明日の伝説

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「ギンガマン」の「アース」がSF的に優れている理由

本日の「ボウケンジャー」Task13の感想で「「ボウケンジャー」をSF作品として見たときに微妙なのはまさにここで、例えばレオン・ジョルダーナの画帳は350と別格に高いですが、これはあくまでも写本でしかありません。」と書きました。
この文章を書いた時、かつて黒羽翔氏と戦隊シリーズの「力の源」について話をした時、「「ギンガマン」のアースはファンタジーでありながらSF的にも優れている」という意見を頂いたことが頭を過ぎったのです。
特に「チェンジマン」について語った時、今から数年ほど前に「チェンジマン」の感想の話をしていた時にこのようなご意見をいただきましたので抜粋致します。

 


戦隊物は、よく戦隊のパワーの源が描かれることが多いです。
ジェットマンならバードニックウェーブ、カーレンジャーならクルマジックパワー。
具体的に説明されていませんが、ジュウレンジャーが守護獣の力を借りて変身しているのは明らかです。
共通しているのは、変身前の登場人物と変身後のヒーローの力は基本的に分離されている事。
そして、ギンガマンがアースを使える設定にしたのは、正しく「ヒーローのパワーの源」と主人公達の「自力」とを一致させるのが狙いだったのではないかと思ったのです。
星獣からギンガブレスを貰って変身しているギンガマンですが、アース技だって使える。
「自分のアースを信じるんだ!」って台詞は、主人公達とヒーローの力とを一致させる意図があったのではないかと思ったのです。


この意見を見た時最初は「SF的に優れている」の意味がピンと来なかったのですが、この意見を頂いてから考えを深めて熟成させた時に凄く慧眼であることが示されていました。
いわゆる長谷川裕一先生の「もっと凄い科学で守ります!」の考察やそれに類する記事と内容が被るかもしれませんが、ご容赦のほどをよろしくお願いします。

 


(1)「SF的に優れている」という言葉の意味


まず黒羽翔氏のこのご意見を噛み砕いて解釈してみますが、スーパー戦隊シリーズでは「力の源」を物語の核に絡めて展開する作品が少なくありません。
そもそも初代「秘密戦隊ゴレンジャーからして物語中盤で大幅な武装強化があり、これがいわゆる後のシリーズで継承されていく要素の1つになったのです。
具体的にはゴレンジャースーツ→ニューゴレンジャースーツ、ゴレンジャーストーム→ゴレンジャーハリケーン、バリブルーン→バリドリンなどなど。
しかし、初代「ゴレンジャー」を現在の視点で見直した時に必ずしもSF的に優れた作品なのかというと、決してそういうわけではないでしょう。


確かに40話でペギーを通じて変身システムが明らかになっていますし、戦隊シリーズの解説本などではゴレンジャーストーム、ハリケーンの理屈が具体化されています。
しかし、まだ1作目ということもあって荒削りであることは否めませんし、そもそも単なるエンターテイメントとして作られているので、作り手もそこまでは考えていなかったでしょう。
そもそも「ゴレンジャー」が作られた時代でSF的に優れていた作品は数少なく、海外では「2001年宇宙の旅」を金字塔としていくつか優れた作品があったかなかったかというレベルです。
日本でもそのレベルに達している作品は少なく、特撮で見ても初代「ゴジラ」やその延長線上にある「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などがあったくらいでしょうか。


その時代の東映特撮はとてもじゃありませんが「仮面ライダー」しかり「ゴレンジャー」しかりそんな高尚なSF作品を作れる程の予算・技術・人材はゼロではないにしても十分に揃っていませんでした。
上記の作品群の中で特に「2001年宇宙の旅」を1つのSF映画の金字塔だとして、そこから「SF的に優れている」という言葉の意味を考えてみると成る程と納得できるものです。
2001年宇宙の旅」が名作である理由はどこにあるかは散々批評されてきましたが、私が見るにHAL9000という象徴的なガジェットを用いて「人類の進化と未来」という遠大な哲学的テーマに挑んだことにあります。
このHAL9000はその後「ガンダム」のハロなど様々なものに手を替え品を替え継承されていますが、とにかく「世界観を象徴するガジェットを用いて物語を展開する」ことが慧眼だったのです。


つまり黒羽翔氏が上記の意見で言わんとしていた「SF的に優れている」というのは1つのガジェットで作品の世界観そのものまで完璧に表現しきるほど余すところなく用いられているということではないでしょうか。
その点において、確かに「星獣戦隊ギンガマン」のアースはファンタジックでありながらSF的にも優れた作品ということになるわけですが、これは言ってみれば演繹的手法だといえます。
「2001年」に限りませんが、キューブリックの作品群、特に「博士の異常な愛情」以降に確立された手法は既存の映画を独自の技術で批評的に見て再構築したものとなっているのです。
そしてその再構築された技法が後世に大きな影響を与えているという意味で演繹的な映画手法を確立した人でもあり、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグゴダールとはまた違った切り口を持った映画監督でした。


思えば「機動戦士ガンダム」という作品がSF的に見て優れているのもガンダムという「人類同士の戦争の兵器として使われるMS」という具体的なSFガジェットを創出したところにあるでしょう。
ゴジラ」しかり「ウルトラマン」しかり、SF的に優れていると評される作品はそのようにして象徴的な1つのガジェットで作品の世界観を構築しており、芯の強いものだなあとわかりますよね。


(2)戦隊で「力の源」が物語に絡んだのは「バイオマン」から


さて、話をスーパー戦隊シリーズに戻して、スーパー戦隊シリーズおいて「力の源」が大々的に物語に絡んだのは「超電子バイオマン」のバイオ粒子が最初でした。
それ以前の戦隊も一応「こういう力の源です」と設定されていましたし、また中盤でのパワーアップはありましたが、それでも力の源が物語に絡むことはなかったのです。
しかし、「バイオマン」のバイオ粒子はまさに作品の世界観を象徴するガジェットとして創出されており、以後のスーパー戦隊シリーズにおけるあり方の始祖を作っています。
このことが大きな物語の核に絡んだのは問題作にしてある意味伝説ともいえる10話、反バイオ粒子というヒーローの力の源とは真逆の力が示されたことです。


そもそも、「ゴーグルV」の時点で曽田先生は「未来科学VS暗黒科学」、すなわち「科学の力を正しく使う者VS科学の力を誤って使う者」というテーゼを打ち出していました。
上原先生がメインライターをやっていた「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」までの戦隊にはなかった要素であり、更に「ダイナマン」では終盤で1つ面白いドラマを生み出しています。
それはダークナイト(メギド王子の成れの果て)と夢野博士が科学の力を間違った使い方をしてししまったという過去を打ち出すことで戦隊シリーズの歴史に新たな変化をもたらしたのです。
単に敵組織が内輪揉めで崩壊するというだけではなく、味方側にもまた亀裂を生じさせて「ヒーローとは何か?」を再定義させるという手法を不完全ながらも確立しました。


バイオマン」は更にそこに「ドクターマンの科学力VSバイオ星の科学力」に肉親のドラマを加えた上でバイオ粒子に対する反バイオ粒子という「属性対決」の要素を打ち出したのです。
ドクターマンはいってみれば「闇落ちした夢野博士」であり、科学の力に飲み込まれて自分を見失った結果悪の道に落ちてしまった存在であるといえます。
この設定は「フラッシュマン」のリー・ケフレンや「ライブマン」のボルト軍の3幹部、「メガレンジャー」のDr.ヒネラーなどに継承されている要素です。
更に第3勢力として出てくるバイオハンター・シルバはそのドクターマンとは違う第三勢力としての立ち位置を「反バイオ粒子」と共に確立させました。


そしてまた、バイオマン自身も実は中盤に面白いドラマを盛り込んでいて、それはバイオ粒子を己の体内に取り込み自らの意思で引き出すという変換を行っていることです。
バイオ粒子は元々バイオロボバイオマンの先祖となる5人に浴びせた者であり、いってみれば「外的な力」として体内に宿っていたといえます。
だから序盤〜中盤のバイオマンがイマイチ弱く感じられたのも戦闘経験0の素人だからだけではなく、外的な力であるバイオ粒子を自由自在に引き出せないことにありました。
敵組織である新帝国ギアがどんどん戦力を激化させるに従い、バイオマンは中盤でスーツ性能の強化や特訓などを行いましたが、それだけでは勝てなかったのです。


そう、ゴレンジャースーツをニューゴレンジャースーツにするだけではなく、「外的な力」であるバイオ粒子を「内的な力」として取り込む必要がありました。
これこそが正にスーパー戦隊シリーズにおけるパワーアップのコペルニクス的転回であり、ここから「力の源」を巡る戦隊シリーズのスタンスのあり方が固まったのです。
そしてそのフェーズと共に真のバイオ戦士となった郷史朗たちは新必殺技の強化とも絡み合っていて、これが「チェンジマン」以降にも継承されていくお約束となります。
作品全体としては「デンジマン」を超えられなかったものの、SF作品としてのアプローチや新機軸の盛り込みといった要素で「バイオマン」は「デンジマン」を上回ったのです。


(3)「電撃戦隊チェンジマン」の先見性と躓き


電撃戦隊チェンジマン」は「超電子バイオマン」が打ち出した作劇の更に上を行くガジェットを創出しており、それこそが神秘の力「アースフォース」です。
科学の力の源とそのあり方自体はバイオ粒子で完成しましたが、「チェンジマン」では更に出自のまるで異なる規格外の力を導入しました。
チェンジマンの戦士のなり方は歴代でもかなり鮮烈なデビューであり、チェンジマンとして選ばれた5人が大星団ゴズマの危機に瀕した際にアースフォースを浴びます。
それは伊吹長官が危機に瀕した時発動すると言われているものであり、作中でも「アトランタフォース」などそれに類する力があることが示されているのです。


そう、「科学力」という「ゴレンジャー」から連綿と継承されてきた既知の力だけではなく、星から受け取った未知数の不思議なブラックボックスの多い力……この「二面性」が「チェンジマン」の大きな特徴でした。
既知の力と未知の力という2つを両輪として戦うチェンジマンは歴代でも最強クラスといっても過言ではない組織規模と戦闘力を誇り、それが終盤の数珠つなぎのように連鎖してエスカレートしていく物語となったのです。
そしてこの「チェンジマン」が打ち出した「科学の力」と「非科学の力」の両輪というスタイルは後のスーパー戦隊シリーズに手を替え品を替え受け継がれていきました。
まるで10年も20年も先を見据えたかのような先見性であり、だからこそ後続の戦隊、特に「ギンガマン」などに色濃く影響を与えるほどの傑作となりえたのでしょう。


しかし、これは「チェンジマン」の批評でも書きましたが、数少ない欠点の1つが「じゃあそのアースフォースは具体的にどんな力で、どんなメカニズムで成り立っているのか?」まで描ききれなかったことです。
これはまだシリーズ9作目でまだその辺りを描ききるだけの尺と脚本的な技術が不足していたのも挙げられますが、そこが今日の視点で見た時に惜しまれるところではあります。
チェンジマン」も前作「バイオマン」同様にアースフォースを中盤で内側に取り込んで強化するというエピソードがありましたが、これが疑問だらけだったのです。
何故ならばアースフォース自体が「地球がピンチに陥った時に発動する力」と定義されてはいるものの、具体的にどんな力を与えてくれるのかまでは描かれていませんでした。


1話を見る限りチェンジマン5人を変身させてはいますし、変身後にある程度アースフォースで戦う能力も与えてはいるものの、チェンジマンの5人はあくまでも軍人です。
基本武装がチェンジソードとパワーバズーカであるため、これらがどうパワーアップしたのかがいまいちわかりにくいというのがあります。
また、彼らのモチーフである伝説獣自体も実在しないものであるため、どうしても「戦士の力」としてのアースフォースが実感されにくいというのがありました。
科学の力とは別の神秘的な力を伝説獣というモチーフとアースフォースで説得力を与えたかったのはわかりますが、それが物語の核に絡んできた時に説得力を持ちにくかったのです。


本作はその意味で昭和戦隊最高傑作として位置付けられていながら、それでも歴代戦隊最高傑作かと言われたらそうとは言い切れない歯痒さがここにあります。
そう、「力の源」という観点で見た時に「チェンジマン」はどうしてもクリアできなかった壁があり、それがアースフォースを内側に取り込むあの中盤の展開でした。
そしてそれは「ギンガマン」のアースまで実に13年もの月日がかかることになったのです。


(4)「超新星フラッシュマン」以降のスーパー戦隊シリーズの壁


チェンジマン」が積み残した課題は「超新星フラッシュマン」以後もなんだかんだ格闘することになっていきますが、これがまた大変なのです。
まず「フラッシュマン」では終盤に「反フラッシュ現象」が起きましたが、これは反バイオ粒子を「フラッシュマン」なりに置き換えたものだったのでしょう。
しかし問題はそれ自体が帝国メスの要素とは全く絡まない上、そんな危険な力に頼っているフラッシュマンという戦隊の危険性を浮き彫りにしてしまいました。
流石に「自分たちの持っている力がかえって自分たちを苦しめる毒になる」というのは当時としては幾ら何でも先へ進み過ぎたのです。


「マスクマン」では今度はそのアースフォース、プリズムパワーに取って代わる「オーラパワー」、ジャンプ漫画の「気の力」が導入されることになりました。
何故「気の力」だったのかというと、実はロボアニメで富野監督が既に確立していた手法でもありましたし、ジャンプ漫画でも「北斗の拳」などは気の可視化を行っていたのです。
それが「変身」という要素と一体化する形で結実したのが本作であるといえ、後の「ダイレンジャー」でも継承されていますが、これもやはりきちんと扱い切れたとは言えません。
そもそもF1レースとオーラパワーとの結びつきが弱いという問題がありましたし、同じように「ターボレンジャー」の妖精パワーと太宰博士の科学力もまた結びつきが弱かったのです。


思えば「ライブマン」「ファイブマン」がそういう非科学的な要素を排して純粋な科学の力のみで戦ったのも、やはり当時のスーパー戦隊シリーズでは規格外の力の扱いに困ったからでしょう。
正確には「ファイブマン」は最終回でバルガイヤーを倒す時にシドンの花という星の力みたいな要素が絡みましたが、それでもやはりこの壁をクリアできたとはいえません。
その意味では実はスーパー戦隊屈指の革命作である「鳥人戦隊ジェットマン」のバードニックウェーブも実はSF的に優れていた作品かと言われるとそうではないのです。
確かにバードニックウェーブによって強さを与えられていた5人ですが、それがドラマとして絡んだことはほとんどなく、せいぜいネオジェットマンが出てくる前後編くらいでしょう。


しかし、「ジェットマン」の場合はメンバー5人の精神性や性格的欠点に焦点を当てて、そこをクリアすることによってバードニックウェーブを己の体内に取り込むことに繋げました。
つまり、5人の精神が本当の意味でヒーローになり完全に足並みが揃った最終回手前でようやく彼らはバードニックウェーブを己の体内に取り込むことができたといえます。
この手法はいわゆる「自分にもある弱さを知ることで本物のヒーローになれる」ということでもあり、高寺Pの「カーレンジャー」も実はこれをギャグ的な手法で行っているのです。
カーレンジャー」の5人もまた夢を追い越して光になった時、失われたはずのクルマジックパワーを己の内側に取り込むことで最終回で名実ともに真のカーレンジャーとなりました。


ただ、「ジェットマン」「カーレンジャー」はヒーローに選ばれた5人のメンバーのヒーロー性を極限まで下げることによって可能にしたのであって、必ずしも原理原則を掘り下げたわけではありません。
また、杉村升さんが手がけた「ジュウレンジャー」「ダイレンジャー」「カクレンジャー」「オーレンジャー」でもこの辺りの「力の源」に関するメカニズムなどは不徹底にしか描かれていませんでした。
メガレンジャー」では「最先端のデジタル科学VSDr.ヒネラーの歪んだ科学」という曽田戦隊のテーゼを擬似的に復権させたといえますが、それでも「チェンジマン」が残した課題は超えられないままです。
結局は「ジェットマン」「カーレンジャー」と同じように、メンバー5人のヒーロー性を下げることによってしかドラマを成立させる方法がなかったのではないでしょうか。


こう見ていくと、「チェンジマン」以後の作品群が共通に抱えていた問題点として、黒羽翔氏が述べたように「変身前の登場人物と変身後のヒーローの力は基本的に分離されている」にありました。
つまり変身前の能力と変身後の能力の乖離というか差を埋めること、そのために改めて特徴的な作品の世界観を象徴するガジェットを提示することが課題だったのです。
そしてそれを徹底的に掘り下げ合理化して物語の核にすることこそが「チェンジマン」を唯一越えられる方法だったのではないでしょうか。


(5)「星獣戦隊ギンガマン」は力の源と戦士の個性を合理化させたSF系ファンタジー戦隊


ここまでを踏まえて見ていくと、「星獣戦隊ギンガマン」は力の源と戦士の個性を誰の目にも納得できる形で合理化させることに成功させた作品だといえます。
以前私が書いた「ギンガマン」の批評で私は改めてこのようなことを書いていました。

 

 

アースフォースは地球が危機に陥った時に選ばれし者のみに貸し与える神秘の力と言われていますが、本作のアースはそれを星獣剣の戦士が訓練の末に磨き上げた大自然の力という風に洗練させています。
つまりアースフォースが「未知」の力であるのに対して本作のアースは「既知」の力であり、アースフォースという設定を90年代戦隊が導入したファンタジックな設定にうまく落とし込んだのです。
またそれが単なるギンガマンの力の源に終わるのではなく、終盤に大きなドラマの核としても絡んできますから、これらの諸設定がしっかりできているところが本作を非常に一貫性のある強固な作風に仕立てているのでしょう。


引用元:https://gingablack.hatenablog.com/entry/2021/11/19/140854

 


我ながら実によくできた文章を書いたとも思ったのですが、結局のところ「ギンガマン」がファンタジー戦隊でありながらSF的に優れているといえるのは言語化するとここに尽きます。
ゴーカイジャー」のEDでも「アースの戦士のギンガマン」と紹介されており、さらに「ボウケンジャー」のEDの紹介でもラストはダブル炎のたてがみで表現されているのです。
そう、「ギンガマン」をこのような「力の源」の観点で見たときに優れている(と思える)理由はなんといってもこの「アース」というガジェットをしっかり使い切ったことにありました。
「アースフォース」をしっかり大自然の力としれ洗練し、さらにそれが物語の終盤を司る最大のキーにもなるという、まさに「2001年宇宙の旅」が提示した手法がようやくここで確立されたのです。


終盤で出たブクラテスとヒュウガが第三勢力として挑むことになったこと、またナイトアックスという「星の命を砕く力」で挑む展開も「バイオマン」「チェンジマン」のオマージュでした。
ナイトアックスに関しては諸説ありますが、これまで述べてきたことやダイタニクス決戦編でのギンガレッド・リョウマの反応などを見るにアースとはまさに真逆の属性の力ではないでしょうか。
アースが「星を守る力」ならばナイトアックスはその逆の「星を破壊する力」であり、それはアースを捨てるという究極の代償を払わねば使うことはできないというものです。
しかし、そのナイトアックス自体がブクラテスの私怨がこもっているわけであり、部分的な活躍は見込めてもそれをラスボスのゼイハブ攻略の決定打にするわけにはいきません。


ギンガマン」の批評や感想で再三書いていますが、星の命をナイトアックスで砕くことは物語としてブクラテスの復讐を肯定することになりますし物語の定義を根本から崩すことになってしまいます。
何があろうと星を守る力=アースを大事にして戦う」ことが既に第一章や第四章で示されており、そこでガチッと「アースとは何か?」「ギンガマンとはどういうヒーローか?」を示しているのです。
だからこそ、それをラストまで貫いているわけであり、何と言っても戦士の変身前の個性と戦士の精神・肉体面、さらに変身後の戦い方まで全てを一致させています。
以前どなただったかが「「ギンガマン」を単なる王道戦隊の「超面白い版」と思っていたら全然違っててビックリした」ということを仰っていましたが、そこまでの迫力を「ギンガマン」が持ち得たのはこの「力の源」を極限まで詰めたからです。


とはいえ本作単独でこれが実現したわけではなく、「ゴレンジャー」〜「メガレンジャー」までの21作を全て俯瞰して本質を見極めたからこそここまでの作品となったのではないでしょうか。
あの時黒羽翔氏が訴えたかったことを私なりに噛み砕いて改めて言語化してみましたが、やっと心の中でずっと引っかかっていたモヤモヤを言語化できたという感じです。
わざわざ言語化する必要があったのかと突っ込まれるでしょうが、仕方ないじゃんギンガマンが世界一どころか銀河一大好きなんだから。
今後どんなファンが出てこようが、どんな批評が紡がれようが、俺以上に「ギンガマン」を好きなファンなんて

いねえ!


そんなずっと変わらない思いを今回は「SF的に見てどうか?」という観点から掘り下げて語ってみました。
うん、「ギンガマン」についてだったらいっくらでも語れるなあと今回の記事を書いて感じた次第です。

 

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スーパー戦隊シリーズ30作目『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)13・14話感想

 

Task13「かぐや姫の宝」


脚本:大和屋暁/演出:坂本太郎


<あらすじ>
竹取物語かぐや姫が求婚者たちに探し出すようにいった5つの宝物のうち、なんと4つが怪盗セレネーに盗まれたことがわかった。しかも、怪盗セレネーはボウケンジャーに残るひとつの宝物をどちらが先に手に入れるか挑戦状を叩きつけた。勝負を受けたボウケンジャーだったが、リュウオーンも乱入してきて…。


<感想>
前作「マジレンジャー」よりサブライターとして参戦していた大和屋暁氏が参戦。


内容的には「かぐや姫」をモチーフとした物語になっているわけですが、現行作品が「桃太郎」モチーフということもあって今年は何かと日本昔話が特撮と絡んでいるのが面白いです。
前回バリバリの軍人である過去を見せたことでバリバリの裏番長に躍り出たさくら姉さんのインパクトの後だと、今回の蒼太ネタはちょっと弱いかなあ
全体のクオリティは可もなく不可もなしで、怪盗を名乗っていた女の子こそが実はかぐや姫でしたというオチは悪くないものの、それ自体がドラマとして密接に絡んでいるわけでもありません。
また、蒼太は今回1話の真墨と全く同じミスをやらかしているのですが、そのミスが「わざと」だったにしても事前にそれらしい前振りは欲しいところです。


チーフだけがそんな蒼太の真意に気づいていたという描写がありましたが、ここもやはり會川昇小林靖子が紡いできたチーフ像と違っているため、まだ掴み切れてない印象。
大和屋さんって「マジレンジャー」「トッキュウジャー」でもそうだったのですが、どうしても最初に参加する時はそのキャラクターの表面しか掴めてないような雑な脚本が多いです。
チーフって「頼れる有能なリーダー」というよりは「有能なリーダーと見せかけた冒険ホリック」であって、この人は人を見る目に関しては完全に節穴なのであまり信用してはなりません。
なにせ孤島の決戦で部下を出し抜いてプレシャス独り占めしようとしていましたし、さくら姉さんのメイン回でも本質を見抜けてないことを真墨と蒼太に突っ込まれてましたから。


あと、今回一番難しかったのが蒼太のさじ加減だったと思うのですが、蒼太もまた「ナンパ野郎と見せかけた詐欺師」なので、彼の一見自由闊達なサバサバとした振る舞いは全て虚構です。
だからこそ尻尾を掴まれてはならないし奥底が見えず、それでいて不思議さとミステリアスさを兼ね備えている独特の軽やかさこそが蒼太の魅力ではないでしょうか。
その絶妙なさじ加減をまだ大和屋さんは掴めていないようで、同にも怪盗セレネーに関する対応の仕方や振る舞いが典型的な詐欺師っぽい感じでちょっと違うのじゃないかと思いました。
まあ確実に「この人に迂闊に関わったら人生が破滅してしまう」というオーラを出していますが、女性に対する接し方はもう少しグイグイ行ってもいいんじゃないかと思ったところです。


リュウオーンの絡み方も微妙で印象に残りませんでしたしね……ただ、1つ気になったのがプレシャスのハザードレベルについてであり、これに関してちょっと考察してみます。
本作のハザードレベルは回によってバラバラなのですが、これまでに登場したプレシャスの数値は以下の通りです。

 

  • ゴードムの心臓……86
  • ゴードムの脳髄……130
  • 三国覇剣……120
  • マッドネス・ウェザー……不明
  • 帝国の真珠……不明
  • 縊(くび)……不明
  • 火竜(サラマンダー)の鱗……220
  • ヴリル……130
  • レオン・ジョルダーナの画帳……350
  • ハーメルンの笛……110
  • 月の羽衣と不死の薬……87


はい、ここから見ても分かるように一体どんな基準で数値化されているのか、大小の差はどこにあるのか全くわかりません(苦笑)
しかも11も登場していながらうち3つは数値化されていませんし、100を超えているものとそうでないものとの違いがわかりません。
読んで字の如く「プレシャスの危険度」を数値化しているのですが、「キン肉マン」「ドラゴンボール」がそうであったように、エンタメ作品における数値化って無理があるんですよね。
ボウケンジャー」をSF作品として見たときに微妙なのはまさにここで、例えばレオン・ジョルダーナの画帳は350と別格に高いですが、これはあくまでも写本でしかありません。


なぜそんな写本ごときが他のブラックボックスなプレシャスよりもレベルが高いんだよって話なんですが、この数値自体サージェスの基準で適当に決められたものではないかと思うのです。
そもそも経済学や数学・物理学などに詳しい人間でもない限り、下手に数字を扱ってしまうとろくなことになりませんが、本作はまさにその典型ではないでしょうか。
不明となっているのはいわゆるスカウターが限界を振り切ると壊れるようなものと同じで、数値化が不可能かもしくは数値で測れない何かがあるかというところでしょう。
特にマッドネス・ウェザーなんて自然現象を操っていますから4桁は行かないとおかしいというレベルのことをやっていたわけですからね。


本作のメインは別にバトルではないので「戦闘力」ではなく「プレシャス」を数値化しようという試みはいいのですが、決してうまく行っているとはいえません。
この辺りがSF作品として見た場合本作のとても作りの甘いところであり、イマイチ傑作クラスに跳ねられない理由にもなっています。
総合評価はD(凡作)、この内容だったらもっと盛り込んで面白く工夫できるのではないかと思い評価は辛めです。


Task14「甦る過去」


脚本:荒川稔久/演出:坂本太郎


<あらすじ>
伝説のエネルギー鉱石・アメノカナヤマノハガネの情報を手に入れたボウケンジャー。早速探索に向かうが、そこにはすでにダークシャドウが待ち構えていた!ヤイバとシズカの連係攻撃の前に崖から転落してしまう菜月。なんとか命は助かったが、暁たちとははぐれてしまう。そんな菜月の前に縛り上げられたひとりの少女が…。


<感想>
今回は久々にやってきた真墨と菜月ネタで、前作「マジレンジャー」以来となる荒川脚本ですが、前回よりはまあまあのクオリティとしてまとまっていました。


真墨の過去が暴かれてしまうわけですが、個人的にはぶっちゃけあまり好みでないタイプの話の持って行き方で、どうにもこういう「キャラ萌え」というのが私は苦手なようです。
荒川脚本って元々アニメ畑なのでそれを戦隊シリーズなどの特撮作品にも持ち込んでしまうところがあるのですが、本作の真墨と菜月はキャラ付けが確かにアニメっぽいためそう見えるのでしょう。
ただ、真墨が単なるありがちなツンデレキャラにされてしまっていたり、菜月の悪気のない天然毒舌みたいなキャラクターが苦手なこともあって、私からすると正直嫌いです。


今回の話などから見るに菜月の天然ぶりってどっちかというと「優しい」というよりは「無自覚に相手の地雷を踏んでいることに気づいていない」というタイプなんですよね。
真墨や蒼太が割と捻くれ要素が多いためにそういうキャラ付けにされているのでしょうが、あまりにも純度の高すぎる天然は好きじゃありません。
こういうタイプって時としてズカズカと相手の地雷を踏んでしまうところがあるから、仕事はともかくプライベートでは絶対に関わりたくないです。
まあラストで特製のデザート作ってやらかしてしまうドジっぷりで真墨へやったことに対しての罰が下るところは見ていてスッキリしました(笑)


そうだ、もっと苦しめ、菜月みたいなタイプはもっと横っ面張り倒されて痛い目に遭えばいいんだ、カッカッカ!


なーんて言いながら、まあ話そのものはエンタメとしてそこそこのクオリティでまとまっており、総合評価はC(佳作)といったところ。
前回配信分までが良くも悪くも濃すぎたため、どうにも箸休めのための箸休めで毒にも薬にもならない2話でした。

 

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スーパー戦隊シリーズ39作目『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(2015)15・16話感想

 

忍びの15「妖怪、ワタシ失敗しないので」


脚本:下山健人/演出:竹本昇


<あらすじ>
牙鬼家家老・晦は今度はオトモ忍をターゲットにした。誕生させたのは妖怪フタクチオンナ、「私……失敗しないので」と交渉には自信満々の様子。フタクチオンナはロデオマルに近づき契約を結んでしまう。そして暴走を始めてしまったロデオマルを止めるために、スターニンジャ―にも契約書をつきつけるのだった。助けるべく交渉に来たニンニンジャー頭脳コンビ・八雲&霞の策は……?


<感想>
やっと少しはまともな「駆け引き」を描いてくれたかと安心しました。


今回霞メイン回を改めて描いてきたことである程度立ち位置というか、どういう位置づけにしたいのかが見えました。
同時期に連載を終了していた「NARUTO」と比べるのはあちらに失礼だと思うのですが、何となく作り手は天晴をうずまきナルト、八雲をうちはサスケ、霞を奈良シカマルの女版と見立てているのかなと。
下山健人自身もジャンプを10話だけ執筆した頃がありましたし意識は多少なりあったでしょう……となると、やたらにツッコミを入れる凪は春野サクラで地味な凪は犬塚キバポジション?
まあそんな与太話はどうでもいいとして、内容は今までより少しだけまともといえばまともですが、ただ今までに溜まった負の遺産を覆すほどの出来ではありません。


天晴がオトモ忍に乗ってロデオ丸と戦うというのも何となくナルト第一部のナルトVS我愛羅の形だけを真似たパロディと言えなくもないですしね。
シノビ丸の肩に乗っかりながら戦うアカニンジャーなんて完全にナルトとガマ吉でしたし、それを特撮作品の枠で擬似的に再生させた点に関しては褒めてやらなくもありません。
それから霞に関しては、多分「戦闘力が最強」というより「頭脳と戦略がずば抜けて高い」という感じで、力だけなら天晴・八雲・キンジに負けているんですよね。
だから真っ向勝負には向かないけれども、こういう風にテクニカルな駆け引きや策を張り巡らせた戦い方は彼女に一日の長があるという感じでしょうか。


ただ、そうなると今度はどうしてもその4人に比べて目立った特徴らしい特徴のない凪と風花が問題となってくるのですが、風花はともかく凪はやばくないか?
凪は本当に今のままだと単なる薄いツッコミ要員でしかなく、ムードメーカーとしてもタカ兄とキンジがコメディリリーフ成分強すぎるせいで割を食ってる印象に。
天晴はとにかく「清々しいまでにバカ」というのだけは一貫していて、そこだけは数少ない美点として評価しています、間違っても優秀なリーダーなんかではないけれど(笑)


今まで何だかんだ「力こそパワー!」みたいなゴリ押し展開に持って行きがちなところで、きちっとひねってテクニカルな策略を盛り込んできたのは悪くなかったです。
下山脚本は基本的に信用も評価もしていませんが、たまーにこういう悪くないヒットを打ってくるところが妙に小賢しくてムカつきます(笑)
総合評価としてはC(佳作)、やっと及第点クラスになってきたとはいえ、まだまだ基本的なキャラ造形の問題などは解消されていません。


忍びの16「父ツムジはスーパー忍者!?」


脚本:毛利亘宏/演出:竹本昇


<あらすじ>
晦の次なる作戦はニンニンジャーを尾行しアジトを突き止めることだった。戦いを終え散らばる天晴たちをジュッカラゲが追う。天晴と風花は父の日のプレゼントを買いに向かうのだが……一方旋風はスーパーへ夕食の買い物に出かけた。そこに降ってくる雨、「ご自由にお使い下さい」と横にあったカサは実は……旋風が忍者となって大活躍!?


<感想>
毛利さん、残念ながら本作で描いて欲しいのはそういう物語じゃないんですよ!


今回は思わずそう叫んでしまいましたが、今回の話は1話単位で見ればそこそこにまとまった良作だと思うのですが、何せ今までが今まですぎて全く説得力のない展開になってしまっているのが残念。
そもそも本作「家族愛」なんて「いい話」でまとめられるほどストーリーもキャラクターもそんなに王道の正統派として描かれていたわけではないと思うのですが……。
ニンニンジャーのアジトを付け狙う作戦にしても旋風の活躍にしても親子の絆にしても、1クール目からすでにそれに対して否定的というか斜に構えた描かれ方をしてきました。
まずアジトを付け狙う作戦にしても、そもそも第一話冒頭で実家爆発をやってしまっている以上、今更チマチマとアジトを付け狙われる作戦にしたところでしょうもない印象しかありません。


「家族を思う気持ちが奇跡を起こしたのかもしれやせんね」


一番家族の絆を引き裂ことしているキンジがこれを言っているところが実に本作らしいのですが、こんな程度で納得できるような形になっていませんよ本作は(笑)
だって歴代戦隊には「ファイブマン」「ゴーゴーファイブ」「マジレンジャー」のように年間通して「家族の絆」に真正面から取り組んだ作品はあったのですから。
それに前作「トッキュウジャー」も本テーマではないにしても「故郷に帰る」「家族との再会」というのをテーマにして描いていたわけですしね。
でも本作はそこまで家族の絆を強調して描いてきたわけでもないですし、むしろ「ラストニンジャの称号を偉るためなら家族であっても容赦無く殺せ」が主要な価値観かと思われます。


ラストの親子3人で仲良く買い物に出掛けるシーンや親子旋風は悪くないのですが、そこに至るまでのキャラクターの積み重ねが欠落しているため全く劇的なシーンになりません。
そもそも旋風にしても「普段はダメダメだがいざという時頼れる父親」というよりは「単なるダメな父親」としてしか描かれていないので、本気を出すシーンに説得力がないんですよね。
それこそ最近ブログで扱っている「ドラえもん」ののび太くんがそうであるように、「普段はダメだけど意外な才能のある天才キャラ」はとてもさじ加減の難しいキャラです。
あの藤子先生ですらその辺は嫌味にならないようバランスを取って描いていたのに、本作のこの持って行き方だと「だったら普段から本気出せよ」と思ってしまいます。


こういう「能ある鷹は爪を隠す」みたいな「普段はダメだけどいざという時はすごい」系のキャラっていかに普段弱いことへの説得力を出すかにあるんですよね。
普段のダメダメぶりがあるからこそいざという時に出すカッコよさが映えるわけで、本作の旋風は役者の演技力としてもその領域には至っていなかったなと。
ご家老の軍師としての用意周到さなどはいいと思うのですけど、本作は「親子の情愛」なんてものでどうかなるようないい話は描かれてこなかったわけですし。
むしろ「血筋こそパワー!」「天晴万歳!」が基本理念なので、家族というものがいい意味ではなく悪い意味で用いられてしまっています。


そのため、本作が「正統派の家族系忍者戦隊」としてだったらそこそこいい評価にできたと思うのですが、初期から下山脚本が提示してきたものがそれと物凄く相性が悪いのです。
どうしても打ち消し合ってしまい、最終的には悪いところしか残らず、評価としてはE(不作)以外の評価を下すことはできません。

 

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「考えるな、感じろ」は怠け者の言い訳ではない

本日も楽しく「ニンニンジャー」酷評の記事を書こうと思っていたのですが、今日Twitterで久々に反応しがいのあるTweetを見つけました。
本人の名誉の為に引用はしませんが、要約すると内容は「考えるな、感じろ」という、かの偉大なる武道家にして哲学者でもあったブルース・リーの名言です。
「ごく一部の特撮オタクはやたらに設定や脚本・演出がどのようなロジックで成り立っているかに目を奪われてしまいがちだから、もっと素直に感じろ」と仰りたいのでしょう。
まあよく居るんですよ、この手の「セリフの奥に込められた真意」を探ろうともせず、安易な自己正当化の理屈として用いてしまう人って。


しかもその人は「大人になっても子供のような感性を忘れないでいることは尊い(意訳)」みたいなことを言ってもいたのですが、私からすれば笑止千万ものです。
その癖自分はプロフィールに「考察流しちゃいます」みたいなことをプロフィールに書いて、その主張と相反するように大人の見解で特撮を読み解くということをやってすらいます。
こういうのを典型的な「二枚舌」というのですが、文面などから察するに「一見大人の理屈で語ってるが、実は子供に寄り添える俺カッコいい」という謎の優越感を覚えているのでしょう。
しかし、私に言わせればそれは五感でしっかり感じ取って楽しむことを推奨しているのではなく、単なる思考停止の末の幼児退行を押し付けているだけです。


あまり人の見方にどうこう口を出すのも大人気ないとは思うのですが、しかし当の本人が理屈で考察する見方を露骨に否定して感性>理屈を主張してくるものだからそりゃ腹が立つのも当然でしょう。
言い分から察するにその人が批判の対象としている「特撮オタクの本当に一部の人」に私も含まれているでしょうから、これはもう紛うことなき私への挑戦状と受け取り、真正面から受けて立ちます。
その人がどんな人生を歩んで来てその意見を発するに至ったのかは知りませんが、私の中のアースが今心の中で覚醒してしまった以上、ぜひとも炎のたてがみで焼き尽くしてやろうじゃありませんか。
今まで見て来た私の大好きな作品から「五感で感じ取り、そこから考えに考え抜いたもの」を根拠にしつつ、その人が発した意見に対して一石を投じてみせようではありませんか!


総じて今回のテーマはタイトルにも書いた通り、「「考えるな、感じろ」は怠け者の言い訳ではない」です。
それでは以下具体的に解説していきます。

 


(1)「考えるな、感じろ」の原典


まずその人が意訳として主張している「考えるな、感じろ」が映画「燃えよドラゴン」の有名なあのシーンに由来することはエンタメ・サブカルに詳しい人であれば誰もがご存知でしょう。
ブルース・リーの代表作にしてある意味で集大成でもある「燃えよドラゴン」は映画史に残る作品ではありますが、同時に様々な誤解を招く作品になってしまったようにも思われます。
功罪の強い作品ですが、中でも「考えるな、感じろ」のあのシーンに関しては時代が下れば下るほど勘違いする人も多いのではないでしょうか。
まずは原典となったシーンを動画とともに紹介してみましょう。

 

www.youtube.com


元々は師匠のリーが弟子に対して教えを説くシーンで出て来たセリフですが、どうにもこのシーンはそこばかりが一人歩きして前後の文脈が排され、間違った解釈が伝わっているように感じられます。
このシーンは寧ろその前後に出てくる「怒りではなく五感を研ぎ澄ませろ」「月を指差すのと似たようなものだ」「指に集中するんじゃない、その先の栄光が得られんぞ」があって初めて成り立つのです。
ブルース・リーがここで弟子に教ようとしているのは目に見えるものではなくもっと内奥にある本質的なものを見極められるようになれという、それ自体は至極当たり前のことを説いています。
しかし、その当たり前のことは意見だけを聞けば「なんだ、そんなの分かり切ったことじゃん」と反論されるかもしれませんが、その当たり前こそが最も尊く大切なものなのです。


この「考えるな、感じろ」が日本だと特に「理屈ではなく感情で感じ取れ」ということばかりが肥大化されて伝わった結果誤ったイメージばかりが伝わっている気がしてなりません。
しかし、そもそもこの一連のシーン、そしてこのセリフが成り立つのは道家として、そして哲学者として考えに考え抜き研鑽を続けたブルース・リーだったから辿り着けた境地なのです。
喧嘩に明け暮れ、その中で学ぶことの重要性に気づきたくさんの本を読み漁り格闘技と哲学を融合させて「ジークンドー」という独自の格闘スタイルを築き上げたブルース・リー
そんな彼がたどり着いた1つの到達点としてたどり着いたからこそこの1シーンが成立するのであって、このシーンを真に理解するにはこの作品以外にも様々な作品を見る必要があります。

 

氷山の一角


このイラストを見ていればわかるように、「考えるな、感じろ」およびその前後に示されている1シーンは所詮氷山の一角でしかありません。
しかし、その氷山の一角の背景には95%の目に見えない様々な試行錯誤や歩んで来た道のりがあるわけであり、それを受け手は嗅ぎ取って読み取る必要があります。
その95%の部分を全部は無理にしても大筋の70〜80%程度までをきちんと汲み取ることができた時、初めてこの「考えるな、感じろ」にまつわる一連のシーンの真意に近づけるのです。
逆にいえば、そのような読み解きを受け手が行わず安易なエクスキューズとして「考えるな、感じろ」を用いてはなりません。


しかし、件のTweetをなさっている方はその辺りへの想像力を欠いたままこちらに「理屈で考えるのではなく感覚で掴め」などと要求してくるのです。
偉そうに……お前はブルース・リーでもなければどこぞの教祖様でも先生でも、そして人知を超越した神様でもないだろうが!!
たかが特撮作品が好きなだけの1ファンの分際で何をいうのかと思えば、一見もっともらしいことを説いているようで所詮は詭弁なのだよなと。
言ってみれば陰キャを見下す陽キャの行動原理みたいなもので、「特撮オタクの心理を理解できる」風を装いつつ奥底では「へ、所詮特撮オタクなんてこんなもんだろうが」と見下しているだけ。


人間、誰しもが他者を自分の思うがままにしたい、それこそ昨日ののび助の記事で紹介した支配欲ではありませんが、それに近いものを感じるのです。
そもそも原典にある「燃えよドラゴン」の一連のシーンは決して普段から考えない怠け癖のある人間が都合よく使っていいものではありません。
それをしてしまえば単なる曲学阿世(世に阿って学を曲げる)」でしかなくなり、以前にこちらの記事で批判したと学会の連中と大差ないものになります。

 

gingablack.hatenablog.com


(2)日本の代表的な作品で表現されている「考えるな、感じろ」の例


さて、日本の代表的な特撮・アニメ・漫画作品の中で「考えるな、感じろ」の代表として表現されているシーンをいくつか抜粋・紹介してみましょう。


①明鏡止水(『機動武闘伝Gガンダム』)

 

明鏡止水


②獣装光ギンガマン(『星獣戦隊ギンガマン』)

 

獣装光ギンガマン


③天衣無縫の極み(『テニスの王子様』)

天衣無縫の極み


④トッキュウ1号レインボー(『烈車戦隊トッキュウジャー』)

 

トッキュウ1号レインボー


⑤身勝手の極意(『ドラゴンボール超』)

身勝手の極意


⑥太陽神ニカ(『ONE PIECE』)

 

太陽神ニカ


いくつか抜粋してみましたが、他にも探せば例はあるでしょう。今回抜粋したのはあくまでも「私の中の」ということでご容赦願います。
この中で特に「考えるな、感じろ」のニュアンスが強いのはやはり明鏡止水と天衣無縫の極み辺りが挙げられるでしょうか。
明鏡止水は怒りが原点にあった超サイヤ人などの金ピカパワーアップを「怒りを消化したもっと潜在的な格闘家の到達点」として定めました。
ただし、この境地にたどり着くためにドモンは様々な喪失と試行錯誤、敗北を繰り返して来たわけであり、東方不敗に教わった10年間の教えの総決算として明鏡止水に至るのが素敵なのです。


そして天衣無縫の極みに関しても同様に、越前リョーマは単に「テニスが楽しいから」だけであの境地にたどり着けたわけではないことは明白でしょう。
ずっと父親に負け続きでテニスに真の楽しさを見出せなかった越前リョーマが自分の父親以外の手塚国光という相手に初めて負け、それで「負ける悔しさ」を実感したのです。
その上で「青学の柱になれ」という言葉によりリョウマの闘争心、具体的には「勝ちへの執着」が刺激され、そこからリョウマは初めて「真のテニスプレイヤー」になる決意をします。
そうして様々な強敵との戦いを乗り越え、チームとしての思いを背負い、その末に記憶喪失と五感剥奪という「テニスができなくなる苦しみ」を味わったからこそ「テニスの楽しみ」を感じ取れたのです。


ほかの作品も表現の方法は違っていても本質的には同じものであり、要するに「圧倒的な快楽にたどり着くにはその真逆にある圧倒的な苦痛も味わう必要がある」ということでしょう。
逆にいえば「考えるな、感じろ」とは「まずは考えろ」がベースにあり、己の強さをとことんまで考え抜き鍛え抜いた者が最後の最後で五感で感じ取るからこそ有意義なものなのです。
しかし、ほとんどの人がここにたどり着けないか、わかっていたとしても所詮頭の部分での理解に過ぎず、腹に落として実践し体現・表現するレベルには至っていません。


(3)左右極限を知らねば、中道に入れず


これらを総合すると導かれるのは仏教で教えられている「左右極限を知らねば、中道に入れず」ではないでしょうか。
仏教の言葉で「圧倒的な光を味わうためには、その真逆にある圧倒的な闇を経験しなければ真ん中にある普遍の真理にたどり着くことはできない」という意味です。
これは現代人の感覚ではどうしても共感されにくいもので、例えば物欲・性欲・睡眠欲・支配欲・独占欲等々人間の欲望は無限です。
ここで下手に常識を働かせて抑制するのではなく、何事も飽きるまでとことんやってみることが新たな境地へと繋がっていきます。


だから、「考えるな、感じろ」を本当に実践してみたいのであれば、まずはとことんまで考え抜いてみてください。
周りからは「何言ってんだこいつ?」「理屈ばっかこねやがって、雑語りじゃねえか!」なんて突っ込まれても私は正直構わないと思っています、というかそういうツッコミが出てくるくらいが丁度いい。
たとえ中途で試行錯誤があっても失望されてもいい、自分がとことん満足するまで、飽きるまで考え続けることをやってみればいいのではないでしょうか。
むしろそこまでやらなければ真に感じ取る悟りの領域に到達することはできないし、逆にいえば真に感じ取る作業もしてみなければ考えることもできません。


理屈っぽい?大いに結構、逆にいえば筋道立てて物事を考えることができるということだし、筋道立てて物事を考えられればその逆の心をまっさらにして感じ取ることも可能になるわけです。
逆にいえば、普段徹底的に自分の殻を閉じている人間こそが実はいざという時に自分の蓋を取った時に解放される力の反動が凄まじいということになります。
普段が優しい人ほどなぜ怒った時に怖いのか、そして普段厳しい人が不意に優しくした時になぜその優しさに引かれてしまうのか、それは正に左右極限を知っているからこそです。
それこそこないだ紹介した「ゲインロス効果」や経済のインフレデフレも似たようなもので、常に過大と過小を行ったり来たりしながら真ん中を目指していきます。


そこで最初の話に戻りますが、真に特撮作品の良さを感じたかったらもっと目を研ぎ澄ませて画面に目を凝らし、脚本・演出・役者などあらゆる観点から作品の仕組みを徹底的に読み解いてみましょう。
そして、その上で改めて最後の段階として映像を肌感で感じ取るということをしてみると、確かにその作品を真に楽しめるということになっていくのかもしれません。
しかし、最初に私が言及した方はその試行錯誤の段階を最初からすっ飛ばして端から思考停止で作品を感性で楽しめということを強要してくるのです。
感性と理屈、どっちかが大事なのではなくどちらも大事であり、どちらかを捨ててしまえばそこから真に面白い解釈や批評は生まれてきません。


まずは自分が知らないことを知ること、創造の前に破壊あり、感じる前に考えることあり、その全てがとても大切なことではないでしょうか。
感覚と理屈、そのどちらかを否定してどちらかを正しいと定義することはその時点で既に真理から遠ざかっていることを心がけておきましょう。

原作「ドラえもん」レビューその②〜繰り返される野比家の失敗〜

ドラえもん」という作品を見ていると、好みでないなりに色々考えさせられるのですが、その中でも大きく考えさせられたのが36巻に収録されている「のび太の息子が家出した」の話。
あらすじは怠け者ののび太に父親ののび助が痺れを切らして説教してしまい、大目玉を食らったのび太が家出をしてしまうという、実はこれ自体はそんなに珍しいことではありません。
のび太が息苦しい家庭環境に嫌気が差して家出する話はそれ以前にも何本か書かれていましたし、のび太の家出話では10年も無人島で暮らしていたあの話が一番印象に残っているからです。
今回の話はのび太の家出そのものではなく「親の心子知らず」「子の心親知らず」がテーマですが、今回のレビューは「なぜ野比家の家出が繰り返されるのか?」を中心に考察します。


結論からいえば答えは「そもそも根本的な原因をきちんと親子間で話し合っていないから」であり、一種のディスクコミュニケーションが孫の代まで繰り返されているからです。
今回の話のきっかけはのび太の父・のび助がのび太にガツンと説教したことがきっかけですが、そのコマがこちら。

 

のび助の説教


セリフの内容だけ見ているとかなり酷いことを言っているので今だと確実に表現の規制に引っかかってしまうと思われますが、一見のび太が可哀想に見えて実は一番可哀想なのは他ならぬのび助です。
なぜならばのび助は他ならぬ「画家の夢を挫折して平凡サラリーマンとして生きざるを得なくなった男」だからであり、もしのび太の母・玉子と結婚していなければ天才画家として名を馳せていたでしょう。
しかし、彼は単に「絵を描くのが好き」なだけであって「画家として生計を立てていきたい」というわけではなく、予定されていた女性との結婚を諦めて平凡サラリマーンへ成り下がる道を選んだのです。
現代の視点で見ればのび助の選択は愚の骨頂としか言いようが無く、画伯になり得る才能を持ちながらそれを自ら断念してしまうという方向へ進んでしまったからだといえます。

 

のび太の両親の馴れ初め


そんなヘタレっぷり故に会社では安月給の平社員に甘んじてしまい家庭では玉子の尻に敷かれ、息子ののび太は怠け者で自分の思ったように動いてくれないという有様です。
一見恙(つつが)なく平穏無事な家庭のようでいて、実は相当堕落している問題ありまくりの家庭が野比であり、ドラえもんが来る前までは本当に悲惨な家庭だったと思われます。
のび助がうだつの上がらないサラリーマン人生を送っており、内心妻に頭が上がらないことを屈辱だと思っているのは酒を飲んだ時にやたらと饒舌になり亭主関白を宣言するあたりにもあるでしょう。
しかし、すっかり玉子の尻に敷かれてしまっているのび助は画力も落ちぶれており、まるで修行をサボってフリーザごときに簡単に敗北してしまうほど弱体化したどこぞの地球人とサイヤ人の混血児を彷彿させます。


皮肉なことにのび助は自分の「好き」と「得意」が「仕事」へと合致しなかった悲しい例であり、もし画家として生計を立てていたら超一流の画伯として大成していたかもしれないのです。
その場合そもそも玉子と結婚しなかったでしょうしのび太も生まれてこないため「ドラえもん」のストーリーが根本から破綻しますが、逆にいえばそれが「ドラえもん」の根底にあるものだとわかります。
要するに「ドラえもん」とは「のび助が人生で大きな挫折を経験してしまったが故に生じたIF」であって、のび太が天才的な才能を持ちながらも落ちこぼれ扱いされる理由はそもそも父親のダメっぷりが原因です。
のび助にしろ玉子にしろ息子に偉そうに説教できるほどの学生時代を送っていたわけではないと思われ、特にのび助に関しては「画家の夢挫折したお前がいうな」と誰もが突っ込みたくなるでしょう。


親が子供にガミガミ説教するのは「自分がそれをできなかったから子供には立派な人に育って欲しい」という願望が裏にあるわけであり、その思い自体は悪いものではありません。
しかし、それも度が過ぎるともはや「子供を自分の意のままに支配したい」という支配欲の塊になってしまい、これが野比家の両親、特に玉子が「毒親」と現代的な視点で批判される理由です。
だからのび助は「のび太には自分のように情けない人生を生きて欲しくない」ということであり、それを未来世界で父親となった自分の思いや、のび太の孫の登場で知ることになります。
つまりのび太は未来世界の自分を知ることでようやくのび助が説教した真意を理解するに至るわけですが、これが「いい話」なのかというと決してそうではないのです。


問題はなぜ野比家の失敗が繰り返されてしまうのかですが、これは結局のところきちんと野比親子が真正面から腹を割って自分の本音を話す機会がなかったからではないかと思われます。
ドラえもん」の親子や学校での価値基準が昭和時代の詰め込み教育に基づく「勉強して100点取ったら偉い」にあることは明白ですが、「ではなぜ勉強しないといけないか?」をのび助は説いていないのです。
それが同時に「ドラえもん」という作品、そして藤子・F・不二雄先生の作家としての限界であり、このテーマに真正面から取り組んだのが「金八先生」だったのかもしれません。
勉強することは確かに大事ですが、その勉強が将来大人になって社会に出たときに何の役に立つのかをきちんと子供が納得できる形で提示しなければ根本的な解決にはならないのです。


言っておきますが学校のテストで100点を取ったり成績が学年トップだったり、あるいは生徒会長だったり委員長だったりといったことは社会に出れば何の役にも立ちません。
なぜそんなことをするかといえば精々が「先生に気に入られたい」「内申点が欲しい」といった「いい子」でいるためであり、学校という極めて閉鎖的なコミュニティの中でしか通用しないものです。
社会に出て大事なのは「仕事ができるかどうか」であって、たとえ勉強ができなくても仕事ができる人もいますし逆もまた然りで、学力と社会に出てからの仕事の能力はまた異なります。
しかし、社会に生きていける基礎基本の習慣や物の見方や考え方・生き方の根源を学ぶという点において学校へ通うことは大きな意味があるのです。


だから勉強ができないよりはできた方がいいののですが、大事なのはその勉強で身につけたものをどうやって社会に出てから武器として生かしていくのかにあります。
そこの視点を欠いてただ上から一方的に「勉強しろ」と頭ごなしに叱りつけても無意味であり、その根本の部分を修正しないから孫の代になっても同じ失敗が繰り返されるのです。
ドラえもんが来たことでのび太の運命は変わりしずかちゃんと結婚できることが現実的にはなったものの、どうやらそれはそれでまた別の問題が発生するようです。
のび太の息子が「口うるさいババアに」と言っていたことから、しずかがのび太と結婚したらそれこそ玉子さんのような教育ママになりのび太は尻に敷かれるんでしょうね(笑)

スーパー戦隊シリーズ46作目『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)第9話感想

 

ドン9話「ぼろたろうとロボタロウ」


脚本:井上敏樹/演出:田﨑竜太


<あらすじ>
「喫茶どんぶら」に配達にやってきた桃井タロウ(樋口幸平)は、よろよろとした足取りで倒れてしまう。そんな中、街に特命鬼が出現。ドンブラザーズが応戦するが、ドンモモタロウには気力がなく、簡単に吹っ飛ばされてしまう。さらに、特命鬼にはなぜか攻撃が通用しない。タロウの様子がただ事ではないと思った鬼頭はるか(志田こはく)と猿原真一(別府由来)は、桃井陣(和田聰宏)に話を聞くことに。タロウの病気を治すため、はるかたちはレシピを参考にあるものを作ることに。


<感想>
オトモさん、オトモさん〜♪
サ店で作ったきびだんご、300オレに食べさせろ〜♪


今回の話の内容を桃太郎の歌で表すとこれに尽きます、というかそれ以外に基本的に中身のない回なので、前回に比べると正直微妙だったかなあ
前回はわかりやすくみほと夏実を軸にして雉野と犬塚を対比させ、最終的に雉野の心の闇を明らかにするという構成が非常にぴったりとハマりました。
それに引き換え今回は単なる設定紹介やイベント消化に終始していて、ドラマとしての面白みがほとんどないに等しいので、そこを楽しめないと辛いです。
「へえ、そうだったんだ」という設定紹介はなされていましたが、演出のメリハリが今ひとつで、戦闘の演出もテンポが悪く冗長気味で間延びしたような感じに。


唯一ラストの「ジェットマン」のバス次元の回のセルフパロディのホラーシーンでゾクッとはしたものの、そこ以外が大して面白くありませんでした。
それからゼンカイブラックの変身にしてもわざわざこの回で盛り込まなくてもいいような……井上先生が仕込むギャグ自体は嫌いじゃないものの、時としてこういう物語の流れを阻害する流れがあるのは何だかなあと。
シャンゼリオン」「アギト」の頃とかそうでしたけど、井上脚本スラップスティックは浦沢脚本のそれと違ってアイデア力というか現場の空気感と役者の力で成り立っている部分が大きいです。
逆にいえば、役者や監督が面白くできなかったら完全に滑ってしまうというものなので、その意味では今回のギャグは全体的に滑っていたなあと……「タイムレンジャー」のユウリギャグ回もそんな感じでしたし。


ところで、桃井タロウがまさか某「Fate」シリーズみたいにきびだんごかそれに匹敵するエネルギー源を供給しないとぶっ倒れて動けなくなるなんて面倒臭い設定がくるとは思いませんでした。
「桃太郎がお供に食べさせる」のではなく「お供が桃太郎に食べさせる」というひねりもさることながら、ヒーローとしてあれだけ圧倒的な強さの裏にはこの美味しいきびだんごパワーがあったのだと納得です。
やはり、大きい力を発揮するにはそれ相応のエネルギーを供給せねばならず、そりゃあタロウもそれだけ食べようというものですが、こう見ると益々ドンモモタロウ=桃井タロウが戦闘民族じみてきますね。
しかもただのきびだんごじゃなく、きちんと臼と杵を使って丹精込めて作った手作りでなければならないという設定を見て、「あれ?これどっかで見たなあ」と思ったのです。


そう、「カーレンジャー」の巨大化アイテム・芋長の芋羊羹!


今回のモモタロウにフルパワーを出させるには手作りのきびだんごじゃなければならないという設定を見て連想したのはそれであり、「カーレンジャー」の芋羊羹にも実は細かい設定があるのです。
それは芋長の職人が丹精込めて作った手作りの芋羊羹でなければ巨大化できず、コンビニで買った市販の芋羊羹や腐った芋羊羹では逆に縮小してしまうというデバフ効果があります。
終盤ではこの設定を44話で曽田先生がお書きになった菜摘のモンキーレンチと対比させる形で、エグゾスの最終決戦での伏線回収も兼ねた最高のギャグとして勝利の切り札になりました。
何となくですが、地球の食べ物、特に日本の和菓子というのは職人の手作りによって作られるだけではなく大自然の力もありますから、それだけで大きなエネルギーとなるのではないでしょうか。


それこそ「戦隊シリーズと食生活」というのが直結している作品は少ないにしても、この設定で思い浮かべるのはやはり「ジェットマン」「ギンガマン」「ゴーオンジャー」「シンケンジャー」辺りです。
例えば「ジェットマン」では雷太が作った美味しい野菜が出てきており、彼が純朴な性格に育ったのも農家で小さい頃から健康的な食生活をしてきたからだろうと考えられます。
ギンガマン」ではわかりやすく料理担当のゴウキがいて「ギンガの森風」という形でレシピを工夫しており、健康的な食生活をしているからこそリョウマたちが存分に戦えることが示されていました。
ゴーオンジャー」ではわかりやすく貧乏組のゴーオンジャーと富裕層のウイングスに分かれていて、美羽が走輔に対して次のようなセリフを言っています。


「ヒーローは人を幸せにする使命がある。人を幸せにするなら、自分も幸せの何たるかを知らねば」


要するにノブレスオブリージュ、「足るを知る」を説いているのですが、実際十分な食生活をしているかどうかで戦士が使える戦闘力には大きな差が出たりするものです。
そして次作「シンケンジャー」では寿司や精進料理、お節などが当たり前でしたから、やはり侍たちも食生活を含めて金銭面はかなり充実していたのではないでしょうか。
歴代戦隊における食生活というのをいくつかの例を参照してみましたが、やはりプロフェッショナルと呼ばれる戦隊ほど高級料理というかきちんとした健康的な食生活をしている傾向にあります。
そういう意味で、今回出てきたドンモモタロウが圧倒的なパワーを振るうためにはお手製のきびだんご300個が必要という設定は一見突飛なようでいて、実は割と合理的だと思うのです。


そして今回のヒトツ鬼には実体がなく、入院していた老人の過去の悪夢が形となって出てきたものだとしたことで、鬼ごっこやだるまさんというルールに則らないと勝てないというのにも納得できます。
ただ、ロボタロウをここで出す必然性としては薄いので、その辺りはもう1つ物語としての補強が欲しかったところではあり、そこらへんの玩具反則とドラマの関連性の弱さは本作の明確な弱点でしょうか。
前回メンヘラであることが発覚した雉野と犬塚は完全に蚊帳の外ということで、メンバー内の関係性が赤青黄の信号トリオと黒桃のアングラコンビに色分けがなされているようです。
総合評価はC(佳作)、アイデア自体は面白かったものの物語としての面白さとしては今一つであり、バラバラの設定が今後有機的に結合してくれることを期待します。

 

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スーパー戦隊シリーズ16作目『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)15・16話感想

 

第15話「破れ!暗黒超剣」


脚本:杉村升/演出:坂本太郎


<あらすじ>
魔界最強の剣・デュランドルを手にしたドーラナイトがゴウシに戦いを挑む。少年シゲルは、大ピンチの大獣神を救うことができるのか?


<感想>
伝説の武器、2クール目にしてあっさり弱体化(笑)


ごめんなさい、ゴウシの過去とかシゲル少年をコックピットに乗せたこと云々とかが全て吹っ飛ぶ勢いで伝説の武器が役立たずと化してしまったことの方がだいぶ問題でした。
とはいえ、「ギンガマン」も2クール目に入ると自在剣機刃が弱体化してましたし、まあこの辺りはしょうがないのかなあとも思うところではありますが。
それだけこのドーラナイトが規格外に強かった証拠でもあるので、最終的なところで大獣神に頼らないと勝てないというジュウレンジャー側の思わぬ弱点が露呈した気がします。
ただ、ナイトとしての宿命を受け持つゴウシと一般人の少年であるシゲルを重ねろというのは正直な話無理があるのですけどね。


杉村先生は今回の話に限らず、いわゆる「親なし子」を好んで出したがりますが、普通身寄りのない子供って少年院や孤児院みたいな施設に預けられるのでは?
あと、頑張る地力がまだない少年に「強さ」を強要するのも私は違うと思っていて、流石に今回の話は描きたいことと視聴者の受け取る印象が食い違っている感じです。
ただし、うまいなあと思ったのはそのドーラナイトが創造主であるシゲルに逆らうことができないという弱点によって逆転のきっかけを与えていることにありました。
こういう場合って何かしらの新アイテムだったり気合い・根性といった部分で乗り越えたりしがちですが、そうではなく「創造主に逆らえない」というルールが見事です。


また、今回で改めてしっかりと示されたのがバンドーラ様の悪辣ぶりであり、バンドーラ様はいわゆる「悪役だけど憎めない」ではなく「天性の悪戯っ子が魔女になった」という造形になっています。
だから「カーレンジャー」のボーゾックと似て非なる部分というか、ボーゾックが「バカゆえに想像力が欠如している」のだとすれば、バンドーラ様はむしろ「想像力がありすぎる故に悪事を軽々と思いつく」タイプです。
コミカルなキャラクターとして演じられているというところが共通しているものの、バンドーラ一味とボーゾックは本質的に正反対の悪であるということに気づかされます。
バンドーラ一味ってそういう意味では歴代でも屈指の凶悪度を誇っており、怒りと憎しみを愛嬌を持って表現しつつもやることはとんでもなくえげつないというのが見事です。


それから今回さり気なく良かったのがシゲル少年をコックピットに乗せる時のプテラレンジャーのセリフでした。


「ゲキ、シゲルくんを大獣神に乗せてくれ」
「何?!」
「デュランドルを破るにはそれしかない!」
「そんな!子供をここに乗せるなんて危険よ!」
「俺の命にかえても、シゲルくんは守る!」


メイがここで穏健派の役割を果たしてくれたことで、ゴウシの知恵の戦士としての才覚と同時にその容赦のなさまでもが浮き彫りとなり、やはり古代恐竜人類もまた戦意120%の恐るべき戦闘民族です!
長らくゴウシは「知恵の戦士」という割に知恵を発揮した印象があまりないので微妙だなあと思っていたのですが、同じ知恵の戦士でもいわゆるチェンジマーメイド/渚さやか方面だったのかと納得(笑)
要するに「戦いにおける策略」という意味での知恵であり、ゲキが見せていた土壇場で見せる頭の回転というか機転とはまた違ったところにあるのだなあと思いました。
ゲキの頭の回転がいわゆる「戦術」だとするならば、ゴウシの場合は「戦略」であり、この場合どうしても大獣神にシゲルくんを乗せる以外に勝つ方法はなかったのでしょうね。


ちなみに本作の中からいわゆる「伝説の戦士」「戦闘民族」「戦意の高さ」といった部分を抽出したのが「ギンガマン」であり、更にゲキ→リョウマ、ゴウシ→ハヤテという継承の仕方かな。
ゴウシ自体は今回のところでかなりバックボーンがはっきりしましたが、この姉弟の設定は次回配信に出てくるゲキと追加戦士の設定の前振りにもなっているのでしょうか。
その辺りも計算してのことだったとすれば納得ですが、改めてゴウシの知恵の戦士という設定や黒という色の意味がやっとわかりました。
落ち着いた良識派と見せかけて実はとんでもなく中身が腹黒い策士という側面を持ち合わせた暗黒戦士ということだったのか!と……総合評価はB(良作)、2クール目に入ってからやっとキャラ回というのは正直遅すぎです。


第16話「クシャミ大作戦」


脚本:高久進/演出:坂本太郎


<あらすじ>
仲間はずれにされたサッカー少年・イサムが、黄金のボールを次々にキック!人々がクシャミ菌を吸い込み、街中は大混乱となる。


<感想>
今回の内容は90年代の高久脚本にしてはまあまあだったんじゃないでしょうか。


ぶっちゃけストーリーもネタもどれもありきたりで無難なものばかりですが、良かったのは守護獣がしっかり単独で活躍する出番を与えたのが良かったです。
サッカー少年がチームからハブられたことが原因で始まったのですが、もしそうだとするならまずそのサッカークラブ自体に問題があるのではないでしょうか。
それを自分がハブられた腹いせにくしゃみ菌で困難に陥らせるというのはそれこそ地下鉄サリン事件とかとやっていることが変わらなくなってしまいます。
まあその地下鉄サリン事件レベルのことを子供がいたずら感覚で平気な顔をしてやっているというのが今回のミソですが。


ただ、そのネタをやるだけなら別に少年と絡むのがボーイである必要性はなく、なぜ今回の話の主役がボーイでなければならないのかが全くわかりませんでした。
むしろ今回の話であればゲキでも良かったわけですし、少年が抱えている「少年サッカークラブに溶け込めない」という本質的な部分の解決はしていないわけです。
それにもかかわらず、ただ敵を倒して終わりというのはなんとも味気ないものがあり、どうにも肩透かしを食う感じになってしまいました。
まずは冷却させてティラノソニックで消滅させるというのはチームワークがしっかりしていて良かったのですが、そのネタありきで構成してそこに至るまでの物語の持って行き方が雑です。


次作「ダイレンジャー」でもそうだったのですが、90年代の高久脚本の雑さはネタだけはそこそこいいものを持っているのに、そのネタ同士をしっかり物語として結びつけることができていないことにあります。
要するに「点」だけが存在していて「線」できちんと結べていないことにあり、典型的な駄作だなあと思ってしまうのですが、今回も正にそれだったかなと(因みにネタの取捨選択すらダメなのが「ニンニンジャー」の下山脚本)。
ただ、その中でも今回は「比較的」無難にまとまっている方ではあり、総合評価はD(凡作)

 

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