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スーパー戦隊シリーズ第19作目『超力戦隊オーレンジャー』(1995)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B098NSP65N

スーパー戦隊シリーズ第19作目『超力戦隊オーレンジャー』は表向き80年代戦隊シリーズへの原点回帰を謳った作品だったのですが、第1話のオンエアを見た瞬間私は視聴をあっさり損切りしました(笑)
まあ子供というのは残酷なもので、当時の私は小学校高学年に入ろうとしていた時で、戦隊シリーズを卒業しようと思ったのですが、本作は見事に私にその決断をプッシュさせてくれた作品です。
そしてその決断が今思い返しても間違いではなかったと言えるくらい、「オーレンジャー」という作品にはもう個人的な思い入れも後から見直しての再発見も何もない空虚さがそこにあるだけでした。


何が原因なのかはこれから具体的に述べていきますが、1つ言えるのは本作が露骨に「ゴレンジャー」20周年を狙った作品であり、世界観・ストーリー・キャラクターの全てにおいて70・80年代までに回帰していること。
しかも時代に合わせて洗練させたものではなく、何の工夫も捻りもなく「チェンジマン」までで出されたアイデアをごった煮的に繰り出しただけのスチャラカ具合で、もう何が何やらという状態です。
後述しますが、「オーレンジャー」が発表された1995年は日本にとってバブル崩壊の波が押し寄せてきて、景気は一気に悪くなった上後述する阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件など社会を揺るがす暗い年になりました。
そんな風に現実社会は既に「ポスト冷戦」の世界へと移行していたわけであり、スーパー戦隊シリーズはいつの間にか時代に取り残されてる存在になってしまったのです。


なぜこんなことになってしまったのでしょうか?スーパー戦隊シリーズを一気に陳腐化させてしまった元凶である本作の失敗の要因を改めて振り返っていきましょう。

 

 


(1)時代遅れのヒーロー像と敵組織の戦い


まず冒頭でも書きましたが、まずは本作が提示したヒーロー像と敵組織の戦い、そして世界観が完全に時代遅れのオンボロ遊園地だったことが敗因です。
そもそも本作は「古代戦隊ナゾレンジャー」というファンタジー戦隊第4弾として企画されていたそうで、超力やパンゲア大陸、追加戦士のキングレンジャーの設定はその名残でしょう。
確かにその路線でやっていれば傑作になったかどうかは別としても、「カクレンジャー」までのファンタジー戦隊との違和感はなかったはずです。
ところが何を思ったのか、製作陣は急遽「ゴレンジャー20周年」という文脈を持ち込み、主人公たちを国際空軍所属のエリート軍人という「チェンジマン」までの設定に逆行させました。


そしてマシン帝国バラノイアのモデルも新帝国ギアや銀帝軍ゾーン辺りを掛け合わせたような完全な80年代戦隊の焼き直しでしかなく、斬新さが全くありません。
当然ながらそこに出てくるオーレンジャー5人のヒーローも、バラノイアの連中たちもまるで血が通っていないハリボテのような存在であり、発する言葉も行動もアクションも、全部が古めかしいのです。
それもそのはず、スーパー戦隊シリーズは既に「チェンジマン」までで完璧超人型の軍人戦隊は完成させたのであり、「フラッシュマン」以降はずっと違う方向性を模索してきました。
「地球の平和を守る」とは別の戦いを模索し、敵側のドラマもより深く掘り下げようと試み、それが「ジェットマン」で結実し、非常に丁寧に1年をかけて正義と悪の本質が解体されたのです。


その上で80年代戦隊シリーズの基盤であった冷戦や学生運動の構図はもう使えなくなっており、だからこそそれに取って代わる「ファンタジー」というジャンルを導入しました。
つまり「ジェットマン」以後のスーパー戦隊シリーズにおいてもう80年代戦隊の古臭いヒーロー像は使えなくなっているわけであり、しかし本作はその最大のミスをやらかしたのです。
お話が面白いとかどうとかを論じる以前の問題であり、それを私を含む多くの子供たちが敏感に感じ取ったからこそ、敬遠されてしまったのではないでしょうか。


(2)ロボットや武器は確かにカッコいいが見せ方が微妙


そんな時代遅れのオンボロ遊園地である本作の数少ない美点がシリーズトップクラスの玩具の売り上げですが、確かに劇中の描写を見ると武器も変身アイテムもロボデザインも良くできています。
ビジュアル自体は今見直してもそんなに悪いものではないし、確かに購買意欲をそそる玩具ではあったので、購買層が多くいたのは本作の不幸中の幸いだったのではないでしょうか。
しかし、そのことと見せ方がいいかどうかは全くの別問題であり、なりきり玩具にしてもロボット玩具にしてもなんの脈絡もなく、しかも矢継ぎ早に出てくるのです。
これだけ大量に次々と出てきたら結局前までの武器は何だったのか?となるわけですし、さらにその武器やロボットの使い分けの基準も明確に設けられていません。


例えるならば、それはガタガタの基礎土台がなっていない新築物件に最新のボードやベニヤ板などを用いて家を建てるようなものであり、基礎土台がボロボロな状態で何を積み上げても無意味です。
そしてそのしわ寄せが押し寄せてきたのが「超力」という彼らの力の源であり、これがそもそも何なのかがきちんと立ち上がりの段階で定義されていないのに、描写がコロコロ変わってしまっています。
それがまた後述する終盤の問題にも繋がって行く野津が、本作をアクションやメカニックの観点から分析していくと、結局のところ作り手にとって「超力」などの力がどんなものなのかイメージが曖昧だったのでしょう。


おそらくは軍人戦隊の完成形にして集大成でもあった「チェンジマン」のアースフォースやチェンジソード、チェンジバズーカのような驚異に対する決戦兵器程度にしか考えていなかったと思われます。
そうした作り手の思考停止がストーリー、キャラクター、アクション、メカニック、演出、音楽などあらゆる要素に影を落としてしまったのです。
どれだけ強力な描写があったのだとしても、そもそものストーリーや登場するまでのプロセスなど見せ方ができていないために、全然魅力的に見えません。


(3)路線変更は果たして社会情勢の影響なのか?


さて、本作は中盤以降終盤に差し掛かる寸前まではギャグ路線へ路線変更して迷走するわけですが、この時によくエクスキューズとして使われるのが「時代が悪かった」という言い分です。
どういうことかというと、これはオーピンクを演じたさとう珠緒を始め作り手が語っていることですが、阪神・淡路大震災オウム真理教が起こしたテロ事件で路線変更したという説が見受けられます。
しかし、その路線変更に当時の社会情勢が影響していたのかというと、それはあり得ないでしょう。テロ事件が起こる前からギャグ路線へ舵を切っていましたし、震災についても同様です。
そんなことを言い出せば、後述する終盤の展開は自重しなければならないのですが、なぜかその展開だけは普通にやっているのですから、社会情勢は何も関係ありません


まあ強いて社会情勢を元に話をするのであれば、阪神・淡路大震災テロリズムのような日常に突然現れる悪の方がはるかに怖い、そちらの方が現代の悪の本質だというのはあります。
つまり、冷戦時代の絶対的な悪と正義の構造ではなく、より身近で相対的な本質の掴みにくい悪こそがこの当時に現れた悪の本質だということが示されたのです。
そういう点でも、やはりオーレンジャーのヒーロー像とバラノイアの悪の形は80年代の「チェンジマン」以前の時代にまで戻さないと通用しないことが裏付けられています。
制作側が失敗作であったことの言い訳に路線変更を持ち出したことで、かえって自分たちの作品が時代遅れのオンボロだと認めてしまったようなものなのです。


(4)まるで何も伝わらない終盤の展開


さて、そんなボロクズのような本作ですが、行き着くところがどうなったかというと、なぜだか超力を喪失して変身不能、半年間も地球を敵に征服されることになるのです。
この展開は確かに戦隊シリーズでは史上初どころか他の戦隊でも見受けられない展開ですが、同じ杉村脚本の「仮面ライダーBLACK」終盤の展開の焼き直しなので珍しくはありません。
しかも暗黒素粒子をバラミクロンに使われただけで合体解除などならともかく超力まで喪失し、しかもなぜか気合さえ入れれば蘇ってくるという展開もよくわからないのです。
そう、(2)で述べた超力をはじめとする武器や力の源などの定義を細かく設定して詰めていなかったことが終盤の展開でのブレを生んでしまっています。


ここで超力がいわゆる「バードニックウェーブ」のような科学の力なのか、それとも「アースフォース」のようなファンタジックな力なのかすらもわかりません。
描写から判断すると科学の力っぽいのですが、科学の力ならばなぜオーレンジャーが気合を入れただけでオーラパワーや気力のように全身から漲るのでしょうか?
もし超力を体の内側に取り込んでいて、体の中から引き出せる体質になったのであれば、例えばアースフォースを己の内側に取り込んだチェンジマンなどのような描写も入れておくべきです。
そのような描写もないのに、まるでファンタジックな不思議な力として扱われていることが不思議で、だからこそラストの逆転劇にも全く筋が通りません。


しかもその上でラストはカイザーブルドントとマルチーワが産んだ子供だけは助けろなどという意味不明なヒステリアの命乞いですから、呆れる他はないでしょう。
あれだけ散々罪なき人々を苦しめ殺しておいて、それで赤ん坊だけは罪がないから助けろなどという展開を入れてなんのドラマがそこにあるのでしょうか?
確かになんの罪もその赤ん坊にはないのかもしれませんが、それで許された気になっているような感動を煽るような演出が本気で許せません。
同年の「ゴルドラン」や次作「カーレンジャー」みたいに最初から命の扱いが軽い不思議コメディのテイストならそれでも許されたでしょう。
しかし、本作はなまじ80年代戦隊のシリアスでハードな世界観でスタートしたがために、こういう展開がしにくくなってしまったのです。


結局のところ、本作が示したことはとにかく原点回帰の意味を履き違えてはならないということではないでしょうか。


(5)まとめ


改めて本作を構造などの点から批評して見ましたが、どこを切り取っても「玩具売上がよかった」以外の美点が見つからないから困ります。
でもそれは作品が良かったことの証明にはならないですし(商品としての評価と作品としての評価は別)、どこまで行こうと結局「時代遅れのオンボロ遊園地」なのです。
逆に言えば、本作が改めて「原点回帰とは何か?」を反面教師として教えてくれたと言えるのではないでしょうか。
原点回帰とは単に先行作品が使っていた要素を工夫やひねりなく使うことではなく、それらの要素を因数分解し、時代に合わせて洗練させ、アップデートさせることです。
次作「カーレンジャー」以降3年をかけてスーパー戦隊シリーズ正統派ヒーロー路線への回帰を目指していくのですが、総合評価はどうあがいてもF(駄作)以外ないでしょう。

 

 

超力戦隊オーレンジャー

ストーリー

F

キャラクター

F

アクション

D

カニック

F

演出

F

音楽

C

総合評価

F

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

 

 

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