター」などの過去の遺産に頼るしかありません。
かつてはアニメ業界のセンターに居て影響を与え続けてきたロボアニメが今や完全に過去の文化として一部のマニアにだけ消費されてしまっているのはなんとも寂しいことです。
そういう悪い意味でのロボアニメの流れを作ってしまったのがまさに「機動戦士ガンダム」だったのではないかなあと思います。