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スーパー戦隊シリーズ第10作目『超新星フラッシュマン』(1986)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/4065137144

スーパー戦隊シリーズ第10作目『超新星フラッシュマン』は前作「チェンジマン」での大成功を受けつつも、さらなる重厚なドラマを目指そうとしました。
その中でも大きなポイントは「肉親との再会」という戦いとは別の目的がヒーロー側に設けられるようになったことではないでしょうか。
後述していきますが、これまでのスーパー戦隊シリーズは外的(=公的)動機であろうが内的(=私的)動機であろうが、目的はあくまで「地球の平和を守る」ことにありました。
しかし、本作はそこでヒーローの戦う動機におけるパラダイムシフトを起こし、外的(=公的)動機と内的(=私的)動機をしっかりと書き分ける試みを行っています。
それがうまくいったかどうかは別としても、本作から敵組織のみならずヒーロー側の内面も掘り下げていこうという方向性が始まったことは事実です。


それから本作は戦いの動機以外にも歴代初の要素が織り込まれていまして、それが歴代初の2号ロボ&要塞型のロボ、そして一話限定で出てくる6人目のマスクマンなどがありました。
スタッフにおいても若干の変更が見受けられ、これまでメインで演出を張っていた山田監督が抜け、代わりに堀監督や長石監督が演出を手掛けていくようになります。
そして見逃せないのは脚本でも後に「ジェットマン」で初のメインライターを行い、「シャンゼリオン」「アギト」「555」などを手がけていく井上敏樹先生も初参加となりました。
こういう風にスタッフの入れ替えが行われて新しい風が戦隊に取り入れられるようになり、高年齢層へ向けた新たな大河ドラマへの路線へと舵を切っていくことになるのです。


とはいえ、これらの試みが本作で結実することはなく、諸要素はどれもポテンシャルを持ちながらも、それが開花することなく終わってしまいました。
ストーリー、キャラクター、そしてメカニックのいずれにおいても本作はまともな収穫を得ることなく中途半端な結果となってしまったのです。
それでは以下、どうしてどのようなことになってしまったのか、「ジャッカー」以来の反省会・フィードバックという形で論じていきます。

 

 


(1)初めて「地球の平和を守る」以外の目的が出てきた戦隊


導入文でも述べましたが、本作は歴代発の「地球の平和を守る」以外の目的が出てきた戦隊であり、これは地味にシリーズにとって大きいポイントではないでしょうか。
チェンジマン」以前の戦隊はその戦いの動機が外的(=公的)動機に端を発しようが、内的(=私的)動機に端を発しようが最終的な目的は「地球の平和を守る」ことにありました。
それこそ「科学者としての夢」を持っていたダイナマンの5人ですらその最終的な目的は「科学の平和利用」なので結果的に「地球の平和を守る」ことに収斂していくのです。
しかし、本作のフラッシュマン5人は「地球の平和を守る」こととは全く別の「生き別れになった肉親と再会する」という全く異なる目的を持った初めての戦隊となりました。


本作においては外的(=公的)動機が「地球の平和を守る」こと、そして内的(=私的)動機が「生き別れの肉親との再会」であり、ここにおいて外的動機と内的動機が完全に分離しているのです。
これは歴代戦隊史上に残るエポックと言ってもいいほどのパラダイムシフトであり、なぜこのような設定が設けられたのかというと、1つには70年代にそれに成功した長浜ロマンの「超電磁マシーン ボルテスV」がありました。
そしてもう1つ、私がまだ生まれて間もない1986年当時には中国残留日本人という、第二次世界大戦〜冷戦にかけての影響で日本に戻れず中国に留まったままの人が社会問題となった時代でした。
その背景設定を取り入れ、本作のフラッシュマン5人は帝国メスに拉致されて宇宙に誘拐されてしまった人たちの復讐の物語であると同時に、肉親との再会の物語でもあるのです。


つまり前作「チェンジマン」や「バイオマン」以上にフラッシュマン5人が抱える宿命は劇的かつ悲惨であり、歴代戦隊でここまでハードな設定のもとに戦う戦隊もなかなかないでしょう。
しかし、大人になってチームを結成するまで彼らはお互いに会ったことがないので、いざチームを結成するとこれがバラバラでなかなか呼吸を合わせることができません。
それもそのはず、共通の目的を持ちながらも別々の星で育ってきた連中が徒党を組んだところで「みんなでGO」が簡単にできるわけがなく、チームワークなんてできっこないのです。
ただ、そんな風にメンバー自体の始まりはとても悲劇的でありながら、そこから内面を掘り下げてという方向に行けなかったのは前作「チェンジマン」までの曽田博久氏の脚本の欠点でもありました。
それを克服できずに本作でもメインライターを務めてしまったので、どうしてもその辺りの克服がなされず、それが後述する更なる問題点へとつながっていくのです。


(2)歴代初の2号ロボ&要塞型ロボ


2つ目の特徴として挙げられるのが歴代初の2号ロボ&要塞型ロボ、番外戦士です。これもまた本作独自の要素として挙げられるのではないでしょうか。
具体的には小型ですばしっこい2号ロボのタイタンボーイ、そしてそのタイタンボーイを収納することで完全無欠の要塞と化すフラッシュタイタンです。
ただし、これらはあくまでも「出してみた」程度のもので、実際にうまく行ったのかというと決してそうではありませんので悪しからず。
確かにずっと1号ロボのみを出張らせ続けるのには限界があったので、新しいサポートメカや巨大メカを出したがるのはわかりますが、実際は微妙なところです。


というのも1号ロボのフラッシュキングがかっこよくすっきりまとまったデザインなのに対して、タイタンボーイとフラッシュタイタンはものの見事に「」なのです。
タイタンボーイは当時私の兄やその友達が「動く郵便ポスト」などと言っていましたし、フラッシュタイタンに至っては「敵を潰す冷蔵庫」などと揶揄されました。
あまりにも的確すぎる評価に思わず大笑いしてしまったのですが、今見直してもその評価は間違ってはおらず、本当に動いても活躍してもダサいのです。
まあ確かに当時の技術ではまだ巨大要塞のデザインや活躍のさせ方などが分からなかった部分もあるのでしょうが、それでもこれはひどすぎます。


フラッシュキングを大破させ、噛ませ扱いして鳴り物入りで登場させた割には全然かっこよくなく、こんなだったらフラッシュキングで戦い続けた方がマシだと言えます。
新しい玩具販促の形を増やそうとするのはいいのですが、当時はまだそれが技術面と演出面の双方において実現不可能だったということでしょうね。


(3)実質はイエローフラッシュが主人公


さて、話はヒーロー側に戻りますが、本作の主人公は実質イエローフラッシュであり、作品名は「超新星イエローフラッシュ」に改名した方がいいと思えるような出来です。
というのも、フラッシュマンの内的(=私的)動機である「肉親との再会」の要素は当時の尺と脚本ではそれを再現する力量がなく、最終的にイエローフラッシュ1人に絞られます。
やや無理のある設定ではあるのですが、実は物語のキーパーソンの1人として出てくる時村博士がイエローフラッシュ・サラの父親であることが後半〜終盤で判明するのです。
しかし、お互いにそのことは最後まで知ることなく、また感動の再会や抱擁を行うこともなく、後述するある現象のために去ってしまうことになります。


結局本作では「肉親との再会」という要素を果たすことは不可能になり、結果としてこの要素はその後「ファイブマン」「ゴーゴーファイブ」「マジレンジャー」「トッキュウジャー」で結実していくのですが。
特に「トッキュウジャー」は最後の小林靖子脚本の戦隊ということもあり、おそらく本作が抱えていた「メンバー5人それぞれの肉親との再会」という果たし得なかった目標を果たそうという意図はあったのでしょう。
実に30年近くもかかってはいるのが実にスーパー戦隊シリーズだなあとは思うのですが、それだけ難易度の戦いことに本作はシリーズ10作目にして挑戦していたのですから、その勇猛果敢な精神は評価したところです。
しかし、イエローフラッシュを実質の主人公にしてしまったせいで本作はサラ以外の4人が空気化してしまい存在が希薄になってしまったというのは否めません。


そしてなぜフラッシュマンの5人は肉親との再会が不可能になったのかというと、後述するある要素が最大のデメリットとして引っかかってくることになるからです。


(4)作品最大の敵はメスではなく反フラッシュ現象


本作最大の敵は帝国メスではなく反フラッシュ現象であるというのが引っかかるところであり、これはもう誰もが涙を飲んでしまった苦い結末だったのではないでしょうか。
念のため言っておくと、帝国メス自体は空気というほどではなく、特にレッドフラッシュとサー・カウラーの一騎打ちは前作「チェンジマン」のチェンジドラゴンとブーバの一騎打ちに負けない迫力がありました。
しかし、そんなメス側の脅威以上にフラッシュマンの脅威として立ちはだかったのが反フラッシュ現象であり、なんとフラッシュマンは1年以上地球にいられない体質だったことが判明します。
つまり、初期に打ち出した「プリズムパワー」を力の源としてしまったことが終盤であだとなるという皮肉な結末を迎えてしまうのです。


なぜこのようなことになってしまったのかというと、この反フラッシュ現象とは「バイオマン」で描かれた反バイオ粒子をより推し進めた設定ではないでしょうか。
そして、フラッシュマンがメスに対抗するために自分たちをそのような肉体に改造してしまったことへの代償のようなものを描きたかったのかもしれません。
その設定が本作の目的の1つである「肉親との再会」と物の見事に相性が悪くドッキングしてしまい、最終的に自分たちが得た力に裏切られてしまうことになるのです。
過ぎたるは猶及ばざるが如しとはよく言ったもので、「ジャッカー」しかり本作しかり、自分たちの身の丈に合わない力を得てしまった者の末路は幸せを手にはできません。


また、その帝国メスのケフレンも「バイオマン」のドクターマンの焼き直しでしかないですし、他の幹部連中もサー・カウラー以外はあまり印象に残っていないのです。
まあ立花レイ役を演じた人とのちに「ライブマン」のケンプや「ジェットマン」のトランザなどで大活躍する広瀬匠氏の出演はファンとしては好きなのですけどね。
そんな感じなので、結局は作り手が最初に作り上げた思わぬ設定に足を引っ張られることになってしまうという想定外の悲劇に見舞われることになったのです。


(5)まとめ


本作は前作「チェンジマン」の大成功を受けた作り手が更なる路線への開拓を行おうとして、結局のところそれらが結実することなく終わってしまいました
外的(=公的)動機と内的(=私的)動機のパラダイムシフトを中心に様々な新規要素が盛り込まれたのですが、それに技術や時代が追いつかなかったのでしょう。
それこそシリーズが充実した今になって形を変えてリメイクすれば、それこそ大傑作に跳ね上がる気もするのですが、それは見果てぬ夢ですし私もそれは望みません。
しかし、本作でばら撒かれた様々な種はその後シリーズ作品が手を替え品を替え継承していき、開花させていきますから決して無駄な試みではなかったのです。
当時の相対評価としても、今見直しての絶対評価としても、総合評価はE(不作)が適切だと思われます。

 

 

超新星フラッシュマン

ストーリー

F

キャラクター

D

アクション

B

カニック

F

演出

E

音楽

A

総合評価

E

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

 

 

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