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スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー12作目『機動戦士ガンダム』(1979)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B000ETQSKS

さあいよいよ来ました、ロボアニメ史並びに日本アニメ業界にとって大きな転換点となる「機動戦士ガンダム」…この作品を語るのは私にとって1つの大きな壁であります。
というのも、私がガンダムシリーズで最初に見て、シリーズ全体を見た今でも一番好きな作品である「機動武闘伝Gガンダム」は本作がなければ生まれないものだったからです。
私自身は「Gガンダム」を子供の頃に楽しませてもらった世代ですが、しかし富野ガンダムファンや富野信者、いわゆる「富信」が「Gガン」をひたすら目の敵にしてこき下ろしたのを長らく見てきたからです。
もちろん全員が全員そうではなく真っ当なファンもいるのですが、そういう「富信」からの口撃、批判を超えた誹謗中傷を実際に受けたことがあるので凄く苦手だったのです。


ガンダムシリーズはいわゆる特撮のウルトラシリーズ、ライダーシリーズ、そしてスーパー戦隊シリーズのいずれとも異なる独特の進化・派生の仕方をしたシリーズとなっています。
何が恐ろしいってシリーズの7割弱が富野ガンダムあるいはそれに準じた宇宙世紀の世界観・ストーリーであるところで、むしろ「Gガンダム」のように独立した世界観・ストーリーの作品は少ないのです。
そしてその中でも原点にして頂点とでもいうべきこの「ファーストガンダム」は偉大なる原点ではありますが、ちょっと褒められすぎではないかとずっとわだかまりがありました。
また、スパロボシリーズでも原作再現がほとんどなく、強いていえば「俺を踏み台にした!」や黒い三連星ネタ、ジオングなどのネタ的要素ばかりで、1年戦争それ自体が原作再現されることはほとんどありません。


そのような印象もあったこと、また見てみると意外に地味だったこともあって「どこが凄いの?」という感じて、過大評価だったのではないかと思い、最初見たときにその魅力がわかりませんでした。
結果として、本作の魅力を理解するに至ったのは本当にわずか数年前にロボアニメの歴史を体系的に見て、全体で俯瞰した数年前のことなので、未だに全てを理解しているわけではありません。
しかし、流れから見ていると「確かにこれはアニメ史上に残る傑作だ」と納得させうるものはあり、改めて「面白い」と感じられるに至りました…富信そのものは未だに大の苦手ですがね
そんな私から見た本作の魅力はそれこそ「ジェットマン」の評価記事でも触れましたが、とにかく「人間ドラマ」に重点を置いたこと、そして「ボルテスV」までで完成した70年代ロボアニメの壁を打ち破ったことです。


よく本作の評価で言われる「勧善懲悪ではなく人類同士が争う〜」だの「スーパーロボットではなくリアルロボットだから」だの「主人公たちが素人だから」だのといった評価は私にはピンと来ません。
それらは結局本作の人気が爆発した時の評価である気がして、私にとっての「ファーストガンダム」はまた違うものであり、だから原体験世代ではないズレた評価であることは最初に言っておきます。
では私なりに感じた「ファーストガンダム」の魅力がどこにあるのか、以下の要素を論いながら述べていきましょう。

 


(1)ガンダムは本当に「リアルロボット」なのか?


よく本作の魅力として語られる「リアルロボット」、すなわち「初めて戦争の兵器として使われるMS(モビルスーツ」という評価ですが、まずこれが私にはピンと来ませんでした。
地球連邦という公共機関が生み出したという点では「コンバトラーV」「ボルテスV」「ダイモス」がやっていることですし、その演出手法も「マジンガーZ」の直系です。
アムロという少年が偶然に巻き込まれでガンダムに乗った設定になっていますが、そのガンダムを開発したのはアムロの父・テムレイであり、70年代ロボアニメで散々使われた出撃になっています。
また、「アムロいきます!」(劇中ではそんなに言っていない)も「マジーンGO!パイルダーオン!」「ゲットマシン発進!」とそんなに大きく変わりません。


また、ガンダムAパーツ、Bパーツとコアファイターの合体シーンはまんまゲッターロボの合体シークエンスを少しリアリティのあるものにした程度です。
必殺技を叫ばないヒーローという要素も当時は画期的だったかもしれませんが、今見るとあくまで差別化を図るためであり、今見るとむしろ新鮮味はあまりありません
その他ビームサーベルでの斬り合いやバズーカ発射、ビームライフルの発射など、その全てがとても「リアル」とは程遠い古典的スーパーロボットの演出手法でした。
特に後述するアムロランバ・ラルの一対一のチャンバラに関しては時代劇のそれを取り入れた殺陣をロボットアニメでやっているにすぎません。


そもそも第一話で立ち上がった段階で、ガンダムはザクのノズルを右手で掴んで引きちぎる力技を見せており、「Gガンダム」第一話のシャイニングフィンガーなどはほぼこのアクションのセルフパロディです。
この戦闘シーンにGガンダム」の「我が心明鏡止水」のBGMをつけて同時再生すると立派にスーパーロボット作品になるのであり、根っこはあくまでも70年代ロボアニメの残滓が強くあります。
それくらい「ガンダム」という作品でよく言われるエポックメイキングな点は戦隊シリーズにおける「ジェットマン」がそうであるように、取り立てて70年代ロボアニメから飛躍したものではありません
むしろ過去作が積み上げて来たものを丁寧に吸い上げつつそれらを解体し、その上で80年代以後につながっていくロボアニメへの突破口を切り開こうとしたのではないでしょうか。


戦艦や戦闘機を用いたメカニックやビジュアル自体が「スターウォーズ」で確立されたもののアレンジですし、本当のリアルさを求めるなら酸素がない宇宙での爆発自体がおかしいことになります。
だから、本作のロボアクションはそんなに目新しいものを使っているわけではなく、70年代ロボアニメや「2001年宇宙の旅」「スターウォーズ」といった先達のSF作品に毛が生えた程度です。
それでも受け手に新鮮に映るのはビジュアルそのものではなく、後述する文芸的要素、すなわちドラマの部分にあります。


(2)メインで描かれているのは「SF考証」でも「政治劇」でもなく「人間ドラマ」


本作のメインで描かれているのは「SF考証」でも「政治劇」でもなく「人間ドラマ」であり、「ヤマト」や長浜ロマンから続くドラマ性重視の作劇として本作はその1つの完成形に達しました。
面白いのは本作のホワイトベース隊が「プロと素人」「公と私」の双方を取り込みつつ、いわゆる「望んでなった」のでも「望まれてなった」わけでもない設定だということです。
これこそが大きな差となっており、「闘将ダイモス」までは基本的に「望まれてなる」か「望んでなる」かのどちらかで、主人公たちはあっさりと覚悟を決めて戦っていました。
それが素人の集まりであろうとプロ集団であろうと大きな差はなく、一度覚悟を決めて戦うことになればもうそれで最終回まで描かれることになるのです。


しかし、本作のホワイトベース隊はアムロをはじめほぼ全員が未経験のど素人ばかりであり、唯一の正規軍人は艦長のブライト・ノアリュウ・ホセイくらいしかいません。
そしてそのブライトはまだ研修を終えた新人艦長であり部下を指導した経験は一度もなく、リュウもまた単なる専門バカというか、軍人としての戦い以外何もできないのです。
この設定は「ジェットマン」だとまんま研修上がりの新人女性長官である小田切綾、そしてスカイフォースの正規戦士として戦う以外にさほどの能がないレッドホーク/天堂竜というのと似ています。
他は全員民間上がりの素人ばかりで、初期2クールは特に絆や連隊といえるほどのものもなければ、完全に自立した個人でもないという「人間以上戦士未満」の集まりでした。


そんな彼らが最初はただただ「生き延びるため」という私的動機で動いていたのに対して、徐々に連携しながら動くことを覚えていきチームワークを意識した公的動機で動くようになります。
これは正に「ダイモス」の一矢が提唱した「私的動機から公的動機へ」をさらに素人という設定にすることでうまくクリアし、ロボアニメの歴史を大きく変えたのです。
また敵側のジオン公国の内輪揉めやシャアのザビ家に対する個人的復讐なども前作「ダイターン3」のそれをやや陰湿にしたものであり、時代劇の文脈に則っています。
だから、本作が描いているのは70年代ロボアニメが敢えてやらなかった登場人物同士の生々しい価値観の相克とそこから生じる軋轢と成長という極めて王道的な人間ドラマです。


ミノフスキー粒子だの専門用語はいっぱい出て来ますが、根っこにあるのは真っ当なヒーローものであり、単にそれが同じ人類同士に変わったというだけではないでしょうか。
だから、本作で描かれているアムロたちのヒーロー像やシャアたちジオン公国のキャラクターも特別なものではなく、むしろとてもシンプルなキャラクターです。
ただし、内面の生々しい人間の弱さ、業をしっかり描いた上でそれをヒーローものとしての成長に結びつけることでうまく設定を消化しました。
SF要素だの政治劇だのといったものはあくまでもそれを盛り立ててそれらしく見せるための飾りであり、メインはあくまでシンプルな「人間ドラマ」です。
その点において本作はそれまでのロボアニメ作品と差別化を図ることができました。


(3)「ヤマト」「ボルテスV」を超えた本作の「悪」の本質


本作をヒーローものとして見た場合の文芸としての真骨頂は本作が示した「悪」の本質が「ヤマト」「ボルテスV」を超えたことにあります。
「ヤマト」は最終的に「戦うことではなく愛するべきだった」と男女の愛をロマンとして示すことによって、地球を再生し癒しました。
続く「ボルテスV」ではその「愛」という個人では解決できない「戦いの仕組みを作った社会そのもの」と健一たちは戦うことを示しています。
その2作を本作は21話「激闘は憎しみ深く」で何が本作の世界における「悪」なのかを示して超えて見せたのです。


ブライト「アムロの言う通りだ。我々が、我々が未熟だった為にリュウを殺し、何人もの仲間を…か、勘弁してくれリュウ、勘弁してくれよ。なあ、お、俺たち、こ、これからどうすりゃいいんだ?え?リュウ、教えてくれ。教えてくれんのだな、もう…」
セイラ「ブライトさん、やめましょう。ジオンを倒すしかない。戦争が終わるしか」
アムロ「そ、そうさ、そうですよ、それしかないんですよ!!それしかないんですよー!!」


ブライトが初めて人間としての脆さ、弱さをアムロたちの前で露呈させたのですが、唯一の正規軍人だったリュウが死に、アムロたちは組織としての求心力を失いました。
そしてセイラとアムロは本作における悪が「戦いそのもの」にあることをはっきりと打ち出し、これが「ボルテスV」との大きな違いとなったのではないでしょうか。
ボルテスの場合「社会そのもの」だからその社会システムの根幹を成す親玉というか獅子身中の虫を倒せば戦うが終わるという風にゴールがはっきりしています。
しかし、アムロたちホワイトベース隊はその獅子身中の虫と呼べるジオン公国、もっと言えばザビ家の根深い業に気づいたとしても、ゴールが見えないのです。


仮にザビ家を滅ぼしたとしてもこの地球連邦とジオン公国の戦争がなくなるほど問題は簡単ではなく、かといって肉親の情愛といったもので解決することもしていません。
むしろ肉親の情愛は悲惨な末路を辿ったアムロの両親との別れで否定しており、アムロたちはとにかく悲しい思いをすることになっても戦争が終わるまで戦い続けるしかないのです。
正に「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」であり、だからこそアムロたちホワイトベース隊には「哀戦士」という言葉が相応しいのではないでしょうか。
つまりジオン公国でもザビ家でもない、社会でもないもっと漠然とした「戦争そのもの」こそアムロたちが戦うべき巨大な敵の正体だったのです。
ではその壁はどうすれば乗り越えることができるのか、それが後述するある要素になります。


(4)ニュータイプ論の賛否


本作が物語後半〜終盤で見せた解答、それは「ニュータイプ」であり、戦争を止めたければエスパーに近い存在に進化してお互いにわかり合えというのです。
私はそもそもガンダムシリーズにおけるニュータイプ自体が嫌いなのですが、それはアムロララァ、シャアを英雄のように祭り上げてしまったことにあります。
これに関しては当時から非難轟々だったそうですが、戦争を解決させるためには人類が進化して賢くなるべきだという安易な結論を出してしまったのです。
このニュータイプという設定は富野監督が思いつきで出したものだったらしく、本人も相当に不味かったと反省しているそうですが、まあそれは当然だなと。


流石に物語を「ニュータイプ」で片付けてしまうのはまずいのか、最終回ではセイラに「人がそんなに便利になれるわけ…」と言わせています。
しかし、私はこの後「Zガンダム」以降で延々と続く「ニュータイプ(ないし強化人間)同士の争い」の醜さを知っているからこそ、これがいい設定だと思えなかったのです。
確かにニュータイプという設定自体は放送当時は斬新だったのでしょうが、私から見ると「オールドタイプの人間には何もできない」といってしまったことにあります。
富野監督をはじめスタッフの意図がどこにあるのかは知りませんが、ニュータイプという設定は物凄いスノビズムを感じてしまい、賢い奴が偉いという歪んだ選民思想に見えてしまうのです。


その後「逆襲のシャア」に至ってシャアが「だったら人類に今すぐ叡智を授けてみせろ」と言ってみせたように、ニュータイプ論は行き着くところ退廃的な思想になってしまいました。
だからこそおそらく後発の「ガンダムX」がそうした選民思想に頼らずとも生きていけるような世界を目指そうという風にしたのではないでしょうか、クオリティは別として
私は正直ニュータイプ論に関しては画竜点睛を欠いてしまった蛇足設定としか思えず、21話で完成した本作のテーゼに対してむしろ横から冷や水を浴びせたようにしか見えません。
アムロたちはニュータイプ論なんてものに頼らずとも心身ともにたくましく成長したわけであり、本作を歴史に残る傑作だと思うのはアムロホワイトベース隊の「人との繋がり」にあります。


そう、「ジェットマン」もそうであったように、本作の名作たる所以はあくまでもホワイトベース隊が1年を通じて疑似家族のように「団結」していく過程にあるのです。
アムロはブライトを父、ミライを母、セイラを長女のようにして育っていき、憎まれ口を叩いていたカイたちとも通じ合うようになっていきます。
コアファイターを脱出してアムロがブライトたちの元に帰っていき、そして仲間たちがアムロを受け入れたあの最後のカットこそが本作を象徴する「」なのです。
ニュータイプ論ではなく、アムロたちの精神的成長と団結こそが本作の悪を乗り越えていく最大の理由でした。


(5)「ガンダム」の好きな回TOP5


それでは最後に「ガンダム」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…最終話「脱出」
  • 第4位…13話「再会、母よ…」
  • 第3位…29話「ジャブローに散る!」
  • 第2位…12話「ジオンの脅威」
  • 第1位…21話「激闘は憎しみ深く」


まず5位は最終回、これに関してはもう文句なしですが、これですらも5位になる程本作は名作回がたくさんあるのです。
次に4位はアムロと母親の別れを通して「親子の情愛」というロマンをバッサリと力強く否定しました。
3位は成長して強くなったアムロとシャアの一騎打ち、そしてウッディ大尉の死亡など純粋に単品として面白い逸品。
2位は1クールの締めにして2クール目以降にうまく躍動をつけた傑作回であり、ジオンの強大さとしての象徴であるラルとグフが最高にかっこいい。
そして堂々の1位は本作のテーゼを完成させた21話、「戦いそのもの」という個人も社会も超えた本当の「巨大な敵」を示した傑作回です。


本作は群を抜いてストーリーの出来がいいのですが、最終回ですら5位にしてしまえるほどに名作・傑作が多いことに驚かされます。


(6)まとめ


日本史上の偉大なるエポックとして語られる本作ですが、分解して見ると設定やビジュアルの1つ1つはそんなに目新しくありません。
しかし、前2作「ザンボット」「ダイターン」で得たものを教訓化し、その上で70年代ロボアニメが行き詰まっていた壁を見事に突破しました。
ニュータイプ論は正直蛇足設定としか思えませんが、それでも最終的に「仲間の絆」という王道的なもので強くなっていくアムロたちの成長が見事です。
そして、そんなアムロたちの強大な壁として立ちはだかり続けたジオン公国やシャアの存在も見事であり、歴史に残る作品であることに頷けます。
作画の拙さは確かにあるものの、それすら覆す完成度と普遍性を持つ本作の総合評価はやはりS(傑作)以外にないでしょう。

 

機動戦士ガンダム

ストーリー

S

キャラクター

S

ロボアクション

A

作画

D

演出

S

音楽

S

総合評価

S

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

Want・Can・Mustのベン図とスーパー戦隊シリーズ

スーパー戦隊シリーズの公的動機と私的動機を中心に、Twitterに再度歴代戦隊の分布図を作って投稿してみました。

 

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歴代戦隊分布図・改訂版


これで歴代戦隊の位置付けはかなりはっきりしたのですが、問題はなぜこのような位置付けになっているのか?ということです。
公的動機と私的動機の比重を明らかにしただけでは正確さに欠けますし、プロアマだけでも議論が発展していきません。
どうにかならないものかと行き詰まっていったのですが、こちらのベン図を見た瞬間にインスピレーションが突然降って来ました。
今回はその話をスーパー戦隊シリーズに絡めてお話ししていこうと思いますので、よろしくお願いいたします。


(1)Want・Can・Mustのベン図が表すもの


今回私がインスピレーションを得たヒントはWant・Can・Mustのベン図で、ビジネスの自己分析においてよく用いられるかなり普遍性のある円グラフです。
このベン図が何を表しているかというと、人間が社会で活躍する上で以下の3つの要素の掛け合わせが重要であるとされています。

 

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Want・Can・Mustのベン図

 

  • Want(自分がしたいこと、自分が思い描く「こうなりたい」という理想像)
  • Must(周囲から求められる自分、自分を客観視した時の現実)
  • Can(今の自分に可能なこと、社会人経験やスキル)


新卒の場合、Canの部分はゼロに近く、WantとMustの擦り合わせで挑もうとしますが、ここが罠なのです。
多くの就活生がミスをしてしまうのはWant(自分がなりたい自分)の部分ばかりを見過ぎていて、Must(会社から求められる自分)をきちんと把握できてないことにあります。
Canの部分に関しては未経験故に仕方ないのですが、WantとCanの部分がきちんと擦り合わせできていないとうまくいかず、多くの就活生がここで躓いてしまうのです。
ここの詰め方をどれだけ徹底して行うことができるかによって、自分がいるべき立ち位置やなりたい自分というものが見えて来ますが、それを社会人経験のない20代前半の学生がわかるわけありません。


実際に社会人として働き、入社前と入社後でさらにこの3つにギャップが生じるのですが、ここをどう擦り合わせていくかによってビジネスパーソンとしての自立が決まるのです。
この3つの円グラフが綺麗に重なったところが真に「楽しい」とか「自分のマエストロ」というべき得意分野であり、この3つの円の重なりが広がれば広がるほど一流に近づいていきます。
芸能界でもSMAPや嵐をはじめとした超一流のステージで活躍する人たちはこのベン図が綺麗にバランスよく重なっていたからこそできたのだと思うのです。
そしてこの考え方は実はビジネスだけではなく、スーパー戦隊シリーズをはじめとするあらゆるヒーロー作品に転用できるのではないでしょうか。


(2)スーパー戦隊シリーズにおけるWant・Can・Must


スーパー戦隊シリーズをはじめとしたヒーロー作品でこの自己分析のベン図を応用すると以下のようになると思われます。

 

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スーパー戦隊のWant・Must・Can

 

  • Want=私的動機(自分は今何をすべきなのか?どのように、何のために戦うのか?という利己的欲求)
  • Must=公的動機(人類は、そして社会は何をすべきか?何のために戦うのか?という俯瞰した社会上の役割・使命)
  • Can=力と技(その公的動機と私的動機を満たすために必要な力や技、具体的には戦闘力や統率力・知性など)


こうして見ていくと、歴代のスーパー戦隊シリーズがどのような歴史を辿って来たのか、どのようにヒーロー像が変遷して来たのかがわかるでしょう。
ことヒーロー作品においてはWant=私的動機とMust=公的動機は両立しうるものではなく二律背反であり、WantのためにはMustを、そしてMustのためにはWantを低くしないといけません。
この割合によって「個人の自由意志」が重視される戦隊なのか「組織の規律」が重視される戦隊なのかが決まるのであり、ここまでは多くの人が想像できることでしょう。
そしてCan=力と技の大小やWantとMustとの連動性、釣り合いに応じてプロフェッショナル系の戦隊か、アマチュア系の戦隊なのかが決まるのです。


もちろんCanが大きい作品がいいわけでもありませんし、小さい作品だから悪いわけでもなく、それは作品ごとの特徴・個性として別個に評価するものです。
しかし、あまりにもCanが小さ過ぎると話が成り立たないので、多くのアマチュア系の戦隊ではある程度のCanを持たせています。
このCanが著しく低いのは歴代最弱とファンから評価されがちな「カーレンジャー」「メガレンジャー」辺りと見ておけばいいでしょう。
あれら2作がギリギリ戦隊ヒーローとして辛うじて許されるラインであり、あれを下回ると彼らはヒーローではなくなってしまいます。
つまりCanの大小によってヒーローを超越した存在か、人間味のある存在として見せたいかが決まるのである、この3つの兼ね合いによって作品が変化しているのです。


(3)「戦士になったきっかけ」が重要視される理由


スーパー戦隊シリーズにおいては、ファンの間でもやはり「戦士になったきっかけ」が着目されることが多く、特にこのサイトの考えは慧眼でした。

 

hccweb.bai.ne.jp


1970・80年代戦隊シリーズを原体験としてお持ちの戦隊ファンのえの氏がお作りになった「戦隊史学基礎」であり、スーパー戦隊シリーズをはじめとするヒーローの公的動機と私的動機と非常に真剣に向き合っています。
このサイトに出会っていなければ私はヒーロー作品における公的動機と私的動機を考えて作品評価をすることもなかったでしょうし、今回のような記事を書くこともなかったのではないでしょうか。
しかし、この戦隊史学基礎の考え方は「基礎」としては使えても、やはり精緻さや普遍性、応用性といったところで問題がないわけではなく、本人もブログで仰っていましたが、公平な視点とは言えません。
公的動機と私的動機の割合で戦隊の立ち位置が決まるのはいいのですが、それを数字の大小によってヒーロー性重視か人間性重視かを決めるのは決してフェアな考え方ではないでしょう。


そこでもう1つ大事なってくるのがCan(力と技)であり、これが物語の導入の段階でどれほど出来上がっているかによって、プロフェッショナルかアマチュアかが決まるのです。
多くのスーパー戦隊ファンが「戦士になったきっかけ」を重要視していながらも、長年行き詰まっていたのはこの公的動機と私的動機、そしてそれを満たすための手段という3要素のバランスに発想が及ばないからでしょう。
もしくは発想したのだとしてもうまく言語化できず、歴史がどう変化してきたのかを的確に言語化できる人が極めて少なく、結果的にウルトラシリーズやライダーシリーズのワンランク下に見られてしまっています。
しかし、本当に単なるジャリ番、ウルトラシリーズやライダーシリーズのワンランク下のシリーズだったら45作も切らさずに続いてきたでしょうか?


むしろ逆であり、一番年齢層が低い児童に向けてのシリーズだからこそ、一切のごまかしや虚飾が通用せず、真剣に戦いの動機とそのための手段を設定しなければなりません。
これらがきちんと出来てこそ真の名作と言えるのであり、さらにその中で「傑作」と評されるような作品は徹底的に「戦士になったきっかけ」とそこから生じるキャラのドラマと向き合っているのです。
もちろんライダーシリーズやウルトラシリーズも真剣にこの「戦士になったきっかけ」とそこから生じるキャラのドラマに向き合っているとは思いますが、スーパー戦隊シリーズが最もその構造が見えやすいでしょう。
「戦士になったきっかけ」を立ち上がりの段階できちんと魅力的に打ち出すことができるかどうかによってその作品が名作なのか凡作なのか、はたまた駄作に終わるのかが決まるのです。


(4)歴代戦隊での実践編


ここまでは理論を述べてきましたが、それでは実際にいくつかの戦隊シリーズ作品を例に、Want・Can・Mustのベン図を数値化してみましょう。
評価基準ですが、WantとMustは合計10点満点でWantが3ならMustが7という比率になり、Canは1〜5点満点で評価し、点数が高ければ高いほどプロの戦隊です。
数字は完全に作品を見た上での印象評価であり、絶対ではないのでご了承ください。


秘密戦隊ゴレンジャー

 

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ゴレンジャーのWant・Must・Can


電撃戦隊チェンジマン

 

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チェンジマンのWant・Must・Can


鳥人戦隊ジェットマン

 

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ジェットマンのWant・Must・Can


激走戦隊カーレンジャー

 

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カーレンジャーのWant・Must・Can


星獣戦隊ギンガマン

 

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ギンガマンのWant・Must・Can


未来戦隊タイムレンジャー

 

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タイムレンジャーのWant・Must・Can


轟轟戦隊ボウケンジャー

 

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ボウケンジャーのWant・Must・Can


侍戦隊シンケンジャー

 

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シンケンジャーのWant・Must・Can


海賊戦隊ゴーカイジャー

 

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ゴーカイジャーのWant・Must・Can

 

烈車戦隊トッキュウジャー

 

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トッキュウジャーのWant・Must・Can

 

快盗戦隊ルパンレンジャー

 

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ルパンレンジャーのWant・Must・Can

 

警察戦隊パトレンジャー

 

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パトレンジャーのWant・Must・Can


このように円グラフの割合で表してみると、実はスーパー戦隊シリーズも作品ごとにMust、Want、Canの割合や比率、バランスが大きく異なることがわかります。
こんな風に3要素を使ってスーパー戦隊シリーズをはじめとするあらゆるヒーロー作品のWant、Must、Canの比率を考えてみても面白いかもしれません。

スーパー戦隊シリーズ15作目『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)33・34話感想

 

第33話「ゴキブリだ」


脚本:荒木憲一/演出:雨宮慶太


<あらすじ>
ジェットマンの攻撃も粘着ゴキブリには全く通用しない。切り札となる新兵器ビークスマッシャーも設計者の相沢博士が死亡したため未完成。心臓部のエネルギー変換器の設計図は、相沢博士の娘・美加の潜在意識に記憶されていたのだが、父への葛藤から美加はその記憶を失ってしまっていた。


<感想>
前回でジェットマンがようやくマイナスからゼロになり、ここからがようやくジェットマンとしての本当のスタートというところでしょう。
冒頭ではまずバーでの竜と凱のやり取り、すったもんだがなくなってから急速に距離が縮まりました。


凱は竜と反りが合わないながらも、人間としての弱き部分を見つめ、その上で竜のヒーロー性を素直に受け入れることができたのです。
一方で竜もまた凱の前で無理して正論を大上段から振りかざすことをやめ、等身大の青年っぽく生きられるようになりました。
今まで1人で何十キロもの重荷を背負って戦っていたのが、この戦いで少しその荷を減らすことができるようになったということでしょう。
その反面、どうにも香が置いてけぼりを食らった感じですが、香に関しては終盤に竜絡みで思わぬ大活躍を見せてくれるのでお待ちください。


さて、そんな今回の内容はテトラボーイに続きビークスマッシャー初登場回ですが、実はスーパー戦隊シリーズで銃を強化させるのはこれがが初めてです。
原点はおそらく「チェンジマン」の剣と銃、シールドが一体化したチェンジソードだと思うんですが、後半で更なる高性能の銃はこのビークスマッシャーでしょう。
今回はそのビークスマッシャーの設計図を完成させた亡き天才科学者とその娘に関する話なのですが、これがどうもスッと入りにくい。


今回に関しては「科学者としては立派でも、父親としては失格だわ」が全てであり、それを無理矢理感動話・美談にすり替えようとする作り手の悪意が見えます^^;
まあ70・80年代のヒーローものは特撮・アニメを問わずそういう話が多いのですが、流石に90年代初頭に入ってまでこんな話を繰り返しているのは厳しいところです。
こういう話を繰り返しているから東映特撮、特にスーパー戦隊シリーズが「ジャリ番」とコケにされてしまうのではないでしょうか。
そしてもっと悪質なのは元々根っこの部分にリエを失ったことから狂気を生じた竜がそんな父親をかっこいいと信じてしまっていることです。


「お父さんの仕事はあまりに大きすぎた。君だけじゃなく、もっと多くの人を助ける大切な使命があったんだ」


……もしかして竜、ここでさりげなく自己正当化してしていませんか?(笑)


竜はいわゆる「仕事のために家庭を顧みないろくでなしの父親」を「娘を本気で心配しているいい父親」だと思い込んでいるのでしょう。
この辺り井上先生と荒木氏の違いが出たところで、井上先生はそういう父親像を正当化するようなことはしません。
それに対して、荒木氏はどうにも杉村升氏や上原正三氏の思想を強く受け継いでいるのか、ごく普通に何かが狂っているような内容に。
まさに狂気の闘争を肌で知っている世代とそうでない世代の差が出たわけですが、どうにも釈然としない話になってしまいました。


で、肝心要のビークスマッシャーですが、モーションチェイサーが完全に「ロックマン3」に出てくるゲミニレーサー(笑)
壁を反射し、しかも正確に狙いを定めて勝つ自動追尾システムなので、これまでの戦いから導き出された小田切長官の殺意の高さが垣間見ます。
巨大戦もなく普通にいい話っぽく終わりですが、玩具販促回としてはどうにも雑ですし、かといって父親と娘の話が本作のテーマに関わっているとも思えません。
ビークスマッシャー自体はすごくよくできた武器で私も好きなんですが、そのための物語が非常に雑であり、思えば「ガオレンジャー」以降の00年代戦隊が見せる雑さの原型はここにありました。


前回までが非常に濃密だった反動もあるのですが、そこそこの良脚本を書いてきた荒木氏の筆が久々に悪い方向に滑ってしまい、評価はE(不作)というところです。


第34話「裏切りの竜」


脚本:荒川稔久/演出:東條昭平


<あらすじ>
竜がテトラボーイの機密データを持って脱走、グレイにマリアとの交換を持ちかけた。取引に応じたグレイの指示によりテトラボーイを盗み出した竜は、グレイに裏切られ殺されてしまう。思わぬ戦果に喜ぶバイラムの幹部たち。だが、殺された竜は偽者で、本物はバイロックに持ち込まれたテトラボーイの中に潜んでいたのだった。


<感想>


「ふん、また仲間割れか」


開始早々このセリフで思いっきり吹いてしまいました。
まあ32話までは本当に仲間割れという仲間割れを繰り返してましたもんね竜たち…で、今回竜はリエを取り戻すために仲間たちを裏切ります。
で、そこから今回バイラムの基地に転入というものなのですが…うーん、改めて見直すと荒川脚本の雑さというか技巧のなさが目立って仕方ありません。
私は基本的に荒川脚本は高く評価しておらず、精々が香村純子の上位互換というか同人作家、上原正三エピゴーネンという印象です。


こういうスパイアクションや潜入ものは時代劇を手がけてきた伊上勝や時代劇趣味の小林靖子の方が得意な印象があります。
潜入ものって意外と繊細さや技巧が要求されるので、この2人のように登場人物同士の妙やドキドキハラハラが得意でなければうまくいきません。
荒川脚本はどちらかというと戦隊のVSシリーズやそのデラックス版である「ゴーカイジャー」などの方で強く発揮されており、基本的にお祭り企画向きの人なんですよね。
逆に井上先生や小林女史は年間の積み重ねをすごく重視されるために、テレビシリーズのようなロングスパンの物語を作るのに向いています。


大きなツッコミどころとしては竜と小田切長官があんな精巧な偽物を開発できる余裕があるとは思えないこと、また5人揃わないとグレートスクラムできないのになぜかグレートイカロスで来ていることです。
前者に関してはテトラボーイ、ビークスマッシャーとかなりの技術と予算を費やしているはずなのに、どこに竜の偽物なんて作る余裕があったかわからないし、またそれに気づかないグレイが間抜けに見えます。
そして後者に関してですが、せめてジェットイカロスジェットガルーダが同時にやって来て、レッドホークが合流した段階で改めてグレートスクラムを行うという流れならわかるんです。
そのような基本の段取りを無視して、いきなりぶっ飛んだ展開に持って行ってるので、どうにも本作が積み重ねて来たものと波長が合わず、荒川脚本の雑さが悪い方向に出てしまった模様。


「敵を欺くにはまず味方からだ」「でも僕たちは竜を信じていた」と口にしなくていいことをわざわざセリフにして言わせる野暮ったさがどうにもなあと思うのです。
それから、東條監督のパワーと勢いで押す演出は今回のような緊迫した話には向いておらず、こういうのはどっちかというと長石監督の得意技というところでしょうか。
凱の「よろしく頼むぜ相棒」など32話を乗り越えて「チームワークができるようになったジェットマン」を押し出すのはいいとしても、2話連続で微妙な出来。
評価としてはやはりE(不作)、もっと練り直しが可能なエピソードです。

 

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スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー11作目『闘将ダイモス』(1978)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00O2M9U3A

さて、「ボルテスV」の次となると、当然この「闘将ダイモス」なのですが、私は最初に「スパロボA」を見た時、「面倒くせえこいつ」と思ってしまったのです(笑)
というのも、「スパロボA」をプレイになった方はご存知だと思うのですが、竜崎一矢って話によって戦意喪失したり戦意高揚したりとテンションの差が如実に反映されます。
そのため最初から気力130、気力150だといいんですが、エリカが絡むと気力70になったり50になったりする上、攻撃力は強いけど装甲は脆く避けてくれません。
同時に参加していた「Gガンダム」のシャイニングガンダムとドモンの方が空中適性がないことを除けば、スーパー系の攻撃力と装甲、リアル系の運動性能を持っていたのです。


しかもドモンの方は前半ではスーパーモード、後半では明鏡止水で能力が大幅に向上する上、師匠やシャッフルの面子などと合体攻撃が可能なので、完全にドモンの下位互換になってしまいます。
そのような印象もあり、スパロボでのイメージを引きずったまま原作を見てみたのですが、本作の一矢は原作とほぼ大差がないというか、寧ろ一矢の方がドモンより俗っぽく見えました。
寧ろドモンに関してはスパロボだと特に初期は粗野な性格として描かれていますが、原作だと意外に冷静な大人の性格として描かれており、同じ格闘家出身でもドモンの方がエリートの家系だとわかります。
そういうこともあって、どうしても本作に関しては物語のテーマ、キャラクター、ストーリー等々全てにおいてGガンダム」の下位互換という印象が拭えないのです(ファンの方ごめんなさい)。


まあとはいえ、それはそれ、これはこれでクオリティの高い作品ではあり、特に一矢とエリカの恋愛ドラマに関しては後年のスーパー戦隊シリーズが継承している要素でもあります。
特に「マスクマン」のレッドマスク/タケルや「ジェットマン」のレッドホーク/天堂竜はこの竜崎一矢の恋愛一直線の空手バカというキャラ造形がなければ生まれていないでしょう。
歴代ロボアニメの主人公の中でも頭の中はほとんど惚れた女のことしか考えていないので、ある意味では最も共感しやすい主人公と言えるのではないでしょうか。
そんな本作ですが、個人的には「名作」ではあるし完成度は高いものの、前作「ボルテス」ほどの跳ね方、突き抜け方ができなかった惜しい作品という印象が強いです。
これからその理由に関して具体的に述べていきましょう。

 


(1)公的動機と私的動機の完全な逆転


まず本作を「戦いの動機」という観点から見た時に、前作と違って完全に戦いの動機が公的動機(地球の平和を守る)から私的動機(エリカとの恋愛)へとスライドしています。
ここに来て、ロボアニメはとうとう公的動機よりも私的動機の方が大事という大きなパラダイムシフトを起こすことに成功し、とうとう性欲で動く男を成立させたのです。
もっとも、惚れた女のためというだけなら別にそれ以前にもいたんですが、それはあくまでも戦いの中で「結果」としてそうなっただけで、最初からそれがあったわけではありません。
しかし、本作の一矢は徹頭徹尾「惚れた女のため」と言っても過言ではなく、それ故に戦意喪失したり、逆に戦意高揚したりともうとにかくテンションの上げ下げが激しいのです。


そんな煩悩野郎の一矢でも共感しやすいのは変にカッコつけようとせず、それに一直線なところがカッコいいからであり、これは同年の「ダイターン3」の万丈と比べるとよくわかります。
破嵐万丈は表向き「世のため人のため」と公的動機を掲げた完璧超人でありながら、その裏にはどす黒いメガノイドへの復讐心を巧妙に隠し持って動いていた男でした。
それが後半〜終盤になって徐々にむき出しになっていき、最終回ではその私的動機である「復讐」が浮上した時、それが敵の抱える「愛という執着」とさして変わらないことに気づきます。
つまり、ドン・ザウサーとコロスが実は「愛への執着」故に動いていたことを知った万丈はそんな彼らの姿が復讐に執着してしまった自分の心と重なっていたことに気づいたのでしょう。
この「心の中のメガノイド」に気づいたが故にこそ万丈は精神を破壊されてしまい、生きる意味を見失って世捨て人となってしまったのだと思われます。


それに対して、本作の一矢は惚れたエリカのためというのが最初にありきで、地球の平和やバーム星の平和を守るという公的動機は後からついて来たものです。
公的動機で戦う中で私的動機が芽生えたのが「コン・バトラー」、公的動機と私的動機がイコールだったのが「ボルテス」、そして私的動機から公的動機がついて来たのが本作となります。
これは同時にロボアニメとして見ると正義や善悪の形が理念に沿って作られるのか、それとも現実に沿って作られるのかという違いでもあるのです。
本作の一矢も兜甲児と同じように父親が開発したメカを託されるのですが、それはあくまで結果論であり、一矢は最初からダイモスで戦おうと思っていたわけではありません。


それまでは「この敵に立ち向かうにはこうだ!」という理念が先にあって、現実がそれに従う形で正義や善悪の境界線が形成されることになりました。
ところが本作ではまず敵が襲ってくるという現実が先にあって、そこから一矢たちが正義のヒーローになっていくという形で理念が形成されていきます。
つまり「コン・バトラー」「ボルテス」を通じて本作で「理念と現実」は完全に対等のものになったといえ、一矢は70年代スーパーロボットアニメの主人公としては極めて異色であリましょう。
地球の平和よりも惚れた女の方が大事というミーイズムで動いているのですから、これだけでも実は物凄く大胆なパラダイムシフトと言えるのです。


(2)割と一定しないロボアクション


とまあこう書くといかにも壮大なロマンに感じられますし実際壮大なんですが、ロボアクションの方はどうかというと、どうしても荒削りな感じは否めません。
そもそも「Gガンダム」のような「代理戦争としてのスポーツ」と言ったテーゼがあるわけでもないのに、どうして人機一体の格闘ロボで戦うのかがわからないのです。
個人的見解ですが、狙いの1つとしては本作ではロボットと人間を一体化させる、つまり人の「外装」として規定したいということがあったのではないでしょうか。
勇者ライディーン」はそれを実験として行った作品であり、それを更に一矢の人間性とつなげる形でやったのが本作のダイモスであると思われます。


この発想は翌年の「機動戦士ガンダム」ではMS(モビルスーツ)として規定され、その後「Gガンダム」のMF(モビルファイター)で結実することになるのです。
そのようなこともあって、やはり「Gガンダム」の洗練を先に原体験で知ってしまった後では、本作のロボアクションがどうしても荒削りに見えてしまいます
ボルテスファイブは今見ても古びない普遍性のあるロボアクションとして完成しているのですが、ダイモスのロボアクションは回によって出来がマチマチです。
面白い回はとことん面白い反面つまらない回はとことんつまらないので、お隣の「ダイターン3」同様にロボアクションの面ではやや地味な印象は否めません。


その原因として挙げられるのが必殺技名が一定しないことであり、スパロボだと「必殺!烈風○○××!!」のうち2つくらいしか出て来ませんが、本作ではもっと出て来ます。
それ自体が悪いわけじゃないのですが、後半でパワーアップするまで必殺技が固定しないので、その辺りも微妙な印象を与えてしまっているのかもしれません。
マジンガーZ」「ゲッターロボ」のように、まだロボットプロレスの文脈が固まっていない時代の作品ならわかるのですが、前作「ボルテスV」で固定の必殺技は定着しました。
その後でマジンガーZのような演出手法に逆戻りされても困惑するしかなく、この辺りはもっとしっかり詰めて洗練させて欲しかったところです。


ただまあ後半のメインとなってくるファイヤーブリザード、すなわち一度冷凍光線で凍りつかせて炎で急激に熱して装甲を溶かし、その上で破壊する発想はよかったのですけどね。
それだけに玩具があまり売れなかったそうですが、まああのギミックの少なさではそりゃあ楽しめないだろうと思いますし、逆に「Gガンダム」はそこをうまくクリアしています。
とにかく、新機軸のロボアクションをやろうとした意欲は買いますが、後半に入るまでいまいち安定していなかったのが個人的には惜しまれるところです。


(3)最大の敵はバーム星人より寧ろ三輪長官


そんな本作ですが、個人的に最大の敵はバーム星人よりもむしろ防衛軍の三輪長官であり、はっきり言ってスパロボでもこいつろくなこと一切しないんですよ。
もうとにかく「疑わしきは全て罰せよ」を地で行く排他的差別主義が半端ではなく、前作の岡長官や左近寺博士の人格者ぶりと比べると本当に三輪長官のクズっぷりが半端じゃありません。
スパロボシリーズでも原作再現されていましたが、いわゆる「勧善懲悪」を履き違えたらこうなってしまうのだということのいい例だと言えるのではないでしょうか。
前作だと一平がその排他的差別主義に陥りかけましたが、「バーム星人憎し」を拗らせた結果皆殺しの発想へ行き着いてしまうのが恐ろしいところです。


最終的にそんな三輪をぶちのめしたのは他ならぬ一矢だったのですが、前半から多くの試練を乗り越えて成長した一矢の集大成はそのエピソードだといえます。
最初は「惚れた女を守るため」からスタートした本作では逆にそこから視野を広げていき、「戦いとは何か?」をしっかりと見つめるようになるのです。
本作の面白いところは敵側であるバーム星人やラスボスのオルバン大元帥よりもむしろ三輪長官との戦いという身内の問題の方がはるかに厳しいというところにあります。
これに関しては「ジェットマン」「アギト」「555」あたりをメインで手がけられた井上敏樹先生なども継承している要素といえるのではないでしょうか。


ヒーローにとっての戦いとは決して敵と戦い地球を守ることだけが任務ではなく、身内の人間関係の方が厳しいという場合もあるのです。
前作までが敵側の内輪揉めで盛り上げたのであれば、本作はさらにそこにヒーロー側の内輪揉めまでしっかりと加えています。
この敵側の内輪揉めと同じくらいの味方側の内輪揉めは「機動戦士ガンダム」の、特に前半2クールに継承されていく要素です。
前作よりも善悪の構図が複雑化しているといえますが、三輪長官というキャラクターはその第一人者として歴史に名を残してくれました。


だからこそ、本作は前作で提唱した「社会(世界)そのものが悪い」というテーゼを前提とし、それをさらに卑近な「」の関係に落とし込んでいます。
一矢たちダイモスチームもその意味では地球防衛軍という公的機関に所属しながら、内実はダイターンチームと同じ個人事業主の集まりでしょう。
しかし、ダイターンチームと違いきちんとした「組織」であるというところが大きな違いとなっているのが大きな違いとなっています。
この辺りも比較検討してみると違いが出て面白いところですが、ある意味「個人の連帯」と「組織所属」を両方取り込んだのが「ガンダムではないでしょうか。


(4)「ボルテスV」から先へ進めなかった物語のテーマ性


そんな本作ですが、個人的にはどうしても「ボルテスV」から先へ、もっといえば宇宙戦艦ヤマト」から先へ物語のテーマ性を深めることができなかったといえます。
本作は一矢とエリカが結ばれることで物語の結末を見ており、そこにカタルシスはあるものの、作品の結論が「愛」だと結局は「ヤマト」と大差ないことになるのです。
「戦うことよりも愛し合うことが大事だった」では済まされない現実を描いたのが「ボルテスV」であり、だから前作のラストでは厳しくハイネルとカザリーンが引き裂かれました。
それが本作では、「社会そのもの」の問題を描きながらも結局2人の愛を結実させてしまい、そこから先へテーマ性を深めるには至っていません。


もちろん作品の最終的なテーマが「愛」でも構わまいのですが、似たようなテーマならそれこそ「Gガンダム」の最終回が物凄く突き抜けたことをしています。
あの清々しい突き抜けぶりを見た後で本作のごくありがちなラブロマンスを見せられても「だから?」という感想になってしまうのも当然ではないでしょうか。
愛でどうにかなるようだったら戦争はそう簡単に解決できるわけではないし、「愛」「ロマン」を惹句として使うような輩にろくなタイプはいません
富野監督もそれを知悉していたからこそお隣の「ダイターン3」では最終的に味方側ではなく敵側が愛に目覚めているという屈折した落ちにしたのです。


「愛」という要素は「ヤマト」がそうであるようにヒーロー側の正義の根拠として安易に用いられがちなものですが、使い方を間違えると本作のようになりかねません。
愛では解決できないから戦争は起こるわけであり、だから愛は作品を構成する一要素として使うことはできても、それ自体を最終的な結論にはできないのです。
本作はその意味で物語のテーマとしては前作「ボルテスV」を超えられなかったどころか、むしろ「ヤマト」にまで後退したといえるのではないでしょうか。
非常にいい要素を提示しており、クオリティがすごく高いだけに、ラストでもう一歩物語として跳ねられなかったのが大変惜しまれます。


コン・バトラーV」から長浜監督が提唱してきた要素の数々はロボアニメとしても、アニメ史上としても大きな革命をもたらしてくれたことに間違いはありません。
しかし、その演出手法が本作で1つの限界を迎えたともいえ、ここから先は富野監督らサンライズスタッフに任せることになったのです。
単純な「愛」ではな解決できない問題の先にあるもの…それがどこにあるのかを見つめ直そうとしたのが本作ではないでしょうか。
その壁を本作で超えることは出来なかったのですが、逆にいえばそれだけ前作が打ち出したものが偉大であったともいえます。
そしてその壁を突破する役目は「ガンダム」に託されたのであり、「ガンダム」はそうした70年代ロボアニメが行き詰まった壁を見事に打ち壊してくれるのです。


(5)「ダイモス」の好きな回TOP5


それでは最後に「ダイモス」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…8話「地球を救え!戦え一矢!」
  • 第4位…6話「涙をふいて立ち上れ」
  • 第3位…35話「猛将バルバス翼たたむとき」
  • 第2位…40話「海底城!総攻撃開始!!」
  • 第1位…41話「一矢を襲うエリカの弾丸!」


まず5位は私情に引きずられがちである一矢が地球を守るヒーローとしての役目を自覚して戦うようになる名作回です。
次に4位はそんな一矢の私的動機や内面をこれでもかという位にしつこく描くことで、なんとか壁を乗り越えました。
3位はジャンギャルに匹敵するバルバスの最期が描かれた傑作変であり、個人的にはとても大好きな一編です。
2位は排他的差別主義を続けてきた三輪長官の因果応報が描かれており、ここが実質の最終回であるともいえます。
そして堂々の1位はそんな一矢とエリカの間の亀裂を描いた傑作回であり、これがあるから最終回の結実があるのかなとも。


本作もまた年間のアベレージ自体は高いのですが、最終回がテーマとしてどうしても前作を越えられなかったこともあり、この結果になりました。


(6)まとめ


本作は前作「ボルテスV」で打ち出した「社会(世界)そのものが悪い」を継承しつつ、一矢とエリカという「男女の愛」にフォーカスした作品です。
公的動機と私的動機の優先順位の逆転などパラダイムシフを起こしているのですが、物語としてはどうしても「ヤマト」の頃に戻ってしまいました
最終的な結末が「愛」で落ち着かせるのはいいのですが、その「愛」の果てに何が待ち受けているのかを本作は描き切れていません。
つまり前作が提示した壁を本作は超えられなかったのであり、70年代ロボアニメの限界点が図らずも露呈してしまったといえます。
その要素は翌年の「機動戦士ガンダム」が継承し超えることになるのですが、年間の完成度自体は高い方なので総合評価はやはりA(名作)でしょうか。

 

闘将ダイモス

ストーリー

A

キャラクター

A

ロボアクション

A

作画

S

演出

A

音楽

A

総合評価

A

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー10作目『超電磁マシーン ボルテスV』(1977)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00M91709M

さあ遂に来ました、我が人生のバイブルの1つである『超電磁マシーン ボルテスV』…本作に関してはもう冷静になれないくらいに高評価かつ大好きな作品です。
ロボアニメも含めいろいろなヒーロー作品を見て来ましたが、個人的にはそれこそギンガマン」「Gガンダム」「エクスカイザー」に匹敵するバイブルといえます。
リアルタイムで見ていない世代にも関わらず、本作が打ち立てた世界観、ストーリーの普遍性は現代においてもなお古びないレベルではないでしょうか。
その上で、ロボアクションも最高峰、年間のストーリーや設定が最初から最後までしっかり一貫性をもって完成されているなど、70年代ヒーロー作品の中で最高峰のクオリティです。


好きになった要因は色々ありますが、何と言っても天空剣Vの字斬りがめちゃくちゃかっこいいことと最終回の濃密さに全てが集約されるのではないでしょうか。
実際フィリピンでは本作は国民的アニメと言っても過言ではないレベルの傑作としてムーブメントを巻き起こしましたし、その熱が未だに覚めません。
もちろん当時は前作に比べて玩具売上も伸び悩み、更に視聴率も芳しくなく、目先の結果だけを見れば決して順風満帆とはいえなかったでしょう。
しかし、本作がなければそれこそ後の「ガンダム」で起こした革命や大河ドラマ方式に基づく作劇のロボアニメは生まれなかったと断言します。


そして個人的に最もハマった要素は5人がきちんとボアザン星人との戦いに備えて臨戦態勢で準備して来たプロフェッショナルの戦士たちという設定を出していることです。
基本的にズブの素人が力を手にすることが多いロボットアニメにおいて、本作は最初からきちんと訓練したプロとすることで少年少女がしっかり戦えることの違和感がありません。
しかもそれだけではなく、人間味が感じられるような別の動機も設けられており、似たような設定で始めたグレートマジンガー」の二の舞を回避することができたのです。
本稿では前作との比較も踏まえつつ、改めて「ボルテスV」がロボアニメ史やヒーロー作品の歴史にどんな功績を残したのかを私なりの視点で分析してみましょう。

 


(1)公的動機と私的動機が対等になった作品


まず本作を改めて見た時に私が思ったのは「公的動機」と「私的動機」が完全に対等になった作品ということであり、これはさりげなく大きなパラダイムシフトです。
マジンガーZ」をはじめ、それまでのロボアニメは基本的に「公的動機」、すなわち「人々がそう望んだから戦う」という作品が多かったのではないでしょうか。
それこそ前作「コン・バトラーV」にしたって、豹馬たちがキャンベル星人と戦ったのは自分の意志よりも、それを国や世間が求めるから戦ったという意味合いが強くあります。
また、それこそ70年代のアニメ史に残る傑作「宇宙戦艦ヤマト」はそれこそ公的動機(地球を救う)から大胆に私的動機(愛する人のため)へとシフトした作品です。


本作はそうした歴代ロボアニメの蓄積を踏まえて、「公的動機(=地球の平和を守る)」と「私的動機(=剛健太郎博士を取り戻す)」が完全にイコールで結ばれました
何かとプロフェッショナルチームとして優等生じみた気質のボルテスチームですが、そこで剛兄弟の3人に共通する私的動機に「父親の剛健太郎博士を取り戻す」があったのです。
これは「グレートマジンガー」の失敗を踏まえてのことだといえますが、剣鉄也と炎ジュンには公的動機はあっても私的動機と呼べる要素は皆無でした。
強いて言えば、終盤で浮上した「兜甲児への嫉妬」が挙げられますが、この動機自体がラストになって唐突に付け加えられたしょうもない動機であるのは否定できません。
そもそも、世界の運命をかけた戦いなのにそんなしょうもない個人的動機を咄嗟にもってくる失敗ぶりは戦隊シリーズだと「ジュウオウジャー」に匹敵するダメダメ具合です。


だからといって、単なる公的動機だけでは前作のガルーダのインパクトの前に霞んでしまった豹馬たちコン・バトラーチーム同様に影が薄くなり、単に消化試合をこなすだけでしかありません。
そこで本作は立ち上がりの段階で剛兄弟の母親にしてボルテスチームの司令官の片割れである剛光代を2話の段階で死なせ、更に2クール目で浜口博士すらも死去させているのです。
その上で父親である剛健太郎との束の間の対面、更に新しく司令官となる左近時博士の存在などをしっかり挟むことで、安易な「父を訪ねて三千里」のドラマに終始させず、重みを持たせています。
公的動機に匹敵するレベルの強烈な私的動機を設定し、それ自体をボルテスチーム、特に剛兄弟の戦う動機としたのは実に鮮やかな手法と言えるのではないでしょうか。


だからこそ剛たちボルテスチームのメンバーが決して没個性になることも空気になることもなく、バックボーンのしっかりしたキャラクターになったと言えます。
この「公的動機に匹敵する私的動機」は同年の「ザンボット3」を手がけ、本作の演出にも参加していた富野監督をはじめとする製作陣が強烈に意識していたことではないでしょうか。
剛健一らボルテスチームは単に地球の平和を守るだけではなく、それと同じくらいに大切な私的動機があったからこそ、それを信じて最後まで戦うことができたのです。
これを年間の縦糸として通すことができただけでも、本作は十分に傑作と評するに相応しいクオリティの作品になったのだと思われます。


(2)70年代最高峰のロボアクション


2つ目に挙げられる点として、やはり70年代最高峰のロボアクションという要素が本作最大の美点として挙げられるのではないでしょうか。
一番の理由はやはり天空剣Vの字斬りに代表される「〇〇剣××斬り」という剣の必殺技の元祖を作り上げたからなのですが、それだけではありません。
本作では前作同様にきちんと各ボルトマシンの活躍が描かれていますし、またボルテスファイブ自体のパワーアップもきちんと折に触れて果たしています。
特に超電磁ボールを生み出す中盤の3話連続での強化話は非常にうまくできていて、よくぞこれだけリアリティのあるパワーアップをできたものだと思うのです。


また、17話の左近時博士の特訓に代表されるように、安易なロボの武器強化だけに終わらせるのではなく、ボルテスチーム全員の連携を強化してすらいます
左近時博士はスパロボシリーズでも厳しい鬼軍曹として描かれていましたが(「スパロボA」などはその典型)、決して非情だとか冷血だとかいうわけではありません。
きちんと健一たちへの思いやりはありますし、彼らの私的動機である「剛健太郎博士との再会」という要素を無遠慮に踏みにじったり否定したりしないのです。
厳しいといってもきちんと筋の通った厳しさであり、「愛情に裏打ちされた厳しさ」として描かれているわけであり、決して厳しいだけの頑固親父ではありません。


こうしたドラマ性のあるロボアクションが単なる「イベント」「消化試合」で終わることなく、しっかりと一貫性を持って意味付けされていたのが見事です。
また、これは終盤で明らかにされますが、実はボアザン星人とボルテスチームが実は同じ科学技術を力の源として戦っていることが明らかになります。
言うなれば「ダイターン3」と同じで、本作は「仮面ライダー」が抱えている「敵と同じ力で戦う」という背景設定がきちんと背骨にあるのです。
これらのバックボーンの強固さが3クール通して貫かれているからこそ、ここまでクオリティの高い作品となったのではないでしょうか。


本作以前で剣というと「グレートマジンガー」のマジンガーブレードが連想されますが、あちらよりもボルテスチームのが遥かに洗練されています。
マジンガーブレードはあくまでもとどめを刺す前の「つなぎ」であるのに対して、本作は「つなぎ」ではなくきちんとした必殺武器に昇華されているのです。
だからこそ本作は70年代の作品の中でも最高峰のロボアクションを見せてくれたと言っても差し支えないのではないでしょうか。
少なくとも本作に匹敵するレベルのロボットプロレスはなかなかないので、本作はその点もきちんとできていたと言えます。


(3)視点の拡張性


そして、これはファンの方があまり指摘しないことですが、本作は最後まで見て行くと「視点の拡張性」が1つの特徴として盛り込まれて行くのが挙げられます。
最初は単純に地球の平和を守っていれば十分だった健一たちが途中から自分の中にある「ボアザン星人の血」が流れていることを知ると、安易にボアザン星人を敵対視しなくなります。
スパロボシリーズではあまり再現されないのですが、私は32話で健一がジャンギャルを殺すか殺さないかで葛藤するシーンで言う次の台詞が印象に残りました。


「わかってくれ一平!奴らが俺達をどう扱うかは、俺達もよく知っている。しかし、だからといって俺たちが奴らと同じ真似をしていいという法はない!ボルテスファイブの誇りにかけてもだ。たとえ、敵と味方に分かれていても、流れている血の色は同じだ!この俺の血と同じように…」


後半で健一たち剛兄弟が実は半分ほどボアザンの血が流れていること、そして父親の秘密や正体を聞かされた上で、健一たちの価値観に大きな変化が起こるのです。
それこそが正に上のセリフに代表されるような「悪を憎み、ボアザン星人を憎まず」という展開になるのですが、でもそれで安易にボアザン星人を許すこともしません。
健一たちは後半〜終盤にかけて、単なる消化試合ではなくもっと奥にあるボアザン星人の「本質」を、血と肉たらしめる部分を見つめていくようになっていきます。
その展開があるからこそ、健一たちの視野はどんどん広がっていき、最終的には「地球の平和」のみならず「ボアザン星の平和」もまた救うようになるのです。


(1)で述べた公的動機と私的動機の兼ね合いも含め、どんどん健一たちの視野が広がり、単なる「疑わしきは罰せよ」という一方的な勧善懲悪から脱却しようという動きが見られました。
それが後述するボアザン星人の悪の本質ともリンクしていきますし、また同年に「ザンボット3」を手がけていた富野監督たちサンライズスタッフにも多大な影響を与えていきます。
スーパー戦隊シリーズで見ても、例えば1985年の『電撃戦隊チェンジマン』などは正に本作が終盤で成し遂げた「視野の拡張性」という視点をしっかり盛り込んでいるのです。
ボアザン星人を決して簡単に信用こそしないけども、たんに「侵略者だから殺す」のではなくもっとその奥にあるものを見つめていこうとする動きはとても大きいのではないでしょうか。


それと同時にこれは偉大なる革命作「宇宙戦艦ヤマト」を超えた瞬間でもあり、本作はいわゆる家族や肉親との情をテーマにしながらも、決して「愛」で片付けることはなかったのです。
地球の平和を救う構造は「ヤマト」も本作も同じなのですが、「ヤマト」が最終的に打ち出したのは「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない、愛し合うことだった」でした。
もちろんそれはそれで1つの回答であり、作品のテーマとして間違いではないのですが、それでも戦う敵の「悪」の本質が何であるのか、主人公が立ち向かうべき問題に関しては向き合えていません。
結局愛という「個」の関係に落とし込むことでラストは解決したのですが、本作では「個」ではなく「全」へと物語を拡張していくことによって、スケール感の壮大さを打ち出していきました。


(4)本作の最終回が示した「悪」は「社会(世界)そのもの」


そして最終回、本作が示したボアザン星およびボアザン星人の悪の本質とは「社会(世界)そのもの」であり、そのような仕組みを作る社会そのものと健一たちは戦うことになるのです。
ボアザン星の「悪」のラスボス皇帝ズ・ザンバジルは設定こそ強大な悪のようですが、中身は歴代ラスボスの中でも屈指の俗物であり、小さい頃に受けた差別・迫害を今度は自分がしていました。
要するに「ミイラ取りがミイラになる」というものであり、そのザンバジルの怨念がボアザン星の搾取型の社会構造を作り上げ、ハイネルたちを操って裏から殺そうと企んでいたのです。
演出手法としては古典的な時代劇の手法とも言えるのですが、最終的に「差別・迫害を作り出してしまう社会そのもの」という構図と立ち向かう健一たちの図式が浮き彫りになりました。


この構造がしっかり背骨にあるからこそ、ラストのハイネルと健一たち剛兄弟が同じ剛健太郎という父親の血を分けた腹違いの子であるという衝撃のラストがドラマとして映えるのです。
単純にヒーローとヴィランが実は同じ血を分けたもの同士という設定だけなら割とありがちですが、本作ではそこに上流階級が下流階級を差別・迫害するという社会的な仕組みの問題を背景設定に据えています。
そうすることで単なる肉親のドラマに終わるのではなく、「そうさせてしまった社会が悪い」という落ちへ持って行ったのは見事な因縁の決着だったのではないでしょうか。
しかもそれで終わるのではなく、健一たち剛兄弟とハイネルは決して和解することなく、またハイネルとカザリーンも結ばれることなく無残に散ってしまうことになるのです。


本作はその意味で決して「善悪の相対化(あるいは逆転)」をしているのではなく、また「ヤマト」が打ち出した「愛し合えば万事解決」という結末にもしていません。
寧ろ「愛」で解決させたいためにこそ光代母や浜口博士、岡長官の死という重い代償が描かれているわけですし、またハイネルやカザリーンが愛で結ばれるには多くの者を殺しすぎました。
そんな者たちが最後に安直な肉親の情や愛で結ばれ解決できるということがあってはならないのであり、その辺りの一線の引き方・守り方がしっかりしているのが本作です。
この壮大な社会の背景設定と登場人物の等身大のドラマの絶妙な連動性こそが本作の最終回で1つのピースとして見事であり、ロボアニメおよびヒーローものの最終回として1つの到達点と言えるでしょう。


これは同時に前作「コン・バトラーV」が解決できなかったキャンベル星人の悪の本質そのものの問題を本作なりの形でしっかり伏線を貼って解消したことにもなるのです。
最初から基地が鳥型だったのもボアザン星に向かえるようにするためですし、第1話からそこに向けて大枠を形成していたので、年間通して非常に芯の強い物語となりました。
ここまで描き切ったからこそ本作は現在においてもなお普遍性のある傑作となったわけであり、フィリピンでは国民的アニメとして評されるほどの人気作となったのです。
そして本作が打ち出した「そうさせる社会(世界)そのものが悪い」という構造は後に富野監督が手掛ける「機動戦士ガンダム」という伝説の傑作へ受け継がれていきます。


(5)「ボルテスV」の好きな回TOP5


それでは最後に「ボルテスV」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…28話「父 剛健太郎の秘密」
  • 第4位…32話「ジャングルの追跡」
  • 第3位…17話「愛も涙もふりすてろ!!」
  • 第2位…22話「裏切り者の計画」
  • 第1位…最終話「崩れゆく邪悪の塔!!」


まず5位は一切ロボアクションも何もない語りだけで成立させた名作回として、非常によくできています。
次に4位は上記した健一の名言が炸裂する、ボルテスチームの視野の拡大と最終回へ向けての大きなジャンプアップを可能にした回です。
3位は浜口博士なき後のボルテスチームを左近時博士が鍛え直し、本作のヒーロー像をより強固なものとしました
2位はハイネル様に反逆を起こそうとするド・ズールの最期が描かれた密度の濃い傑作回であり、これ自体も終盤の伏線となっています。
そして堂々の1位は殿堂入りの最終回、この回無くして「ボルテス」の魅力を語ることはできません。


本作は年間のアベレージがとても高いので選ぶのに苦労しましたが、その中でも個人的に好きな5本といえばこちらのものが挙げられます。


(6)まとめ


本作は前作「コン・バトラーV」で培った基盤や要素を継承しつつも、1つの大河ドラマとしての連続性や大筋を持たせることに成功した作品です。
ロボアクションも高いクオリティのものを打ち出し、プロフェッショナルである健一たちにも共感しやすい私的動機を持たせることで親近感も演出しています。
そして終盤に向けて健一たちがどんどん視野を広げていき、最終回で血と肉たらしめている悪の本質を炙り出すことで、1つの到達点にたどり着いてみせました。
宇宙戦艦ヤマト」ですらも成し得なかった「社会(世界)そのもの」と戦う健一たちボルテスチームの勇姿とハイネルの悲劇の業は間違いなく歴史に名を刻みました。
総合評価は言うまでもなくS(傑作)、「マジンガーZ」から連綿と続いてきた70年代ロボアニメの集大成ともいえる本作はまさに王道中の王道を行った「光」の作品です。

 

超電磁マシーン ボルテスV

ストーリー

S

キャラクター

A

ロボアクション

S

作画

S

演出

S

音楽

S

総合評価

S

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー9作目『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976)

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出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00009QX5S

さて、「ダイターン3」まで書いたので、ここで一度軌道修正して長浜ロマンの「コン・バトラーV」について書きましょう。
コン・バトラーV」はみなさんご存知の通り「ロボアニメ版ゴレンジャー」であり、もっと遡れば「ガッチャマン」のロボアニメ版でもあります。
スパロボシリーズでも次作「ボルテスV」「ダイモス」と並んで出ることが多いのですが、実は最初にスパロボに出た時は単体での参戦でした。
とりあえず5人分の精神コマンドが使えることと、必殺武器の火力が高いくらいしか印象がなく、ドラマ自体を再現したシリーズ自体が少ない印象です。


そんな本作はよくファンの間で次作「ボルテス」よりもこちらだという意見が強いそうですが、ぶっちゃけそれは「最初の作品だから」というファーストペンギン補正ではないでしょうか。
私に言わせれば、ぶっちゃけストーリー性はもちろんテーマ性なども他のロボットアニメに比べて印象が薄いですし、演出や脚本でも「お!これはすごい!」と唸ることはほとんどありません。
よくシリーズものの一作目は「原点にして頂点」という、偉大な名作扱いをされることがありますが、本作を見ていると必ずしも全ての作品がそうではないということがわかります。
長浜ロマンというブランドやスパロボでの扱いなどから凄い作品と思われがちですが、それは原作のごく一部をピックアップしているからであり、総合評価はお世辞にも高いとはいえません。


だからファンの間で次作「ボルテス」が二番煎じ扱いされ、本作が異様なまでに過大評価されている傾向がどうしても私には理解できず、何がそんなにいいのかよく分かりませんでした。
前半はそれなりに面白いのですが、後半は単なる消化試合というか、ただ単にバトルのノルマをこなしているだけで、大きくストーリーラインが動くわけではないのです。
特に後述する最終回の御都合主義に関してはとても擁護することはできず、個人的には「マジンガーZ」最終回以上の汚点となってしまっった印象があります。
なので半分ほど反省会のような空気を出すことになりますが、全くいい回がないわけではないので、半分褒めて半分貶すみたいな形になるでしょう。

 


(1)コンバインシステムという秀逸なシステム


まず5人のキャラクターが各地から集められたという設定や国に認められている設定などは完全な「ゴレンジャー」第1話でやっていたことなので、別にそこは大したポイントじゃありません。
それよりも秀逸だったのは「コンバインシステム」という、5人の脳波が一致した時に初めて合体できるというシステムにしたことにあるのではないでしょうか。
これはスパロボシリーズでも再現されていましたが、まずチームヒーローの本質である「団結」を合体のシステムと結びつけるという設定に落とし込んだのは見事です。
この設定があることで、例えば初合体だと豹馬と十三が喧嘩して脳波が一致しないから変身できないという形でうまく合体成功のドラマを作ることができます。


これは先達の「ゲッターロボ」「ゲッターロボG」にはなかったものであり、あの2作ではメンバー同士の呼吸さえ合えば脳波が一致していなくても合体可能です。
しかし、本作ではその部分で脳波の一致という設定にしたことでバラバラである5人を団結させるための象徴として据えているところが見事ではないでしょうか。
もちろん年間通してこればかりを使っていたわけではありませんが、少なくとも導入の段階としてこれを持ってきたのは成功であったと思います。
まあ大体は豹馬と十三が喧嘩することで合体できないことも多いのですが、とにかく合体それ自体にドラマを持たせるというのはいいことです。


5人のキャラクターもまた個性豊かですが、中でも面白かったのはキレンジャー担当の大介であり、あんなでかい図体で漫画家志望というギャップは個人的にツボでした。
スパロボシリーズだと確か「機動戦艦ナデシコ」の漫画家志望の眼鏡っ娘と通じ合ったりしてていて、キレンジャー枠は昔からネタ要員だったのかと笑ってしまいます。
かといって、決して馴れ合いではなくチームとして仲良くなるし、豹馬とちずるのラブコメありと5人のキャラクターの個性だけでいえば「ボルテス」以上でしょう。
各メンバーに一回ずつ以上メイン回があるというのは近年のスーパー戦隊シリーズでも意外にできてなかったりするので、そうした基礎基本を押さえているだけでも評価はそこそこ高いです。


(2)ガルーダの悲劇


そして本作最大の見所といえば、何と言っても2クール目終盤で繰り広げられるガルーダの悲劇であり、本作の実質の最終回はここだったのではないでしょうか。
ガルーダのキャラクターは「ライディーン」のシャーキンの発展系といえますが、シャーキンよりも濃いキャラになったのは彼の正体にありました。
ガルーダはキャンベル星人などではなく、キャンベル星人と思い込まされていた単なる機械、操り人形に過ぎなかったことが明かされるのです。
ここで彼はアイデンティティの喪失をしてしまうのですが、このガルーダの悲劇は次作「ボルテスV」のハイネル、「ダイモス」のリヒテルにも繋がります。


特に大量のガルーダが次々と並んでいるあの絵は物凄いトラウマというか、私もスパロボシリーズでこのネタを見たときはショックを受けました。
さらにその上でオレアナへの反逆に繋げていくなど、もはやこの回に関しては完全にガルーダが豹馬たちコン・バトラーチームを食っていたと言えるでしょう。
それくらいこの悲しきドラマ性を背負ったガルーダの存在感とは見事なものであり、単なる耽美系ライバルキャラの領域から奥行きのあるキャラとなっています。
しかもこのオチがしっかり機能するのはいわゆる「悪役としてのガルーダ」をきちんと描写して立てているからこそ、そのどんでん返しが機能するのです。


豹馬との因縁をしっかり描き、両腕を喪失させるに至らしめたのは間違いないことであり、話の都合でばかっぽくなったりしたものの、やはりカッコよかった。
そういう積み重ねを前半はしっかりできており、集団ヒーローではあるものの、実質は豹馬とガルーダの因縁が前半の根幹にあったと言えるのではないでしょうか。
その部分がきちんとできてこそ2クール目の集大成が機能するわけであり、ガルーダはライバルキャラとして1つの成功例であったと思われます。
マジンガーZ」でいうところのあしゅら男爵枠ですが、単なる幹部に終わらない持っていき方が見事であり、この展開は想像を絶するものでした。


(3)必殺武器のパワーアップ


そして3つ目に、本作は前半から後半にかけて必殺武器そのものがパワーアップするという展開がきっちり導入されていました。
これは次作「ボルテスV」で更に洗練された要素として継承されていますが、単なる「必殺武器の追加」だけに終わっていないのが見事です。
本作では前半の決め技として超電磁スピン、後半でグランダッシャーが追加されますが、その根底に機体スペックそのものの向上があります。
必殺武器の追加自体は「マジンガーZ」からありましたが、それに関するドラマを数話かけて丁寧に描いたのもいいところではないでしょうか。


シャインスパーク、ゴッドバード、そして本作の超電磁スピンを持って体当たり系、突貫系の必殺技が1つの完成を迎えるのです。
また、超電磁ヨーヨーなど他の武器の追加などもしっかり行っているので、ロボアクションとしてもクオリティは決して引けを取りません。
ロボデザインがちょっと野暮ったい感じなのは好きではないのですが、やはり動くとかっこいいのがコン・バトラーらしいと思うところです。
特にオレアナ戦などは見応えがありましたし、何だかんだフィニッシュの技がしっかりと決まっていたのはいいいことではないでしょうか。


とはいえ、後述しますが、決して100点満点だったわけではなく、後半では「パワーアップのためのパワーアップ」が多かったのも事実です。
それはガルーダほどの悲劇性やバックボーンを後半に登場した女帝ジャネラたちが背負っていなかったのもありますが、とにかく後半はほとんどが消化試合となります。
要するに「敵が攻めてきたから倒す」というルーティンの繰り返しであり、だから後半には「シナリオ」はあっても「ストーリー」が存在しません
これが「マジンガーZ」であればまだ許されたのかもしれませんが、既にもう何作もロボアニメが作られた中で、今更単なるロボットプロレスの繰り返しでは飽きてしまいます。
そして、後半は作り手が構成をきちんと決めていなかったが故に最終回でとんでもない悲劇が襲うことになるのです。


(4)結局どんな悪の組織だったのかわからないキャンベル星人


これはもうロボアニメファンの間ではいうまでもないことですが、本作の最終回はそれこそマジンガーZ」最終回以上の黒歴史だったと断言できます。
それこそ、ロボアニメ史上の駄作などと叩かれた「ガンダムSEED DESTINY」以上と言えるかもしれません、それくらいひどい最終回だったのです。
何が酷いといって、作り手側が「デウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)」という禁じ手を使って物語を解決してしまったことにあります。
本作を評価する上ではどうしてもこの最終回の汚点を避けて通ることはできず、私としてもこの最終回だけは未だに許すことができません。


流れを軽く説明すると、要するに本作の悪は結局のところキャンベル星に行くことで解決するしかなくなったのです。
つまり女帝ジャネラたちを倒したところであくまでも「勢力のごく一部」を倒したに過ぎず、その後襲いかかってくるであろうキャンベル星人の問題は解決されません。
これは「グレンダイザー」が残した唯一の課題でもあって、「グレンダイザー」では最終的に敵の親玉が地球に出向いて、それをデュークフリードたちが倒すことで解決しました。
しかし、「グレンダイザー」ではなぜわざわざ敵の親玉が辺境の星である地球くんだりまでやってくるのかの理由が合理化されておらず、御都合主義だったことは否めないのです。


同じ手を二度と使うことはできず、作り手は豹馬たちをキャンベル星に行かせるしかないのですが、ここで最大の問題はコン・バトラーチームにキャンベル星に行く手段がなかったことでした。
地球の防衛に精一杯で、敵の星に向かえるだけの下準備がなされておらず、作り手としても行き当たりばったりで大筋をろくすっぽ考えていなかったためにこうなったのだと思われます。
その上で最終回はどうなったかというと、コン・バトラーは地球を必死に守ろうとした結果ガス欠で詰み寸前、豹馬たちはなぜだかもがこうとせずに諦めてしまうのです。
ヒーローものとしてもありえない展開なのですが、最終的にデウスがその超能力を使って「キャンベル星の問題は俺が解決しといてやったぜ」とか宣ってしまいました。


つまり、豹馬たちは最後の壁である「キャンベル星そのものの問題」を解決することはできず、またキャンベル星の「悪」の本質がどこにあるのかも明らかにされなかったのです。
それもあって、後半はただ単にノルマとして毎回消化試合を豹馬たちが繰り返しているようにしか見えず、悪い意味でありがちなアンパンマン」レベルの話になってしまいました。
せっかく世界観を拡張し、素晴らしい展開にできたかもしれない可能性を作り手自らが禁じ手に頼って潰してしまったわけであり、これはロボアニメ史上に残る大きな遺恨となっています。
しかし、この反省を作り手は決して無駄にせず、反面教師として次作「ボルテスV」に活かし、ロボアニメ史上に残る70年代の最高傑作といっても過言ではないクオリティの物語を作るに至ったのです。


(5)「コン・バトラーV」の好きな回TOP5


それでは最後に「コン・バトラーV」の好きな回TOP5を選出いたします。

 

  • 第5位…20話「標的はマリンだ!」
  • 第4位…6話「大将軍ガルーダの挑戦」
  • 第3位…12話「決闘! 豹馬対ガルーダ」
  • 第2位…26話「オレアナ城大崩壊!」
  • 第1位…25話「大将軍ガルーダの悲劇」


まず5位は「ゴレンジャー」の40話に相当する「紅一点こそがチーム最大の弱点」というところに突っ込んだ名作回です。
次に4位はガルーダの存在感をしっかり知らしめた回であり、本作の軸がここでしっかり固まりました。
3位は豹馬とガルーダの因縁が構築され、次作「ボルテス」以降にも繋がる要素が定義されたのです。
2位は25話と併せて前半の総決算どころか実質の最終回として非常に良くできたクライマックスでした。
そして堂々の1位はガルーダの正体が明かされる回であり、この回こそ正に伝説ではないでしょうか。


本作の名作・傑作はほぼ全て前半に集中しているので、それに絞って選ベば簡単に選べますね。


(6)まとめ


本作は「勇者ライディーン」の諸要素を継承しつつ、「長浜ロマン」の元祖にして「ロボアニメ版ゴレンジャー」としての地位を確固たるものとしました。
前半戦に関しては歴代ロボアニメと比較しても遜色ないくらいに面白く、特にガルーダを軸としてのドラマ性は非常によかったといえます。
だからこそ後半が単なる消化試合ばかりが続いたこと、そして構成を計算していなかったが故に生じた最終回の黒歴史ぶりが惜しまれるでしょう。
しかし、その反省を作り手は決して無駄にせず、次作「ボルテスV」に活かしたという点において、本作は1つの踏み台というか試金石というべき作品です。
総合評価はC(佳作)、やや厳しめかもしれませんが、当時の評価としても今日の評価としてもこれが妥当な評価かと思われます。

 

超電磁ロボ コン・バトラーV

ストーリー

D

キャラクター

A

ロボアクション

S

作画

C

演出

B

音楽

A

総合評価

C

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパー戦隊シリーズ15作目『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)31・32話感想

 

第31話「戦隊解散!」


脚本:渡辺麻美、八渡直樹/演出:東條昭平


<あらすじ>
ラモンとゴーグはラディゲの命令を無視してムーを惨殺、暴れ始める。ジェットマンは出撃するが、そこに香と凱の姿がなかった。凱に魅かれはじめた香はデートの最中だったのだ。一方、魔神のビームを浴びたマリアはリエの姿に戻り、竜は喜ぶが、そこにラディゲが割って入った。そして第3のロボ・テトラボーイが出撃する。


<感想>
さあ来ました、「ジェットマン」3クール目の山場の1つである魔神編…今回と次回は非常にカロリー高い内容が盛り沢山です。
遂に念願叶った凱は香と乗馬デートに勤しみ、迎撃に出た残りの竜、アコ、雷太は魔神に惨敗してしまいました。


「公私を混同するなと言っただろう。俺たちは戦士なんだ」


いつもいつも私は竜に「一番公私混同をしているのはお前だろう」と内心思っていたのですが、やっぱりここでも繰り返される同じ説教。
まあでも今回に関しては22話と違い竜が原因で起こったわけじゃないのだから、完全に凱と香が悪いわけで、流石に擁護はできません。
しかし、本作においては「どっちが正しいか」ではなくもっとそれを超えたところにあるものを示してくれています。
凱も凱でここまで溜まりに溜まった本音を竜にぶつけますが、実に22話以来となる大喧嘩でしょうか。


「戦士には人を愛することもできないのか」
「なにぃ?」
「もうてめえの説教にはうんざりだぜ!人の為に自分を犠牲にすりゃそれでいいのか?そんな人生は真っ平だぜ!俺の夢は、俺の気持ちはどうなるんだ?」
「自分を犠牲にするのが戦士の仕事だ!」


このやり取り、第2話から事あるごとに繰り返されて来た竜と凱の対立の主張ですが、ここで改めて凱の視点から「自己犠牲」についての懐疑・批判が繰り出されています。
その上で大事なポイントは竜がこの説教をしても全然凱に届かず反発を食らってしまうのは、その説教が竜の本心からもたらされたものではないと見抜いているからです。
非常にややこしい構造になっていますが、竜は決して完璧超人のリーダーであるわけではなく、完璧超人である自分という虚像を作り上げて演じているに過ぎません。
これまで竜を竜たらしめて来たヒーロー性はあくまでも「作られたもの」であって「天性のもの」でも何でもないので、付け焼き刃な印象が否めないのは事実です。


ファイブマン」までは「「人=公」のために「自分=私」を投げ打つ」ということを避けられず、暗黙の了解として存在していましたが、改めてここで本作のテーマが再浮上。
第2話でも2人は似たようなやり取りをしていましたが、ここではもう一段階踏み込むことで凱の我儘さが逆に竜の偽りの仮面をボロボロ剥がしていくことに成功するのです。
結果として凱は香の手を引いて、第3話以来二度目の脱退を行うのですが、凱はこうして見ると相当なエゴイストですよね…「自分」を貫いているという点では竜以上というか。
竜はまだ唯一の正規戦士かつ、リエの喪失をずっと引きずっているのを必死で隠しているのですが、それすら全くないのが凱なのです。


その後、竜は残った2人と出撃して魔神を迎え撃つのですが、ここで改めてマリアの変装が解けてしまい、一気に葵リエに戻ってしまいました。


「リエが……なぜリエが……」
「私……怖い」
「大丈夫だ! もう……大丈夫だ」
(戦いが終わったら……リエ、もう一度1からお前とやり直すんだ)


このシーンは改めてリエがマリアだったことが示されるのですが、ここで巨大ゴーグが一度乱入すると、感動の再会も束の間、レッドがガルーダを、そしてブルーとイエローがガルーダで救援に。
しかし肝心要のやらかし枠であるブラックとホワイトがいないせいでグレートイカロスへの合体ができず本領発揮も不可能なのですが、その時密かに開発されていあ3号ロボ・テトラボーイがやって来ました。
このテトラボーイは「ジェットマン」のロボの中でも特に大人気であり、この自律型のスピーディーなロボは後のタックルボーイやライナーボーイなどに受け継がれていきます。
フットワークも軽く、しかも巨大バズーカへと変形でき、今回は何とかそれで凌ぎましたが、何がすごいと言って今回は久々に凱と香が完全なトラブルメーカーで終わるという。


ぶっちゃけた話、今回のテトラボーイ参戦に関してはかなり唐突な印象が否めないのですが、今回のゴーグは完全なテトラボーイの踏み台扱いとなりました。
もう少し丁寧に伏線を張って欲しかったのはありますが、今回に関しては以前から「もしかしたらまた脱退しないとも限らない」と思ったのではないでしょうか。
特に凱に関してはその色の名前通り小田切長官の中では「信用できないやつ」のブラックリスト入りをしていたことと思われます。
グレートスクラムもバードニックウェーブも5人揃わないと全開しないので、5人が揃わない時のために認めていたということでしょう。


その後ゴーグを倒してリエのものとに戻るのですが、ここでラディゲがリエに光線を浴びせて再びマリアに戻し、マリアは竜を足蹴にするという…何このSMプレイ?
いや井上先生、子どもたちに何新たな性癖の扉を開かせようとしてるんですかと言いたいところですが、ここで遂に竜が公私混同してしまいます。
さらに言うならここで一度マリアがリエに戻り、その上で主人公に期待を抱かせてすかさずマリアに戻す展開は「仮面ライダーBLACK」の終盤でブラックとシャドームーンがやったあの展開のオマージュでしょうか。
それを本作ではこの中盤に持ってくるあたり、さらにそこから先を行こうという作り手の野心が伺え、ここからどうなってくるのかが楽しみです。
評価はS(傑作)、かなりの急展開ではありますが、その分ドラマを違和感なくしっかり詰め込んでおり、瞬間最大風速はやはり井上先生ならではだなと思います。


第32話「翼よ!再び」


脚本:井上敏樹/演出:蓑輪雅夫


<あらすじ>
リエがマリアと知り、放心状態の竜。一方、凱と香は戦いをよそに二人だけの時間を過ごしていた。冷たい言葉とは裏腹に竜のことを心配している自分に気付く凱、そしてリエを取り戻すのは自分しかいないと気付き立ち直る竜。再び5人は集結し、荒れ狂う魔神ラモンを葬り去る。握手を交わす竜と凱。5人の心が一つになった。


<感想>
さあ来ました、これまでメンバーに対して散々マウントを取っていた竜の狂気が完全に暴かれた瞬間です。


「長官、喜んで下さい。リエが生きてたんです。今、呼んできますから」
「何を言っているの!?彼女はまだマリアなのよ!バイラムの幹部!
「……違う。リエは元に戻ったんだああああ!!」


ここで急な「井上ワープ」が発動しているのですが、これは明らかに竜を救出するプロセスを描く尺がなかったのでカットしたのだと思われます。
その上で長官、アコ、雷太の3人が助け出したということでしょうが、そんなことよりもここで遂に竜が第1話以来久々に発狂した姿を見せるのです。
で、前回殺されたかと思った魔神ゴーグは再び生き返るも、それと引き換えにラディゲの召喚獣という扱いにされてしまいました。
ラディゲ、ここに来てとうとう召喚士属性まで習得したようで、ここからどんどんラディゲが本格的に対応していくことになります。


肝心要の竜はまさか自分の愛していた人が今度は殺し合う関係になっていたとは露知らず、これまでも伏線はありましたが、いよいよそれが発覚し精神の平衡が決壊。
遂にリエとイチャイチャしていた頃の自分に幼児退行してしまい、自分の殻に閉じこもってしまうことになるのです。
ここで注意すべきポイントは竜はこの段階で突然に発狂したように見えますが、その前段階として物語導入の段階でリエを失ったことですでに精神は狂っています
そこから騙し騙し「地球を守る正義の味方」である自分を作り上げることで必死にそれをごまかしていたのですが、ここで遂にその竜の欠陥が露呈してしまったのです。


まあ竜のキャラクターは「マスクマン」のレッドマスク/タケルのキャラクターを更に俗っぽくした存在だと言えますが、言うなれば竜の我慢はここまででダムのように限界に達してしまったのです。
それが突然決壊してしまい、遂に竜は壊れたダムから流れ出す水のように、雷太やアコですらも見ていられないくらいの無様な醜態を晒すことになります。
そんな竜の姿を嫌いにならないで済むのはそのリエを失って狂気に走る気持ちが克明に描かれているからであり、そんな欠点さえも魅力に映るようにできているのです。
雷太とアコはデートに出ていた凱と香に事の顛末を報告すると、凱はいつもの憎まれ口を叩きますが、ここが面白い流れ。


「はっ、竜の奴に言っとけ。公私を混同するなってな、あいつが普段から言ってる台詞だ」
「そうなんだよ。いつも偉そうなこと言ってる割には、てんで情けないんだ。!!が、凱……」
「竜の悪口を言うんじゃねえ。いいか。世界中で奴を、竜をけなしていいのは俺だけだ!」


この辺り、後半で明らかとなりますが、凱がようやく竜のことを真正面切って認めた瞬間であると言えます。
凱が竜を嫌っていたのは元々根っこの反りが合わなかったのはありますが、それ以上に竜への憧れがあったからではないでしょうか。
かといって長官はとにかく「自分に打ち勝て」としか言えず、誰も竜のことを救ってあげられません。
そして凱と香が公園のブランコで壊れた竜を見ると、竜は完全に上の空の状態で2人に言い放ちます。


「竜……」
「凱、香。紹介するよ。俺の恋人、リエだ」
「竜、どうしちゃったのよ竜!?」
「なんだよ2人とも。挨拶ぐらいしてやってくれよ。なあ」
「てめええ!お前は戦士だ!根っからの戦士の筈だ!こんなお前なんか、見たかねえぜ!」
「嫌だああ!俺はここに居るんだ!リエと一緒に、ここに居るんだあ!」
「竜ぅぅ!!」
「この野郎がぁ!好きにしろ。だが俺は待ってる、俺たちはお前を待ってるぞ!」


非常に短い3人のやり取りですが、ここでのやり取りにこれまで積み重ねて来た物語の1つの集約があるともいえ、特に竜と凱の距離感が一気に縮まった瞬間だと言えます。
ここで改めて凱が口にしてくれていますが、なんというか単純な「男の友情」なんて言葉では片付けられない2人の関係性が詰まっているのです。
上でも述べたように天堂竜は戦士としてとても強い人で、しかし人間としては同時にとても脆い人であもあり、これまで竜はそれを仲間に見せないようにして来ました。
いつもマウントを取って完璧超人のふりをし続けて来た彼ですが、そんな竜が弱い部分を見せられる相手はきっと今の所リエの前だけだと思うのです。


凱はそんな竜に歪さや反感を抱きながらも、同時にそれは竜が自分にはない強さを持っているから文句も言うし罵倒するのです。
「てめええ!お前は戦士だ!根っからの戦士の筈だ!こんなお前なんか、見たかねえぜ!」に凱の竜に対する本音が全て詰まっています。
竜の公私混同ぶりに嫌気がさしつつも、自分と違い「光」の側として、言うなれば「ヒーロー性」としての象徴である竜を気がつけば信頼していたんじゃないかと。
だからこそ凱は竜の弱っているところなんて見たくないし、同時に竜を前にした時の凱もかっこ悪さや情けないところは見せたくないものです。


そんな竜と凱の関係は言うなれば「ゴレンジャー」の海城剛と新命明の関係性と同じように「背中合わせ」の関係というか、お互いに対等なライバル兼相棒で居たいのでしょう。
凱がこれまでなんだかんだ言いながらも竜についていったのは人間的にものすごくだらしなくてカッコ悪い部分がある竜でも、凱にとってはやはり自分にない強さを持った人なのです。
そして竜が虚勢を張って「公私混同をするな」と言い続けて来たのも、凱にとっては「戦士たるもの強くあれ!」という戒めの言葉であるようにも聞こえています。
だからこそ竜と凱の関係ってすごく渋いというかストイックというか、お互いに「強い自分」という対等な関係性で居たいのが本音ではないでしょうか。


逆に凱、そしてこれは終盤の竜もそうなんですが、香という女性はそんな竜と凱にとって「弱さ」「脆さ」を見せられる数少ない相手じゃないかと思うのです。
その証拠に凱は18話で自分の死が迫った時に「死にたくねえ!」と甘えていますが、香は元々自分が戦士として強くなかったからこそ、凱の弱さを見ても幻滅しません。
そしてそんな香が今度は竜の弱さを見て「どうしたのよ竜!」って言いながらも突き放さないのはそんな竜の弱さ、脆さにすくなからず共感した部分があるからじゃないかと。
竜と香に関しては改めて終盤の展開で解説しますが、ここに竜、凱、そして香の複雑な三角関係が立体的に見え、物語として1つのクライマックしに到達しました。


そんな竜はマリアが再び襲って来たことで元に戻るのですが、ここで改めて限界を突破したことでついにドMに覚醒…(リエ、もっと打て。俺の弱い心を打ち砕いてくれ)なんていうようになるのです。
まあ元々竜ってリエ相手には受身っぽいとこありましたが、結構女性からの押しに弱い点も含めてSMで言ったらやっぱりMだなあと…ちなみに凱は完全なS、そして香は隠れS、田切長官はぶっちぎりのドSです。
竜が新たな性癖の扉を開いた結果何をしたかと思えば、ついにマリアを「リエ」として抱きしめます。


「リエ、俺が必ず元に戻してやる。だが今はやらなければならないことがある、ジェットマンのリーダーとして」


ここで1つ、これまで「地球の平和を守る」という公的動機をずっと掲げて来た竜の中に「リエを取り戻す」という強烈な私的動機が芽生え、迷走気味で今ひとつ煮え切らなかった竜の方向性がついに決まりました。
というより、本当はその公的動機すらリエの喪失がなければ芽生えなかったものなので、は竜こそが一番「地球の平和を守る」から遠いところに居た人間だったのかもしれません。
複雑な人間関係を通して、井上先生の視点から「狂気の闘争」の本質を炙り出しにしていき、これ以上ないまでに自己犠牲の戦い方のおかしさを浮き彫りにすることに成功しました。
そんな竜がようやく公的動機と私的動機の整理ができたのか、さっきまで散々情けなさを見せていたくせに、まるで迷いが吹っ切れたように一気に立ち直り、この瞬間に一気にかっこいい男になります。


井上脚本のズルいなあと思うところって、普段マイナス100点とかやるのに、ある瞬間に急にふと200点を叩き出す瞬間最大風速があるところなんですよね。
ちなみに小林靖子脚本はコンスタントに80〜90点代を叩き出すのが上手い人であり、だからアベレージでいえば小林女史の方が高くあります。
そして第3話以来となる5人揃っての名乗り!


「行くぞ!」
「「「「おう! クロス・チェンジャー!」」」」
「レッドホーク!」
ブラックコンドル!」
「イエローオウル!」
「ホワイトスワン!」
「ブルースワロー!」
鳥人戦隊!」
「「「「「ジェットマン!」」」」」


第3話は「5人揃った証」として、そしてここでは「5人が真のチームとしての土台を形成した証」として、象徴的に全員揃っての名乗りを物語の集約としてうまく用いているのです。
ここからまるで今までの空中分解ぶりが嘘のようにカッコ良くなり、有無を言わさぬ連携攻撃で魔神を仕留め、更に巨大戦でもこれまでにないハイパーGアタックで倒しました。
そして竜から思わぬ反撃を受けたマリアは業を煮やします。


「お前に受けた屈辱、忘れんぞレッドホーク。この次会った時こそ、貴様をこの手で!」


そして竜はリエの墓を訪れ、ようやく竜の根っこにあるものを全員が共有したことで、わだかまりがなくなりました。


「リエ、お前の墓はこのままにしておく。お前が元に戻るまでは」
「これから始まるのかもしれねえな。俺たち5人、ジェットマンとしての本当の日々が」
「凱…」


ここから竜と凱の握手、その上に重ねられる3人の手と5人の団結がカッコ良く決まりました。
これまでどこか「同僚」「ビジネスパートナー」のような関係性だったジェットマンですが、ここからようやく「真のチーム」としての絆を育むに至ります。
とはいえ、竜の試練がまだ終わりを告げたわけではなく、今度はもっと辛い試練が待ち構えているのですが、ひとまずこれまで。
竜と凱が紆余曲折の末に友情というか絆を形成するに至り、5人が真のチームになるための土台がここでようやく整ったのです。
評価は文句なしのS(傑作)、これまでの紆余曲折を踏まえた上で物語の集約として最高の前後編であったと思います。

 

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